うちのオカンはもしかして
拝啓。
母さん。お元気ですか。私は今、遠い場所にいますが元気です。元気ですが、少々危機的状況です。周囲の人は目が血走り、呼吸が荒く、足元には人が倒れて呻いています。人々は悲観し、途方に暮れ、涙を流している人もいる。そんな中に私は立っています。
だから母さん。どうか無事を祈っていて下さい。そして次に会えたら聞きたいことがあるんだ。
俺は一度、登校拒否になったことがある。小学五年生の春頃だっただろうか。学校に行きたくない。そう言った俺にオカンは言った。「あ。そう」
それから俺は学校を休んだ。とはいえ、何かやりたいことがあった訳でもない。日中、興味のないニュースの流れるテレビの前で遠い目をしたり、動いてもいないのでそんなに空いてもいない腹に食事を入れながら過ごした。学校に行っている時と変わらないな。こりゃ。と、思った時にオカンが言った。
「ところであんた、何で学校に行きたくないの?」
確か、学校を休み始めて一週間は経っていたと思う。その間、何も聞かなかったオカン。そういえば醤油切れてたわー。の独り言にくっついて口から出てきた質問。俺に言っているのかどうかすら一瞬分からなかった。
ただ、良いタイミングだった。俺が「これも無意味だ」と思った瞬間だったからだ。もしも学校に行きたくないといった時に同じ質問をされていたら答えは変わっていただろう。
「だって勉強ってする意味なくない?」
割と大多数の人間が陥る思考かもしれないが、今考えてみればマセた子どもである。でも、当時は本気でそう思っていた。意味がない。誰かの人生。理科室で作った色水。角度の計算。覚えて何の役に立つんだ。
ぶふぉお!!
そしたら次の瞬間、オカンは盛大に噴出した。飲んでいたお茶はかろうじて喉の奥に追いやった後だったらしいが、咽たオカンはそのまま咳込み、うつ伏せになって震えた。苦しいのか、俺の将来悲観したのかと思ったら笑っていた。
「成程。それは困っ、た…ね…。ぷー!!」
ひー! マジで萌えー! うちの息子がアオハルー!! と、テーブルをバンバン叩いて笑っている。イラっとする。
ひとしきり笑うのを待って上げたけど、俺は呼吸が収まってきたオカンに苦情を申し立てた。
「笑い事じゃないんだけど」
「あー。そりゃそうだ。スマンかった」
オカンはそう言って腰を叩いている。どんだけ笑ったら腰までくるんだ。イラっとする。涙拭ってんじゃねぇよ。
「それだけなら学校行けって言うんだろ。どうせ」
不貞腐れて俺は言った。しかしオカンは手をひらひらさせてこう言うのである。
「言わない言わない」
「え?」
「理由も分からずにやらされるのは苦痛だろう。少年。それに、そんなんじゃ何も覚えられないぞ」
じゃあ行かなくていいのかな。そう言われると、それはそれでちょっと不安になる。小学校中退。俺の将来はどうなるんだ? 大丈夫か? そう思っていた俺に、オカンはこう言った。
「だから、君の疑問を可能な限り取り除いて上げよう。何でも質問してきなさい」
「…」
これは新しい切り口。俺はボソッと呟いた。思い出したのは国語の問題。この時の作者の気持ちを答えなさい? 知らんがな。
「作者の気持ちが分からなくても困らないでしょ」
「相手の気持ちがくみ取れない人は苦労するよ」
「…」
言われて思い当たる事がある。そういえば好きな子に意地悪をしちゃう田中がいたな。あいつ、可哀想なくらい嫌われていた。今度慰めてやろう。
「理科室で作る色水に意味ある?」
「物の性質を知っておくと便利だよ。逆に知らないと危機に陥る事もある」
そう言ってオカンは「混ぜるな危険」というボトルを俺に見せた。何だこれ。
「この液体には混ぜちゃいけないものがある。混ぜると死ぬ」
死ぬの?
「…」
ごくり。
とりあえずあのボトルには触らないようにしよう。
「三角形の角度って覚える必要ある?」
「例えば世の中にはこういう道があるのだよ。少年」
そう言って、オカンはすらすらと何かを書いた。見るとK? かな? くの部分に横線も入れて、それから縦線の下を指さして、オカンはこう言った。
「交差点で右折。この道に行くにはどうやって説明する?」
五叉路か。右折は三本。鋭角な角を曲がってUターンする様な、くの下の道。右折して手前四十五度の道へ。
他にも説明の仕方はあるだろう。けれど、この言い方が分かり易い。うーむ。何か、勉強ってそんなに無意味でもないかも? そんな風にぐらりと持論が傾きかけた俺に、オカンはこんな事を言った。
「先人の知恵を全て教えてもらってから、あんたは自分で生きなさいと世の中に放り出される。一人で生きていくから必要ないって思ったとしても、自給自足をするのだって生きる為の便利な術はお勉強の中にある。人の中で生きていくなら余計に便利だよ。飲めない水を飲めるようにするやり方は、自分で考えたらどの位かかるか分からない。角度の伝え方や混ぜてはいけない液体は、たったページ一枚の中に書いてあることを理解するだけ」
簡単楽ちんお得。と、オカンは通販みたいに俺に売り込んでくる。でも、それはそうかもしれない。ぐぬぬ。何か悔しい。だから俺は言い返した。
「たらればなら何でも言える。俺は飲めない水を飲みたいなんて思わないし、今時スマホで道なんて調べられるし、混ぜちゃいけない液体は使わない」
「そう! たられば!」
それ! とばかりにオカンは言った。
「一つ一つの事なんて難しく考えるな。少年。この先君は何に興味をもって誰と交流を持つかなんて誰にも分らないんだから、沢山の事を知っておいて損はないぞ」
医者になるにも読解力や計算、患者の心を開くための知識も必要になる。説明をするために絵心だってあった方が良い。
スポーツ選手だって体だけ動かせばいい訳じゃない。ボールを一つ投げるにも、この角度で、このタイミングで、こういう風に手を放す。それだけの事を伝えるにも記録するにも言葉と数字は必要だ。色々なトレーニング方法を模索する為に英語も必要になるかもしれない。歴史を紐解けば新しい発見が自分を助けてくれるかもしれない。
「でも、少なくともどれを選択するかは自分で選べるでしょ」
医者にもスポーツ選手にもなりたいという希望は今のところない。なりたいと思った時に必要なことを必要なだけ吸収した方が楽じゃないか。スタートは遅れるかもしれないけれど。
そう思って言った俺の言葉を、オカンはずばりと否定した。
「いや。選べない」
断言したオカンの言葉に、俺は思わず顔を上げた。
そうしたら、目の合ったオカンはこんなこと言う。
「…事もある」
そう言ってオカンは立ち上がり、一冊の文庫本を持って戻ってきた。
「例えば、こんな風に」
その翌日から俺は学校に行き始めた。田中のフォローをし、混ぜるな危険のボトルには手を出さず、道案内を求められれば分かり易いように説明をしようと心掛けながら大きくなった。
オカンと話し、あの本を読んだことで勉強に向かう姿勢が明らかに変わった。ただ覚えるだけではなく、その知識を使う場所を想像したり、または他人に説明できるまで自分の中で嚙み砕いて覚えるようになった。そこまでやれば、完全に自分のものとして使えるようになる。忘れないし、応用もきく。それに、こういう風に学び初めて気付いたけれど、自分には必要のない知識のように見えても、強ちそうでもないことも多いのだ。
例えば花粉症は、花粉を吸いこむとくしゃみが出てしまう。のではなくて、花粉吸い込む→体にとって異物と判断され、それに対する抗体が作られる→抗体が蓄積されて一定量達すると花粉症を発症する。
つまり、発症していない人はずっと発症しない人ではないのである。だから俺は花粉の多い時期にはマスクをしたり眼鏡をかけてちゃんと予防する。何故なら知り合いにくどくど花粉症の恐ろしさを説かれたからだ。今時は注射一本で快適な生活が手に入るらしいが、俺はそれすらしたくない。だからマスクと眼鏡をするのである。多分、これが功を奏しているのだろう。オトンもオカンもくしゃみが止まらない中、俺は今のところ快適な生活を送っている。
花粉症のメカニズムだけでなく、俺は様々な知識を手に入れた。おかしなもので、脳がいっぱいになれば覚えられなくなったり押し出されて忘れていくのかと思いきや、やればやるほど知識はどんどん覚えやすく、理解し易くなった。蓄積された知識が新しい知識の理解を手伝い、関連付けて忘れないようにしっかりと紐づけされていく。取り組み方を覚えれば、先の見えない苛立ちや、何故こんなことをしているのかという疑問が生まれることはなかった。俺は、毎日夢中で吸収した。
知識だけでなく、体を動かす事も色々と経験した。意外にも運動は勉強と同じ様なプロセスが有効だった。例えば基礎の、このラケットにこの角度、この体勢でボールを当てれば安定して打ち返せる。を意識して習得する。そこから手首を少しひねると回転が変わる。当てる位置を変えればフェイントになる。きちんと反復運動とトレーニングを重ねて土台を作った体に考える事を肉付けしていけば、皆が驚くほどのスピードで応用を習得できた。これと言って人生かけて打ち込むものは見付けられなかったけれど、何でもそれなりの結果を出せた。何をやっても、ちゃんと上達していく過程は楽しかった。今は下手でも、この先必ず上達する。自分のものになれば自由になる楽しさもある。そう分かっていたから、何を始めるにも億劫になる事はなかった。
そうか。あの勉強は土台だったんだな。
と、その時に俺は気付いた。基礎をきちんと作っておけば、その上に載せる事が簡単で安定することを実感する。何かを始める時と同じで、最初は大変だけれども、慣れればどんどん楽しく楽になっていく。
ありがとう。オカン。そう思った俺は、二十七歳になっていた。手当たり次第というと言葉は悪いが、仕事も色々と経験した。やりたいことは何でもやった。金属加工。木工。イベントの立ち上げ。造園業。高級ホテルのスタッフ。その他諸々。勿論デスクワークも営業も、興味を持ったものは全力で打ち込んだ。もっと長く働きたいと思う職場も沢山あったけれど、知識の蓄積に夢中になっていた俺は、ある程度の事を習得すると仕事を変えた。恵まれているなぁとはつくづく思うのだけれど、辞める時には引き止められ、仕事をしたいと飛び込むと受け入れてもらえる。こんなにとっかえひっかえの職歴なのに、世の中は寛大だ。
昔の職場からは、いまだに何かのピンチの時は連絡をもらうこともある。世話になったし、勿論できることは手伝う。知り合いに適役がいれば紹介することもある。自分が働いていた職場だ。雰囲気も人柄も理解しているつもり。きっとこの人達は上手くやるだろうと引き合わせた会社は、長く付き合いを続けているらしい。
さて。俺もそろそろ腰を据えても良いのではないか。と思ったタイミングだった。色々な知識を広く浅くではあるが手に入れた。そろそろどれかを深く追求しても楽しいのではないだろうか。自分で仕事を立ち上げる? それとも、一番興味のある仕事に応募する? 戻ってきてもいいと言ってくれている会社も良いな。
無我夢中なのも楽しかった。でも、これからは少しのんびりも経験してみよう。じっくり腰を据えて知識を深堀りしていこう。
そんな事を思っていた矢先だったよね。
「どこよ。ここ…」
くしゃみと嗚咽の響く中。俺は遠い目をして呟いた。目の前に広がる広大な大地。見た事もない服を着た人々。これは、あれじゃないか? と、俺は引きつりながらも記憶を探る。
あの日。オカンが俺に見せてくれた一冊の本。人生の指南書でも子供の育て方でもミステリーでも偉人の記録でも何でもない。
それは「異世界転生」のライトノベルだった。
あの日、オカンはそれを手にこう言った。
「ある日、お前はいきなり異世界に飛ばされるかもしれない」
「…は?」
「そこには大抵困った人がいる。もしくは、勝手に英雄だと崇められて縋られるかもしれない。最悪の場合は、いきなりとっつかまって処刑されそうになることもある」
「ちょっと?」
何を言っているのだ。オカン。どうしちゃったのだ。そう思ったあの幼い日を、今でもはっきり思い出す。
「スマホなんて当然使えない。あるのは自分の中にあるものだけだ。せめて小学生の知識だけでもしっかり備わっていれば、運命は大分変わるぞ。少年」
そう言ってその本を俺に渡し、オカンは「醤油を買ってくるー」と言い置いて出て行ってしまった。
「…」
そのまま、俺はその本を読んだ。事故で死んでしまった農家の家の男の子が、転生先の世界で食糧難を解決する話だった。痩せた土地で芋を作り始め、農業の知識を活かしてどんどん世界を再生していく。悔しいけどちょっと格好良くて爽快だった。
それに感化された…という意識は無いけれど、少なくとも無意味、または損ではないようだ。という意識で学校を再開した。そういう意識で受ける授業は楽しかった。
さて。
置かれている状況を整理しよう。俺は今、いきなり見知らぬ場所に立っている。何でだ。何が起きた?
こうなる前の記憶もちゃんとある。俺は、就寝した筈だった。お? って言うことは、これは夢か?
「…うーん」
夢。…なら良いけど。
それならいつか覚めるだろう。問題は覚めなかった時だ。これが、今の俺にとって現実だったら?
そう。つまり、異世界転移していたとしたら。
だとしたら、俺はここで生活をしていかなければならない。物を食べ、眠り、必要なら働かなければならない。住む場所も探さないと。そうだとしたら夢から覚めるのを待ってぼんやりするのも無意味だ。
こんな事、本当は考えるのも馬鹿馬鹿しい。すんなりと納得なんかしたくない。でも、嫌な予感がするんだ。だってオカンはどうしてあの時、あんな本を俺に見せたんだ? 今更だけど、子どもの不登校を説得する親の行動としては、少し不自然に感じる。まるで、こうなる事を知っていた。…もしくは、そういう経験があるみたいじゃないか。ん?
あれ? オカン。もしかして転移経験者?
仮にそうだとしたら、現世に戻っているオカンは希望にもなる。俺もいつか戻れる…筈だ。だって、死んではいないのだから。
それは無事に戻ったら、いの一番に確認しよう。
とりあえず。
「あのブタクサ、片っ端から処分しないとな」
のたうち回る花粉症の皆さんを救うところから、俺の転移はスタートだ。俺も花粉症発症しないように気を付けなきゃな。