豚とポチ
私、帰り道にそんなことを思った。
今日もいつもみたいにバイトに行って、夜十一時半に店を出た。
いろんな料理をサーブして、カクテルをひとつ作った。まだ三種類しか作れなくて、今日は運良くそのうちのひとつのカクテルの注文が来たから、私が作った。
甘くておいしいカルーアミルク。大好き。
それから調理場の片付けを手伝って、テーブルを拭いてまわった。
ほんのりとタバスコの酸っぱい匂いのついた手のままコートを着て、みんなにお疲れ様を言う。
外気以上にひんやりとしたサドルにひとりで文句を言ってから、モヘアの手袋をつけて自転車に乗る。
そうやっていつものバイトの帰り道。
大学生活も2年が過ぎて悪知恵が付き、欠席する授業が増えた。
あんまりおいしくはない学食で毎日お昼を食べて、夕方になればみんなとお別れ。
たまに友達と夕飯を食べたり、どこかに飲みに行ったりするけれど、特別なものなんかじゃない。
毎日、日付が変わって随分経ってからベッドに入り、朝はなかなか起きられず、お部屋でごろごろ。退屈。
やる気ってなんだっけ、な私に、今日、バイト先の先輩からお言葉をいただいた。文学部三年生の川合さん。
『なんにもしたくないという無意志の状態は、そのひとが健康だからである。』
太宰治が言ってるんだって。どうしてですか、って私は聞いた。
「この文章には続きがあるんだよ。『少なくとも、ペエンレッスの状態である』。」
はあ、うん、なるほど。
少しぼんやりとはしてるけど、でも私は不思議と納得。川合さんはハハハっと豪快に笑った。それから三時間、私はその言葉について考えながらバイトをこなした。そのせいで注文を二回、聞き逃した。ちょっと怒られた。
「あー、疲れたぁ。もー、やべぇ、明日までの課題、今日中に終わんねぇし」
バイトの終わる直前、工学部に在籍する井川くん(私と同じバイトしてる一年生。最近、サルサソースの仕込みが上手)がダルそうに言った。
お客さんの少なくなった店の厨房で、大きなあくびをした後に。最早、あきらめの表情で。
留年、留年、と、みんなの意地悪な声が厨房に響いた。店長がまたちょっと怒った。今日は三回も怒られた。でも、皆んなでくすくす笑った。
そしていつものバイトの帰り道。
冷たい夜風が緩く頬を打つ。
『健康とは、満足せる豚。眠たげなポチ。』
川合さんが付け足した、太宰治の文章の最後の下りを、私は何度も繰り返した。
私の顔を指差しながら川合さんが言ってきて、私は豚でもポチでもない、って、ちょっとムキになって反抗して、その時もみんなで笑った。店長からの二回目のお叱りはその直後だった。
自転車を漕ぎながら、そのことを思い出していた。
吐き出した息が白く後方に流れる。
暖かいであろう部屋へと向かう夜道。
傾いたオリオン座が綺麗に見えた。
暗くも明るい夜空に、豚とポチを思い描いてみた。思いのほか巧い具合に星を繋げられた。
すれ違う車のヘッドライトが息を一層白く染める。
豚とポチ。
ちょっと可笑しかった。
で、ちょっと、ほっとした。
私、そんなことを思った。
そんなことを思っていた。