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Last Blue

作者: DOI

昔、どこかの誰かが考えた『水平生活』という言葉はまさに、今の私の為にある言葉だと思う。何も生産することもなく、時は緩やかに流れ過ぎ去っていく。果てしなく続く時間には限りがあって、今日もまた星はどこかで生まれ、消えていく。

 雨の香りを含む六月の風が木の葉を揺する、さやさやという音が聞こえる。初菜(はつな)は枕元に積まれてある、ハンドサイズのノートにそっと触れた。ノートの上に置かれていた青水晶のペンダントがかちゃりと音を立てた。



     一 


「夏だ! 海だ! 白い砂浜が私たちを呼んでいる!」

 ビーチサンダルの立てるパタパタという音が、熱砂の浜に吸い込まれていく。大げさな身振りで感動を表す小柄な少女、月野初菜は高校一年生の十五歳。

「……俺はクーラーの効いた部屋に、呼ばれてるんだけど……」

 初菜の傍らの少年、本山和樹は十七歳の高校二年生。二人が出会ったのは、七年も前のこと。咲坂市に引っ越して来た初菜に初めて出来た友だちが、隣の家の『お兄ちゃん』こと和樹だった。

「波の飛沫! ぎらぎらと輝く真夏の太陽! あぁ、なんてアバンチュール!」

「……とりあえず、かき氷食べない? 頭、冷えるしさ」

 和樹の呆れた声にも、どこか楽しそうな響きが混じる。風が初菜の短めの髪を揺らし、潮とシャンプーの混じった独特の香りが和樹の鼻をくすぐった。

 咲坂市から電車で一時間。八月の蔡ヶ浜は、沢山の人々で埋め尽くされていた。

「うーみーはひろいーなおおっ……とっととと」

 前のめりになって転びかけた初菜の手を、和樹は素早く引き寄せる。勢いのまま二人は抱き合った。薄いTシャツ越しに初菜には和樹の、和樹には初菜の鼓動が届く。手を握り、身体を密着させたまま固まる二人。抱きしめた初菜の身体から、微かに汗の香りがした。

初菜はゆっくりとまぶたを閉じた。引き寄せられるようにそっと、唇が重なり離れる。一秒ちょっとのフェザーキス。

 唇に残るほのかな感触に、初菜はぼんやりと目を開けた。目の前に和樹の端正な顔があって、視線が交わるのを感じる。

 胸のどきどきが止まらない。頬が上気して赤くなる。握ったままの手が汗ばんでいた。潮風が吹いて、弾かれたように二人は離れた。

 打ち寄せるさざなみの調べを聞きながら、海と平行に二人は歩き出した。浜を彩る桜色の貝殻を捜すように、初菜は俯いたまま、潮の満ち引きを確かめるように、和樹は海を見つめたまま。

初菜はそっと、和樹の横顔を盗み見た。和樹が視線に気付く前に、視線を砂の粒へと戻す。胸の中の何とも言えない温かさが、知らず初菜の頬をだらしなく緩ませた。そんな自分を見せるのがはずかしくて、じっと足元に目をこらす。けれど十歩も歩かないうちに、衝動を抑えきれなくなって和樹の横顔を覗き見てしまう。

何度目かに顔を上げた時、ばっちりと目が合ってしまい、初菜はぎこちなく笑った。和樹の顔もぎこちなかった。初菜のぎこちなさが、伝染ったのかもしれない。口の端が引きつるように震えて、初菜はたまらず瞳を逸らした。

「……月……」

 和樹が初菜をそっと呼んだ。名字の月野からとって、『月』。応えるように初菜は握った手

に力を込めた。口を開くと想いが溢れて、みっともない声になりそうだから。

 和樹は俯く初菜を見つめた。水色のミニTシャツからすらりと伸びる足には、風に混じっていたのだろうか、細かな砂がまぶされていた。嬉しそうに頬を緩ませる初菜の、朱い唇が薄っすらと濡れていた。

長く妹のように思っていた幼なじみの、ちょっとお馬鹿な言葉を吐き出す唇に、和樹は女性を感じていた。

ぎゅっと手を握ったまま、二人は歩いた。会話は無かったけれど、そっぽを向いて、お互いをちらちらと見て。たまに目が合って、ぎこちなく笑い合って。

「着いちった……」

 不意に和樹が呟いて、初菜が顔を上げた。白地の旗に赤で『氷』と大きく書かれた旗が、招くように揺れていた。自然に手が離れ、二人の心がざわめいた。思わず顔を見合わせてしまい、

「何度目だろうね?」と和樹が笑った。初菜にも答えは解らなかった。


 店の近くに置かれていた椅子に座って、二人は海を見ながらかき氷を食べた。和樹がこめかみをくっと抑えたのを見て、初菜は笑った。

「青い空、手元にはブルーハワイ。南国気分だね、(かず)(くん)

「……それは月だけ。俺食ってるのイチゴだし」

「それじゃあ、えっと……庭園気分……?」

「……誰かから聞いたんだけど、かき氷のシロップって味はみんな同じらしいよ。匂いと色だけしか違わないんだって。だから、違う味でもみんな同じ値段だし、シロップをいろいろ混ぜても変な味にはならないんだって」

「もう、駄目だよ和君。そんな夢のないこと言っちゃ。ブルーハワイはブルーハワイ味で、イチゴ味はイチゴ味なの。騙された者勝ちって言うでしょ。神様も超能力もUFOも、あった方が楽しいんだからあるの。シロップの成分を分析したり、科学的な実証をあれこれして、片っ端から夢を壊してもつまんないよ」

「すまん、月。俺が悪かった」

なんだか難しい話になりそうな予感がしたので、和樹はさっさと謝った。もちろん、自分が悪いとは思わないけれど、ここで粘ると後々面倒なことになる。初菜の理論は整然どころか、飛躍が凄く、理解することは難しい。早口が生み出す勢いも相まって、このテの議論で和樹は初菜に勝ったためしが無かった。

しかも議題がまた、『星野屋の牛丼と夏屋のカレーはどちらのコストパフォーマンスが上か』だとか、『柿本鳩麻呂と中臣塊はどちらがハンサムか』とか、非常にくだらないものに終始していた。是が非でも勝ちたいという議論ならともかく、今回のような『かき氷のシロップは、同じ味か否か』等という議論に熱くなるのも……というのが和樹の気持ちだった。

「はっはっはっ、解ればいいのだよ、和君」

 得意げに胸を反らす初菜の子供じみた仕草がおかしくて、和樹はふふっと笑った。

「あっ、何で笑うかなぁ。もっと悔しそうにしな……」

 言いかけた初菜のブルーハワイを一掬い。イチゴ味とはやっぱり、同じような……でもなんだか違うような気がする。

 逆襲を予想して、和樹は初菜が食べやすいようにかき氷を近づけた。初菜はぱっと頬を染めたまま、遠慮がちに小さく一口。

 ……和君の……

「……味がする……」

「ん?」

「やっぱりイチゴの味がするね!」

 あははと笑う初菜は耳まで赤くなっていた。

「そう、だね。ブルーハワイもブルーハワイ味がしたよ」

「トロピカーナ♪ って感じだよね」

「そ、そうだね」

付き合いだしてから二月(ふたつき)。幼なじみと恋人。かき氷のシロップのように二つは良く似ていて、それでもやはり何かが違う。

 かき氷屋の風鈴が涼しげに唄った。


 露出の大きな白いビキニに着替えた初菜に、和樹は思わず立ち尽くした。抱き合った時の身体の感触を思い出してしまい、膨らみかけの初菜の胸に視線が吸い寄せられてしまう。それに気付いた初菜も、はずかしさから来る隠したい気持ちと、女性として見て欲しい気持ちがせめぎ合った結果、曖昧なはにかみ笑いを浮かべていた。

 数秒の後こほんと咳払いをし、和樹は「良く似合ってるね」と誉めた。聞こえないくらいに小さく、「ありがと」と初菜が呟いた。

 波打ち際で水を掛け合ったり、ワカメを拾って相手に投げ合ったり、砂の山を作ったり。一度水に濡れてしまうと、甘くはずかしい雰囲気は綺麗に忘れ、童心に帰って二人は遊んだ。陽光が波に反射してきらりと光る様を楽しみ、押し寄せた波が、微細な砂粒を連れて海へと引いていくのを見守った。


 

あの夏はもう帰ってこない。肌を刺すような鋭い陽射しを、舌を転がるかき氷の冷たさを、初菜は想像することすら出来なかった。

『八月十二日。海に行きました。かき氷食べたり、手を繋いだり、……キス……したりしました。また、行きたいな』

ブルーハワイもイチゴの甘みも、何となく覚えているのに。


     二 


 海からの帰り道、二人は手を繋いで歩いた。

 東の空は夜に塗り替えられ、西の空は残光に彩られ青紫をしていた。

「すっごく楽しかった。誘ってくれて、ありがとう」

 照れることなく、強がることなく。ありのままの気持ちをすっと口に出せたことが初菜は嬉しかった。

「こちらこそ楽しかったよ。付き合ってくれて、ありがとう」

 そう言ってもらえることが嬉しかった。

「こんな日がいつまでも……続くといいね」

 初菜の言葉に和樹は頷いた。同じ時間、空間を分け合って、同じ歓びを分かち合って。年をとった二人が、お茶菓子をつまみながら今日の出来事を懐かしそうに話す様を、初菜は想像した。夫婦としてか、長年の親友としてかは解らないけれど、遠い未来までの道のりを、この少年とずっと一緒に歩んで行きたいと思った。

「そういえば、あの時もこうして手を繋いで歩いたね」

「……あの時……って、いつだっけ?」

 問い返す初菜に、和樹は穏やかに答えた。

「……俺たちが出会った日だよ」



 小学校が終わった後、初菜は毎日のように児童館で遊んでいた。初菜の両親は共働きで夜になるまで帰ってこない。ある日和樹は頼まれて、初菜を迎えに行ったことがあった。残業で帰りが遅くなる、初菜の親の代役ということだった。面倒くさいとゴネてはみたものの、結局行く羽目になった和樹は、内心あまり面白く無かった。隣の家に引っ越して来た初菜という少女は、顔こそ知っていたものの自分とは何の接点も無い。時折、朝の通学路で顔を合わせるだけ。律儀に挨拶なんてしない。もちろん初菜の方から挨拶をしてくれば、返してやらないことも無いが、わざわざこちらからしようとは思わなかった。

 肌を刺すような秋の風に、和樹は思わず身震いをした。どうしてわざわざ、こんなことをしてやらなければいけないのだろう。細い三日月の出た十一月のあの日、二人は初めて言葉を交わした。

「月のはつな、だったよな?」

 自分よりも二十センチ以上背の高い少年に呼びかけられ、初菜は言い知れぬ恐怖を感じた。無言で頷きながら、探るような目を向けてくる初菜に和樹は苛立ちを覚える。

「おまえを迎えに来たんだよ。家、隣だからさ」

 初菜は和樹を見上げ、小さく「ありがとう」と言った。和樹はくるりと背を向け、初菜は慌てて和樹に並んだ。

 話題も無く、無言のまま二人は歩いた。和樹は内心焦っていた。何か、話さなくちゃ。理由も無くそんな考えが頭に浮かんだ。気詰まりだった。ふと見ると、初菜の肩が震えていた。

「寒いのか?」と和樹は聞いた。初菜は驚いたように目を見開き、「ううん」と言った。細い月の光に、初菜の濡れた頬が見えた。和樹はぎょっとして立ち止まった。

「おれ、何かしたか? 何で泣いてんだよ」

「……別に」

 初菜も立ち止まり、素っ気無く答えた。

「そっか」

 何で泣いてるんだ? とは聞けなかった。本当は、気になって気になって仕方が無かったけれど、それを聞いて本格的に泣かれても困る。再び和樹は歩き出し、初菜はそれに続いた。

「……手、繋いでもいい?」

 照明に彩られたトンネルを抜けた辺りで、唐突に初菜がそう言った。

「お母さんはいつも、繋いでくれるの」

 女と手を繋ぐなんてあまりにもダサい、と和樹は思った。けれど、この女の子を泣かせたことが母にバレたら……。 

和樹は少し迷った後、黙って左手を差し出した。

「ありがとう、お兄ちゃん!」

 夜の闇に包まれて心細かったのだろうか、突然の初菜の元気な声に和樹は戸惑った。

「あ、ああ……」

 小さな手から伝わる柔らかさに、和樹ははずかしさを覚え、三日月の空を仰ぎ見た。

「知ってる? お月さまにはうさぎさんが住んでいてね、お餅をぺったんこっこってついてるんだって」

 そんな和樹を見上げながら、得意そうに鼻をぴくぴくさせる初菜を、和樹は笑った。

「そんなのいるわけないよ。月には『さんそ』が無いんだもん」

 自分の方が物知りだというところを見せたくて、和樹は言い返した。

「えぇ、いるんだもん。お母さんがそう言ったんだもん」

「いないってば。サンタクロースとおんなじで、信じてるのはガキだけだって……」

 途中まで言って、しまったと和樹は思った。恐る恐る見ると、初菜の瞳にじんわりと涙が浮いているのが見えた。

「あ、いや、その……」

 次の瞬間、初菜は火がついたように喋り出した。

「どうしていないって言い切れるの? お兄ちゃん、お月さままで行ったことあるの? サンタさんだっているんだもん。いなかったらプレゼントなんて貰えるわけないじゃない。ひょっとしてお兄ちゃんプレゼント貰ったことないの?」

「……悪い……」

 親に言われて迎えに来て、プライドを捨てて手を繋いで、そして今度は小三のチビ女に謝って……。理不尽だと思った。胸に芽生えた悔しさが、和樹の声を不機嫌にした。

 嫌な沈黙の後、小さく初菜が呟いた。

「……お母さんは……嘘つきじゃないもん……」

「……ほんと、ごめん……」

 不意に罪悪感に胸を満たされ、和樹はもう一度謝った。三度(みたび)、沈黙が訪れた。取り返しがつかないことをした、と和樹は思った。

せめてものお詫びに、初菜の小さな手をぎゅっと握った。自分が否定してしまった、この子の母親に代わって。

「……それに、うさぎさんがいなかったら……お月さまは一人ぼっちになっちゃう……」

「……月、きれいだな……」と和樹は言った。靄のような雲を身に纏う月は実際綺麗だったし、何よりじっと黙っているのは耐えられなかった。口を開かない初菜に責められているような気がしたのだ。

「……あたしの名字は月のって言って、お月さまの『月』なんだよ」

 言葉を返してくれた事に、和樹は何よりもほっとした。っ少々気は早いのだけれど、胸のつかえがとれたように感じた。

「月の野原か……いい名字だよな」

 ご機嫌をとるように和樹は言った。格好悪かろうがなんだろうが、嫌な沈黙だけは避けたかった。

「おれなんて、『本山』……本の山だぜ? ガリ勉君じゃあるまいし……」

「でも、あたしご本好きだよ」

「『ヅリとヅラ』とか、『鼻裂けじいさん』とか?」

「嫌いじゃないけど……今読んでるのは、『グリックの冒険』っていうご本。面白いんだよ? リスさんが主人公なの」

「ふ~ん……今度読んでみようかな……」

「ほんと!? 興味があるなら貸してあげるよ!」

 その一言が生み出した和やかな雰囲気の中、二人は一気に話を弾ませた。初菜の前の小学校の話、和樹たち男子が最近ハマっている遊びについて。縄跳びが苦手な和樹に交差飛びを教えると初菜が言い、代わりに坂上がりを教えてやると和樹は言った。そんなことを話しているとすぐに、二人の家が見えてきた。  

住宅地の方から聞こえてきた犬の吠え声に、和樹の手が力強く握り締められた。その瞬間、和樹の中に護りたいという意識が芽生えた。小さな背丈のせいか、年齢よりも更に幼く見えるこの臆病な少女を。

「……大丈夫……」と和樹は言った。

「……おれが……ついてる……」

 こくりと頷いた初菜を見て、へへっと和樹が笑った。

この道を通る時、いつも初菜は怖い思いをしているのだろうか。和樹はそんなことを思った。

その後、まだ帰らない親を待つ間、初菜は和樹の家でご飯を食べた。和樹と一緒にテレビを見たり、トランプをしたりと楽しく過ごすうち、初菜は疲れ眠ってしまった。気がついたら外は明るくて、自分の布団に寝かされていて……。

ぼんやりとした頭で朝ごはんを食べて、学校へ行く用意をして。昨日のことは夢だったのだろうかと、不安に思いながら靴を履いた。そうして玄関を開けて、学校へ向かう途中。昨日も通ったトンネルの前で。

「おはよ、『月』」

 聞き覚えのある声が後ろから聞こえた。心が浮き立つように嬉しくなって、振り返る。

「お兄ちゃん、おはよっ!」

 


「そういえば、何であの時泣いてたの?」

「……だって、いつも来ていたお母さんが来なかったから、見捨てられちゃったのかと思ったんだよ。代わりに来たのは怖そうなお兄ちゃんだったし、それに……外は暗かったしね」

「……だから手を繋いだ途端、元気になったのか……。そういや、月は昔っから怖がりだったもんな……」

「……いいじゃん、別に……」

 膨れてみせる初菜に、和樹は笑った。

「……あの後、本当に交差飛びをさせられるとは思わなかったよ。あの頃は男子と女子に溝があってさ、女と遊ぶのは格好悪いって意識があったんだ」

「……それで、なんだかいつも嫌そうにしてたんだね。ごめんね、つき合わせて」

「ばか、いいんだよ。普段男とばかり遊んでいたから、なんだか新鮮で楽しかった。それに、恋かどうかは解んないけどさ、気付いたら月の前でいい格好見せようって、そんなことばっかり考えてた」 

あの日と同じように繋がれた手。空には三日月。タイムスリップしたような錯覚を初菜は覚えた。

「知ってる?」と初菜は言った。

「お月様にはうさぎが住んでいてね。お餅をぺったりらんってついてるんだって」

「知ってる」と和樹は言った。

「さすが、『お兄ちゃん』だね」

 微笑む初菜と和樹の視線がぶつかる。今日だけで、幾十回も繰り返されたことなのに、それだけで胸の鼓動が早くなる。

 あの日、二人を結びつけるきっかけになったのは月だった。

「……月、綺麗だよ……」

 瞑った目の奥に、淡い月の光が見えた。唇を通して、二人の『好き』が重なった。痺れるような感触が全身を駆け巡り、初菜は微かに息を漏らした。

 

     三 


 針の進みが遅く感じる。耳障りな時を刻む音。見慣れた病室。染み付いてとれない、シーツに絡みつく避け難い終わりの匂い。  

初菜はふぅっとため息を漏らした。天井の染みを数えることも、気紛れで始めたスケッチもとっくの昔に飽きてしまった。本を読もうにもすぐに疲れてしまう。他にすることも無いし、写真立ての写真でも一日中ずっと眺めていようか。それとも名前も知らない白い花の、甘い香りでも嗅いでいようか。  

 日々少しずつ力が流れ出していく。針の音に足並みを合わせ、一つ鼓動が打つごとに生命が流れ出していく。普段感じることの無いほど、小さな一歩。それでいて確実に世界は終わりへと歩き出している。

 


「なんかこうしていると、月も立派な患者さんに見えるね」

 秋の終わり、検査入院の初日、和樹はそう言って初菜をからかった。

「ひっどいなー。正真正銘、立派な患者さんですよーだ」

 四日間の予定だった入院は一週間に延び、二週間に延びた。退屈だ、と初菜は思った。あまり好きではなかった筈の学校に、無性に行きたくなった。お見舞いに来てくれた友達に学校のことを沢山聞いた。

「早く治して、またいろんな所に行こうぜ」と和樹は言った。入院してから一週間、一向に退院出来なくて苛立ちを覚えていた頃の事。

「それまで毎日だって見舞いに来るからさ」

「……ありがとね……」

 言葉が胸に沁みて、初菜は思わず泣きそうになった。和樹は毎日のようにやってきた。初めのうちは、ただ単純に嬉しかった。

 

秋が過ぎ去り、外の世界に冬が訪れた。

「……外、寒いでしょ?」

「……まぁ、この部屋に較べると段違いにね」

「……大変だよね、毎日来るの」

 初菜の言葉は弱々しく掠れ、白い天井へと吸い込まれていく。

忙しいはずなのに、他にもやりたい事があるはずなのに、和樹は毎日のように来てくれた。そのことが本当に、本当に嬉しくて、言葉に出来ないくらい感謝していた。変化の無い入院生活における唯一の歓びだった。

 けれど、自分の存在が和樹にとって負担になりはしないだろうか。初菜はいつからかそんな考えにとり憑かれていた。

「……だから……もし、和君の負担になるようだったら……」

 心配させないように、元気良く笑おうと努力したけれど。

「……毎日来てくれな……ても、い……んだよ……?」

 唇が震え、上手く言葉にならなかった。胸が引き裂かれるように痛み、涙が滲む。慌てて目を擦ったけれど、間に合わなかった。

「……そんな心配、しなくてもいいんだ」

 小さな傷から溢れ出した血に、泣きそうな表情で和樹は笑っていた。

「……月の顔が見たくて、月の声が聞きたくて。俺は来たくて、来ているんだから」

 ――嬉しい……嬉しい……嬉しい……。……だけど――

「……ごめんなさい……」

 泣いてしまう自分の弱さが初菜は悔しかった。来てくれなくてもいいと言っておきながら、泣いてしまうなんて卑怯だと思った。俯いた和樹が強く唇を噛んだのがわかった。

「……もしかして……来て欲しく無いって意味、かな……?」

 押し殺したような和樹の声に、初菜の胸の痛みが増した。

「……ち、ちがっ……うよ……」

涙声が抑えられない。苦しくて、言葉を吐き出すだけで息が詰まってしまう。

「……そんなこと……絶対……無いから……」

 視界が揺れた。世界がバラバラと音をたてて崩れ落ちていく。

「……だから……そんなこと……言わないで……」

 喉がひゅうと鳴った。無意識のうちに初菜は、首にかけていた青水晶のペンダントを掴んでいた。

「……和君が来て……くれないなんて……嫌だよぉ……」

 何だろう。頭が揺れる。纏まらない思考の毛糸が解れ、ばら撒かれていく。青水晶。青、青、青い青。『あお』ってどんな、色、イロ、いろ? 比率の合っていない風景が私を押し潰そうとせせら笑う。偽りの黄色とノイズの灰色と、祈りの紫色の笑顔で、少年が泣いていた。真実の水色と、静謐の青と絶望の黒とそこに有る『無』が揺れ動く世界を取り巻いていた。カーテンの向こうには油絵の具を塗りたくったような空。

「……月……しっかり……初菜……!」

 どきりと胸を締め付ける切なく優しい声がする。けれど、月、ツキ、つきって何だろう。思い出せないことがとても淋しくて、

ごぶりと胸が血を吐き出した。空が紅に染まり、脳が刺すように痛んだ。ほのかな青水晶の感触が、初菜の指先に残っていた。



 特別に待ち合わせをしたわけではないけれど、学校からの帰り道、初菜は和樹と一緒になった。

「高校生活そろそろ慣れた?」

 より偏差値の高い緑台南高校を蹴って、徒歩で通える藤ヶ峰高校を初菜が選んだ本当の理由は、和樹と一緒の高校に通いたかったから。

「うん、大分。でも朝の通勤ラッシュは慣れないなぁ」

 ずっと一緒の毎日がいつまでも続くことを望んでいた。兄妹

のような、幼なじみという関係は居心地が良い。一方で、確固たるもののないどこかあやふやな絆に、初菜はいつも漠然とした不安を抱いていた。ただのお隣さんと言われればそれまで。いつか和樹に恋人が出来た時は、黙って譲らなければならない、とてつもなく弱い立場。

 遠い昔から。初菜の心はいつだって、和樹の姿を探していた。和樹に声をかけられるだけで、胸がきゅんと掴まれるような気がした。和樹が他の女の子と話しているだけで、見捨てられたような淋しさに胸が苦しくなった。

「でも、さ。早いよな、月が高校生なんてさ」

「私だって、一年前には同じ事思ったんだよ。あぁ、お兄ちゃんも高校生かって」

 自分の抱いている気持ちが恋なのだと知って、和樹の前でどんな態度をとればいいのか悩んだ時期もあった。和樹はどんな女の子が好きなのだろう。意識し出すと変に硬くなってしまって、和樹に心配されてしまったこともあった。

いつも、和樹の一番になりたかった。いつまでも和樹の傍にいたかった。その保証が無いから不安で、けれどその保証を得る為には、リスクを背負う覚悟が必要だった。居心地の良い、『幼なじみ』という関係を捨て、新しい関係に踏み出す覚悟。OKしてもらっても断られても、一度伝えてしまったらもう二度と元の関係には戻れない。

「なぁ、その『お兄ちゃん』ってのやめない? 月ももう高校生なんだし」

「どうして? いいじゃん別に」

……初菜には、リスクを背負うだけの覚悟は無かった。運命の時間が訪れた時にも、まだ。

「俺、いつまでも月のお兄ちゃんじゃ嫌なんだよ」

 それは気楽なおしゃべりに隠れていて、初菜は初め気付かなかった。

「えっ、何? どゆこと?」

 説明を促すように視線を送ると、思いがけず、真剣な和樹の

瞳にぶつかった。初菜の全身を流れる血液が、瞬時に沸騰した。

「初菜が、好きなんだ……」

 潤おしたばかりの喉がからからに渇いていく。軽い眩暈を覚

え、初菜は目をぱちくりとさせた。

「初菜を……彼女にしたい」

 余りの展開の速さに脳の処理速度が追いつかない。吸い込ま

れるような和樹の瞳には、戸惑いのあまり無表情になった、少

女の姿が映っていた。

「……ダメ……かな……?」

 何か、何か言わなければ。焦るばかりで言葉が出て来ない。

どうしよう。どうしたらいいのだろう。必死に表情を崩すまい

とする和樹の言葉が、時間をかけてようやく初菜の胸に沁み込

んでいく。耐え切れなくなったのか、和樹がごめんと呟こうと

したその時。

「……ダメなんかじゃないよ、和君」

 初めての呼び名と共に、初菜の口から自然な想いが零れ出た。

「私も和君のこと……好きみたい……」

 和樹の顔にぱーっと笑顔が拡がっていき、初菜の顔にも伝染っていった。

「……よろしく、初菜」

「……末永く、楽しくやって行こうね、和君」

赤くなった顔を見合わせて、照れくさそうに二人、笑い合った。

「……でも、良かった。月、黙っちゃうんだもん。俺、振られたのかと思ったよ」

「……だって、突然なんだもん。一瞬頭がフリーズしちゃって」

「そっか。……ごめんな。でも、ホントありがと。OKしてくれて」

「こちらこそ、私なんかを選んでくれてありがとう。恋人とかよく解らないから……その……いろいろ、教えてね?」

「と、言われても俺にもよくわからないんだけど」

「じゃ、わからない者同士、一緒に成長してこーね」



『六月二日。あの時は凄く驚いたけど、後になって嬉しさがどんどん涌きだして来たみたい。この日、お兄ちゃん改め、和君と私は恋人さんになりました』

 目を瞑るとあの日の情景が思い浮かんだ。幸せだった思い出は甘く切なく初菜を苦しめた。……ぱたんと閉じたノートを、枕元に戻す初菜の目から、涙が緩やかに頬を滑った。


     四 


携帯電話の時刻表示を確認しながら、初菜は『遅い』と呟いた。待ち合わせは午後の二時。場所は藤ヶ峰駅前広場のベンチ。

携帯電話の表示は二時五分。たかが五分、されど五分。緊張に速くなる胸の鼓動を抑える為に、深呼吸を一回、二回、三回。

時刻表示を覗き込む。二時七分。

「遅いよ……和君……」

 初菜はふと不安になった。ひょっとして、待ち合わせ場所を間違えたのではないだろうか。ひょっとして、来る途中で何かあったのではないだろうか。ひょっとして……ドタキャン? 携帯をかけても繋がらないし、メールを送ったのに返ってこないし……。

『初菜が、好きなんだ』

 告白の木曜日から三日。付き合い出してから初めての日曜日。初めてのデート。

『初菜を、彼女にしたい』

 お洒落に決めようとクローゼットを引っ掻き回した初菜だったが、変に気張るのもはずかしく、結局普段着のまま。黄緑色のブラウスに、赤のスカート。……ズボンにしなかったのは、女の子を強調したい初菜の苦肉の策だった。

 初菜の視界の端で、和樹が大慌てで走ってくるのが見えた。初菜の胸が一際高く、どきりと鳴る。よかった……来てくれたんだ!

 そう思うと初菜の顔に嬉しさが拡がっていった。

「……ご、ごめん、月。遅れちゃって」

 必死に謝る和樹。

「私も今来たところだよ!」

 なんだか恋人みたいなやりとりだなと思った瞬間、初菜の顔が真っ赤になった。


 駅前から歩いて五分。目的の喫茶『セルベッテ』は比較的空いていた。

「お客様は何名様でしょう?」

「に、二名です……」

 和樹の上ずった声がおかしくて、初菜はあははと笑った。

「それではこちらの席にどうぞ」

「……笑ったな」

 先導するウェイトレスの後ろ。小突こうとする和樹から、初菜はひらりと身をかわす。

「それではご注文がお決まりになりましたら、お呼びください」

 向かい合わせの席に座ると、自然と相手の顔が飛び込んでくる。かっと頬が熱くなるのを感じ、初菜はお品書きに目を落とした。

「……え、えっと、な・に・に・し・よ・お・か・な。て・ん・の・か・み・さ・ま・の……」

「だ~、さっさと決めろ! これだ、これ。これにしよう! はい、決定!」

 和樹がロクに見もせずに指差したメニューは……。『ジャンボストロベリーパフェデラックス』。アイスクリームにイチゴやパイナップル等、種々のフルーツが乗っかっている。ただ、それだけのもの。……なのだが、特筆すべきはそのサイズ。二人~三人前と記された、いわゆる『恋人サイズ』だった。

「……」

「……」

「……これにするの? ホントに?」

「……月は……嫌……?」

「……嫌……じゃないけど……はずかしいよ……」

 目を見交わし、初菜は申しわけ無さそうに呟いた。

「……普通のやつに……しよ? 私、このクリームあんみつにする」

「じゃ、俺はティラミスにするよ」

 

 何を話せばいいのかが解らなくて、食事は無言のまま進んだ。何か話さなきゃ、と気ばかりが焦って初菜は思いつくままに口を開いた。

「クリームあんみつ、おいしい」

 淡雪のように溶けていくアイスクリームの舌触りは、確かに心地良く、雑誌で取り上げられたのも頷けた。

「ティラミスもおいしかった」

 何故過去形? と訝しく思って見ると和樹は既に食べ終わ

り、初菜の食べる様子を眺めていた。

「相変わらず早いね、食べるの」

「月って、しゃべるのは早いのに、食べるのは遅いのな」

「いいでしょ、別に」

 ムッとした初菜の口調に、和樹は慌てて謝った。

「ごめんごめん。責めてるつもりはないんだ」

「あ、ううん。私こそ。短気でごめんね」

 ぎこちない会話。おさななじみから恋人へ。急激に変わった関係に、二人は戸惑っていた。

「……ゆっくり食べなよ」

「……うん、ありがと」

 何だろう。今まで、どんな話で盛り上がっていたんだっけ? 手持ち無沙汰になった和樹は必死に考える。

「そーいえば、昨日の『土曜サスペンス劇場』見た? あの、

タイトルだけでどんな事件か解っちゃう、あれ」

「……キャスト見ただけで誰が犯人か解っちゃったから見なか

った」

「……あ、そう。いや、実は俺も見てないんだけど……」

「……そうなんだ……」

「……」

「……」

「……あのさ、ピッキング娘。の新曲聴いた? なんかいつも

以上に弾けてたよ」

「……まだ聴いてないよ。持ってるなら貸して?」

「……いや、俺も歌番組で聴いただけだから」

「……残念」

 初菜は食事の手を休め、上目遣いで和樹を見上げた。

「和君」

「なに?」

「……食べてるとこ、あんまりじっと見ないで。なんかすっごいはずかしいから」

「……ごめん」

「……いいけどさ」

 顔を赤くしながら、初菜はぼそっと呟いた。

「……こういうはずかしさ、嫌じゃないから……」

いつのまにか、二人の心から焦りが消えていた。初菜の呟きが、周囲の空気を穏やかに塗り替えたのだろうか。無理にしゃべらなくても、無理に盛り上がらなくても。

「……俺たち、恋人なんだよな……」

 和樹の声は幸せに満ちていた。

「……そうだよ、和君」

 優しい笑顔を浮かべる初菜の頬を、和樹の指がつつ、となぞった。目を閉じる初菜。和樹の唇がそっと、初菜の頬に触れた。  

 ふわっとした感触。とくとくと早まる鼓動。目を開けると、和樹も耳まで赤く染めていた。自分だけじゃない。和樹も照れてくれたんだと思うと、初菜はとても嬉しくなった。

「……はずかしいね!」

「……はずかしいな」

「……だけど、こういうはずかしさなら大歓迎かも……」

 顔を見合わせて微笑み合う。

「……俺さ、月のことますます好きになりそう」

「……ありがと……」

 頬を赤くして俯いてしまう初菜。はにかみ屋の彼女から、和樹は視線を逸らすことが出来なかった。


 外の空気を取り込もうと、初菜は大きく息を吸った。火照った頬に、冷たい風が気持ちいい。店を出て時刻を見ると、夕方の五時。楽しい時間は飛ぶように過ぎていく。

「この後、どうする?」

「文房具屋さんに行ってもいいかな」

「文房具屋さん? いいけど、何買うの?」

「まだ、内緒だよ」 

悪戯っぽい光を浮かべながら、初菜は和樹の手をぐいっと引いた。

「……っとと、危な……」

 柔らかな初菜の熱が繋いだ掌から伝わってくる。

「次に来る時は、ジャンボストロベリーなんとかに挑戦しようね」

「……ひょっとして、ずっとそんなこと考えてたの?」

 言葉に詰まる初菜。和樹の心に温かい気持ちが拡がっていく。こんな時間がきっとずっと続いていく。はずかしくて、優しくて、愛しい時間。時に喧嘩したり、辛いこともあるかもしれないけれど。この少女と一緒なら、どんなことでもきっと乗り越えていける。初菜の笑顔が和樹にそんな確信を与えてくれた。

 文房具屋で、初菜は小さなノートを買った。B6の、何の飾り気も無い大学ノート。売っているのは知っていたが、使っている人を見たことが無かった。

「何に使うの?」

 疑問に思って尋ねる和樹に、初菜はにやりと笑ってみせた。

「二人の『好き』を沢山詰めて、題して『ラブ・ノート』!」

 和樹の頬が引きつった。ネーミングセンスの悪さは、少し問題かもしれない。

 

     五


「……お邪魔しまーす……」

「ささ、どーぞどーぞ、どうせ誰もいないから」

 遠慮がちに靴を脱ぐ和樹を、初菜が玄関で出迎える。リビングに入ると、和樹は買ってきたケーキの包みをテーブルに置いた。和樹が椅子に座るのを見届けて、初菜も隣の席に腰を降ろす。

「……おばさんやおじさんは?」

「……お父さんは単身赴任中、お母さんは……わかんない」

 何でもないように笑う初菜。けれど瞳は確かに揺れていた。

(あの人たちには娘の誕生日なんて、関係無いことなのかもね)。

 喉まで出かかった言葉を飲み込んで、初菜はにやりと笑う。和樹に余計な心配をかけないように。

「邪魔モノはいないよ? 安心した?」

「だ、誰がっ!」

「水着の私をやらしーい目で見てた和君が」

「あ、あれは……露骨に目を逸らすのも何だかな~って思って見てたんだ」

「はいはい、そういうことにしておきましょう」

 和樹の目に映る初菜は、レモン色の長袖に紺のスカート。見慣れない秋服に異性を意識してしまう。スカートから伸びる白磁のような太股に和樹は目を奪われた。

 初菜は困ったように半端な笑いを浮かべていた。邪魔モノはいない……『二人きり』。自分から振った話なのに、意識すると身体が熱く火照った。和樹の視線がくすぐったくて、はずかしくて。堪えきれずに太ももがぴくりと震えた。

「……和、君?」

 知らず溜めていた息と一緒に言葉が漏れる。

「あ、ご、ごめん」

 石化の魔法が解けたように、和樹は慌てて謝った。「ううん」と呟く初菜の頬の朱色がかわいくて、ますます和樹の鼓動が早くなる。

「け……ーき、食べよ?」

「う、うん……」

 同時に伸ばした手。互いに触れ合う皮膚の熱さ。爆発しそうなときめきに、手を引っ込めあう二人。次の瞬間、どうしょうもなく気になって、盗み見た視線が絡まって。頭の中が真っ白になっていく。喉がこくんと鳴った。衝動のままに、初菜は和樹にキスをした。心もち触れた舌先と舌先、背筋に伝わるさざなみに、初菜は驚いて唇を離した。熱に浮かされたように、ただ見つめ合う。

「……もう……一度……」

 掠れたような声が和樹の口から零れ、初菜はゆっくりとうなずいた。かたんと音を立て、二人は椅子から立ち上がる。まるで何かの儀式の始まりのように。

何かに耐えるようにきゅっと目を閉じる初菜に和樹はそっと、口づけた。初菜の両腕が、和樹の広い背中に回された。時折漏れる苦しそうな吐息と、吸われた唇の立てるちゅっという音。 音と感触の狭間に心のたてるはしゃぎ声。初菜がゆるりとまぶたを開けると、瞳を閉じる和樹が見えた。焦点すら合わない程、極限に近く。重なり合う身体の隅々、阻むものは皮膚と薄い着衣だけ。たぎるような感覚が身体の奥底から浮かび上がっていく。力が入らず、膝から砕けそうになる初菜を、和樹の両腕が抱きかかえるように支えた。溜まった唾液を飲み下す、こくっという音がリビングに響く。唇同士吸いあうたびに、軽く噛み合うたびに、初菜の背中は小さく波打った。


膨れ上がった水滴が、重みに耐えかねて蛇口から落ち、その音で我に返った二人の身体が離れるまで。濃密なキスは続いた。

唇の離れた後も、真っ白な頭で呆けたように見詰め合う。緩慢な動作で和樹が初菜に近づき、服の袖でそっと初菜の口の端を拭った。これ以上無いくらい赤くなる初菜に、和樹の囁く声が聞こえた。

「……ハッピーバースデー初菜……」

 それを言ってくれるのは、今日ここにいる和樹だけ……。

「……ケーキ……食べようよ……」

「……そればっかだね、初菜は……」

 起き抜けのように鈍い頭と、昂ぶる身体の織り成す不可思議な感覚。部屋の電気を消す為に、立ち上がる和樹を初菜はぼんやりと眺めていた。

 常夜灯の豆電球が照らす下、十六本のロウソクに火をつけて、促されて息を吹きかけて。肺活量の少ない初菜が七吹き目でようやく吹き消して。蝋の燃える香りと軽やかなケーキの舌触りが、いつのまにか脳を覆う薄い靄を晴らしていく。

「……これ、食べていい?」

 祝福の言葉が綴られた、茶色と白のチョコレートプレート。

「……もちろん。それは、月のものだよ」

「ありがと」と言いながらカリカリと噛んだ。

「……一足先に結婚できる年に、なりました」

 何がおかしかったのか、初菜の物言いに和樹が笑った。つられて初菜も笑い出しその衝動が収まった頃、和樹が部屋の電気をつけた。

「……プレゼントが、あるんだ」

 和樹が取り出した、小さな包み。

「気に入ってくれると、いいんだけどな」

 和樹に見守られていると思うと、指が緊張した。包みを開く。

「……わぁ……」

 顔がほころんでいくのを初菜は感じた。それは確かに、『幼なじみ』にではない、『恋人』へのプレゼント。電灯の下できらきらと輝く、ペンダントについた青水晶を、初菜の指先がなぞった。

「……ありがとう……本当に、ありがとう」

「……良かった。がっかりされたらどうしようかと思ったよ」

 ……和君がくれるものはみんな、宝物なんだよ……。

初菜は言葉を飲み込んだ。どんなものでも嬉しい。そう言ってしまったら、折角選んでくれた和樹に悪いと思った。だから……。

「がっかりなんてしないよ。青い水晶、凄く素敵だし、それに、和君が選んでくれたから、えっと、あぁもう上手く言えないや……」

 ペンダントを首にかける初菜のかわいい照れ笑いに、和樹の頬も緩んだ。

その後、ペンダントをつけた初菜と和樹で誕生日記念の写真を撮った。その場で現像した写真には、無理して笑おうとして変な顔になっている初菜と、子供のように初菜の頭の後ろに人差し指を立てる和樹が写っていた。

むくれた初菜がやり直しを主張し、二枚目の写真は和樹の悪戯を封じる為に腕を組んだ。

二人で一緒に夕ご飯を作った。新婚さんみたいだねと何気なく言った和樹の一言。照れた初菜は手元が狂い、人差し指を火傷した。

 二人で一緒にご飯を食べた。「あーんして」と初菜が言って、はずかしそうに和樹が口を開けた。初菜は春巻を選び、和樹の口へ運ぼうとする。緊張して上手く掴めず、箸から落ちた春巻が、和樹のズボンにぽとっと落ちた。必死で謝る初菜を見て、和樹は手づかみで春巻きを食べ、笑った。

お返しに今度は和樹が、ヘタをとったプチトマトを手づかみで初菜の口に運んだ。受け取る時に、和樹の指ごとしゃぶってしまう初菜。言い知れぬ陶酔が二人を満たす。それから交互に、二人はプチトマトと指をしゃぶり合った。熱い口腔から引き出された指が、空気に触れてひんやりと冷える。唾液でべたつく指に満ちた、こそばゆい快感が胸を焦がした。和樹の唾液で濡れた自らの指を、初菜は静かに口に含んだ。和樹も同じように、自らの指を舐めた。熱に浮かされたような瞳で、互いを見交わす。

「なんか変だね、私たち」

 ふつふつと湧き上がる、得体の知れない感覚に初菜はぶるりと身を震わせた。

「二人で変ならそれも良し、じゃない?」

 差し出された和樹の指に、初菜がふわりと指を絡める。触れ合った指から電流のような何かが流れた。


 後片付けも終わり、帰ろうとする和樹を初菜は引き止めた。

「……帰っちゃやだ……」

 甘えた声を出す初菜の瞳は、星の瞬きのように潤んでいた。

「……馬鹿、そんな事言ってると、悪い狼さんに食べられちゃうぞ?」

「……和君になら……いいかもしれない……」

初菜は暫くの間逡巡し、やがてぽそりと言った。怖かった。怖かったけれど、もしするのなら相手は和樹以外あり得ないと思った。純粋な興味もあった。何かを考えるように和樹が黙ってしまったので、初菜は慌てて言い募った。

「……べ、別にしたいって言ってるわけじゃないからね。してもいいかもって言ってるだけなんだから」

 和樹に笑われて、初菜は真っ赤になった。

 シャワーを浴びて、二人は寝た。朝まで一緒に、同じ布団で。



『十月三日。十六歳のお誕生日。いろんなこと……うん、そう、いろんなことがあって、まだ頭がぐるぐるしてる。その、普通で考えたら変なことが、二人の間では変じゃない。そういう関係を恋人って言うのかなって、ちょっと思いました。ペンダント……嬉しかったな……。それに、ケーキも和君が買ってきてくれたんだよね。ありがとうを言うのも忘れて、ケーキにがっついちゃったりしてみっともなかったな。和君、ごめんね。そして、本当に本当にありがとう。あなたがいてくれたから、私、淋しく無かったんだよ』

 初菜はふと、暗い衝動に駆られた。写真立てに震える指を伸ばす。そのまま床に叩きつけようとする左手を、なんとか右手で押さえ、堪えた。惨めだった。過去に嫉妬する、今の自分が惨めで、情けなくて、悔しくて。胸が塞がる。涙が、滲んだ。

写真立ての中であの日の二人が笑っていた。組んだ腕の感触にはにかむ初菜と、腕に当たる胸の感触ににやける和樹。

抱きかかえたまま、初菜は泣いた。痩せ細った腕に伝わる心音が哀しい。

 自分の病気が治らないものであることを、初菜は確信していた。忘れたと思った頃に、眩暈が起こり吐血する。病名は一度聞いたのだけれど、忘れてしまった。そんなことを知っても、何にもならない。世界が閉じるまでに、後何回、大好きな人に会えるのだろう。本当に知りたいことは、誰も教えてくれなかった。

 初菜の想いは複雑だった。来てくれて嬉しいという気持ちは、変わらない。けれど、頬がこけ、すっかりやつれた自分を、和樹に見せるのは辛かった。自分の姿を見て、哀しそうな顔をする和樹を見るのが苦しかった。和樹を苦しめているのは自分だと思った。

 どうせ死んじゃうのなら……早く死んじゃえばいいのに……。初菜は他人事のように、そんなことを思った。


     六 

 

 活気に満ちた校内を、初菜は青い顔をして歩いていた。傍らを歩く和樹の手を例によってぎゅっと握り締めたまま。

 

二人の通う藤ヶ峰高校はこの日、年に一度の文化祭。縁日を冷やかして駄菓子を買ったり、縁日を冷やかして粉末ジュースを買ったり、縁日を冷やかして……。

「……何で縁日ばかりなんだ……」

 パンフレットを眺めながら、和樹はため息をつく。三学年、二十四クラスのうち、縁日が六クラス、休憩所が四クラス、駄菓子屋が三クラス……。

「だって、しょーがないじゃん。食中毒がO‐157だから、調理系の企画はほぼ全滅なんだもん」

「……あぁ、もうやる気が感じられん!」

「……で、和君のクラスは?」

「……休憩所……」

「やる気無()~」

「だって、自分で作ったわけでもない駄菓子を売ったって、面白くないじゃん。収益だって学生に還元されるわけじゃないし。中途半端に面倒くさいのって最悪だと思わない?」

「まーね。どうせやるならぱーっとやりたいよね。そうじゃなきゃやらない! これだね」

「で、月のクラスは?」

「……縁日……ってかさっき行ったじゃん。ほら、からい棒とかいっぱい買ったとこ」

「……十本買うと一本おまけで付いてくるっていう、あの縁日か……。俺、食う気全く無いのになんで買ったんだろ……」

「売り子の綾ちゃんに乗せられて、でしょ。綾ちゃん口上手いもんね。それに可愛いし」

「……う~ん」

「あ~、否定しないんだ、ふ~ん」

 微妙に危うい緊張感を持って、和樹と初菜はしばし見つめ合う。

「やっぱり、綾ちゃんのことかわいいって思ってるんだ」

「そうだな~。ま、客観的に言ってかわいいんじゃないの?」

 初菜が目に見えて不機嫌になった。ふ~ん、とかほ~おとかぶつぶつ呟いている。

「客観的に、ねぇ? でも、客観はマジョリティーの主観が形成するものだからねぇ」

 ……この小難しくて性質(たち)の悪い焼餅の焼き方はどうにかならんのだろうか……。和樹は心の中で大きくため息をついた。こうなると、解決策はただ一つ。

「大丈夫、綾ちゃんとやらがどんなに可愛かろうが、月には敵わないからね」

「……えへへ~……」

 機嫌を直して照れ笑いを浮かべる初菜を、和樹は心の底からかわいいと思う。それこそ、言葉では言い表せないくらいに。……こんな事を言わされて凄くはずかしいのに。

「……他人のことなんか気にすんなよ。俺が好きなのは月なんだから」

「……わっ、なんてこと言うかなぁ……。……あっ、和君、あそこにお化け屋敷があるよ、ねねっ、行ってみよ?」

 言うが早いか初菜は和樹の手を引っ張ってぐんぐんと進んでいく。初菜流の照れ隠し。はずかしいことを言って欲しくて、焼餅を焼いたり不機嫌になってみるくせに、直球で勝負すると逃げてしまう初菜。……はずかしいのは、初菜だけじゃないのに。

「あれ、月、怖いもの苦手じゃなかったっけ?」

「だいじょぶ、和君がいれば怖いものなんて何もない!」


 十分後。活気に満ちた校内を、初菜は青い顔をして歩いていた。傍らを歩く和樹の右手を例によってぎゅっと握り締めたまま。

「……怖かったよぉ……怖かったねぇ……」

「……『和君がいれば怖いものなんて何もない』んじゃなかったの?」

「……いぢわる……」

 恨めしそうに見上げる初菜の頭に和樹の右手が乗せられた。吸い寄せられるように自然な動作に、初菜が小さく息を漏らした。足がぴたりと止まり、初菜は壁にもたれかかった。初菜の髪が和樹の指を撫でていく。和樹の指の隙間から初菜の髪がさらさらと、水のように流れ落ちていく。離された手の温もりを留めるように、初菜は左手を軽く握った。

「……変わらないな、月は」

 犬に脅えていた幼き日の初菜を思い出し、和樹は穏やかに笑った。

「……」

 心がざわざわと落ち着かない。初菜はやり場に困った目線を、和樹の上履きへと固定した。なんだか子ども扱いされたような気がして悔しくて、なのに心のどこかでほっとした。

『変わらない』。喜ぶべきことなのか、悲しむべきことなのか、初菜には判断がつかなかった。ただ、今のこの関係がずっと続けばいい。なんとなく、そんなことを思っていた。

「……私さ、明日からしばらく、学校来れないんだよね」

 心の中に重い石を積まれているように、言葉にするだけで息が苦しくなる。それでも初菜は笑顔を浮かべた。心優しい恋人に、変な心配をかけないように。

「……なんか最近調子悪くってさ。この前、びょーいん行ったら、検査入院とかいうのしなさいって」

 髪を撫でていた和樹の手がぴたりと止まった。

「だ、大丈夫だよ! ただの検査だもん! 寝ているだけで学校サボれるしラッキーとか思っちゃったりして」

 笑う初菜の瞳に脅えの色が浮かんでいた。それは見逃してしまいそうなほど微かで、気づいた者の心を抉る程確かだった。

「……勉強、見てあげるよ。みっちりとね」

「……赤点コレクターの和君に務まるのかな?」

「俺がいつ赤点取ったよ?」

「中学二年、二学期の期末テストの英語」

「……一回だけだろーが! ……てか、良く覚えてるね、そんなの」

「和君のことなら、何でも覚えてるんだよ」

 そう言った初菜の透き通るような笑顔は和樹の心を温めた。



 見慣れた病室の扉。プレートに書かれた患者の名前を和樹は見つめた。来るたびに哀しくなることが解っているのに、どうして足を運ぶのだろう。来たくないと思うことは何度もあった。数分間も扉を開けることが出来ない日もあった。

 和樹は意を決して扉をノックした。中からの返事は無かった。和樹は音を立てないように扉を開けた。

 初菜は眠っていた。彼女愛用のミニノートを胸に抱え、薄っすらと涙を溜めたまま。頬はこけ、肉がすっかりこそげ落ちていた。触れた手は骨ばっていて、記憶のそれとは似ても似つかない。枕元の写真立て。初菜は自然な笑みを浮かべていた。そこにはいつからか見せてくれなくなった、初菜の本物の笑顔があった。

『邪魔モノはいないよ? 安心した?』

 からかうように笑う初菜が、和樹の記憶をくすぐった。

『あぁ、もう上手く言えないや……』

 自分の気持ちを伝えようと必死な初菜の照れ笑いが、慌てた時の早口が懐かしかった。

『トロピカーナ♪ って感じだよね』

 脈絡の無い、ちょっとお馬鹿な言葉と、それを紡ぎ出す太陽のような快活さが恋しかった。

『怖かったよぉ……怖かったねぇ……』

 猫の目のように変わる初菜の表情。彼女の中には一体いくつ、目を惹き付ける表情が隠されているのだろう。

『いいじゃん、別に』

 拗ねたような声に含まれるあどけなさを、ずっと護りたいと思っていた。

『こんな日がいつまでも……続くといいね』

「……和君……」

 弱々しい声に振り向くと、目を開けた初菜が力なく微笑っていた。

「……今日も……来てくれたんだね……ありがとう……」

 別人のような初菜の声に、和樹の目頭が熱くなる。

「……当たり前だろ……。俺は初菜の彼氏、なんだから」

 声に含まれる哀しみを隠そうとして……失敗した。

「……嬉しいな……まだ私……和君の彼女、なんだね……」

 まるで何かに耐えているように、初菜は微笑みの表情(かたち)を作った。

「……どういうことだよ……。意味、わからないよ」

「……和君に見られてるって……思うだけで、はずかしいんだ……。……やつれて、ぶさいくで……なのに和君は……私のこと、彼女だって……言ってくれるんだね……だけど……」

 初菜は言葉を切った。長く喋りすぎて疲れたのかもしれない。

「初菜はかわいいよ。不細工なんかじゃない」

 元気の無い初菜が和樹を傷つけた。気の効いた言葉の一つも言えず、初菜を元気付けてあげられないことが悔しかった。

「……和君は、優しいね……」

「ばか、初菜は客観的にかわいいんだよ」

「……客観的に……かぁ……和君一人がそう思ってたって……客観的とは……言わないんだよ……」

「じゃ、主観的にかわいい。てか、他人の意見なんて無視だ無視。月が好きなのは……俺だけ……なんだから」

「……何言ってんだか……」

 呆れたような初菜の張りの無い笑いが、和樹を失望させた。

和樹は初菜に、頬を赤くしてはにかんでほしかった。或いは意地悪な瞳をしてからかってほしかった。そうして、元気だった頃の表情を自分に見せてほしかった。

「……和君は……変わらないね……」

 そうして、『月は変わらないな』と言いたかった。言わせて欲しかった。

「……だけどね……今日はもう帰らないと……だめだよ……?

 明日から……学年末テスト……でしょう?」

「……そんなの、どうだっていいじゃんか」

「……よくないよ……。テスト勉強……やらないと……」

 諭すような初菜の口調が、妙に苛立たしく思えた。

「月の傍にいる方が、よっぽど大切だよ」

「……赤点とっても……知らないよ……?」

 勉強に集中出来ないのは目の前の、この少女のせいなのに。テスト勉強なんて、出来るわけがない。そもそもテストなんて、どうだっていい。月と一緒にいる時間以上に、大切なものなんて何もない。和樹の中で叫び出したい衝動が膨らんでいく。

「……それに、和君来年三年生でしょ? ……受験勉強は……始めた?」

 気を抜けば破裂してしまいそうなくらいに、膨れ上がっていく。それを必死に抑えようとしたけれど。

「……こんな所に毎日、来てる場合じゃ……ないんだよ……?」

「……そんなの、月には関係無い!」

 無理だった。抑えきることなど出来なかった。和樹の中で衝動が弾けた。

「テストなんてどうだっていい! 受験勉強なんてどうだっていい! 俺は初菜といたいんだ!」

「……だめ……っ!」

 悲鳴のように叫び、こほこほと咳き込む初菜。

「何がだめなんだよ! 月がこんな目に遭っているのに、勉強なんて出来るわけないだろ! 俺はそんなに薄情じゃない!」

「……そっか……」

 絶望に濁った初菜の瞳がまっすぐに和樹に向けられた。

「……私が和君を……壊していくんだね……」

「……月になら……壊されても、いいかな……」

 頭に血が昇って叫んでいた先ほどとは違い、打って変わった静かな声。剥き出しにされた感情が、鋭利なナイフに化けて二人の胸を鋭く切り刻む。

 初菜の瞳から涙が溢れ、和樹は初菜を抱きしめた。初菜の泣き顔を見たくなくて、自分の泣き顔を見せたくなくて。

 二人の涙が、胸の奥から湧き上がる二つの『かなしみ』が、触れ合う身体を通して二人の心に沁み込んでいく。

面会時間が過ぎてもずっと、二人は抱き合ったままだった。まるで、互いの温もりを確かめ合おうとするように。担当の看護婦に見つかるその(とき)まで。

 ……和樹が去った後、初菜は朝まで泣きじゃくっていた。好きだから、愛しているから、ずっと傍にいて欲しいから……。大切なテストを控える和樹を、引き離せなかった……。そのことで、初菜は弱い自分を責め続けた。

 


『……わたしが、こわしてく……』

 たったそれだけの文面。紙が波打っているのは、涙のせいだろうか。文字がよれているのは、指が震えていたせいだろうか。

けれどそれももう、過ぎ去った時間。次の日も和君は来てくれた。全然ダメだったよと笑いながら、私を元気付ける為に何でもないような顔をして。だから、私もダメじゃんって笑ってあげた。声が、滲んだ。顔が、歪んだ。だけど笑った。そうしないと私まで、壊れてしまいそうだったから。そうしないと、和君はもう二度と来てくれないかもしれないと、思ったから。 

そんな醜い自分の心が、悲しかった。


控えめなノックの音が、初菜の意識を現実へと引き戻した。扉が開かれ、入って来るのは初菜の愛する人。

 和樹の顔を見るだけで、愛しさが胸に満ちていく。

「……許可、もらったよ」

 開口一番、和樹はそう言った。

「……そっか……」

 曖昧に初菜は頷いた。

「……迷惑をかけると思うけど……明日はよろしくお願いします」


七 


「あれから、一年……か……」

 感慨深げに和樹は店の外観を眺めた。

「……なんだかもっと、大昔のことのような……気がするね」

 和樹の背中の上で、初菜は身じろぎをした。

「……立つ……?」

「……うん……」

 腰をかがめた和樹の背から、初菜は大地に足をつける。すぐに崩れそうになる初菜の脇に、和樹が肩を挿し入れた。信じられなくなるくらい軽くなってしまった初菜の身体。その体重さえ、筋肉の衰えた足では支えることが出来ない。

「ありがと……」

 力なく微笑む初菜に、和樹の涙腺が緩む。

 初デートから一年。二人は再びセルベッテへと足を運んだ。これが多分、最後のデート。二時間という条件付きとは言え回復の兆しの見えない初菜に、外出許可の出た事実がそれを証明していた。

「いらっしゃいませ、二名様ですか?」

 店内に客は無かった。まるで貸切のようだねと初菜が言った。

実際、そうだったのかもしれないと和樹は思う。扉を開ける時には気付かなかったけれど。

 隣り合わせの席に腰を降ろした。もしも初菜が倒れた時に、和樹が支えてあげられるように。……少しでも近くにお互いを感じていられるように。和樹がメニューを拡げ、二人でそれを覗き込んだ。

「……あは、クリームあんみつだ……」

 懐かしさに初菜が瞳を細めた。

「俺が何食べたか、覚えてる?」

「……ティラミス、でしょ?」

「凄いな、ホントに覚えてるんだね」

「……和君のことだもん、忘れたりしないよ」

 自然と暗くなる気持ちを奮い立たせるように、最期のデートが切なくも楽しい思い出に変わるように。

 初菜の瞳が一つのメニューの上で止まった。ジャンボストロベリーパフェデラックス。はずかしさのあまり、選べなかった、けれど、本当は一番食べたかったメニュー。

「……ジャンボストロベリーパフェ、行く?」

 和樹が尋ねる。覚えていてくれた。そう思うと初菜の胸がじんと熱くなった。

「……んーん、今の私じゃ、たぶん全然食べられないから……」

「……なんなら、俺一人で頑張るけど?」

「……それじゃ、意味、ないでしょ?」

「……確かに」

 本当は食べたかった。一年前のように健康だったなら、絶対選んだのに。悔しさと寂しさに初菜の胸が張り裂ける。和樹の気持ちを暗くさせないように、初菜は笑おうとした。

「……じゃ、これ行ってみようか?」

 代わりにと和樹が指差したのは、『ドッペルファンタジー』と書かれたドリンクだった。大きなグラスにミックスジュース、ストローが二本。お品書きにも『愛し合う二人へおすすめ』と書かれている。

「……そうしよっか」

 控えめに、けれど本当に嬉しそうに初菜が微笑った。注文を受けたウェイトレスがにやりと笑った。ばつが悪くなった和樹は照れを誤魔化すように話題を探した。

「……それにしても、この店ってこのテのメニューがやたら多いね」

「ん~。ちょっと趣味、悪いかもしれないね」

「……と、言いながら頼んでる俺らも俺らだけど」

「……それ以前に『ドッペルファンタジー』って、凄いネーミングセンスだよね……」

「……初菜並のセンスだね……」

「それ、どーゆー意味?」

「『ラブ・ノート』並ってこと」

「……ふ~ん、和君そういうこと言うんだ。ほぉ……」

 微笑みから、思案顔に。思案顔から、怒ったような顔に。ころころと変わる初菜の表情。自然と会話が弾むのは、気の滅入るような病室の外だからだろうか。初菜の胸元で、青水晶のペンダントがきらりと光った。

 

運ばれてきた『ドッペルファンタジー』は、りんごとオレンジの果汁に炭酸を混ぜたミックスジュース。ストローの角度を調整して、二人は顔を見合わせた。

「それじゃ、飲むね」

 初菜が宣言し、二人はゆっくりと吸い始めた。触れ合う肩がこそばゆい。寄せ合う初菜の髪から、甘いシャンプーの香りが漂った。喉がこくりと波打つ音。和樹の腕に触れた初菜の胸が、繊細な柔らかさと、息も出来ないくらいの鼓動を伝えている。

三口ほど飲んで、初菜はストローを離した。

「……いっぺんには、飲めないね」

 舌の上で踊る炭酸に、初菜が苦笑いを浮かべる。

「その方が、良いんじゃない?」

 和樹もストローを離し、笑った。

「……どうせ、子ども舌だって言いたいんでしょ?」

「……あはは、それもあるけど」

唇にぴりりと炭酸の刺激。

「合間にこういうこと、出来るしね」

「……相変わらずだね、和君は」

「嫌、かな?」

「……意地悪……」

 ジュースを吸って、唇を吸った。甘酸っぱくて情熱的なキス。頭の芯がじんと痺れている。身体の奥底が灼けるように熱い。初菜の足がぴくりと動く。

「……イチゴとブルーハワイ、混ぜたらどんな味になるかなぁ」

「……味はともかく、色が凄そう……」

「……ダメだよ、和君。そんなロマンの無いこと言っちゃ。私はきっと、こんな風にとっても甘い味だと思うな」

 唇を通して一つになる。刺激を、感覚を、鼓動を共有している。時間と空間を重ね、悦びや照れや寂しさを重ね合わせることが出来る得難い相手。二人の意識の底にわだかまっている終わりを、甘い痺れで忘れさせようと。

初菜の生命に和樹は触れていた。和樹の優しさに初菜は包まれていた。

「……和君……好きだよ……」

 相手の世界に自分がいる。自分の世界に相手がいる。

「……俺も……初菜が……好き……」

 刻一刻、未来は現在に塗り替えられ、現在は過去へと移ろっていく。

「……『今』が永遠に、続けばいいのに……」

 忘れ切れなかった寂しさが見え隠れする初菜の瞳に、和樹は胸を詰まらせた。

初菜は和樹に伝えたかった。どんなに自分が和樹に感謝していたか。初めて出来た異性の友だちだった。不在がちの両親に代わって、兄のように見守っていてくれた和樹。遊び相手になってくれた。相談相手になってくれた。和樹が傍にいたから、初菜は淋しさを忘れることが出来た。

一年前、学校の帰り道で。突然の告白だったけれど、初菜にとっては突然ではなかった。ずっと昔から、初菜も和樹を見つめていたから。和樹とそうなれたらと、淡い空想を抱いていたから。

入院するまでの五ヶ月間。愛されているのを実感できた。メールの返事が遅いことだけが、初菜には少し不満だった。忙しいのは解るけれど、『受信メールはありません』の文字が辛かった。十五分おきに確認してしまう、自分のせっかちさに苦笑した。

潮風の匂い、かき氷の味を覚えている。映画館で見た、恋愛映画にあてられてはずかしい言葉を囁きあった。ボーリング、カラオケ、ウインドウショッピング。くすんだ日常が和樹と一緒にいるだけで煌いて見えた。

誕生日の夜、一つになったこと。恐怖に打ち勝てたのは、和樹と一緒だったから。贈られたペンダント。二人の写真。嫉妬したくなるくらい、輝いていた過去。文化祭のお化け屋敷。一人なら入れない場所だって、和樹と一緒なら踏み込めた。

入院してからの七ヶ月。毎日のように来てくれる和樹から、笑顔が消えていくのが苦しかった。自分の存在が、枷のように和樹を縛り付けていることに気が付いた。……だから……。

 初菜は和樹に伝えたかった。自分がいなくなったら、新しい生活を始めて欲しい。いつまでも自分に縛られて、哀しみの沼に沈まないでほしい。……けれど……。

「……ジュース、なくなっちゃったね……」

 伝えられなかった。伝えたかった想いが、確かにあったはずなのに……。忘れないで欲しい。いつまでも自分のことを想っていて欲しい……。矛盾する心が、喉まで出かかった言葉を押し戻してしまう。それは再び喉を通って、初菜の胸にやりきれなさを残して行った。

「……そろそろ出よっか」

 携帯を確認して告げた和樹の声は重かった。許可の降りていた二時間はとうに過ぎていた。

 

「この後、どうする……?」

「……家を、見てみたい……」

帳の降りた夜の暗さに包まれ、愛する少女を背中に乗せて和樹は歩き出す。

「……次こそは、ジャンボストロベリーパフェデラックスに、挑戦しようね……」

「……そうだね。楽しみは後にとっておくものだからね」

 静かな夜だった。背中越しに伝わる初菜の柔らかさだけが、和樹の世界の全てだった。

「……ごめんね……」

 額をこすりつけるようにして、初菜が謝った。はっとするくらいに切ない声だった。

「……重いでしょ……?」

「……そんなこと、ないよ」

 小さな身体に秘められた初菜の気持ちが重すぎて、和樹は思わず涙ぐみそうになる。

「……和君に出会えて……和君に愛されて……私、幸せだったよ……」

「……これからもっともっと、愛していく。月を幸せに……してみせるから……」

「……今更だけどさ、私のことを『月』って呼んだり、『初菜』って呼んだり……するのはなんで?」

「……幼なじみで、彼女だから……。俺は……君のことが大切で……大好きで……。ごめん、上手く言えないや……」

「……ううん、わかるよ。かき氷のシロップみたいなものだよね。……私にとってもあなたは、和君であってお兄ちゃんだもの」

 通い慣れた通学路、初菜にとっては懐かしい道を進む。ひんやりと涼しい夜風が、初菜の髪をくすぐった。遠くの家から犬の吠え声が聞こえ、初菜はぶるっと肩を震わせた。

「……怖い……?」

 初菜は一瞬逡巡し、「ちょっとだけ」と笑った。

「……だけど、和君がいてくれるなら、怖いものなんて何もない……」

「……そんなこと言って……。お化け屋敷でもびびってたくせに……」

「……意地悪だな……和君は……。……そうだね、怖いというよりも……淋しいかな……」

 感覚が共有出来なくなることが。哀しみや切なさや幸せを、重ねられなくなることが。

 感覚が閉じていく。意味が分解され、ミルクの中に溶けていく。

「……好きすぎて……眩暈がするよ……」

 夜風がひゅうと笑った。初菜はペンダントを握ろうとした。

「……切なくて……息が苦しいよ……」

 和樹の足が止まった。

「……着いたよ、初菜。ここが君の家。隣が俺の家だ」

 声が聞こえる。遠い遠い、ここと向こうの境界線で初菜はそれを聞いた。振り向く和樹が、やけにゆっくりと見えた。

「……ばいばい、和君……」

 和樹の瞳が涙で光っていた。

「……さよなら、月……」

 青水晶のペンダントがきらりと瞬いた。

まるで少女が、手を振っているかのように。


       



白で構成された単色の世界。意味も無く、ただそこに拡がっているだけの空間。白い床。白い空。白い地平線。

白い退屈、白いため息、白いあくび。

床に寝そべって、空の白を眺めていた少女は、やがてのそりと起き上がった。少女は一人だった。一体いつからここにいるのだろう。一体いつまでここにいるのだろう。少女は考えようとして……やめた……。

人間が作り出した概念に意味は無い。生まれてきた意味だとか、死んでいく意味だとか。食事をすること、キスをすること。罪を犯すこと、日々を怠惰に過ごすこと。身体を重ねること、愛想笑いを浮かべること。勉学に励むこと、金を稼ぐこと。

全てに意味は無いけれど、解った振りをするのも悪くない。一体いつから……? 飽きるくらいには長く。

一体いつまで? この魂が生まれ変わるまで。下手をすると、永遠にも似た時間。

白い泉が光を湛えていた。それに気付いて少女は僅かに首をかしげた。いつからこの泉は光っていたんだろう? ずっと前からだっけ? それとも今さっきから? そもそも、こんなところに泉なんてあったっけ? 光は明滅し、少女の網膜に鮮やかな青を焼き付けた。

『……うさぎの御用はいかがです……?』

 少年の声が泉から零れ、少女はさっと顔色を変えた。泣けばいいのか笑えばいいのか、戸惑っているような、そんな表情(かお)

『……お傍に参っていいですか? 一人ぼっちのお月様』

 青い光の中に少年の影が浮かび上がる。光が消えるのを待たず、少女は少年に飛びついた。

 あれからどうしたの? 何年経ったの? どうして来ちゃったの? 幸せに、なれた? 

 聞きたいことは山のようにあったけれど、少女は少年の胸の中でただただ泣き続けた。

『……ここは、[お兄ちゃんはうさぎなんてガラじゃないよ]って、笑うところだよ? 月』

『……和君……和君……和君……!』

 久しく口にしなかった名前。久しく耳にしなかった名前。

『泣き虫初菜……本当に変わってないんだね……』

 鼻をすすりながら、少女は少年を見上げた。

『……手、繋いでもいい?』

 答えを待たず、少女は少年の手を掴む。少女一人では退屈な世界でも、少年がいればきっと楽園に変わるから。生まれ変わるまでの永遠にも似た時間、そして生まれ変わったその先で。

青い光に包まれて、二人は顔を見合わせた。

 愛し合う歓びを二人、分かち合うように。


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