エピローグ
少年の家庭環境は最悪だった。
父親は毎日酒に溺れ、子供が見ている前でも堂々と母親を殴った。
母親は優しかった。
だからこそ少年にとってはそれが辛かった。
優しい母は毎日父の暴力から自分を庇ってくれる。
そして自分は何も出来ない。
それが何よりも辛かった。
少年は毎日下を向いて学校に通っていた。
学校になど行きたくなかったが、母の言いつけだったから仕方なかった。
周りは皆当たり前のように楽しんでいる中学二年生の春。
しかし、少年にとっては地獄の様な日々。
少年は中学でも上手くいっていなかった。
家庭の問題からか、周りと馴染めず、結果としていじめられる事もしばしばあった。
それでも毎日学校に通っていた。
ある日、少年が学校に行こうと家を出ようとした時だった。
母親が居間でうずくまっていた。
大慌てで駆けつけると、凄い熱だった。
しかし、母親は気丈に笑い、大丈夫だから行ってきなさいと言う。
そこに父親が現れた。
父親は二人を罵倒し尽くした挙げ句、少年をさっさと学校に行けとつまみ出した。
父親は狡猾で、少年に露骨な暴力を振るったり、学校に行かせないという事は決してしなかった。それをしてしまうとすぐに世間に目をつけられてしまうからだ。
代わりに髪を引っ張るなどの見えにくい暴力、そして言葉の暴力は目一杯振るった。
このグズ、カス、死ね。
それは世間がおちゃらけて言うような柔らかいものではない。
渾身の憎しみを込めて放たれるそれらの言葉。
少年はそれらの言葉にも耐え、必死で扉を叩いた。
ただ母親が心配だった。
しかし、決して扉は開かなかった。
扉の向こうから放たれる、さっさと行ってこいこのグズ、の一言。
少年は泣きながら走った。
何なんだこの世界は!
自分は前世で悪いことでもしたのか!
少年は泣きながらただただ走った。
少しして、少年は転んでしまった。
起き上がると、地面に先程まで無かったはずの紫色の綺麗なカードが落ちていた。
少年はそれを拾う。
頭の中に何かが響いてくる。
『このカードは世界を超えるカード』
少年はカードを抱きしめ、目を閉じ、必死で願った。
――こんな世界、要らない!
目を開けると、いつの間にかカードは消えていた。
そしてここから妙な事が起こった。
いつも通り、学校に行き、自分の席に着く。
気のせいか、何やら周りが自分を見てざわついている。
また自分をいじめるために嘲笑しているのか。
少年は重い気分で俯いた。
しかし、そうではなかった。
授業が始まり、いつもの教師がやってくる。
教師が入ってきた瞬間、生徒が教師に向かってヒソヒソと話をする。
何やらこちらを見てヒソヒソ話をしている。
しばらくすると、教師が少年の元にやってきた。
そして、衝撃の一言が放たれる。
「ねぇ君? どこの学校の子?」
「…………え?」
少年は大慌てで周りを見回す。
壁に貼ってあったクラス名簿。教師が持っていた出席名簿。
それら全ての名簿から、自分の名前が…………消えている…………。
更に自分のロッカー、壁に貼ってあった習字。
全てがまるで初めから無かったかのように消えている。
名簿も自分の部分が空白になっているのではなく、まるで最初からいなかったかのような並びになっている。
「どういう……事?」
少年は教室を飛び出した。
「あ! ちょっと君!」
少年は学校を抜けあてもなく走っていた。
どうなっているんだ。
これも何かのいじめなのか?
それにしては何かがおかしい。
少年は家に辿り着いた。
本来なら学校にいる時間に抜け出してきた。
怒られるか。
少年が扉の前でもじもじとしていると、扉が開いた。
扉の向こうから母親が出てくる。
「あ……あの……」
少年はバツが悪そうに俯く。
しかし、母親から放たれた一言はそんな少年の杞憂を全て木っ端微塵に吹き飛ばした。
「ん? ボク、どうしたの? うちに何か用?」
少年はバットで殴られたかのような衝撃を受けた。
「ボク? どうしたの?」
「お…………かあ…………さん……?」
「え?」
少年は再び走り出した。
「あ! ちょっと! ボク?!」
何なんだこれは。
何の冗談だ。
少年は自分の事が記録してありそうな場所を全て回った。
しかし、完全に自分の存在は消えている。
――自分はこの世界から抹消されてしまった。
訳が分からず走っていると少年はまた転んでしまった。
カバンから教材が散らばってしまう。
少年はしばらくその様子を見て思わず笑ってしまった。
そうだ。何を嘆くことがあるんだ。
自分が望んだ事じゃないか。
少年は高らかに大笑いする。
そうだ。この世界に自分の事を知っている人間は誰一人いない。
自分は自由だ!
笑っていると、ふと飛び出した教材に目が行く。
それは数学の教科書だった。
――未知数を示す記号、エックスとワイ。
そうだ。
この世界で自分は誰一人知られていない未知の存在。
今日から俺の名前は、エクスワイト だ!
ワイトはゆっくりと目を開く。
そこは夕暮れ色に染まる全く知らない、小さな部屋だった。
オフィスビルの会議室のような、しかし、何も無い部屋。
あるのはモニターだけ。
そのモニターには地面に座り込み、大粒の涙を流しながら泣き叫ぶシロの姿が映されていた。
ワイトはその様子を見て、潰れてしまいそうなほど心が痛む。
このカードを使った時はいつもそうだ。
モニターなりテレビなりがあり、つい先程まで自分がいた世界が映されている。
それはまるでこう言われているようで気に入らない。
おめでとうございます。
あなたは以前の世界を抜け出し、一つ上の次元の世界にやってきました。
モニターの中はあなたが今までいた、一つ下の次元の世界。
ただ薄っぺらい平面の世界から抜け出してきた存在。それがあなた。
ワイトは無言で部屋を後にしようとする。
無機質な扉を開け、外に出ようとするが、最後の最後にモニターのシロの姿が目に入ってきてしまった。
シロはまだ泣き続けている。
ワイトは若干、それこそ泣きそうな表情でその様子を見つめていたが、やがて目を閉じ、部屋を後にした。
ワイトは今まで何度もこの紫のカードで世界を渡ってきた。
別に自分の最初の世界に大きな未練があるわけじゃない。
あの世界は間違いなく地獄だった。
しかし、世界を超えると自分は必ずその世界で一人ぼっち。
それはまるで宇宙から自分という異分子が弾き出されている。
そんな風に感じられて仕方なかった。
それに自分の世界には唯一つだけ心残りがある。
――あの世界に置いてきた母親はどうなってしまったのか。
あの時、自分には力が無かった。
しかし、今の自分なら別だ。
だから、もう一度自分の世界に戻ってみたい。
その一心でワイトは世界を渡り歩いてきた。
ワイトは外に出て思い切り伸びをする。
夕暮れ時の大都会。
風景だけはいつもと変わらぬ光景。
ワイトは出てきたビルを振り返る。
このビルはロック解除などは必要なかったが、場所によっては入り口にロックが掛かっていることも多い。ワイトは自嘲気味に呟く。
「そりゃあ屋上の電子錠だって開けられますよ。今までも別世界の同じ場所で経験してきたんだからな。もし番号が違ってたらアウトだったけど」
「残酷なやり方をするな。他にもっと良い分かれ方があったろう」
ワイトはため息をつきながら声の主を見やる。
それは何の繋がりも無くこの世界に放り出されてしまったワイトにとって唯一、以前からの繋がりである、神の姿だった。
「あの小娘はまだ泣いておるぞ。それこそ自殺してしまいそうな勢いでな。さすがのワシも見ておられんかった」
「だったら俺に世界を自由に渡れるようになるカードを寄越せよ」
「出来るわけなかろう」
「何百回言えば分かるんだ! だったら最初から言うな! 余計にムカつくんだよ!」
「いだいいだい! 髪を引っ張るな!」
「第一、てめぇも! 誰が付いてきてくれって言った?!」
「仕方なかろう。ワシだって好き好んで付いているわけではない。紫のカードを使った事がある人間には神の監視が付く。だからワシがこうして付いてやっておるわけじゃ」
「頼んでねぇんだよ! だったらその任務を放棄していいからどっか行け!」
「いだだだ! 髪を引っ張らないでぇぇ」
ワイトは髪を離すと夕暮れ空を仰いで呟いた。
「さて、と。とりあえずまた適当なカードを取りに行きますかね」
ワイトはその瞳に孤独を抱え、一人、大都会へと消えて行った。




