Ⅴ
その日が最後だった。
それ以来、朗雄と小夜子が会うことは二度となかった。
月日は流れた。
あらかじめ決められた道筋を辿るように、時間は黙って通り過ぎていった。
季節は列をなして繰り返し、見計らったように入れ替わっていった。
いつしか四年の歳月が過ぎた。
その日、朗雄は法事のために実家に帰っていた。礼服に着替えを済ませた朗雄は暇を持て余し、換気扇のそばで煙草をくゆらせていた。早朝に家を出たため、気を抜くと欠伸が出る。
リビングからはバタバタと足音と奇声が聞こえていた。朗雄にとっては姪にあたる日向だ。
七回忌を迎える祖父が亡くなった時、「死」を前にしてただきょとんとしていた赤ん坊がそれだった。その子がもう小学生になっていた。朗雄はその重さを実感し――法事の空気も手伝ってか――妙に感慨深い気持ちになった。
時計の秒針を目で追いながら、今離れようとしているものに思いを寄せた。そうしながらも、もうすぐ訪れようとしているものの到着を待った。
予定の時刻より少し遅れてインターホンのチャイムが鳴った。朗雄は灰皿に煙草を圧しつけた。
近隣の寺の住職を迎えるとともに法要は行われた。七回忌ということもあり、それは身内だけのしめやかなものだった。
祖父母の仏壇を前に読経は上げられ、それぞれに故人を偲んだ。
風のない朝に清々しい空気が窓の隙間から運ばれていた。日はガラス越しに差し込んで、座敷上はほどよい温もりを発していた。
日向は落ち着かない様子で、ずっとそわそわしていた。身内だけなので余り注意もされないが、子供なりに敏感に空気を察していた。足を崩して退屈に耐えている。
やがて焼香台が各自の元を回っていく。
周りの教えを受けながら、日向も見様見まねで香をくべる。そして念じるように合掌した。
日向は故人を覚えていない。それでも熱心に拝むので、朗雄はその姿に目を奪われた。それは小夜子が朗雄に見せた、純粋な祈りであった。
『ああ……彼女ならだいぶ前にクビになったわよ』
その返答に朗雄の頭は真っ白になった。朗雄の反応をうかがう様子もなく、店員はひそひそと話を続けた。
『彼女……レジの金を盗んでたんだって。いくらだと思う?』
『……いや』
『三十万よ。三十万。可愛い顔してやることえげつないわ』
店員は得意げな顔をした。
かつて朗雄が小夜子と再会した場所には、もう彼女の居場所はなくなっていた。
朗雄は小夜子からのメールを思い出した。
離婚したこと。環境が変化したこと。とにかく辛いこと。聞いてほしいことが沢山あること。
最後のメールだけ長文だった。話に筋はなく、収まり切らないくらい内容は詰め込まれていた。そして終始明るい文体で飾られていた。
朗雄はそのメールすらも消去した。
朗雄は振り返った。
過去の自分の選択を見つめなおした。小夜子の運命について考えた。この手に抱いた赤ん坊の、眩しい寝顔の行方を想像した。
しかし、答えは見つけられなかった。
会食が終わり、朗雄はネクタイを外した。そこへ日向が遊んでくれとばかりに飛びついてきた。
空には雲一つなかった。
ブランコを漕ぎながら、日向が「みて」と上空を指差した。青空の向こうに白んだ円形が霞んでいた。
「あれなに?」と日向は目を輝かせて訊いた。
「何って……月じゃないか」と朗雄は小さな背中を押しながら答えた。そして「日中は明るいから見えにく」と付け足した。
「へえー」、日向は感嘆の声を上げた。そして「あそこでヨルをまってるんだね」と感激した。
幼い好奇心は留まるところを知らない。
「ツキのうらはどうなってるの?」、日向は声を張り上げている。
「俺も知りたいよ」、朗雄も声を強め、背中を押す手に力が入った。
「なんで?」
日向がブランコから飛び降りた。
「月は正面しか見せてくれないんだよ」、朗雄は無人のそれをキャッチした。
振り返った日向が、得意げに着地点をアピールしている。
「おお、飛んだなあ」、朗雄はその新記録を称賛した。
「もっかーい」、日向は喜び勇んですぐにブランコに駆け戻った。
二時間もまったく同じことを繰り返して、朗雄はもう逃げ出したい気持ちだった。日向は夢中で自分をきらめかせ――たとえ観衆がたった一人であろうとも――それを披露し続けていた。
「次のジャンプがラストだ」と朗雄は条件を突きつける。
飲まされた要求はアイスキャンディーだった。
ブランコの起動が徐々に大きくなっていく。
木陰のベンチには散歩中の老夫婦が、いつの間にかそれを穏やかに見守っていた。近所の野良猫は遊具の特等席を陣取って、気持ち良さそうにひなたぼっこしていた。
のどかな午後だった。
「なあ日向」
「なに?」
「さっき仏さんにお祈りしてたろ?」
「うん」
「何をお願いしたんだ?」
「おヒメさまになりたい」
「日向らしいな」
「ぜったいなるの」
「届くといいな」
「うん」
ブランコは綺麗な弧を描き、日向は大きく飛び立った。