Ⅱ
「こんな時間に訪ねたら、神様だって客を門前払いするんじゃないか?」
「どうして?」
三人は神社の敷地内にいた。それは人通りをそれた薄闇にひっそりと領域をはっていた。辺りに電灯はおろか、他の人影すらない。
「たとえば……神様は夜食にとっておいたカップラーメンに湯を注いだところかもしれないし……もしかしたら恋人の誘いに応じて自分のパンツを下ろした頃かもしれない」
「何それ? おかしい」、小夜子はくすりと笑った。
「居留守を使うか迷って、息を飲んではらはらしてるかも」
朗雄は真面目な顔で冗談を続ける。
「大丈夫よ」、小夜子はそこで話を止めた。
「だってすべて神様が仕組んだことなんだもの。きっと何だってお見通しよ」
そう言って小夜子は境内の奥へ歩みを進めた。
朗雄は辺りを観察した。本当に都会は何でもありだな。そう思い、ネオン街の裏にまで人目を避けるように静かにまつられる存在に対し、ただ感心していた。
お堂の前で小夜子は言った。
「学生の頃を思い出すな」
楽しそうに賽銭を投げ入れる。朗雄も促され後に続いた。
手を合わすと沈黙と喧騒が二人にそっと訪れた。悠久と刹那が入り交じる気配がそこにはあった。
朗雄が目を開けると、まだ小夜子は真剣な表情で拝んでいた。それを邪魔しないように、朗雄は赤子の寝顔を眺めた。それはまさに柔らかいブランケットに包まれているような眠りだった。そのまま祈りの時が過ぎるのを待った。
「えらく真剣だったなあ」、振り返る小夜子に朗雄は言った。
「だって……強く願わないと祈りは届かないわ」、小夜子はまた真剣な顔をした。
朗雄にとってその意見は新鮮だった。
「なるほど……一理ある」
朗雄は感心した面持ちで次の言葉を待った。
「あなたはちゃんと想いを込めてお祈りしましたか?」、小夜子の黒目がさらに大きくなった。
「いや……特に」
「何をお願いしたの?」
「世界平和」
「……望みが大きいわね」、小夜子は微笑んだ。
朗雄はそれに対して――特に何も願い事が思いつかなかっただけだったのだが――言われてみれば確かにそうだと思った。さらに見ず知らずの日本の神様に、何となく世界平和を願うなんて、図々しいような気もした。
「望みの大きさだけ強く求めないと、願いは叶わないわ」
「素敵な教えだ」、朗雄は舌を巻いた。
「小夜子教よ……今思いついた」、小夜子は満足そうな顔をした。
朗雄は熱心に手を合わす小夜子の姿を思い返した。
「だったら教祖様の願い事は相当大きいようだ」
「……うん」、自然と小夜子の眼差しが熱くなった。その目の奥に秘めたるものの強さが増していた。
「祈りは届いたか?」
「……どうかな」
そう言うと、小夜子はうつむき加減に少し疲れたような表情をした。
小夜子の顔がかすかに月に照らされている。彼女の抱える闇をそっと慰めるように。優しく淡い光だった。
月は欠けていた。
それでもその輝きは、街の照明と比較にならない次元にあった。朗雄は一瞬、やせ細った三日月に心を奪われた。神秘の裏に「絶対」を垣間見た気がした。
小夜子は朗雄の左手に寄り添い、ぎりぎりの境界を維持していた。眠る愛娘の頬を包み込むようになでている。その柔らかい感触に、小夜子の表情も次第に弛緩されていった。
「愛らしい寝顔だ」と朗雄は言った。
「うん……だって子供には罪がないもの」と小夜子は言った。
「……なあ」
「何?」
「俺に何か期待してないか?」
二人の視線はしっかりと重なり、空気は密度を増していった。静けさが朗雄の心を溶かし、月明かりははっきりと小夜子を照らしていた。
やがてはぐらかすように小夜子ははにかんだ。一瞬、光が影を追いやった。それは朗雄の目に焼き付いた。