前編
秘子は名を体現したような女だった。姫のように可憐で秘めるように清廉。そんな彼女に目配せされたときから、おれは一心に彼女を愛していたし、今も彼女だけを愛している、けれど、おれは今拭いようのない妄念に取り憑かれてしまったのだ。恐ろしくて仕方がない。夜も眠れない。だからおまえのことを記し、知らしめることに決めた。おれが決めたのだ。わかってほしい。愛している。
銀座の隅のカフェーで初めて見かけた秘子の姿は、ひどく浮いていた。白い首筋と矢絣の振袖。艶のある黒髪はリボンを使ってマガレイトに結い上げている。紫袴――ちょうど跡見の女学校から流行し始めた頃だったのを覚えている――から覗く足はメリヤス靴下に覆われ、ショートブーツのつま先は上品に揃えられている。背もたれにゆるく身を預けながら外を眺め、時折手元のカップにくちびるを当てる様は、少女雑誌の表紙もかくやというほどだったが、やはり浮いていたのだ。
というのも、彼女は女学生然とした姿をしていながら、同伴の男がいなかった。今でこそ職業婦人は凛と東京を闊歩しているが、大正も半ばのあの頃は、上流の少女が一人で出歩くなど不良娘のすることだった。親か兄かあるいは婚約者か、それくらいの者に連れられていくのでなければおかしい。否。そもそもに学生の集うミルクホールならまだしも、文化人の社交場である銀座のカフェーに女学生がいること自体が異様なのだ。
独りでこんなところまでやってきて、なんと不遜な女だ――誰独りそう口にしなかったのは、秘子が美しく、薄いヴェールを纏っていたからに他ならない。不良少女のような振る舞いがいっそ触れがたい高嶺の花に見紛うような、そんな不可視のヴェールの向こうに、彼女はいつも座っていた。
「ここに女学生は、よく来るのか」
おれはボーイを呼び止めてそう尋ねた。彼女などと直接指すことをためらわれたため、遠回しな物言いをしたが、ボーイはすぐに理解を示す。彼も秘子に目を奪われていたのだから当然かもしれない、知っていて彼に声をかけたのだ。ボーイは薄く微笑む。それから、会釈だけして立ち去っていった。秘めるような周囲の態度がよりいっそう彼女を浮き彫りにした。周囲の空気が切り取られ、額に入っているようだった。
秘子の声を初めて聞いたのは、何度目か彼女を見かけた後、落葉の頃のことだった。単純なことだ、忘れもしない、席が隣だっただけのこと。
「マンデリンをひとつ」
ささやくような、それでいてたおやかに微笑んでいるのがわかるような声だった。
清廉な女学生たる彼女は袴の上で両手を重ねると、ふっと小鳥のようなため息をつき、視線を遠くへ放った。無声映画のようだった彼女を、初めて「ひとだ」と思った。
「きゃあ、ごめんなさい」
不意に可憐な声がする。見れば、隣の少女が床にカップを取り落とし、こぼれた珈琲はおれのズボンのすそに滲みを作っていた。慌てて床に傅こうとする彼女の腕をとっさに引く。いけない。そんなに細い指で床などを触っては。おれはすぐにボーイを呼ぶと割れたカップの代金を払い、代わりの珈琲を頼んだ。秘子の困惑する気配を感じていた。
「あの、あなた様のスーツを汚してしまいました。それにカップも。あたくし、払います」
「きみの金は親のものだろう。無駄にしてはならないよ」
おれは被せるように言い放った。店内の穏やかなざわめきが遠く感ずる。おかしい、誰もが秘子を見ていたはずなのに、誰もおれたちを見ていない。世界の果てにふたりきりになったようだった。
長く幸福な静寂ののちに、秘子は呟いた。
「ありがとうございます、お優しいかた。あたくし、あなたを、忘れません」
声そのものは清らかであるのにひどく甘く感ずる声だった。初めて正面から彼女の顔を見る。完璧な造花の美しさとすら思っていたその顔は、あどけなく、年相応に美しい、普通の少女であった。少なくとも、あの時のおれにはそう見えたのだ。
以来、秘子と話をするようになった。彼女はおれに聞かせた、女学校の先生のこと、先輩のこと、銀座の街のこと。引っ込み思案な彼女はうまく友達がつくれないのだとこうべを垂れていた。ともに遊びに行く友達も伴う保護者、男性もいないのだと。
「皆あたくしの名前を噂するのよ。ヒメコヒメコ、何を考えているのかわからない秘密の子、と。あたくし、秘密なんかないわ。皆と仲良くなりたいだけなの……」
秘子は寂しげにまつげで視線を隠す。切なげに落ちた肩を見ていると、悲哀でたまらない気持ちになった。おれに話すように学友にも話せばいい、そう伝えると、秘子は少し驚いたあと、愛おしげに目を細めるのだ。「あなたは、とくべつですもの」と。
一度だけ、秘子にプレゼントをした。白状する、百貨店をはしごして売り場を三時間も練り歩いて決めた代物だった。下品な柄は秘子に似合わない。高潔で繊細なレースこそ彼女にふさわしい。そう思い、おまえを想い、ハンケチを買った。プレゼントボックスにリボンをかけてもらい、婚約者への贈り物ですか、なんて問いには聞くなと返して、心臓がはちきれそうになるのを感じながらおまえにそれを渡した。子供のようなところのあるおまえだから、珍しくきゃあきゃあ喜ぶのではなどと想像していた。しかしおまえは両手で口元を覆い、瞳を潤ませながら「あたくしに?」とささやいた。
「うれしい。大切にします」
あのときのおれの幸福ときたら――幸福の限りときたら!
人生で最も美しい記憶はいつかと問われれば、おれは間違いなくあの日のことを話すだろう。秘子、おまえは覚えているだろうか。おれには忘れられない。あのときのおまえの、光のような笑みが。