見えない未来に手を伸ばして
「……申し訳ありません、手が滑ってしまって」
地面に落ちたお菓子の箱らしきものを慌てて拾うと、ラルフは「新しいものを持ってきます」と言い、くるりと背を向けそのまま立ち去ってしまった。
今の反応を見る限り、今しがた言った言葉を聞かれたのは間違いないだろう。
とは言え、きっとラルフだって話を合わせているだけだと分かってくれているはずだ。そう、思うのに。
「リゼット様、そのお顔は可愛すぎて反則です……!」
「…………っ」
「そこのお前、今すぐ国一番の画家を呼んで」
「やめて」
じわじわと顔に熱が集まっていくのを感じ、私は両手で両頬を覆った。隣に座るナディアは、メイドに向かって訳の分からないことを言い出している。
周りの令嬢達も「素敵なものを見せていただいたわ」「可愛らしいこと」なんて言って、微笑ましげな視線を向けてくるものだから、余計に恥ずかしくなってしまう。
「……ラルフ、戻ってこないね」
「しばらくは無理でしょうね。ふふ、お兄様のあんなお顔、初めて見ましたもの」
ナディアはくすくすと笑うと「そうだわ」と続けた。
「リゼット様、お兄様の元へ行っていただけませんか?」
「えっ?」
「そうそう、このお菓子、お兄様がとても好きなんです。届けてあげてくださいな」
そうしてテーブルの上にあった可愛らしく包装されたお菓子を、ナディアによって持たされてしまった。今このタイミングで届けに行くなんて、気まずすぎる。
「きっと喜びますから。ね?」
どうかお願いです、なんて言われてしまっては断ることもできなくて。私は皆に挨拶をすると、盛大に送り出されてしまいつつ、ラルフの元へと向かったのだった。
ラルフの部屋の前へと着くと、私は深呼吸をした後ノックをして「リゼットです」と声をかけた。すると一瞬でドアが開き、戸惑ったような様子のラルフと視線が絡む。
「……どう、されたんですか?」
「ええと、ラルフがこのお菓子が好きだから届けてほしいって、ナディアに言われて……」
こうして口に出してみると、改めて無理がある理由で恥ずかしくなる。これくらい、メイドに頼めばいいことだ。
「嬉しいです。わざわざ、ありがとうございます」
けれどラルフは嬉しそうに微笑み、すぐに部屋の中に通してくれた。以前訪れた時には綺麗に整頓されていた部屋の一部が何故か、ぐちゃりと散らかっている。
その上、ラルフの服や髪も少し乱れているように見える。
「ええと、何かあった?」
「……その、数度、転んでしまっただけで」
「えっ?」
庭園からこの部屋までの間に、あのラルフが何度も転ぶなんて信じられない。もしかすると、私のあの発言が原因なのだろうかと思ってしまう。
服や髪のことを指摘すると、ラルフはすぐに上着を脱ぎ髪を慌てて直した。その顔は赤く、なんだか可愛く見える。
彼はやがてソファを勧めてくれた後、冷やしてあったらしい飲み物をグラスに注ぎ、私の前にことりと置いた。
「…………」
「…………」
いざこうして来たものの、何から話せばいいんだろう。そんなことを考えながら、グラスに口をつけた時だった。
「……申し訳ありません」
「えっ?」
「僕があんな反応をしてしまったから、気を遣わせてしまいましたよね。リゼット様は婚約者のふりをしてくださっているだけなのに、本当に申し訳ありません」
「……私は、」
「それでも、嬉しくて仕方なかったんです。一生分の幸せが詰まったような言葉でした」
馬鹿みたいですよね、すみません、と困ったような表情を浮かべる彼にずきりと胸が痛む。気が付けば私の口からは「そんなことない」という言葉が溢れていた。
「私、ラルフの優しいところは本当に、好きだよ」
そう告げると、彼の瞳が揺れた。……ほら、まただ。ラルフはすぐに、泣き出しそうな顔をする。
「本当に、本当に嬉しいです。ありがとうございます。僕はリゼット様にしか、優しくなんてしません」
「……うん」
「リゼット様だけが大切で特別で、僕の全てですから」
そんな言葉に、再び心臓が大きく跳ねた。全てだなんて、大袈裟すぎると思うのに。今私の心の中のほとんどを占めているのは、嬉しいという感情だった。
何も言葉が出てこない私を見て、やっぱりラルフは困ったような表情を浮かべていた。
「お茶会は楽しかったですか?」
「うん。新鮮ですごく楽しかったよ」
「それは良かったです。ナディアに毎日でも開かせます」
「待って」
やはりラルフは極端すぎる。もちろん、気持ちは嬉しいけれど。ふと、彼が今言った「これからも」という言葉が、むねのなかで引っ掛かった。
──もしも、20歳を超えることができたとして。私はこの先の人生をどう過ごしていくんだろう。
普通に恋をして、結婚したい。そんなありふれた願いを抱いていたはずなのに、今はしっくりとこなくなっていた。
「……ラルフは、将来どうしたいとかある?」
何気なくそう尋ねれば、彼はふわりと微笑んで。
「僕はずっと、リゼット様と一緒にいたいです」
迷わずそう言ったラルフに対し、私はもう、以前のように軽くあしらうことなんて出来なくなっていた。
◇◇◇
それから数日後の朝。朝の庭園にラルフの姿はなく、ナディアと二人で散歩をした後に食堂へと向かうと、先に来ていた彼は騎士服のようなものに身を包んでいた。
「おはようございます、リゼット様」
「おはよう。今日はお仕事?」
「はい、少し遠い場所なので泊まりになるかもしれません。この屋敷の中で、好きに過ごしていてください」
「うん、分かった」
その後は仕事に行く彼と学園へ行くナディアを見送り、部屋に戻って読書でもしようと自室のドアを開けた私は、思わず叫び出しそうになった。
「よお」
「……な、なんで」
なんと部屋の中にはメルヴィンという魔導士の姿があったのだ。じりじりと後退る私に、男は苦笑いを浮かべた。
「だから、何もしねえって。ビヴァリーがお前を呼んでる」
「……聖女様が?」
「ああ。ラルフがいない時に話がしたいんだとよ」
先日、また呼ぶと言ってくださっていた件だろうか。それにしてもラルフがいない時に呼ぶだなんて、何故だろう。
聖女様のお名前を出されても男を信用出来ずにいると、面倒くさそうな顔をされ、舌打ちまでされてしまった。
「お前に何かしたら間違いなくラルフに殺されるんだ、本当に何もしねえよ。いいから行くぞ」
彼は私の元までずかずかと歩いてくると、ぐいと腕を掴んだ。それと同時に、目の前が眩しく光る。
数秒後、ゆっくりと目を開ければ、先日と同じ神殿の部屋の一室で聖女様が美しく微笑んでいた。