第9話 赤髪の傭兵
(ナタリアの奴、体よく断ったか……)
聖ポラストゥル教会からの帰り道、クリスティの手を引きながら、彼は最初はそう思ったが、次第に考えを改めた。
大聖女と呼ばれる彼女は、そんな人ではない。彼女の十分の一でも、自分に信仰心があったなら、五年前の出来事にも、耐えられたかもしれないとさえ、マルークは思っていた。
面倒だからなどという理由で、クリスティを預からなかったのではないことは明白だった。
本当に、クリスティと、そしてマルークのことを思って言ってくれているはずだった。
だが現実問題として、彼はドラゴンに会う必要があった。
このままでは、いつ彼は王宮に引き立てられるかも知れないのだ。
今のボードソンに、慈悲を求めることは難しい気がした。
今回、見逃してもらえただけでも、僥倖と言えるのかもしれなかった。
(そうすると、護衛を雇うしかないが、ドラゴンが相手となるとな)
生半な戦士あたりでは、尻込みするに決まっている。
(やはり、奴しかいないか……)
マルークは、唯一の心当たりに、当たってみようと考えていた。
翌朝、珍しくクリスティは、私塾へと出掛けようとしなかった。
「クリスティ、そろそろ出ないと。先生がクリスティのことを、お待ちになっているよ」
マルークの誘いに、だが、クリスティはまた、彼のローブの裾を握って、見上げて言った。
「お父様。私を置いて、どこへも行かないで」
彼女の目には、また涙が溜まっていた。
きっと、これまで辛い目に遭ってきたのだろうと思うと、マルークは、彼女を預けて一人でドラゴンの棲み家に向かおうと考えたことを後悔した。
「ああ、どこへも行かないよ。約束する。私はいつも、クリスティの側にいるよ」
マルークは彼女を抱きしめながら、瞼の裏に熱いものを感じていた。
彼の言葉に安心したのか、クリスティはその後、私塾へと出掛けてくれた。
私塾の前で、少し不安そうな顔を見せながらも、健気に手を振る彼女の姿に、マルークはまた、決意を新たにしていた。自分が彼女を守るのだと。
「確か、この辺りのはずだが……」
クリスティを送り届けた足で、彼はそのまま、王宮に近いお屋敷街へと向かっていた。
彼のお目当ての人物は、噂によれば、王からの褒賞で、そこへ大きな邸宅を持ったということだったからだ。
「ここがそうか……」
クニーグの犠牲の上に、この邸宅が建てられたかと思うと、彼の胸に昏い感情が湧き上がってくる。
だが、今の彼には、この邸宅に住む者の協力が、是が非でも必要だった。
屋敷の主人は在宅していたようで、突然の訪問にも関わらず、訪いを入れたマルークは、すぐに執事に案内され、応接へと通された。
そして、それほど間を置かず、屋敷の主人が姿を見せた。
「おお! 我が畏敬すべき友、大魔導士マルークよ。久しぶりだな。元気にしていたか?」
大きく腕を広げ、大袈裟な身振りで近寄って来た彼は、魔王を倒した五人の英雄の一人、ワレンティーだった。
「何とかといったところだな。ワレンティーこそ、元気そうで何よりだ」
そう言いながら立ち上がったマルークの正面のソファに、どっかりと腰を下ろすと、ワレンティーは彼にも座るように勧めた。
「五年ぶりか。その後、噂は聞いていたが、まあな。俺にだって多少は忸怩たる気持ちはある。今日は訪ねてくれて、嬉しいよ」
屈託ない様子で、彼はマルークにそんなことを伝えてきた。
「今日は、赤髪の傭兵として勇名を馳せるあなたに、お願いがあって伺ったのです」
「大魔導士が、俺にお願いすることなんて、あるのかい? できる限りのことはさせてもらうぜ」
マルークの依頼の言葉に、ワレンティーは気軽に返す。彼は気のいい奴だが、安請け合いが玉に瑕だったなと、マルークは思い出した。
「先日、私は王宮へ赴き、王に謁見を賜ったのです」
「王と言ったって、ボードソンの野郎だろ。それが何で、俺と関わりがあるんだ」
マルークの話に、ワレンティーは不機嫌な様子を見せた。
「私が王に、ひとつお願いをしたところ、彼はそれを認める代わりに、ドラゴンの鱗を提供するように言ってきたのです」
「ボードソンの奴、そんな事を言ったのか。仲間の頼みくらい、聞いてやればいいのに。で、そのドラゴンの鱗を俺が持ってないかってか? 残念ながら、手持ちはないな」
早とちりも相変わらずだなと、マルークは思った。
ドラゴンの鱗がそんなに簡単に手に入るのなら、国王は既にそれを手に入れていることだろう。
そう思ったが、マルークは、素知らぬ顔で会話を続ける。
「いや、万が一、あなたがそれをお持ちでも、私にはそれを譲っていただくだけの手持ちはありません」
「じゃあ、どうするんだ?」
そこまで言って、ワレンティーは、マルークの考えていることが分かったようだった。
「おい、まさか、俺にドラゴンと戦えってか? いや、もう無理だ。五年前は俺も無茶をしたもんだと、最近はずっと思ってるくらいだ」
「いや、そこまではお願いしないさ」
マルークの返事に、不審そうな顔を見せるワレンティーに、マルークは続けて伝える。
「お願いしたいのは、娘の護衛だ。私がドラゴンと交渉する間、近くで娘を守ってほしいのだ」
「お前、娘って。どういうことだ。それに、何で子どもをドラゴンの所へ連れて行くんだ。もう俺には、何が何だか分からないぞ」
ワレンティーは額に手をやり、混乱したといった仕草をするが、マルークは構わず続けた。
「私にはクリスティという、愛する娘がいる。このところ、彼女とはずっと一緒にいて、長く離れたことはない。だから、ドラゴンの所へも連れて行くしかないんだ」
ワレンティーは、相変わらず信じられないといった様子だった。
「心配しないでほしい。ドラゴンと戦う気はない。だが、万が一、奴が襲いかかってきたら、私は自分の身を守るだけで精一杯になるだろう。その時は、娘を守って、逃げてほしいのだ。あなたなら、まさか腰を抜かしたりはすまいからな」
「まあ、そのくらいならな。だが、万が一、お前がやられたら、その時はどうするんだ? そんなに大切な娘がいるなら、ドラゴンに会いに行くなんて危険なこと、やめたらどうだ」
ワレンティーの言うことはもっともだった。
だが、マルークは、クリスティに魔法を教えることを諦める訳にはいかなかった。それは、この世界の存亡にも関わってくるであろうからだ。
「大聖女にもそう言われたよ。だが、私は諦める訳にはいかないんだ」
「あいつにも会ったのか。じゃあ、お前はもう大丈夫なんだな」
ワレンティーは感慨深そうにマルークの顔を見た。
「それにしても、娘ができたとはな。まさかお前が他の女に手を出すとは思わなかったよ」
ワレンティーの言葉に、マルークはぎろりとした視線を彼に向けた。
「いや。そうじゃないのか? いったい全体、どういうことだ?」
「クリスティは私の娘だ。悪いが余計な詮索はやめてくれ。それは彼女に対しても、絶対にだ」
ワレンティーは、一瞬、戸惑った様子を見せたが、すぐにマルークに笑い掛けた。
「他ならぬ我が友マルークの頼みだ。事情はあるようだが、そこは飲み込むさ。で、出発はいつだい? 俺はいつだって構わないぜ」
一週間後、支度を整えたマルークとクリスティに、ワレンティーの一行は、王都から見て南、ラマカーン地方に向けて旅立った。
ラマカーン地方の東に位置するアクテーケ山には、ドラゴンが棲みついていて、そのドラゴンは、かつては山へ分け入った人間を容赦なく襲っていた。
だが、今から八年ほど前、二人の魔法使いがその山を訪れ、以後、ドラゴンが姿を見せることは無くなったのだ。
人々は、魔法使いたちがドラゴンを退治したのではないかと噂しあったが、その二人は、麓の村を訪れた時も、山から戻ってからも、何も語らなかったので、真実は闇の中だった。
「この山のドラゴンは、もう何年か前に退治されたって、さっき宿の主人が言っていたぜ」
麓の村にたった一軒だけあった宿の食堂で、ワレンティーはそう言って、マルークに不審な顔を向けた。
マルークは、相変わらず、情報が早いなと、ワレンティーに舌を巻いたが、敢えて涼しい顔をしていた。
食事をするクリスティを温かい目で見守って、時に手を貸し、彼女に、「今日もよく頑張ったね。偉かったぞ」と声を掛けたりしている。
「いや、退治されてはいない。今もドラゴンは、山のねぐらにいるはずだ」
確信を込めたマルークの言葉に、ワレンティーも思い当たった。
「もしや、ここのドラゴンを退治したっていうのは……」
「ああ、クニーグと私だ。だが、私たちはドラゴンを退治してはいない。クニーグがドラゴンの心の棘を取り除いたのだ」
あの頃は若かったなと、つい八年ほど前のことなのに、マルークはそう思う。
今ならさすがに、危険なドラゴンに、魔法使い二人だけで挑んだりはしないだろう。
「彼女は言っていた。あのドラゴンは異常だと。あんなに人里から近い山に棲み処を構え、それでいて、山に分け入った者には容赦をしない。そんなことをしていたら、いつか退治されてしまう」
「そのとおり、退治されたんじゃないのか?」
当時を思い出して語るマルークに、ワレンティーが、口を挟む。
「ワレンティー。相変わらずだな。私は、退治はしていないと言ったじゃないか」
マルークは呆れたように、彼の顔を見たが、彼は鼻の頭を指で掻いたくらいで、以前同様、反省の色は見せないようだ。
「それで、ドラゴンを何とかしたって訳か? 俺には魔法使いのやることは、理解出来ないね」
ワレンティーは薄ら寒いといった表情で、皿の料理をパクついた。
「いや、同じ魔法使いである私にも、実は理解できていない。彼女は天才だったからな。人間だけでなく、ドラゴンの心まで、魔法でどうにかしたのだ。私などには到底できない芸当だ」
「ドラゴンの心をか……」
「そうだ。私の攻撃魔法では、ドラゴンを打ち破れたかどうか甚だ疑問だな。クニーグがいてくれたから、無事に帰って来られたようなものだ」
二人がそんなことを話す横で、クリスティが、料理を前にしながら、舟を漕ぎだしていた。
「クリスティ。今日は疲れたね。もう、おやすみしよう」
そう言って彼女を抱き上げ、部屋へと連れて行くマルークを、ワレンティーは横目で見ていた。
ここ何日も、ともに旅をするうちに、彼も、少しずつ事情を察することが出来るようになっていた。
(クニーグと相思相愛だった奴に、あんな年の娘がいるはずがないとは思ったんだ)
そういった類の男が、知り合いに何人もいる彼には、マルークはそういう奴らとは違う種類の男だということが、よく分かっていた。
彼には、マルークとクリスティが、お互いに気を遣い合っていることが、すぐに分かったからだ。
(あんな小さな子が、健気なものだよな)
マルークのことだ、いずれ時期が来れば、自分にも分かるように教えてくれるのだろう。ワレンティーは、そう考えて、また料理をパクついた。
翌朝早く、宿を出て、三人はアクテーケ山へ向かった。
透明な水の流れる川を遡り、途中で何度も休憩しながら、少しずつ谷を進んでいく。
「また、崖だぞ。まだ先なのか?」
ワレンティーがうんざりしたといった声を出すが、マルークは頷くと、呪文を唱え始めた。
「ファヨテーヴァ キャラサーム トフューラ ボカーヴ! 魔力の根元たる万能のマナよ。我らを大地の縛から解き放て!」
魔法陣が、彼の足下に白く輝き、三人はふわりと浮かび上がると、ゆっくりと崖の上へと到達した。
ここまでの道中に、いくつもの滝や、進路を塞ぐ大きな岩があり、その度にマルークがこうして、浮遊の魔法で三人を浮かべ、乗り越えて来ていた。
「マルーク。さすがにここで行き止まりだぜ」
高い断崖を見上げ、ワレンティーがマルークを振り向いて告げた。
「ああ、ここが目的地だ」
そう言ってマルークが指差した先、断崖の真ん中辺りに、大きな洞穴が口を開けているようだった。
「まさか、あそこまで登るのか?」
ここまでだってそうだが、あんな高さまで上ってしまったら、逃げるに逃げられないとワレンティーは思った。
自分は浮遊の魔法など使えないのだから。
「いや、ドラゴンの巣穴へ入り込むようなことはしないさ」
マルークはそう言うと、突然、洞穴に向かって、大きな声で呼びかけた。
「オテュラーンよ。魔法使いのマルークだ。居たら出てきてくれ」