5, 形見のバイクで走り出して異世界
「まだ30分しか走ってないぜ。しかし意外と広いんだな。王都って」
初めてバイクに乗った華芽は疲れてしまった。うしろに乗っているだけなのに意外と神経を使うし、お尻も痛い。「すぐ慣れるって」と蘭子は言うが。
ひと休みさせてくれという華芽のお願いで、今は噴水のある広場にいる。お城が見えるので、だいぶ王都の中心部に近づいたみたいだ。
いたるところで出店が並んでいる。華芽はベンチに座りながら果実の切り身やジュースを売っている出店、甘い匂いを漂わせる乳製品の出店をながめては、いいな、食べたいな、なんて思った。思ったとたん、心からピョンナが飛び出した。華芽はたしなめる。
「食べたいの? でもこの世界のお金持ってない」
するとピョンナは寂しい表情をし、言った華芽も一文無しであることを強く自覚して溜め息をついた。二人は仲良くベンチで切なくなった。
蘭子に目をやると、バイクを楽しそうにながめ、嬉しそうに周囲を見回している。そういえばどうして桜田さんはこの世界にやってきたんだろう。
「私みたいに家出したのかな。もしかして優しいお兄さんに会ったのかな」
聞いてみたいけど聴くに聞けない。同じ学校といえど、今日初めて話したのだ。ああ、ジュース飲みたい。
「いたぞ。鉄の馬の女だ!」
数人の男性が蘭子を取り囲んだ。
「お譲ちゃんがすごい速さで鉄の馬を走らせたもんだから、砂が舞い上がって店の商品が汚れたぞ」
「うちの売り物がダメになっちまった。どうしてくれんだ」
「騎馬隊だって有事のとき以外はゆっくり馬を走らせるもんだ。責任とってくれや」
困惑する蘭子。
「速度制限の標識がなかったから、つい勢いが出ちまって。そうか、道路交通法がなくてもスピード出したら怒られちまうのが世の常なのか」
悪かったと謝る蘭子だが、男性らは許せない様子だった。どうしたらいいのかと華芽はピョンナを見やるが隣にはいない。ピョンナは事もあろうか、店のジュースやスイーツを勝手に食べはじめていた。もちろん無銭飲食である。もちろん店主は大騒ぎだ。
ここに愛梨かアイリがいてくれれば、いや、愛梨かアイリでも無理かと思う華芽であった。
そして、カフェの厨房で罰として皿洗いをする華芽と蘭子。騒ぎを聞きつけた商工会の頭が、二人のことは労働で報わせればいいと人手不足の店に案内してくれたのだ。
開け放たれた扉の向こうを見てみれば、客席ではオシャレなケーキが出されていた。イチゴを使ったスイーツもある。せっかく異世界まで家出したのに皿洗いなんて。バイトもした事がない華芽にとって、初めての労働は骨折りだった。
「大変は事になっちまったな。なんだかワルぃ」
蘭子はコップをゆすぎながら申し訳ない顔をした。
「今日は謝ってばかりだよ桜田さん」
「ッハハ。そうだな。こっちの世界に来て色んなことに慣れてなくてさ。ま、元いた世界にも慣れきれなかったんだけど。あ、アタシのことは蘭子でいいよ」
「……蘭子ちゃん」
「ちゃん付けはやめろって。蘭子にしてくれ」
「うん、蘭子」「おうっ」
洗いものは無くならない。気がつけば近隣の飲食店からも洗い物が届けられていた。誰だ、汚れた服まで置いていったヤツは。
水道なんてものは無いから、食器を洗う桶の水が汚れたら捨てて、かめからキレイな水を足さなければならない。これが異世界か、これが労働なのかと華芽は不貞腐れた気分になる。
「そうだピョンナは」
裏口に目を向けると、通りで子供たちと遊んでいた。もう勝手にしてくれと華芽は呆れた。
「なぁ、この世界は好きか?」
「え?」
蘭子の突然の質問に華芽は声が上ずってしまった。蘭子は続ける。
「好きだなアタシは。まだこの世界のことは全然わからないけどさ。窮屈な学校もないし、意地悪な宿題もないし」
「うん」
「アタシって小学校のとき、結構女子にもてたんだぜ。男子がたいした理由もなく女子を泣かせてると制裁してやったからな。でも中学に入ったら一変しちまって。同じことやってるのに怖いとか言われて。女子なんてみんなスカート履きだして、雰囲気とか女っぽくなっただろ。校則なんてどうしてあるんだ。小学校のときは無くてもみんな無事にやって来たじゃねーか。なんだか、アタシついていけなくてさ」
「スカートのことは、制服だからね」
「この世界には変なルールはないみたいだし。アタシはせいせいしてんだ。バイクも乗りまわせるしな」
華芽は頑固な汚れをゴシゴシ洗いながら蘭子に聞いた。
「バイクが好きなんだね」
「もちろん好きさ。どちらかというと好きな人が好きだったから好きなのかな。あのバイクは思い出のバイクなんだ。いわば形見なんだ」
「形見?」
「アタシさ、家出してここに来たんだよ」
聞きたかったのはそこだ。華芽は思わず手を止め、蘭子の言葉に聞き入った。
蘭子には6歳年上の兄がいた。兄は多少不良っぽいところがあったが、決して弱い者イジメや悪事を働いたことはなく、さっぱりとした性格で仲間や近所のオジサンたちには好かれていた。そんな兄のことを蘭子は大好きだった。
小学校に入学して間もない頃、かつて兄を受け持っていた教師が蘭子のクラスの担任になった。教師は兄のことを、勉強ができたわけではないが人が困っているときには必ず助ける少年、人間としては100点満点なヤツだったと聞かせてくれた。蘭子はとても嬉しくなり、兄みたいになりたいと思った。
兄は高校生のときにバイクを買った。蘭子をバイクに乗せて色んなところに連れて行った。時にはバイク仲間とツーリングに出かけ、そこでは兄は中心的な人物だった。
2年前のある日の出来事だ。兄は電車に乗って友人に会いに行った。帰りは友人のバイクのうしろに乗せてもらったそうなのだが、その際に交通事故に巻き込まれて死んでしまった。対向車が逆走してきたのだ。
蘭子はとても悲しんだ。両親も悲嘆にくれた。母親は思い出して辛いからと兄の部屋の物を片づけてしまった。蘭子が学校に行っている隙をついてのことだった。蘭子はバイクだけは捨てないでくれと懇願した。両親もバイクは簡単に処分できないことから、聞きいれることにした。
だが別の問題があった。両親が、兄が死んでしまったのは斜に構えた生活態度が原因であるというおかしな解釈を持ったことだ。もしも優等生ならばバイクに乗せてもらう仲間もできず、死ぬこともなかっただろうという歪んだ考えである。
それゆえ両親は娘である蘭子に品行方正に振る舞うよう強要した。蘭子にはそれが納得いかなかった。兄は悪くない。兄の性格は悪くない。兄の歩んだ人生を否定されたくない。蘭子は以前よりも増して悪いことは悪いと声を上げるようになった。
先日、両親はバイクを廃棄することを蘭子に告げた。何故だと怒る蘭子に対して、両親はバイクの存在が、いつまでも蘭子を苦しめ、兄のように生きねばと呪縛している……これからは蘭子だって女の子らしく生きていいんだよ……と語った。
蘭子は猛然と反対し、両親に抗議した。しかし母親は本心から良かれと思っているようだった。しかも明日になればバイクは業者に引き取られ廃棄されるという。絶望しかなかった。
これまでの自分の振る舞いが、兄との思い出を失うきっかけになってしまうのか。いいや、まだ失っていない。逃げればいい。逃げるところなんていくらでもあるはずだ。きっとバイクが連れて行ってくれる。その夜、蘭子は家出した。
夜中に大きなリュックを背負った女子中学生が、大型バイクを押して歩いていたら当然目立つ。通報されるのがイヤだった蘭子は人気のない山のほうへ向かった。
坂道をバイクを押して登るのは一苦労だったが、大切なモノを処分されるよりマシだった。坂の途中まで登ると平坦で小さな駐車場があった。ここで一休みしようと中へ入ると、反対側に小道があり、坂の下まで続いていた。
そこで蘭子はバイクに乗って坂道を下りたらどんなに楽しいだろうと思いたった。もうバイクのエンジンはかからないが、重力に任せて坂を下りればスピードが出る。それに、バイクに乗せてもらったときの感覚をもう一度味わえば、きっと弱った心も元気になるだろう。
小道なら車は来ないし、坂はもう一度上がればいい。時間ならいくらでもあるのだから。
蘭子はバイクに乗って坂を駆け下りた。ぐんぐん速度が上がっていく。そうか、これが、兄が見ていた景色か。しかしハンドル捌きが上手くいかず、ブレーキも十分働かず、蘭子は茂みに突っ込んだ
「それで、どうなったの」
「安心しな。痛かったけど、死ななかった」
「それは、そうだけど」
「で、その時に変なヤツに会ったんだ」
引っくり返った蘭子はなんとかバイクを引き起こした。身体中が痛むし、疲れたし腹も減ったが、不思議の笑いがこみあげてきた。なんだか楽しい。きっと自分はバイクの魅力の数パーセントも知らないだろうが、それでも楽しい。久しぶりにすごく楽しい。せっかく家出したんだ。楽しんでやろう。そう思った矢先、声をかけられた。
「やあ、実に楽しそうだね」
こんな夜更けに女の子が一人でいるなんて危ない。朝までうちで休んでいかないかい。自称優しいお兄さんと名乗る男の出現に、当然蘭子は警戒した。しかし男がバイクの車種をピタリと当て、長い間メンテナンスを受けていないことを可哀相だと言ってくれたことで、蘭子は男が少しだけいいヤツかもしれないと思った。
男は蘭子にバイクの新しい傷がなんなのか聞いてきた。先ほどの転倒が原因だとすぐに分かった蘭子は、勝手にハイテンションになっていた自分を責め、バイクに、兄に申し訳が無くなってしまった。
自分で大切なモノを傷つけてしまった。そんな蘭子に男は言った。バイクは相棒、人と一緒に傷ついて前に進むものだと。