Ⅲ
それから半月が経ち、朗雄は試験を間近に控えていた。夜は大学の寮に閉じこもることが連日続いている。
その日は夜とともに予報を裏切る急な雨が街に訪れ、朗雄は雨音を聞きながら制御工学の課題に勤しんでいた。次第に雨足は強くなり、豪雨はやがて雷を窓の外に呼び寄せていた。深夜を前にようやくレポートの作成にも目処がたち、朗雄は一息つこうとキッチンに向かった。
翌日の講義は昼からでも何とかなるだろう。そう思い朗雄はヤカンの水を火にかけた。
ドリッパーにフィルターを設置し、マグカップの上に載せる。そこにおおよそ擦り切れ一杯のコーヒーの粉を入れた。ヤカンの口から蒸気が昇り、火を止める。湯が適温に下がるまでテレビをつけ、椅子に座って待っていると、朗雄の携帯電話が鳴りだした。
小夜子は朗雄の住む寮の近くの公園にいた。
土砂降りの雨で、通りはおろか街中にすら人気を感じることはできなかった。朗雄が迎えに行くと、小夜子は屋根の下のベンチに一人、ぽつんと座っていた。顔を伏せ、姿勢は固まっている。朗雄が声をかけても生返事しか返ってこなかった。
小夜子は相当飲みすぎた様子で、うつむいた顔は赤くなり、立ち上がっても足元はふらついている。よろめく度に衝撃を受ける踵のヒールが痛々しかった。
終電には間に合いそうにない。何より小夜子を一人で帰すのは気が引けた。朗雄には小夜子の意図がわからなかった。またそれに対し、深く考えるのを避けていた。
戸惑いつつも朗雄は小夜子を寮の部屋に連れて帰ることにした。その提案に小夜子は「……うん」とだけ答えた。
寮とはいっても朗雄の住むマンションは一般的な造りだったので、他の寮生と鉢合わせることはなかった。
エレベーターの中、二人はずっと無言だった。妙な緊張感が狭い空間に張りつめていた。
小夜子はコーヒーに手をつけなかった。朗雄だけがコーヒーを飲み、作業半ばの課題の仕上げに取り掛かった。ベッドは小夜子に明け渡し、朗雄は机に向かい、スタンドの明かりだけで作業の続きに集中した。そしてしばらく寄せ集めた資料をもとに、考察や証明を黙々とまとめあげていった。
なんとかレポートは納得のいく出来に仕上がり、課題から解放されてようやく朗雄は振り返った。小夜子はいつの間にかベッドから降り、床にうずくまって横になっていた。
小夜子は起きていた。
「まだ酔ってるのか?」と朗雄は刺激しないように訊ねた。
「……わからない」と小夜子は声を細めて返事をした。
「具合は?」、朗雄は近づいて顔色を確かめる。
「……大丈夫」、小夜子は力なく頷いた。
時刻は深夜の二時に差し掛かろうとしていた。
朗雄はさすがに疲れを感じていた。そろそろ休みたい気持ちがあった。それを悟られぬように朗雄は言った。
「とりあえずベッドを使ってくれ。俺が床で寝るよ」
しかしその要求を小夜子は拒んだ。
「……ここでいい」
小夜子の頑固さに朗雄も我慢強く応じ続けた。相手を床で寝かせることを、お互いが頑なに拒否した。主婦たちのランチの会計でもここまで譲り合わないだろう、と朗雄は内心辟易とした。
きりがないので朗雄は仕方なく折衷案を提示した。小夜子は黙って頷き、朗雄は苦々しい気持ちを飲み込んだ。
二人は一つしかないベッドを半分ずつ使って寝た。
狭いシングル用のベッドの隅で、朗雄は小夜子に背を向けて寝た。小夜子が嫌な訳ではない。ただ朗雄は妙な後ろめたさを覚えていた。朗雄は自分の理性が矛盾していることに気づき始めていた。
「何か」が狂っていく。
朗雄はそう感じながら、眠りが訪れるのをひたすらに待った。
依然、雨が止む気配はなかった。雨は激しくなったり、落ち着いたりを幾度となく繰り返していた。
暗い部屋には不安定な雨音が、静かに、しかし強引に居座っていた。時計の針は単調にリズムを刻み続ける。それらは交じり合い、奇妙なアンサンブルを奏でていた。朗雄は息を殺して不思議な調和に耳を澄ませていた。
頭は冴えていた。状況がそうさせるのか、はたまたコーヒーに含まれるカフェインの仕業なのか、朗雄には判断がつかなかった。ベッドに身を預けてからどれくらい時間が過ぎたのかも、朗雄にはまるで見当がつかなかった。
五感も研ぎ澄まされていた。戯れる時計と雨に、朗雄は自らの感性を重ねて遊ばせていた。
しかし肝心なところは制御不能であった。やがて馬鹿馬鹿しくなって眠るのを諦めた。朗雄はぼんやり目を開けた。
暗闇の中、小夜子は上体を起こしていた。
顔は窓の正面に向けられている。カーテンの隙間から街灯の明かりが僅かに差し込んでいた。
小夜子は窓の外の遥か遠くに目を向けているようだった。憂いが彼女を吞み込んでいく。朗雄にはその背中が霞んで見えた。
ふいに窓の外がフラッシュした。「何か」は音もなく破裂した。部屋の中を轟音が貫いた。
朗雄は身を起こし、「ごめん」と言って痩せた身体を抱き締めた。
「うん」と小夜子は言って、全身の力を抜いた。
二人はゆっくりとベッドに沈み込んだ。