1. 家出したら異世界
花岡華芽は家出した。14歳の誕生日に家出してやった。家出したら、こうなった。
「キミ、うちに来ない?」
誰もいないはずの深夜の公園。天気予報にはなかった突然の土砂降りに、華芽は雨をしのぐため大きな木の下で、ウサギのヌイグルミを抱いてうずくまっていると、派手な帽子を被った自称・優しいお兄さんが「家出したんでしょう?」と声をかけてきた。
怪しい男だ、と華芽は思った。だから言いかえしてやった。
「こんな時間にナンパなんて、暇なんですね」
しかし優しいお兄さんは優しい笑みを湛えて、こう返した。
「暇なおかげでキミを迎えに来れたんだ。暇に感謝しなくちゃね。中学生が夜中に出歩くなんて危ない。さぁ、僕の家に行こう」
なんだコイツは。早くこの男を追い返えさねばと華芽は脳内の単語を紡ぎだした。男が呆れて諦めて帰ってしまうような言葉を連発しなければ。今の華芽にはナンパ師と戯れる心の余裕なんてないのだから。
「あの……これはですね、家出娘のコスプレなんです」
「へぇ。ところでコスプレって何の略だか知ってるかな」
「う……それは、その……あ、私、こう見えてもOLなんですけど!」
「ずいぶん可愛らしいお姉さんだ。お兄さんと大人の恋愛でもしてみるかい?」
「ふわわわ……そ、そろそろ親が迎えに来るので! ほっといてもらえますか!」
「その親とやらは、キミの味方なの?」
ハッとする。父親が頼りにならないから、新しい母親が意地悪ばかりしてくるから家出してやったんだ。
華芽の本当の母親は彼女が五歳の頃に亡くなった。でも寂しくなんかはなかった。お隣の藍郷家が華芽と父親を気遣かってくれたからだ。週のほとんどは夕食を共にし、旅行にも誘ってくれた。中でも藍郷家の娘である愛梨は華芽と同い年で、まるで姉妹のように接してくれた。
ところが華芽が10歳の時に、第二の悲劇が襲ってきた。愛梨が病気で亡くなってしまったのだ。それを機に愛梨の母親は心を病み、花岡家との交流もなくなり、華芽が小学校を卒業する時期には、藍郷家は引っ越してしまった。
華芽の心にはポカンと穴があいてしまった。中学生になっても愛梨のことが頭から離れず、新しいクラスメートとのおしゃべりも上の空だった。そんなときだ。父親が新しい母親と、その息子を連れてきたのは。
継母は父の見えないところで華芽に嫌がらせをした。その息子である義弟は華芽の物を勝手に使ったり、壊したりした。継母の言っても改善してもらえず、父親に助けを求めても、許してあげなさいとか、家族が急に増えてお互い不安定な時期だから、とか言って真面目に取り合ってくれなかった。
一番腹が立ったのが、本当の母親や愛梨との思い出がつまったアルバムを捨てられたことだ。ある日、学校から帰ると押し入れの中のアルバムがなくなっていた。継母に聴くと、薄ら笑いを浮かべながら「わからなーい」と答えた。捨ててない、ではなく「わからなーい」
華芽は急いでゴミの集積場に向かうも、回収されたあとだった。呆然としている華芽に近所のオバサンが、継母がアルバムを捨てているところを見たと教えてくれた。
父親が会社から帰ってくると、華芽はこのことを涙ながらに訴えた。父から問い詰められた継母は、「家のどこかにしまってある」と言い逃れをし、父はそれを信じてしまった。華芽はそれが嘘だと確信している。家の中はくまなく探したのだ。どこにもなかったのだ。父の昔のスマホや携帯電話に写真が残っていそうなものだが、それらもいつの間にか捨てられてしまっていた。
華芽は、次に嫌がらせをされたら家出してしまおうと決意した。それが誕生日である今日だった。義弟が冷蔵庫の中の誕生日ケーキを半分も食べてしまったのだ。残された無残なショートケーキにはイチゴがひとつもなかった。父親は仕事でいない。継母に怒りをぶちまけるも、継母は義弟を叱らなかった。華芽はリュックに大事なモノを入れて黙って家を飛び出した。
まさか家出のきっかけがケーキになるなんて華芽自身も想像していなかった。でもあくまで、きっかけ、だ。家出する理由はたくさんあった。いろんなことが積もり積もって今日を迎えただけだ。
家を飛び出してから6時間以上経っている。昨日までなら継母の作った夕食を食べ(食べないと父が怒るので)、お風呂に入り、宿題を途中であきらめ、ベッドに潜り込んでいる時間だ。お腹が空いたし、疲れたし、何より心が消耗している。
だからかもしれない。華芽が優しいお兄さんについていってしまったのは。
連れてこられたのは繁華街からほど近い新しめのマンションの一室だった。お兄さんは雨に濡れた衣服を拭くようにとタオルを二枚渡してくれた。一枚は華芽の分。もう一枚はウサギのヌイグルミの分だ。公園から連れ出されたときも、お兄さんは華芽が雨に濡れないよう自分の上着を着せてくれて、ウサギのヌイグルミには自分の帽子をかぶせてくれた。
傘はお兄さんが持っている物しかなく、相合傘でマンションまで歩いてきたのだが、華芽とヌイグルミはほとんど濡れず、お兄さんはほとんど傘から出た状態だったので、彼のほうがずぶ濡れになっていた。自称・優しいお兄さんは本当に優しいのかもしれないと華芽は思った。
部屋の中は広く、片付いていて室温はちょうど良い。まるでショールームのように家電がそろい、観葉植物やインテリア、本棚には洋書や実用書が並べられていた。素敵な部屋だと思う。ただ、チェストの上には見慣れない装飾品が置かれていた。皿のような円形だけど、ゴツゴツしていて実用的ではない。どこかの国の土産品か、大昔の土器のようにも見える。その装飾品の存在だけが部屋の雰囲気から浮いているような気がした。
華芽は促されるままにソファに座ると、お兄さんは「なにか甘い物を買ってこようね。もしケーキだったら何がいいだろう」と言ったので、華芽は思わず「ショートケーキ!」と言いそうになったものの、なんとか堪えて微笑むだけにしておいた。
するとお兄さんも微笑んで
「そうそう、奥の扉には大事な宝物があるんだ。もし部屋に入るときは大事なモノを必ず持っていかなければならないんだよ」
と、意味深な言葉を残して出かけていった。
部屋に一人残された華芽はウサギのヌイグルミを膝に置いてジッと見つめた。ヌイグルミの名前はピョンナ。小学生の頃、愛梨が華芽の誕生日にくれた手作りのヌイグルミだ。プレゼントしてくれた直後は一緒に寝たり、愛梨と部屋で遊ぶときはいつも傍らにいた。
義弟が華芽のマンガやゲームを勝手に持ち出しては壊すという愚行を始めてからは、華芽はピョンナを段ボールに入れてベッドの下に避難させた。
華芽と愛梨はとても仲が良かった。愛梨が亡くなってからというもの、楽しいことがあるたびに、愛梨がいたらもっと楽しいんだけどな。とか辛いことがあるたびに、愛梨がいればすぐに立ち直れるのにな。なんて思った。
愛梨の死後は、ほかの友達と愛梨のことを、心のどこかで比べてしまい、うまく友達と遊べなかった。中学生になってからも同じだった。そのまま中学2年生になってしまい、14歳になってしまった。そして家出した。
家出するとき、華芽の怒りは頂点を突き抜け、同時に悲しくて辛くなって、気分はドン底に沈みこんでいた。誰かに助けてほしくて、違う、愛梨に助けてほしくて、彼女との思い出が詰まったピョンナを当然のようにカバンにつめこんだ。
「何やってんだろうなー、わたし」
ピョンナを隣に座らせ、今日一日のことを振りかえる。朝は学校に行って、授業を受けて、級友と笑いあっていたはずだけど話の内容は憶えていない……ホームルームでは不良の同級生が家に戻らないだとか、隣のクラスの優等生がまた学年トップだから見習えと教師が言っていて、だったら他の生徒にどうしろというのだと心の中で愚痴り、帰宅したらバカな親子が平気で私を傷つけてきた。まったく中身のない一日だった。
お腹が空いてカバンを覗いてみたものの、カバンはピョンナを入れたら、いっぱいになってしまい、食べ物なんて入れる余裕はなかったことを思い出した。するとお兄さんは一体何を買ってきてくれるのだろうと華芽は考え、それから……血の気が引いた。
お兄さんは華芽に食べ物を与えて、見返りに何を求めるのだろう。おかしな店で年齢を偽らせて働かせたり、いかがわしい映像作品に出演させるのでは。だいたい、どうして深夜に出会った知らない人についてきてしまったのか。
冷静になればなるほど、自分の行いがバカに思える。お兄さんがいないうちに帰ってしまおうか。でも、どこに帰れというのか。もう、帰る家なんてないのに……。
華芽は頭をめぐらせる。そうだ、お兄さんの弱みを握ってしまおう。弱みを人質にして一晩だけ世話になり、朝になったら家出を再開しよう。幸いにしてここはお兄さんの自宅だ。弱みなんていくらでも転がっているはず。
そういえばお兄さんは出かける前に、おかしなことを言っていた。
「そうそう、奥の扉の向こうには大事な宝物があるんだ。もし部屋に入るときは大事なモノを必ず持っていかなければならないんだよ」と。
お兄さんの宝物とやらを人質に取ってしまえばこちらのものだ。さっそく奥の部屋に行ってみようじゃないか。
あと、大事なモノが必要だと言っていた。貴重品は自己管理ということだろう。大事なものはピョンナ。
さらにもうひとつ、華芽はポケットの中から一枚の写真を取り出した。子供の頃の愛梨を写したものだ。この写真だけは偶然アルバムに収められず、華芽の部屋にあった昔の絵本に挟まれていて無事だった。生前の愛梨を見ることができる唯一の写真。これも大事なものだ。
華芽は写真とピョンナをカバンにしまいこむと、奥の扉へ向かった。華芽は中学二年生にして家出をした。現在は知らない男の部屋にいる。来るところまで来てしまった感じだ。もう怖いものなんて、ない。
扉を開けるとそこには、長い廊下が続いていた。扉から先は近代的な内装ではなく、どこか古めかしい。だからと言って老舗旅館のような情緒あるものではなく、どこか外国的な。
困惑しながら踏み出していくと、廊下の角から女の子の声がした。
「レッツくん? イセラナさん? 帰って来たんですか?」
角から現れたのは愛梨、いや、愛梨そっくりの少女だった。少女は華芽を目にしたとたん、震えた声を発した。
「ハンナメイア? ハンナメイアなの?」
一方、華芽も驚きを隠せず思わず叫ぶ。
「愛梨!?」
愛梨そっくりの少女は華芽に駆け寄ると躊躇なく抱きついた。華芽はパニックになりながらも考える。愛梨は死んだはず。するとこの子は何者なんだろう。
二人の声を聞きつけてか、妙齢の女性が駆けつけてきて華芽を見て「誰?」とつぶやいた。華芽も混乱しながらつぶやいた。
「ただの家出娘です」
どこか懐かしい少女に抱きしめられた華芽のうしろで、先ほど開いた扉が閉まり、扉に飾られたどこかで見たオブジェが落ちて割れた。