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ライターと話して、火が消えるまで

作者: 神谷嶺心

午前二時だった。

下の街は、眠っている獣のように静かに息をしていた。 遠くで車の音がかすかに響き、どこかで犬が一声だけ鳴いた。

古すぎて洒落にもならず、新しすぎて崩れもしないビルの三階。 彼はまた、ベランダに立っていた。

手すりの上の灰皿は吸い殻でいっぱいだった。 まるで、消そうとした思考の数だけ詰まっているように。

今夜四本目のタバコ。 今日で五本目。

彼は親指でライターを弾いた。

カチッ。

火はつかなかった。 もう一度。

カチッ。

何も起きない。

三度目のとき、声がした。

「……まだやるつもりかよ?」

彼の動きが止まった。

「見てみろよ、この時間。 灰の匂いをまとって、震えながら、人生に殴られたみたいな顔して…… それでも、まだ一本いくつもりか?」

彼は後ろを振り返った。 誰もいない。

次に、自分の手を見た。

ライター。

「お、やっと見たな。 でもさ、俺のガスが切れそうなときとか、机に叩きつけられたときとか、 何日も床に転がされたときは、見向きもしなかったくせに。」

彼は黙ったままだった。

「どうした?驚いたか? 自分が頭おかしくなったって思ってるんだろ? 安心しろよ。もうとっくに壊れてる。あとは認めるだけだ。」

「……これ、本当に起きてるのか?」

「さあな。こっちはただのライターだ。 毎晩お前に酷使されてるだけのな。」

彼は顔を手で覆い、深く息を吐いた。

「これは夢だ。俺は寝てる。」

「そうだな。 ただし、口にタバコくわえたまま寝る奴なんて、見たことねぇけどな、天才さん。」

彼は唇に挟んだタバコを見た。 まだ火もついていなかった。

「ほらな。 それすらできてねぇ。 ほんと、終わってんな。」

夜風が二人の間をすり抜けた。

彼は動かずにいた。 灰皿を見つめ、空を見上げ、そしてライターを見た。

火がついた。 勝手に。

「ほらよ。さっさと火をつけろ。 で、今日は泣かずに済ませろよ。」

彼はゆっくりと吸い込んだ。 ビルの向こうに広がる暗い地平線を見つめながら。

煙が、夜風に揺れて踊った。

「見ろよ。吸い方すら下手くそだな」 と、ライターが言った。 その声は、疲れと皮肉の間にあった。

「黙れ。」

「おや?孤独が好きなんじゃなかったのか? 今さら静けさが欲しいのかよ?」

彼は答えなかった。

火のついたタバコが、彼の青白い顔を照らしていた。 ゆっくりと、断続的に。 まるで光を吸って呼吸しているかのように。

「どうせ、もう食べ物の味なんて覚えてないんだろ?」

「腹減ってない。」

「でもな、 毎晩こうして“死の棒”を吸う元気はあるんだよな? それだけは、ちゃんとあるんだよな。」

彼は煙を静かに吐き出した。 手元は見なかった。

「なんで……お前が喋ってるんだ?」

ライターは少し黙った。 そして、かすれた声で答えた。

「もしかして…… お前が頼んだときに、まだ火をつけてくれる唯一の存在が俺なんじゃねぇの?」

彼は目を閉じた。 夜風が、薄いシャツの中に静かに入り込んだ。

「……俺、ほんとに壊れたのかもな。」

「かもな。 でもさ、だから何だよ?」

沈黙。 遠くで車の音がかすかに響いていた。

「なあ、ひとつ聞いていいか?」とライターが続けた。 「お前、忘れるために吸ってんのか?」

「……」

「それとも、思い出すためか?」

彼は答えなかった。

ライターがカチッと音を立てた。 乾いた、弱々しい音だった。

「俺も、もう古いんだよ。知ってたか?」

「お前はただのライターだろ。」

「で、お前は二十九歳にもなって、ライターと会話してる男だ。 おあいこだな。」

彼は少し笑った。 けれど、その笑みはすぐに消えた。

「いつから……お前、俺に話しかけるようになった?」

「お前が、誰とも話さなくなったときからだよ。」

タバコが尽きた。 彼はそれを、物語の詰まった灰皿に静かに押しつけた。

「お前って、残酷だな。」

「俺は正直なだけだ。」

「同じことだろ。」

ライターが軋んだ。 金属が詰まったような、かすれた音だった。

「……聞こえてるか?」と彼が尋ねた。

返事はなかった。

「おい……」

弱々しいカチッという音が返ってきた。

「……まだ、ここにいるぞ」 ライターが息を切らすように言った。 「でも……いつまで持つか、わかんねぇな。」

彼はしばらく黙っていた。 風の音だけが、静かに吹き抜けていた。

寒かった。 けれど、寒さは感じなかった。 それは、コートじゃ防げない内側からの冷えだった。

長く息を吐いて、くしゃくしゃになったタバコの箱から一本を取り出した。

「またかよ?」とライターがぼやいた。

「最後の一本。」

「お前、いつもそう言うよな。“最後の一本”。 最初の一本から、ずっとな。」

彼はタバコを唇にくわえた。

「……嫌か?」

「俺は燃えるだけだぞ。 それが俺の存在理由だ。文字通りな。」

彼は鼻で笑った。 短く、くぐもった音だった。

「まさか、ライターがそんなにドラマチックだとは思わなかったよ。」

「ドラマチックなのはお前だろ。 二十九にもなって、毎回タバコを詩みたいに吸いやがって。」

彼はローラーを回した。 火は弱く灯った。

「……ん?今のはちょっと変だったな。」

「どうした?」

「いや、なんでもない。 ちょっとバルブのあたりが痛んだ気がしてさ。 ガスが切れかけてんのかもな。」

「だったら黙って火をつけろよ。」

「命令しておいて文句言うとか…… ほんと、お前ってやつは。」

火はなんとか安定した。 彼は長く吸い込んだ。 タバコの先が赤く光った。

ライターがギシッと軋んだ。 疲れたような音だった。

「お前さ、吸い方まで鬱っぽいよな。 まるで、命の端っこを引っ張ってるみたいだ。」

彼は答えなかった。

「どうせ、自分がなんでこんなに吸ってるのかもわかってないんだろ?」

「……関係ない。」

「関係ないわけないだろ。 もし本当にそうなら、今ここに俺と一緒にいるわけないじゃん。」

「眠れないだけだよ。」

「俺はな、 お前が空気よりも俺を必要としてるから、ここにいるんだよ。」

再び沈黙が落ちた。 ゆっくりと燃えていくタバコの音だけが、二人の間に残った。

「おかしいよな……」とライターがつぶやいた。 「お前、気づいてないかもしれないけど、黙ってるときほど強く吸ってるんだぜ。」

「ただ吸ってるだけだ。」

「お前、“ただ”なんてこと、何一つしてないよ。 いつも何か背負ってる。 お前の吸い方ってさ、まるで謝ってるみたいなんだよ。」

彼は深く吸い込んだ。 今回は、否定しなかった。

「お前なんか、捨ててやればよかった。」

「でも、捨ててない。」

「まだな。」

ライターがカチッと音を立てた。 乾いた、機械的な音。 まるで、乾いた笑い声のようだった。

「そうだな。 俺もまだ、ここにいる。」

彼は何も言わず、ベランダを離れた。

部屋の中は、さらに静かだった。 冷蔵庫すら音を立てていない。 裸足の足音だけが、冷たい床に響いていた。

ぐちゃぐちゃのベッドの上に放置されていたスマホを手に取る。 画面が、彼の指の動きに反応して光った。

通知が七件。 どれも大したものじゃなかった。 アプリのセール情報。 知らない番号からのメッセージ。 二年前にミュートしたグループチャット。

彼はゆっくりと息を吐いた。 まるで、肺そのものが何かを待ちくたびれていたかのように。

スマホを手にしたまま、再びベランダへ戻る。 風がさっきより冷たく感じた。 あるいは、彼の中がもっと空っぽになっただけかもしれない。

「おいおい、やめとけよ」 ライターが言った。 彼が手すりにもたれた瞬間だった。 「こんな時間に、デジタルなぬくもり探してんのか? ベタすぎだろ、それ。」

「黙れ。」

「どうした? 誰かからの連絡、期待してたのか?」

「もう、やめ時なんじゃないか?」

「タバコのことか? それとも、何も感じてないフリのことか?」

彼は何も言わずにライターを回した。 火はつかなかった。 もう一度。 それでも、つかない。

「言っとくけど……もう限界だぞ」 ライターがつぶやいた。 どこか哀れむような声だった。

「俺もだよ。」

ようやく火がついた。 弱く、不安定な炎だった。

タバコに火が移るまで、少し時間がかかった。 彼は一口吸ってから、スマホをベッドの上に放り投げた。

「……三時半か」 その声は、誰に向けたものでもなく、ただ空気に溶けていった。

彼はしばらく曇った空を見つめていた。 そして、誰にも目を向けずに言った。

「俺には、誰もいないんだよ。知ってたか?」

ライターは答えなかった。

「別に、悲劇ぶってるわけじゃない。 ただの事実だ。」

彼はもう一度吸い込んだ。 灰皿を見つめながら、まるで吸い殻の中に過去を探しているようだった。

「親からの連絡なんて、もうずっとない。」

「……友達は?」 ライターの声には、いつもの皮肉がなかった。

「昔はいたよ。 でも、時間と一緒に消えてった。 人って、そういうもんだろ。」

タバコの火が風に揺れていた。

「もう慣れたよ。 この静けさってやつに。 むしろ、嫌いじゃない。たまにはね。」

「じゃあ、たまじゃない日は?」

彼は少し間を置いてから、煙を吐き出した。

「そういう日は……お前に火をつけるだけだ。」

タバコはゆっくりと燃えていた。 空も同じように、静かに沈んでいた。

街は、まるで針のない時計の中に閉じ込められているようだった。

「……一応、やってみたんだよ」 彼は小さな声で言った。

ライターは答えなかった。 だが、それで十分だった。

「本気でやったんだよ。 やめようとした。 やり直そうとした。 誰かに電話もした。 忘れられてるような人に、謝ろうとしたこともある。」

彼は深く吸い込んだ。 タバコはもう半分ほど燃えていた。

「でもさ…… ある時から、重さって体に染みつくんだよ。 閉め切った部屋の天井にこびりついた煙みたいにさ。 窓を開けようとしても…… もう、取っ手がどこにあるかすら思い出せない。」

ライターが小さく音を立てた。 それは、同情にも似た乾いた音だった。

「不公平だよな」 ライターの声は、以前よりも弱々しかった。 「まだ心がある人間がさ…… その心に押し潰されながら生きてるなんてさ。」

「心なんて、痛むためにあるようなもんだろ。」

「感じるためにあるんだよ。」

「何を? 虚しさか? 罪悪感か?」

沈黙。

「一番きついのはさ……」 彼は続けた。 「もう、自分が何かを待ってるのかどうかすら、わからないことだよ。」

「たぶん、待ってるんだろ。」

「何を?」

「誰か。 何か。 理由。 光。」

「……慰めてるつもりか?」

ライターは答えなかった。 代わりに、小さなカチッという音が鳴った。 無意識の反応のように。

「それとも、ただ壊れかけてるだけか?」 彼の声は、少し乾いていた。

ライターはまだ火をつけられた。 だが、その炎は揺れていた。 小さく、不安定に。

まるで、存在する意志そのものが、ガスと一緒に消えかけているようだった。

「……もう一本、火をくれ。」

「それが俺の役目だ。」

彼はもう一本タバコを取り出した。 手が少し震えていた。 体の寒さよりも、心の冷えのせいだった。

「不思議だよな。 お前なんて、ただのプラスチックと金属とガスの塊なのにさ。」

「それでも、俺だけはお前の声を聞いてる。」

火がついた。 弱々しく、 けれど確かに。

タバコに火が移った。

二人の間に流れる沈黙は、 言葉よりもずっと親密に感じられた。

彼はゆっくりとベランダを離れ、 スマホを手にしたまま部屋へ戻った。

部屋の中は暗く、 スマホの冷たい光だけが、彼の顔を照らしていた。

彼は指をゆっくりと動かしながら、通知をスクロールした。 重たい目。 ほとんど期待のないまなざし。

そして、あるメッセージで指が止まった。

大した内容じゃなかった。 ただの、一言。

それでも、彼の唇にかすかな笑みが浮かんだ。

それは、反射のようでもあり、 努力のようでもあった。

彼はスマホを持ったままベッドから離れ、 再びベランダへ戻った。

画面の淡い光が、まだ彼の指先を照らしていた。

「……四時半か」 彼はライターに向かって、呟くように言った。

冷たい風が肌を刺すように吹いていたが、 彼はそれに気づいていないようだった。

「……笑ってるな。」

「違うよ。 ただの通知だ。」

「通知か? それとも、寒い夜に届いた、ちょっとしたぬくもりか?」

彼はもう一度笑った。 けれど、その笑みはどこか不安定で、 自分でも何を感じているのか分からないようだった。

「……ただの運かもしれない。」

「運ってやつが、お前の人生に一番足りてないもんな。」

彼は答えなかった。 曇った空を見上げながら、 まだ燃えているタバコを指に挟んでいた。

「そいつは……」 ライターが、かすかに音を立てた。 「まだ、生きてるな。」

彼はゆっくりと煙を吐き出した。 タバコの先の赤い光が、少しずつ小さくなっていくのを見つめながら。

「……この火、もっと長く続いてくれたらな。」

「お前って、いつもそうだよな。 長く続いてほしいって言うくせに、 ちゃんと大事にはしない。」

彼は鼻で笑った。 それは、どこか悲しげな音だった。

「……それは、ほんとだな。」

数秒の沈黙のあと、 彼は小さく息を吐き、スマホをそっとベッドに戻した。

まるで、 果たされなかった約束を、 暗闇の中に置いてきたかのように。

「……また、二人きりだな。」

タバコはまだゆっくりと燃えていた。 そのかすかな光が、彼の震える指先を照らしていた。

ベランダの静けさが、再びすべてを包み込んだ。 深く、 まるで世界そのものが、次の動きを待っているかのように。

タバコは口の端で燃え続けていた。 その火は、少しずつ小さくなっていく。

夜明けの光が、 ゆっくりと闇を押し返し始めていた。

ライターは彼の指の間にあった。 ほとんど命を失ったように、静かだった。

かつては挑発的に燃えていた炎も、 今では不安定な影のように揺れていた。

「……もう一本、火をくれるか?」 彼の声は疲れていた。 答えを求めているというより、 ただ誰かに聞いてほしいだけのようだった。

ライターがかすかに音を立てた。 ほとんど囁きのような音だった。

「……今日だけな」 そう言っているように聞こえた。 その声は、今にも消えそうだった。

彼は悲しげに微笑んだ。 まるで、長年連れ添った友人を見送るように、 ライターをそっと握りしめた。

「……今夜、ずっと一緒にいてくれてありがとう。」

返事はなかった。 ただ、重く、決定的な沈黙がそこにあった。

彼はもう一度ライターを回そうとした。 ……反応はなかった。

「……わかってるよ」 彼は呟いた。 「お前は、できる限りのことをしてくれた。」

空が、 少しずつ桃色と橙色に染まり始めていた。

その光は、 静かに部屋とベランダを満たしていった。

「……そろそろ、行くときかもな。 それぞれ、別の場所へ。」

彼は最後の一口を吸い込んだ。 タバコの苦味と、 どこか安らぎにも似た感覚が混ざっていた。

「お前はしまっておくよ」 声は少しかすれていた。 「でも、もう一本は吸わない。 ……今は、ただの静けさでいい。」

ライターは、もう何も言わなかった。

彼は空を見上げた。 夜が明け始め、 街が、 淡い光の中で目を覚まそうとしていた。

冷たい空気がベランダから流れ込んできた。 それは、どこか新しい約束を運んでくるような、 まだ彼には理解できない種類の空気だった。

「……もう、今日はこれで十分だな。」

彼はタバコの火を、 物語と古い灰でいっぱいの灰皿に静かに押しつけた。

ライターをポケットにしまう。 その動きには、 重さと、空虚さが同時に宿っていた。

何年ぶりだろうか。 彼はタバコを吸わずに、 外へ歩き出した。

街はすでに目を覚まし始めていた。 無関心なまま。

そして彼もまた、 目を覚まそうとしていた。

風が、やさしく吹いた。

まるで世界が、 「まだ間に合うよ」と そっと囁いてくれたかのように。


― 終 ―

あとがき


最後まで読んでくださって、ありがとうございました。


この物語には、名前も背景も語られない登場人物がいます。

でも、もしかしたら、どこかで見かけたことがあるかもしれません。

あるいは、かつての自分の影かもしれません。


火がつかないライターを、なぜ捨てられないのか。

それは、もう話せなくなった誰かとの、最後の会話だったのかもしれません。


静かな夜に、そっと思い出してもらえたら嬉しいです。

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