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ライターと話して、火が消えるまで

作者: 神谷嶺心
掲載日:2025/07/02

午前二時だった。

下の街は、眠っている獣のように静かに息をしていた。 遠くで車の音がかすかに響き、どこかで犬が一声だけ鳴いた。

古すぎて洒落にもならず、新しすぎて崩れもしないビルの三階。 彼はまた、ベランダに立っていた。

手すりの上の灰皿は吸い殻でいっぱいだった。 まるで、消そうとした思考の数だけ詰まっているように。

今夜四本目のタバコ。 今日で五本目。

彼は親指でライターを弾いた。

カチッ。

火はつかなかった。 もう一度。

カチッ。

何も起きない。

三度目のとき、声がした。

「……まだやるつもりかよ?」

彼の動きが止まった。

「見てみろよ、この時間。 灰の匂いをまとって、震えながら、人生に殴られたみたいな顔して…… それでも、まだ一本いくつもりか?」

彼は後ろを振り返った。 誰もいない。

次に、自分の手を見た。

ライター。

「お、やっと見たな。 でもさ、俺のガスが切れそうなときとか、机に叩きつけられたときとか、 何日も床に転がされたときは、見向きもしなかったくせに。」

彼は黙ったままだった。

「どうした?驚いたか? 自分が頭おかしくなったって思ってるんだろ? 安心しろよ。もうとっくに壊れてる。あとは認めるだけだ。」

「……これ、本当に起きてるのか?」

「さあな。こっちはただのライターだ。 毎晩お前に酷使されてるだけのな。」

彼は顔を手で覆い、深く息を吐いた。

「これは夢だ。俺は寝てる。」

「そうだな。 ただし、口にタバコくわえたまま寝る奴なんて、見たことねぇけどな、天才さん。」

彼は唇に挟んだタバコを見た。 まだ火もついていなかった。

「ほらな。 それすらできてねぇ。 ほんと、終わってんな。」

夜風が二人の間をすり抜けた。

彼は動かずにいた。 灰皿を見つめ、空を見上げ、そしてライターを見た。

火がついた。 勝手に。

「ほらよ。さっさと火をつけろ。 で、今日は泣かずに済ませろよ。」

彼はゆっくりと吸い込んだ。 ビルの向こうに広がる暗い地平線を見つめながら。

煙が、夜風に揺れて踊った。

「見ろよ。吸い方すら下手くそだな」 と、ライターが言った。 その声は、疲れと皮肉の間にあった。

「黙れ。」

「おや?孤独が好きなんじゃなかったのか? 今さら静けさが欲しいのかよ?」

彼は答えなかった。

火のついたタバコが、彼の青白い顔を照らしていた。 ゆっくりと、断続的に。 まるで光を吸って呼吸しているかのように。

「どうせ、もう食べ物の味なんて覚えてないんだろ?」

「腹減ってない。」

「でもな、 毎晩こうして“死の棒”を吸う元気はあるんだよな? それだけは、ちゃんとあるんだよな。」

彼は煙を静かに吐き出した。 手元は見なかった。

「なんで……お前が喋ってるんだ?」

ライターは少し黙った。 そして、かすれた声で答えた。

「もしかして…… お前が頼んだときに、まだ火をつけてくれる唯一の存在が俺なんじゃねぇの?」

彼は目を閉じた。 夜風が、薄いシャツの中に静かに入り込んだ。

「……俺、ほんとに壊れたのかもな。」

「かもな。 でもさ、だから何だよ?」

沈黙。 遠くで車の音がかすかに響いていた。

「なあ、ひとつ聞いていいか?」とライターが続けた。 「お前、忘れるために吸ってんのか?」

「……」

「それとも、思い出すためか?」

彼は答えなかった。

ライターがカチッと音を立てた。 乾いた、弱々しい音だった。

「俺も、もう古いんだよ。知ってたか?」

「お前はただのライターだろ。」

「で、お前は二十九歳にもなって、ライターと会話してる男だ。 おあいこだな。」

彼は少し笑った。 けれど、その笑みはすぐに消えた。

「いつから……お前、俺に話しかけるようになった?」

「お前が、誰とも話さなくなったときからだよ。」

タバコが尽きた。 彼はそれを、物語の詰まった灰皿に静かに押しつけた。

「お前って、残酷だな。」

「俺は正直なだけだ。」

「同じことだろ。」

ライターが軋んだ。 金属が詰まったような、かすれた音だった。

「……聞こえてるか?」と彼が尋ねた。

返事はなかった。

「おい……」

弱々しいカチッという音が返ってきた。

「……まだ、ここにいるぞ」 ライターが息を切らすように言った。 「でも……いつまで持つか、わかんねぇな。」

彼はしばらく黙っていた。 風の音だけが、静かに吹き抜けていた。

寒かった。 けれど、寒さは感じなかった。 それは、コートじゃ防げない内側からの冷えだった。

長く息を吐いて、くしゃくしゃになったタバコの箱から一本を取り出した。

「またかよ?」とライターがぼやいた。

「最後の一本。」

「お前、いつもそう言うよな。“最後の一本”。 最初の一本から、ずっとな。」

彼はタバコを唇にくわえた。

「……嫌か?」

「俺は燃えるだけだぞ。 それが俺の存在理由だ。文字通りな。」

彼は鼻で笑った。 短く、くぐもった音だった。

「まさか、ライターがそんなにドラマチックだとは思わなかったよ。」

「ドラマチックなのはお前だろ。 二十九にもなって、毎回タバコを詩みたいに吸いやがって。」

彼はローラーを回した。 火は弱く灯った。

「……ん?今のはちょっと変だったな。」

「どうした?」

「いや、なんでもない。 ちょっとバルブのあたりが痛んだ気がしてさ。 ガスが切れかけてんのかもな。」

「だったら黙って火をつけろよ。」

「命令しておいて文句言うとか…… ほんと、お前ってやつは。」

火はなんとか安定した。 彼は長く吸い込んだ。 タバコの先が赤く光った。

ライターがギシッと軋んだ。 疲れたような音だった。

「お前さ、吸い方まで鬱っぽいよな。 まるで、命の端っこを引っ張ってるみたいだ。」

彼は答えなかった。

「どうせ、自分がなんでこんなに吸ってるのかもわかってないんだろ?」

「……関係ない。」

「関係ないわけないだろ。 もし本当にそうなら、今ここに俺と一緒にいるわけないじゃん。」

「眠れないだけだよ。」

「俺はな、 お前が空気よりも俺を必要としてるから、ここにいるんだよ。」

再び沈黙が落ちた。 ゆっくりと燃えていくタバコの音だけが、二人の間に残った。

「おかしいよな……」とライターがつぶやいた。 「お前、気づいてないかもしれないけど、黙ってるときほど強く吸ってるんだぜ。」

「ただ吸ってるだけだ。」

「お前、“ただ”なんてこと、何一つしてないよ。 いつも何か背負ってる。 お前の吸い方ってさ、まるで謝ってるみたいなんだよ。」

彼は深く吸い込んだ。 今回は、否定しなかった。

「お前なんか、捨ててやればよかった。」

「でも、捨ててない。」

「まだな。」

ライターがカチッと音を立てた。 乾いた、機械的な音。 まるで、乾いた笑い声のようだった。

「そうだな。 俺もまだ、ここにいる。」

彼は何も言わず、ベランダを離れた。

部屋の中は、さらに静かだった。 冷蔵庫すら音を立てていない。 裸足の足音だけが、冷たい床に響いていた。

ぐちゃぐちゃのベッドの上に放置されていたスマホを手に取る。 画面が、彼の指の動きに反応して光った。

通知が七件。 どれも大したものじゃなかった。 アプリのセール情報。 知らない番号からのメッセージ。 二年前にミュートしたグループチャット。

彼はゆっくりと息を吐いた。 まるで、肺そのものが何かを待ちくたびれていたかのように。

スマホを手にしたまま、再びベランダへ戻る。 風がさっきより冷たく感じた。 あるいは、彼の中がもっと空っぽになっただけかもしれない。

「おいおい、やめとけよ」 ライターが言った。 彼が手すりにもたれた瞬間だった。 「こんな時間に、デジタルなぬくもり探してんのか? ベタすぎだろ、それ。」

「黙れ。」

「どうした? 誰かからの連絡、期待してたのか?」

「もう、やめ時なんじゃないか?」

「タバコのことか? それとも、何も感じてないフリのことか?」

彼は何も言わずにライターを回した。 火はつかなかった。 もう一度。 それでも、つかない。

「言っとくけど……もう限界だぞ」 ライターがつぶやいた。 どこか哀れむような声だった。

「俺もだよ。」

ようやく火がついた。 弱く、不安定な炎だった。

タバコに火が移るまで、少し時間がかかった。 彼は一口吸ってから、スマホをベッドの上に放り投げた。

「……三時半か」 その声は、誰に向けたものでもなく、ただ空気に溶けていった。

彼はしばらく曇った空を見つめていた。 そして、誰にも目を向けずに言った。

「俺には、誰もいないんだよ。知ってたか?」

ライターは答えなかった。

「別に、悲劇ぶってるわけじゃない。 ただの事実だ。」

彼はもう一度吸い込んだ。 灰皿を見つめながら、まるで吸い殻の中に過去を探しているようだった。

「親からの連絡なんて、もうずっとない。」

「……友達は?」 ライターの声には、いつもの皮肉がなかった。

「昔はいたよ。 でも、時間と一緒に消えてった。 人って、そういうもんだろ。」

タバコの火が風に揺れていた。

「もう慣れたよ。 この静けさってやつに。 むしろ、嫌いじゃない。たまにはね。」

「じゃあ、たまじゃない日は?」

彼は少し間を置いてから、煙を吐き出した。

「そういう日は……お前に火をつけるだけだ。」

タバコはゆっくりと燃えていた。 空も同じように、静かに沈んでいた。

街は、まるで針のない時計の中に閉じ込められているようだった。

「……一応、やってみたんだよ」 彼は小さな声で言った。

ライターは答えなかった。 だが、それで十分だった。

「本気でやったんだよ。 やめようとした。 やり直そうとした。 誰かに電話もした。 忘れられてるような人に、謝ろうとしたこともある。」

彼は深く吸い込んだ。 タバコはもう半分ほど燃えていた。

「でもさ…… ある時から、重さって体に染みつくんだよ。 閉め切った部屋の天井にこびりついた煙みたいにさ。 窓を開けようとしても…… もう、取っ手がどこにあるかすら思い出せない。」

ライターが小さく音を立てた。 それは、同情にも似た乾いた音だった。

「不公平だよな」 ライターの声は、以前よりも弱々しかった。 「まだ心がある人間がさ…… その心に押し潰されながら生きてるなんてさ。」

「心なんて、痛むためにあるようなもんだろ。」

「感じるためにあるんだよ。」

「何を? 虚しさか? 罪悪感か?」

沈黙。

「一番きついのはさ……」 彼は続けた。 「もう、自分が何かを待ってるのかどうかすら、わからないことだよ。」

「たぶん、待ってるんだろ。」

「何を?」

「誰か。 何か。 理由。 光。」

「……慰めてるつもりか?」

ライターは答えなかった。 代わりに、小さなカチッという音が鳴った。 無意識の反応のように。

「それとも、ただ壊れかけてるだけか?」 彼の声は、少し乾いていた。

ライターはまだ火をつけられた。 だが、その炎は揺れていた。 小さく、不安定に。

まるで、存在する意志そのものが、ガスと一緒に消えかけているようだった。

「……もう一本、火をくれ。」

「それが俺の役目だ。」

彼はもう一本タバコを取り出した。 手が少し震えていた。 体の寒さよりも、心の冷えのせいだった。

「不思議だよな。 お前なんて、ただのプラスチックと金属とガスの塊なのにさ。」

「それでも、俺だけはお前の声を聞いてる。」

火がついた。 弱々しく、 けれど確かに。

タバコに火が移った。

二人の間に流れる沈黙は、 言葉よりもずっと親密に感じられた。

彼はゆっくりとベランダを離れ、 スマホを手にしたまま部屋へ戻った。

部屋の中は暗く、 スマホの冷たい光だけが、彼の顔を照らしていた。

彼は指をゆっくりと動かしながら、通知をスクロールした。 重たい目。 ほとんど期待のないまなざし。

そして、あるメッセージで指が止まった。

大した内容じゃなかった。 ただの、一言。

それでも、彼の唇にかすかな笑みが浮かんだ。

それは、反射のようでもあり、 努力のようでもあった。

彼はスマホを持ったままベッドから離れ、 再びベランダへ戻った。

画面の淡い光が、まだ彼の指先を照らしていた。

「……四時半か」 彼はライターに向かって、呟くように言った。

冷たい風が肌を刺すように吹いていたが、 彼はそれに気づいていないようだった。

「……笑ってるな。」

「違うよ。 ただの通知だ。」

「通知か? それとも、寒い夜に届いた、ちょっとしたぬくもりか?」

彼はもう一度笑った。 けれど、その笑みはどこか不安定で、 自分でも何を感じているのか分からないようだった。

「……ただの運かもしれない。」

「運ってやつが、お前の人生に一番足りてないもんな。」

彼は答えなかった。 曇った空を見上げながら、 まだ燃えているタバコを指に挟んでいた。

「そいつは……」 ライターが、かすかに音を立てた。 「まだ、生きてるな。」

彼はゆっくりと煙を吐き出した。 タバコの先の赤い光が、少しずつ小さくなっていくのを見つめながら。

「……この火、もっと長く続いてくれたらな。」

「お前って、いつもそうだよな。 長く続いてほしいって言うくせに、 ちゃんと大事にはしない。」

彼は鼻で笑った。 それは、どこか悲しげな音だった。

「……それは、ほんとだな。」

数秒の沈黙のあと、 彼は小さく息を吐き、スマホをそっとベッドに戻した。

まるで、 果たされなかった約束を、 暗闇の中に置いてきたかのように。

「……また、二人きりだな。」

タバコはまだゆっくりと燃えていた。 そのかすかな光が、彼の震える指先を照らしていた。

ベランダの静けさが、再びすべてを包み込んだ。 深く、 まるで世界そのものが、次の動きを待っているかのように。

タバコは口の端で燃え続けていた。 その火は、少しずつ小さくなっていく。

夜明けの光が、 ゆっくりと闇を押し返し始めていた。

ライターは彼の指の間にあった。 ほとんど命を失ったように、静かだった。

かつては挑発的に燃えていた炎も、 今では不安定な影のように揺れていた。

「……もう一本、火をくれるか?」 彼の声は疲れていた。 答えを求めているというより、 ただ誰かに聞いてほしいだけのようだった。

ライターがかすかに音を立てた。 ほとんど囁きのような音だった。

「……今日だけな」 そう言っているように聞こえた。 その声は、今にも消えそうだった。

彼は悲しげに微笑んだ。 まるで、長年連れ添った友人を見送るように、 ライターをそっと握りしめた。

「……今夜、ずっと一緒にいてくれてありがとう。」

返事はなかった。 ただ、重く、決定的な沈黙がそこにあった。

彼はもう一度ライターを回そうとした。 ……反応はなかった。

「……わかってるよ」 彼は呟いた。 「お前は、できる限りのことをしてくれた。」

空が、 少しずつ桃色と橙色に染まり始めていた。

その光は、 静かに部屋とベランダを満たしていった。

「……そろそろ、行くときかもな。 それぞれ、別の場所へ。」

彼は最後の一口を吸い込んだ。 タバコの苦味と、 どこか安らぎにも似た感覚が混ざっていた。

「お前はしまっておくよ」 声は少しかすれていた。 「でも、もう一本は吸わない。 ……今は、ただの静けさでいい。」

ライターは、もう何も言わなかった。

彼は空を見上げた。 夜が明け始め、 街が、 淡い光の中で目を覚まそうとしていた。

冷たい空気がベランダから流れ込んできた。 それは、どこか新しい約束を運んでくるような、 まだ彼には理解できない種類の空気だった。

「……もう、今日はこれで十分だな。」

彼はタバコの火を、 物語と古い灰でいっぱいの灰皿に静かに押しつけた。

ライターをポケットにしまう。 その動きには、 重さと、空虚さが同時に宿っていた。

何年ぶりだろうか。 彼はタバコを吸わずに、 外へ歩き出した。

街はすでに目を覚まし始めていた。 無関心なまま。

そして彼もまた、 目を覚まそうとしていた。

風が、やさしく吹いた。

まるで世界が、 「まだ間に合うよ」と そっと囁いてくれたかのように。


― 終 ―

あとがき


最後まで読んでくださって、ありがとうございました。


この物語には、名前も背景も語られない登場人物がいます。

でも、もしかしたら、どこかで見かけたことがあるかもしれません。

あるいは、かつての自分の影かもしれません。


火がつかないライターを、なぜ捨てられないのか。

それは、もう話せなくなった誰かとの、最後の会話だったのかもしれません。


静かな夜に、そっと思い出してもらえたら嬉しいです。

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