手を伸ばす。空は青く、遠く。月が昇る。
「遥希、こんなところで寝てたら風邪ひくよ。急に冷えてきたんだから」
河川敷のベンチの上で仰向けに寝転がっていた遥希に、玲奈は話しかけた。
数日前に近くを台風が通り過ぎた影響で、風が北から冷たい空気を運んでくる。季節の変わり目は気がつけば急に訪れ、秋はすぐそばまですり寄ってきていた。
「大丈夫、大丈夫。ちゃんと朝の天気予報見て、いろいろ持って来てんだよ。ほら見てみろよ」
遥希は体を起こすと、カバンの中から赤色のブランケットを取り出した。
体を覆うには十分な大きさのそれを見る限り、彼はこの河川敷で睡眠をとることもはじめから計画のうちに入れていたのかもしれない。
「本当に遥希は昔から変わらないわね。初めて会った時から、ずっとマイペースで……。ゆっくりしすぎで、心配になるくらい」
「それはお前がせっかちなだけだろ。まぁ、俺がマイペースなのはまったくもって否定出来ねぇし、魅力ってことで好意的に捉えといてくれよ」
二人は同い年の幼馴染だ。
親同士の仲が良くなったことがきっかけで出会い、高校生になった今まで至る長い付き合いになった。
幼い頃は、男女の成長の速さの違いもあって、身長が高くおてんばだった玲奈が、どんなところでものんびりとしようとする遥希を引っ張り回し、遊びや自分の行くところへ連れ出すことが多く、二人の両親はそんな彼らを微笑ましく見ていたのだった。
今では、玲奈は活発さは失っていないものの、おしとやかな所作も覚えて女の子らしく成長している。
一方の遥希はというと、身長は玲奈を大きく越えたのだが、マイペースさはあまり変わらず、玲奈から心配されることもしばしばである。
「ほら、早く帰るよ。今日、遥希の家におじさんもおばさんも仕事でいないんでしょ。うちでお母さんが遥希の分もご飯作ってるから食べに来てよ。今日の晩ご飯はシチューだよ」
「もう少しだけ待って、ゆっくりさせてくれよ。ほら、ブランケットもでかいの持ってきたし、隣空いてるぜ。座れよ」
「仕方ないわね……。少しだけだからね。遅くならないうちに帰るのは忘れないでよ。お母さんが心配しちゃうから」
遥希は、すぐ隣に腰掛けた玲奈の肩にブランケットをかけた。大きなブランケットは、いとも簡単に二人を包み込む。
まだ気温が下がりきってはいないとはいえ、川のすぐそばで、日も傾き始めている。
何の防寒対策をしていないままだったなら、肌寒さを感じていただろうが、ブランケットが一枚あるだけで暖かく感じられた。
「結構あったかいもんなんだなぁ。持ってきておいてよかった」
「こんな準備までして、何でこんなところで寝ようと思ったの? 寝るなら、家に帰ってから寝ればいいのに。やっぱり遥希の考えることって、私にはわからないわ。これだけ長く一緒に過ごしてきた幼馴染なのにね」
「幼馴染とか、関係ないと思うけどな。俺は俺、玲奈は玲奈でいいし、人の考えが100パーセントわかるやつなんてどこにもいないだろ。わからない方が普通じゃん。先生の考えとかが読み取れたら、テストの内容全部わかっちまうだろうし」
「それもそうかもね。でも、初めに出す例がテストなんだ。意外かも。あんまり遥希が勉強してるところなんて見たことないけど」
「俺だって、勉強くらいするって。成績も悪くないし、出来るだけいい大学に進学したいしな。文系科目なら、玲奈よりも良い点取ってるのもあるんだぞ。国語とか」
幼馴染でも、お互いのことを全てわかっているわけではない。
好きな食べ物や、苦手な事、幼い頃に描いた将来の夢などはよく知っているが、リアルタイムで脳の中を覗くことなど関係性が深くても容易にできることではない。
実際に他人に考えが筒抜けになってしまったなら、今の人間関係がほとんどのケースで拗れてしまうのは避けられないだろう。
「……それで、俺が何でここに来たかだったっけ?」
「そうそう。ここって、別に面白いものとかもないでしょう。ただの河川敷で、前に川があるくらいだし。人は少なくて落ち着くかもしれないけど」
「えっと、深い理由とかはないんだけど、空が見たくてさ」
「空を?」
「そう、空。そろそろ、空気も澄んできて良い空が見れる季節になってきたと思ったのと、他にもいろいろ見れそうで」
遥希は手を空へ伸ばした。指の間から見える雲は、白く空を彩る。
風に流され、刻一刻と表情を変えていく空を二人は眺めていた。
「……雲、好きなの?」
「……ポツンと空の高いところで自由に飛んでさ、周りを見渡すのってなんか良いと思わないか?」
「私は……ああいう雲は、ちょっと寂しく感じるかな。孤高の浮雲って、聞こえる音の響きはカッコよくても、実際に空に浮かんでるのを見たら、広い空に一人でいるのは私には耐えられないよ」
「でも、綺麗だろ? あの雲」
「それはそうかも。遥希が空を見たいっていうのも、少しはわかる気がする」
真っ青な広いキャンバスに映える白い雲。見る人によって印象の変わるその雲は、まるで一枚の絵画のようであった。
そして、変化するのは雲だけではない。
鮮やかな青色だった空も、太陽が地平線に近づくにつれて赤みを帯び、暗くなっていく。
雲の隙間からは、わずかにだが星も見える。
「もう帰らない? 日も沈みだしたし、お母さん、ご飯作って待ってるんだよ」
「……もう少しで面白いもの見れるから、空見てろよ。本当にあと少しのはずだから」
遥希は、左手首に付けた腕時計を一瞥すると、再び空を見上げた。
それからしばらくの間、二人が言葉を交わすことはなく、川のせせらぎ、風が草木を揺らす音、虫の声だけが聞こえてきた。
そして、遥希が待ちわびた瞬間は唐突に訪れた。
「……あっ! 何か光った!」
空を流れる光の線。一秒ごとにその数は増し、壮大な流星群が夜空を彩る。
「すごく綺麗……。遥希はこれが見れることを知ってたの?」
「今朝のニュースでやってただろ。夕方に流星群が見れるかもって。まさか見てなかったのか?」
「別にいいでしょ、それくらい。私は遥希と違って、朝から忙しいの」
「そう怒るなよ。馬鹿にしてるわけじゃあないんだぞ。まぁ、たまにはニュースも見ておいた方がいいと思うけどな。今日みたいに、珍しいものが見れることもあるし」
遮蔽物のない河川敷は、満天の空を見上げるにはもってこいの場所だ。街中の光やビル群によって、景色が邪魔されることはない。
まさに絶好の天体観測スポットだ。
河川敷には、流星群を眺めにきた人が数人いるようだが、数が少ないおかげで静かな雰囲気は崩されないまま、各々が大自然の天体ショーを楽しんでいる。
「……ねぇ。流れ星に三回お願いしたら、願いが叶うって言うじゃない。せっかくだし、やってみない?」
「本当にそういうの好きだよな。占いとかもそうだけど、絶対に当たるとか、叶うとか鵜呑みにするなよ。心配になる」
「もう、こういうのは雰囲気が大事なんだから、そんなこと言わないでよ。冷めるでしょ。いいから、お願いするよ!」
「はいはい……。それにしても、お願いかぁ。あんまり思いつかないなぁ」
顔を空に向けて、流星に願いを託す二人だが、その様子は遥希と玲奈では異なっていた。
目を開け、遠くを眺めながら願う遥希と、瞼を固く閉じたまま口をわずかに動かしながら願う玲奈。
声には出さず、三度頭の中で願いを唱えると、玲奈はゆっくりと目を開き遥希の方を見た。
「遥希はどんなお願いをしたの?」
「……内緒」
「何で? ……じゃあ、私が言ったら教えてくれる?」
「言わな——」
「えっと、私はね……」
「話聞けよ! お前はいつもそうだな!」
せっかちな玲奈は、遥希が最後まで言葉を発する前に遮って喋りだした。
こういった、遥希の意志を気にしないで動くのは出会った頃から変わらない。
それに、遥希は女の子には優しくするようにという父の教えもあり、玲奈には強く出ることが出来ず、いつだって彼女の思うがままに振り回されていた。
「私は、ずっとこうしていられたらってお願いしたよ。私がいて、遥希がいる。お父さんとお母さん、それに遥希のおじさんとおばさんもいて、今みたいに仲良く過ごせたらいいなって。最近は学校とかもあって行けてないけど、昔みたいにキャンプとかも行けたらいいよね」
中学校、高校と進学するにつれて、二人は別々の行動を多くとるようになっていった。
別々の友達と過ごし、別々の部活動に取り組む。
それはそれで充実した毎日ではあったが、玲奈はどこか寂しさを感じていた。
「ほら、私は言ったからね。次は遥希の番だから。恥ずかしがらずに言ってごらん」
「だから、俺は言わないって言っただろうが」
「私は言ったのに、それってズルくない? 不公平よ」
「それは、お前が俺の話を聞かずに勝手に喋りだしたからだろ。それに願い事とかって、人に話さない方がいいらしいぞ。口に出してしまったら、叶わなくなるとかで」
「えー! そんなのがあるなら、先に言っておいてよ! 私、もう喋っちゃったじゃん」
遥希の言葉で、落胆の表情を浮かべながら、玲奈は手で口を覆う。
「言っちまったのをウダウダ悩むくらいなら、新しい願い事でもしてればいいだろ。まだ流星群も終わらないみたいだし、願い事ができるだけの流れ星が残ってるぞ」
「……じゃあ、もう一回だけ」
玲奈は再び目を閉じ、祈る。その横顔を遥希は見つめていた。
幼馴染の彼から見ても、彼女の容姿は整っていると感じられる。実際に彼女に告白した男子も、数人いるという。
玲奈はその全てを断ってきたようだが、次はどうかはわからない。自分が今のように隣にいられるのは、幼馴染という関係性があってのものなのかもしれない。
そんなことを遥希が考えていると、願い事をし終え目を開けた玲奈と目があった。
「……どうかしたの?」
「い、いや……願い事はもう大丈夫なのかと思って。ちゃんと三回したのか?」
「うん。今度は言わないからね。それに、遥希のお願いも聞かないことにする」
二人は今度は話しながら空を見上げる。
流星の数は願い事を始める前までよりも減り、ピークの終わりが近づいてきていた。
「なんだか寂しいね。さっきまであんなに綺麗だったのに」
「仕方ないだろ。なんでも、いつかは終わるんだ。でも、流星群はまたどこかで見れる。また見に来たらいい」
「その時は、はじめから私にも教えておいてよ。教えてくれたら、私も防寒具とかいろいろ持ってくるから。だから、また一緒に見ようよ」
「……一緒に、か……そうだな、また来よう」
「じゃあ、今日のところは帰ろ。もう暗くなってきたし、ちょっと寒くなってきた」
もう秋になるが、日中はまだまだ暖かい。半袖姿で一日を過ごしていた玲奈には、秋の夜の肌寒さはブランケット一枚では防げるものではなかった。
「そうだな。もう帰ろう」
遥希も寒がる玲奈を横目に、まだ河川敷へ居座ろうとするほど性格は悪くない。
二人を包んでいたブランケットを折りたたみ、カバンにしまう。
「帰ればシチューだよ。……クシュ! あー、くしゃみ出ちゃった」
「寒いのか?」
「大丈夫。すぐ帰れば、暖まれるから。気にしないで」
「ハァ……ちょっと待ってろよ」
遥希はゴソゴソとカバンの中から一枚のカーディガンを取り出し、玲奈に差し出した。
「俺の前でくらい、別に強がる必要なんてないだろ。寒いんだろ。これ貸してやるから、着とけよ」
「……ありがと。なんだかいろいろ出てきて、そのカバン四次元ポケットみたい。じゃあ、借りるね」
遥希のカーディガンに袖を通すが、サイズが合わず袖が余ってしまう。
「遥希、こんなに大きくなってたんだ……。昔は私の方が大きかったのにな」
心の中で、玲奈は呟いた。
今まで身長差など気にしてこなかった彼女であったが、この瞬間、成長した遥希と自分との差を思い知らされた。
身長だけでなく、マイペースで自分のことばかりだった遥希が自分を気遣ってくれることが玲奈にとっては嬉しかった。
「暖かいよ。それに、なんだかホッとする」
「そりゃあ良かった」
何故だか顔を合わせることが恥ずかしく感じられ、うまく話をすることができない。
口数も少なくなり、無言で二人は並んで歩いていた。
「あっ、今日は満月なんだ。見てよ、遥希」
帰り道、正面に見えたのは丸い月。
太陽が沈むと、東の空からひょっこりと顔を出す。
太陽の代わりに夜空を照らす月。
雲がかかることなく昇るその月は、太陽の光を受けて眩く輝いていた。
「玲奈……月が、綺麗だな」