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10、その日拾った猫と家出した少女

 直江菜和美は医者の娘だ。菜和美は幼いころから将来は医者になるよう英才教育を受けてきた。厳格な両親は大病院に勤めている。小学生になる頃には母親も職場復帰し、菜和美は両親不在になりがちな家庭で、とにかく勉強に励んできた。


 誕生日やクリスマスのプレゼントが本や百科事典になったのはいつの頃からだったろうか。漫画やゲームは与えられず、テレビアニメやドラマは禁止され、両親は多忙ゆえに遊園地やショッピングにも連れて行ってもらえない。菜和美はだんだんと周囲の子から浮いた存在になってしまった。


 学校以外の時間は勉強に費やしていたため成績は優秀。このことが同級生との距離に拍車をかけた。


 最高の医者になるためには、たったひとつの大学に進学するしかない。その大学に行くためには、数少ない進学校に入学するしかない。そのためには有名な中学校に行くしかない。


 ところが中学受験当日、菜和美は風邪をひいてしまった。中学校は地元の公立校に行くことになった。父は言う。菜和美が風邪を引いたのは母親の管理不行き届きだと。母は言う。子の健康管理は母親だけの責任ではないと。両親の仲は悪くなっていった。


 高校受験は失敗できない。両親を仲直りさせるには次こそ成功しなければいけない。さらに三年間を公立校で過ごすことはライバルたちに差をつけられるということだ。菜和美は自分を責め、自分を律し、さらに勉学に励んだ。


 中学入学から数ヶ月で菜和美は孤高の存在となっていた。しかし菜和美自身はこの状況を仕方ないと考えた。将来は医者になるのだから当然だ。風邪をひくという失敗をした自分が悪い。両親だって私のことを考えてこそ、人生に意味のない娯楽を排除した環境を提供してくれた。


 しかし頭では納得していても、原因がわからないイラつきが時おり襲ってきた。その頻度とイラつきの濃さは日に日に増しているように思える。とくに友人と楽しそうにしている同級生の姿を見たあとは、何度もイラついた。なんだかわからないがイラつく。しかし自分の心に耳を傾けている暇はない。


 ある夜のこと。進学塾の帰り道だった。道端に子猫が捨てられていた。ちっちゃな黒い猫だった。だが様子が変だ。可愛く鳴いて人に慈悲を乞うわけでなく、ゼェゼェと辛そうに息をしている。今にも死にそうだった。きっと何かしらの病気にかかっている。


 菜和美はかわいそうに思った。なにより命を救うという医者を志していることから、子猫を助けたい、そんな一心で家に連れて帰ることにした。家で看病し、動物病院に連れて行って、元気なにったらうちの子にしてあげよう。


 その夜は珍しく両親がいた。菜和美は猫を助けてあげたい、いずれは飼い猫にしたいと頼みこんだ。しかし両親は今すぐ捨ててこいと言った。猫を飼えない理由はただひとつ。菜和美の邪魔になるからだ。


 菜和美は珍しく親の意見に反対した。カバンを肩から下ろすのも忘れて懇願した。長い時間、親と言葉を交わしたことじたい、何年ぶりかもしれない。それでもやはり親の意見は変わらなかった。


 両親には逆らえないと感じた菜和美は、思考が止まったまま、猫を捨てに外に出ることになった。気がつけば家に帰ってきた格好のまま、カバンを肩にかけたまま、猫をずっと抱いたままであったことに気付いた。


「私、ずっと言うことを聞いてきたのに。ワガママのひとつくらい聞いてくれてもいいじゃない」


 腕の中の子猫は苦しそうだ。こんな状態の生命をどうやって捨てろというのだ。捨ててこいなんて医者の言うことなのか。捨てるなんて医者を志す者がしていいことなのか。だいたい子猫が菜和美の邪魔になるとはどういうことだ。


「勉強の邪魔ならともかく、私はこの子を邪魔なんて思わない」


 もしや、猫は利益にならないからか。人間の患者と違い、利益にならないから助けないのか。怒りが込み上げてきた。猫は捨てたくない。でも動物病院に連れていくお金もない。


 菜和美はさまよい歩いた。夜は深まり、通行人の質が変容していく。猫の容態は目に見えて悪くなりはじめた。


 気がつけば繁華街、時刻は23時をまわっている。スマホを見れば自宅からの着信が何件もあった。それでも電話には出たくない。


「これじゃあ家出よね。くだらない」


 腕の中で苦しむ子猫に、つぶやいた、そんなときだった。


「キミ、大丈夫かい? とっても苦しそうだ」


 若い男だった。最近のイケメン事情なんて把握していないがカッコいい人だと菜和美は思った。しかしこれはきっとナンパだ。菜和美は無視して歩き続けた。


 男は無視する菜和美を追いかけながら、この辺りは危ないだの、補導される前に僕の店でひと休みしろだの話しかけてきた。


「その猫、病気だよね。僕の友人に獣医がいるんだ。そいつを呼ぶから、僕の店に来て」


 そんな都合のいい話があるか。第一、自分を優しいお兄さんと自称する男が気に喰わなかった。


 菜和美は走った。振り返ると男は驚いた顔でその場に立ちすくんでいた。菜和美はそのまま何百メートルも走った。走りきって腕の中に目を向けると、子猫は大人しくなっていた。菜和美は愕然とする。猫は息を……している。しているが、このままでは本当に死んでしまうかもしれない。


 どうすればいいのかわからない。誰に頼ればいいのかわからない。親はダメだ。学校や塾の先生は? それほど親しいわけじゃない。学校の友達は? もっとダメだ。親しい人間なんていない。


絶望の中で菜和美は再び街をさまよい歩いた。結局自分は何もできない。何も持っていない。ただの子供。それでは他の同級生と同じではないか。そう考えると、自分はこれまで同級生を軽蔑していたのだと気付いた。


「なんだ。私ってイヤな子じゃないの」


 通りを横切ろうとしたとき、車にぶつかりそうになる。ドライバーは菜和美を罵倒した。だが菜和美の足元には横断歩道がある。自分は悪くない。イラついた菜和美は車のミラーを蹴りとばした。ミラーは意外と簡単に壊れた。


 ドライバーは怒り、車外へと出てきた。助手席や後部座席からも同乗者が出てきた。さっきまではわからなかったが、いかにもヤクザだ。


「はやくこっちへ」


 菜和美はカバンを引っ張られた。自称優しいお兄さんだった。走るお兄さんに引っ張られ、菜和美は駆けた。ヤクザが追いかけてくる。通りの角を何度も曲がり、ヤクザの姿が一瞬見えなくなる。その隙をついて、ビルとビルのあいだにある路地に二人は逃げ込んだ。


「まったく、意外とやることは大胆だなぁ」

「じゃあ私は黙って勉強だけしていればよかったって言うんですか」

「そうは言ってないよ」


 お兄さんはポケットから鍵を出すと、路地に面した建物のドアを開けた。


「外にいたら見つかるかもしれない。入って」


 菜和美は渋々建物へと入った。中は使われていない事務所といった感じだ。


「女の子を連れてくるような場所ではないけど。緊急時だからね」


 お兄さんは窓から外の様子をうかがっていた。


 ソファに座った菜和美は腕の中の子猫を見やる。動かない。いくら弱っていても、多少揺らせば反応があるのに。最悪の事態が頭をよぎる。


 悲しくなってきた。菜和美の心が重くなる。いいようのない焦りと不安で押しつぶされる。真っ黒で冷たいナニカが胸の底から湧いてきて、叫ぶようにため息をつきたいが、なんて叫んでいいのかわからない。そんな苦しさを溜めこんでいたら、もしかするとずっと溜めこんでいたから、だから目が熱くなる。熱さに耐えきれず、涙が出てきた。


「キミ?」


 お兄さんがこちらにやってくるのが、俯いたままの菜和美にも分かった。


「もしかして、その猫はもう……」

「どうして!」


 声は、菜和美自身も驚くほど、か細く震えきっていた。


「どうして上手くいかないの。私はいろんなものを我慢して、これまでやってきたのに。何がいけないっていうの。私のどこが悪いの。わかんない。どうすればいいのよ」

「キミには考える時間が必要だ。だけどこの部屋じゃダメだ。この部屋の扉はいま都合の悪いところへと繋がっているからね。なにぶん、緊急だったからこの部屋に逃げ込んだだけだけなんだ」


 お兄さんはこれまでの余裕ぶっていた声色から一転、真剣に語りかけてくる。しかし、意味がわからない。


「この部屋の裏口は向こうの世界と繋がっている。でも今はとても都合が悪い。ほかの部屋の扉ならなんてことはないけど……とにかく裏口の扉は決して開けてはいけないよ。僕は外に出てヤクザをまいてみる。数分経ったらキミはさっき入ってきた扉から出るんだ。そしたら猫を助ける手段を考えよう」


 お兄さんは扉のほうへ向かう。


「キミ、名前は?」

「直江、菜和美」

「菜和美、夢をあきらめてはいけないよ」


 菜和美が顔を上げるとお兄さんの姿はなく、扉が閉まるところだった。外から「見つけたぞ」「ええっ? 見つかるの早いって」ヤクザとお兄さんの声が聞こえてくる。


 お兄さんは逃げきれるだろうか。子猫はぐったりと動かない。菜和美の心は沈んだままだ。それでも、早くここから離れて子猫を助けなければ。


 お兄さんは数分待てと言っていた。そんな時間はない。正面の扉から出ていけばヤクザに見つかるかもしれない。ならば、裏口から出ていくほうがいい。お兄さんは裏口を使うなと注意してくれたが、そんなことを気にしている余裕はなかった。


 菜和美は裏口を開け、外に出た。……出たはずだった。


 そこは外でなく、建物の中。ガラの悪い男たちが巣食う隠れ家だった。


 呆然とする菜和美に「どこから入ってきやがった」「ガキの侵入者かよ、見張りは何してたんだ」「やっちまえ!」と男たちが言葉を浴びせる。


 裏口の向こうは外だったはずだ。裏口の扉からは外の様子は窺えなかったものの、たしかに繁華街の喧騒が聞こえた。だから扉を開けた。なのに、ここはどこだろう。時代錯誤な男たちの格好な何なのだろう。


 菜和美は急いで扉を開けて、元いた部屋に戻ろうとする。しかしその扉は建て付けの悪い木製の扉で、思いきり開けると打ち付けてあったオブジェが落ちて壊れた。扉の向こうは先ほどまでいた部屋ではなく、そこもガラの悪い男たちがいる汚ない部屋だった。


「逃げようたってそうはいかねえぞ。黒の獅子団のアジトと知ったからには生かして帰さねえ」


 凶器を持った男たちが菜和美に飛びかかろうとした。あまりの急展開に菜和美は微動だにできない。気がつけば腕の中の子猫も消えている。


「野郎ども、待ちな」


 奥から様子を見ていた一人の女性が男たちを止めた。


 女性の名前はレイアンナ。ここの男たちを束ねる黒の獅子団の頭目だという。レイアンナは菜和美から、ここへやってきた経緯を聴くと笑いだした。


「まさか、あのオブジェが本物だとはね。強盗に押し入った家からかっぱらって、適当に飾っといたら本当に異訪人が来るなんて。こりゃアタイたちにも追い風が吹いてきたってもんだ」


 レイアンナは男たちに言った。


「この娘はアタイの客人だ。手を出すんじゃないよ」


 そしてレイアンナが幼い頃に聞かされたという異訪人の話を教えてもらった。特に驚いたのは守護獣だ。こちらの世界にやってきたとき、子猫の姿は無かった。守護獣は大事にしている二つの物がひとつになって生まれる。


 大事な、物。


 物というからには、子猫は既に生命ではなくなっていたのだ。お兄さんの部屋にいたときには、既に手遅れだったのだ。


 もし、私が拾わなければ、救おうと思わなければ、連れ回さなければ、ほかの人に助けられていれば、生き続けていたかもしれない。


 何が「医者を志す」だ。何もできず、それでいて友人もいない。それでは最低の人間ではないか。


 大事なものの、もうひとつは……。


 この世界に来てからスマホを見て気付いたことだが、ファイルがひとつ失われていた。父親がスマホに入れてくれた医療に関するファイルだ。応急処置の仕方や簡単な薬の作り方のほかにも、医大生や医者が読むような専門書の電子書籍も収まっていた。


 常識的に中学生にはまだ早いが、父親から時間があったら目を通しておくよう言われていた。


 死んだ猫と医療情報が融合した守護獣がシュバルトだ。ワイシャツの上の白衣は、菜和美の医者に対するイメージだろう。


「私は小さな命すら救えなかった。医者になれるはずないじゃない。ファイルなんていらない。なくなって良かったわ」


 初めてシュバルトを召喚したとき、その目が自分を責めているような気がした。


「そんな目で見ないでよ。どうしようもなかったのに」


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