Ⅰ
ある日、小夜子は朗雄の前に赤ん坊を連れて現れた。
「ひめちゃんを一人でお留守番させるわけにはいかないから……」
赤子の名は緋芽といった。あどけない顔をして、小夜子の腕に抱かれている。
朗雄は少し驚いたものの、今さら家に帰す訳にもいかないので、戸惑いつつもそれを受け入れた。緋芽は愛くるしい視線を朗雄に投げかけていた。
生涯「姫」という名を背負って過ごすのはどういった気分なんだろう? 朗雄は疑問を胸に抱きながら、円らな瞳を覗き込んだ。その無垢な眼差しはただ真っ直ぐに、未形成な世界を捉えるのみだった。緋芽は怯える様子もなく、目に映る影を、ただひたすらに焼き付けていた。
辺りは日が暮れかけていた。
「旦那は心配しないのか?」と朗雄は言った。
「今さら心配なんてしてくれないわ」と小夜子は言った。
次に続く言葉は、朗雄には見つけられなかった。
三人は最近評判のイタリアンの店に入った。素材にこだわらず、良心的な価格で料理を提供するのがその店の売りであった。まだ学生の朗雄にとって、それは金銭的にも妥当な選択であった。
二人で食事をする度に「私がおごる」と小夜子は言ったが、朗雄はいつもその申し出を断った。彼女は同い年だし、その金はおそらく旦那の収入なのだ。ややこしい金は受け取れない、と朗雄は思った。何より朗雄は小夜子に対し、対等な関係を望んでいた。
明るい内装の店内には、午後六時過ぎにも関わらずかなり人が入っていた。
三人は奥のテーブル席に座った。小夜子は緋芽を膝にのせた。
はたから見ればかなり若い夫婦に映ったであろう。それに対して朗雄は特に嫌な気分はしなかった。
小夜子はいわゆる「美人」であった。身体は華奢で幼さの残る顔立ちは見事に整っていた。学生時代、小夜子は男子の人気が異常に高く、朗雄も良くそれを耳にした。
朗雄はアンチョビのスパゲティーにガーリックトーストとピクルス、飲み物はビールを中ジョッキで注文した。小夜子は迷った挙句、魚介のリゾットとトマトサラダ、それに白ワインとオレンジジュースを注文した。注文の際に小夜子は「赤ちゃんにも食べさせたいから」という理由で、リゾットの味を薄めにできないか、ウェイトレスに訊ねていた。
「可愛いお子さんですね」
去りぎわにウェイトレスがそう言って朗雄に微笑みかけた。
朗雄はそれに曖昧な笑みを返した。
朗雄と小夜子はたわいもない会話を挟みながら、ゆっくりと食事をとった。
緋芽も薄味のリゾットに夢中な様子だった。小夜子がスプーンで食べやすい大きさによそってあげていた。また、リゾットの上にのせられた白身魚を小夜子は丁寧につぶし、時間をかけて与えていた。
小夜子がほとんど食べていないので、朗雄は追加のオーダーを彼女に訊いた。迷っている小夜子に朗雄は、「先月のバイト代が思ったより入った」と予算がいくぶん充実していることを伝えた。小夜子は「じゃあ……」と思案した後、「白ワインがもっと飲みたい」とにっこり笑った。
朗雄は店員を呼び、一番安い白ワインのボトルにグラスを二つ、そしてマルゲリータをハーフサイズで注文した
朗雄は基本的にワインを進んで飲む方ではない。また、飲むならば料理に限らず赤ワインの方が好みだったが、そこは小夜子にあわせた。
「それで……相談したいことって?」
一通り食事が済み、朗雄は小夜子に訊ねた。
せきを切ったように小夜子はしゃべりだす。また嫌なことがあったようだ。朗雄は小夜子に呼び出される度に、彼女の相談が大体同じような内容であることを確認しながら、ただ黙って聞いていた。小夜子が助言など求めていないことも、朗雄は経験的に理解していた。
店に入ってからずいぶんと時間が過ぎていた。いつの間にか小夜子は黙って朗雄を見つめている。虚ろな目はいつしか熱を帯びていた。
「少し飲みすぎなんじゃないか?」と朗雄は言った。
「そんなことない。全然へーき」と小夜子は言った。
やれやれ、と朗雄は思った。小夜子の密かな頑固さを朗雄は知っていた。一度こうと決めたら小夜子に忠告は無意味である。
緋芽は小夜子の膝ですやすやと寝息をたてていた。赤子はさらに頑固だ。大人の都合など無垢な本能には関係ない。緋芽にとって、今はもう寝る時間のようであった。
「そろそろ帰った方がいい」と朗雄は言った。
「あなたの顔、好きよ」と小夜子は言った。
朗雄は領収書を手に取って、席から立った。
「ちょっと酔いを覚まそう」
「まだ話は終わってないよ」
「……緋芽ちゃんが起きちゃうよ、ママ」
そう言って朗雄は、小夜子の膝で眠る緋芽の頭をそっとなでた。小夜子は顔を伏せ、緋芽を大事そうに抱え、ゆっくりと席から立った。
「すごく良く眠ってる。今日は疲れたね、ひめちゃん」
そう囁いて、我が子を愛おしそうに頬に寄せた。その仕草にはどこか空虚さが漂っていた。朗雄はそれに気づき、見て見ぬふりをした。
夜は更けていた。
町のネオンが点灯し、辺りはより華やいでいた。人の群れをかき分け大通りに出ると、道路上を車がごった返す。都心の目まぐるしい光景は、朗雄に万華鏡を思わせた。
「ねえ」
小夜子は微笑んだ。頬は赤らんで、火照った印象がある。
「家まですぐだから、少し寄り道していい?」
「だいぶ酔ってるんじゃないか?」
「だから酔い覚まし」
「わかったよ」
「嬉しい」
そう言ってはしゃぐ彼女は、確かに二十歳過ぎの女の子であった。無邪気な笑顔には、まだあどけなさが残っている。何かしらのプレッシャーから解放された小夜子の足取りは軽かった。
朗雄は小夜子の代わりに緋芽を抱いてその様子を眺めていた。
「早く……こっちよ」
そして赤ん坊の安らかな時を傷つけないように、朗雄は静かに歩き出した。