夜の太陽
それを見つけたのは、癌のために早くに亡くなった父の遺品を整理しているときだった。
少しくすんだ金色の懐中時計。金色をしてはいるが、おそらくは真鍮製だろう。メッキだとしても、金を使っているのならばもっと光輝いて見えるはずだ。
見つけたのは生前から大事なものを入れていると公言していた入れ物の中からだ。とはいっても田舎で見つけた松ぼっくりなんかも入ってたりするので、高価なものかただのガラクタなのかは判断できない。少なくともゴミではなさそうということだけしか。
すでにバネは伸びきっていて、針は八時二三分を指している。ネジを巻いてみようともしたけど、中で錆付いているのかうんともすんとも動きやしなかった。
「母さん、これ知ってる?」
同じ部屋で、また僕と同じように遺品の整理をしていた母に向けて今ほど見つけた時計を掲げながら、問いかける。
ちょっと待って、と待機を命じた母の声に掲げた手を下し、その作業がひと段落するのを待つ。
「で、何がどうしたって?」
振り向いた母に再度右手のものを見せて、これ、ともう一度示す。
僕の手の中に納まっていた金色の時計を一瞥して、母は首を傾げてから興味なさそうに口を開いた。
「ああ、なんかたまに眺めてたっけね。何か思い出でもあったんじゃないの? 特に必要なものではないよ」
どうやら母からのプレゼントとか、そんな素敵な由来を持つものではないようだ。
父はお世辞にもこんな洒落たアクセサリーを自分から買うような人間でもなかったし、そうなると何故こんなアイテムを手に入れたのだろうか。
……考えても仕方ないか。
とりあえず僕も母も使う予定もないので、売れるかどうかだけ調べることにしようと脇に置いて、僕は再びケースの中を覗き込んだ。
この時は、父にしては珍しいなと思っただけでそこまで深く印象に残ることはなかった。
遺品の整理は一日では終わらなかったけれど、一週間もかかることもなかった。
父は――母も僕もだが――あまりものを捨てる人間ではなくて、家には物が溜まる一方なのだが、それをたまに思い立ったように整理しては一気に捨てていた。
今回の整理の結果捨てる物も結構な量になっただろうか。
実家から出てからそれなりの時間がたつため、直前に断捨離を行ったのがいつかは全くもって把握していないけれど、溜まったゴミの量を見れば結構前だったのかもしれない。
視界の端では母がゴミの収集の日に合わせて袋に詰めた思い出の品を並び替えている。あまり後のことを考えずに放り込んだために一つ一つが重いのだろうが、だからと言って引きずるのは控えるべきではないだろうか。
「それじゃあ、行ってくるよ」
まだ日も高いので、僕は車を出してお金に代えられそうなものを買取店まで持って行くことに決めていた。
はいよぉ、という、返事なのか掛け声なのか判然としない声を背中に受けながら、ゴミ袋では見栄えが悪いというだけの理由で採用された貴重品用の入れ物である鞄を肩に引っ提げて玄関の扉を開ける。
我が家は弩がつくほどではないとはいえ、それなりの田舎にあるため、街まで行くには車で半時間かけなければならないほど遠い。
ただ物を売るだけなら近いところで探せばいいのかもしれないけれど、色々と種類が豊富なことを考えれば店舗が一か所に纏まっている駅ビルなどに行った方がいいのだろう。車内に籠った熱を手っ取り早く窓から追い出しながら、僕はそんなことを考えていた。
ところどころ渋滞していたせいで予定より遅くなってしまったけれど、事故などに遭うこともなくターミナル駅までたどり着いた。
さて、まずはどの店から当たってみようかと取り出した鞄を開いたところで、例の懐中時計が目に入った。
そういえばこの時計は動かなかったのだったか。売ったりする前に一度時計店で見てもらった方がいいのかもしれない。
直すことについては何も考えずにここまで来たけれど、駅ビルの中には時計店の一つくらいあるだろうとビルの入口へと足を向ける。エントランスの案内板を眺めれば、時計店の場所はすぐに見つかった。
せっかくだし、この足のまま時計店に向かうとしよう。
「あー、ちょっと見てみますね。直せるかわからないですけど」
時計専門店でまず言われたのがこれだ。
ただ中でさび付いたりして引っかかってるだけだと思うのだが、そう簡単に直せるものではないのだろうか。
分解しての原因の調査は大した時間もかからずに終わるということだったので、店内で待つことにした。
しばらくすると、怪訝そうな声で店員に呼ばれたのでカウンターまで足を運ぶ。
「えっと……、これ時計の形してますしちゃんと部品入れたら普通に動くんですけど、これを入れるためなのか中に空間が作られてまして。なのでうちではちょっとすぐには直せそうにないですね」
そう言って店員は、文字盤を開かれた懐中時計と一緒にトレーの中に入れられていた、小さく折りたたまれた紙片を持ち上げて見せる。
「一応規格はあってるので、直すのだけは汎用品でどうにかなるんですけど、その分お代をいただくことになりますね」
どうします? と店員は続けて目線で語りかけてくる。
元々この時計は直して使うほど大切なものでもないし、売れそうにないなら廃棄するだけである。廃棄を時計店に頼むわけにもいかないので、懐中時計とついでに中に入っていた紙切れも引き取ることにして店を後にした。
とりあえず三軒くらいの買い取りを行っている店を回って、鞄の中身を軽くしてから車に戻った。売れるかと思っていたものの八割近くは売れたんじゃないだろうか。
助手席に些か乱暴に鞄を放り投げると、中から軽くだけ閉じた懐中時計が転がり出てしまい、落ちた拍子に文字盤が開いてしまった。
そういえば中に入っていた紙片まで詳しく見てはいなかったろうか。父が死ぬまで大事にしていたものを勝手に覗き見るというのも少し抵抗はあったのだが、父はもういない人間だし、あの母に尋ねても大して興味もなさそうに別にいいんじゃないと適当にあしらわれる結果しか見えなくて、ここで見るも見ないも大きな違いはないかと結局広げてみることにした。
紙質は結構分厚い感じだけれど、写真というわけではないようだ。大方初恋のいい人か何かだろうとの予想は外れたらしい。
かなり丁寧に畳まれていたのか、その小ささからは考えられないくらいの大きさの紙を広げることになった
「……地図?」
畳まれ方の丁寧さとは裏腹に、紙に書かれていたのはあまり正確とは思えない手書きの地図のようだった。表――片面には何かの建物の概略図のようなもの、もう一方の面には、見覚えのある地形を表した簡易地図のように見える。
「……ふむ」
概略図に一カ所、簡易的な地図に二カ所だけ赤く丸されているあたり、何かのありかを示した地図なのだろうけれど、これだけでは情報が少なすぎて何が何だかわからないな。とりあえず家に帰ってから市販の地図と照らし合わせてみることにして、僕は車のエンジンを始動させた。
家に帰りついて挨拶もそこそこに、早速この近辺の地図を物置から引っ張り出して懐中時計の中から発見された地図と照らし合わせてみる。
この家は僕が生まれる前から建っているはずだから、赤い丸のどちらかはこの家の場所を表しているのだろうとあたりをつけて二つの地図を比べていく。
「この辺りかな」
何分長いこと懐中時計にしまわれていたせいか、情報が最新のものとは随分と異なるらしく、照らし合わせる作業は思いの外難航してしまった。
うちではない、もう一つの赤丸が示す場所には何やら豪勢な建物が建っているかのように書かれているが、場所自体は山奥と言ってもいいくらい人の容易には立ち入れないようだ。
念のため、古い地図も調べてまた見比べてもみたけれど、道はそこまで大きく変わってはいないみたいなので、ここで間違いないのだと思う。さらに言えば目印として書き加えられていたいくつかの建物が当時の方が合致するものもあったりして、より信憑性が高まったともいえる。
「行ってみるか」
すでに日は傾き初めてはいるもののまだ日没まで時間はある。赤丸印の場所までは大した行程ではないので晩御飯までには帰ってこれるだろうと、軽い気持ちで再び車のキーを取り出した。
「ここか……」
車での行軍は予想していたより時間が掛かっていたのか、はたまた単純に山と山の木々に陽光がさえぎられているだけなのか、目的の場所にたどり着いた時には辺りは暗くなってしまっていた。
途中から道路は舗装されていないどころか、しばらく人の手が入ってないのではないかと思えるほどがたがたになっていたけれど、目の前には地図に示されている通りの西洋風の屋敷が屹立している。放置されてから時間が経っているのか、壁面には蔦が這っていたりしているが、懐中時計の中に入っていた地図に書かれていた目的の建物の外側と見た目は一致しているようだ。
ここまで来て、何もせずに帰るというのも少し変な気がして、僕は時計の中に入っていた地図の表側――建物内部の様子に書き加えられた赤丸を確認しに行こうと決めた。不法に侵入するのに抵抗がなかったといえば嘘になるけれど、この家はどう見ても人の出入りがあるようには見えなかったし、誰も見てはいないのだからと気にしないことにして門へと向かった。
少なくとも敷地外にはチャイムの類はないようだ。ここがこの建物の表に当たるとも限らないけれど、今更別の入り口を探す気にもなれなくて、僕は門に手を触れた。
門はさび付いていたのか少し力を入れた程度ではビクともしなかった。
体重をかけて押すことで、ようやくギギギと音を上げながら錆びれた門は僕一人を通すだけの隙間を開けた。
「……お邪魔しまーす」
門を潜ると、洋館の全貌が改めて視界に飛び込んできた。なんだか門の外側から見るよりもなお、屋敷は人の侵入を拒んでいるかのようだった。とはいえここで怖気づいていても仕方がない。一番短いものでも膝をの高さを超えるくらいの草をかき分けて、やっと玄関の扉までたどり着いた。
インターホンが門の付近にはなかったので、玄関にあるのかと思い扉の周りを携帯の明かりで照らしながら探してみたものの、それらしき物は見当たらなかった。思えば人が住んでいないのならばインターホンが設置されていようと電気が止められているだろうから鳴るわけがないのだったか。そうなると電灯も全滅と考えた方がよさそうだ。一度車に戻って非常用の懐中電灯を持ってきた方がよさそうだ。
限られた光源が不気味に揺らめく影を創り出す中、僕は再び扉の前に立っていた。ドアノブはこれまたいくらか固まっていたけれど、雨ざらしではなかったせいか門ほど腐食が進行してもいなかったおかげで握力だけで回すことができた。
鍵はかかっていないようで、ノブを回し切ったところで、扉の突っかかりが取れて五センチメートルほどの隙間が簡単に出来上がった。念のためノッカーを響かせて自分の来訪を中に知らせてから扉を開け放つ。
室内は外観ほどは荒れ果ててはいないようだ。些か埃っぽいことはあるが、それは仕方のないことだろう。電灯で辺りを照らしてみたが、ここは概略図から予想できる通りエントランスらしい。元は高級だったであろう絨毯が惜しげもなく敷かれていることから、かなり裕福だったのではないかということが窺える。
「さて」
ポケットからあの紙切れを取り出して電灯で照らす。目的の場所はおそらく二階の奥の方の部屋だ。こんなところに長居するつもりもないし、父の遺産を確認してさっさと帰ろう。
エントランスは広かったからかあまり気にならなかったのだが、二階の通路に入ると時折蜘蛛の巣が顔に絡んできてしまう。見た目こそ荒れてはいないが、こうして中を探索しているとやはり人の手が入っていないことを実感するものである。
やがてたどり着いた扉は他の部屋へと続くものと比べると少しだけきれいなまま残っているような、そんな感じを受ける物だった。
この屋敷の前にたどり着いた時から感じていた、僕の接近を拒否するかのような感覚はここにきてより一層強くなっていた。オカルトの類は信じてはいないけどそれが存在してもおかしくないほど、奇妙に感じるのだ。
自然と、僕は生唾を飲み込んでいた。扉に鍵は存在しない。鬼が出るか蛇が出るか、僕は扉を一気に開け放って中を電灯で照らした。
仮にこの地図が示すものが小さなもので、例えば部屋のワードローブに入れられていたりすれば、部屋の内部を照らしただけでは何もわからなかっただろう。
果たして、それは部屋の真ん中に鎮座していた。
「棺桶……?」
そう、棺桶だ。
ついこの間父を納めた仏教のものではなく、西洋風の――蓋に十字架の書かれたキリスト教の棺桶だ。これがあの懐中時計が導いた結果なのだろうと、直観的にそう思って、僕は棺桶に近づき、その蓋を開けた。
棺桶に納められていたのは少女だ。初めはとことん精巧な人形かとも思ったけれど、ゆっくり――とてもゆっくりと胸が上下しているのが見えて、彼女が生きているということが分かった。
「んう……」
僕が息をするのも忘れて柩の中の少女に見入っていると、少女は眠りから覚めるかのように吐息を漏らす。そのままゆったりとした動作で体を起こすと変わらないテンポで辺りを見回す。顔が動くたびに腰近くまである銀髪がゆらりとたなびいていた。こちらを向いたところでどうやらやっと僕に気付いたらしい、彼女は目を瞬かせていた。
「あなたは誰?」
きょとんと首を傾げて、透き通るような細い声で少女は問いかける。
これが、僕と彼女との出会いであった。
その日はすでに遅い時間であったためまた来ますとだけ伝えて洋館を後にした。人の気配のない屋敷で棺桶に納められている少女など警戒しない方がどうかしていると今なら思えるが、その時はなぜか彼女が危険な存在には思えなかった。
家にたどり着くと母はすでに夕飯を食べ始めていて、遅いとの小言をいただいてしまった。少女のことで頭がいっぱいで生返事しか返していなかったように思う。
夏休みいっぱいは実家で過ごすことにしていたから、彼女と親交を深める時間はたっぷりとあったはずだ。次の日から僕は暇を見つけては彼女に会いに行っていた。夕方になるとどこかに出かけるようになった僕のことを母は不振がっていたようだったけれど、別段何かを訊いてくるようなことは終ぞなかった。
彼女とは色々な話をしたものである。人里離れた屋敷で暮らす彼女に今の街がどうなっているのか、自分が今何をしてるのかなど、話すネタは尽きなかった。ほとんどが自分の話になってしまっていたけれど、彼女は楽しそうに話を聞いてくれるのだ。共に過ごすにつれて僕は次第に彼女に惹かれていっていたたのかもしれない。
惹かれていったとは言うけれど、別に彼女に恋慕の気持ちを抱いていたわけではないと思う。
そもそも彼女は人間ではないというのだ。
自分は永い時を生きる吸血鬼である、ということは結構早い段階で告白された。にわかに信じがたい話ではあったけれど、目の前で切り落とした腕が再生するところを見せつけられれば少なくとも人間ではないと納得せざるを得ないだろう。未だに信じられないのだけれど。
ちなみに吸血鬼と言っても怪談で語られるような恐ろしい存在ではないらしい。
「だってそんなことをすれば討伐されちゃうじゃん」
とは彼女の言だ。
「確かに、血を吸えばより力を高められるよ。でもそれをしちゃうと人間に敵とみなされちゃう。私はそんな面倒なことしたくないの。
この屋敷にだって、人払いの結界を張ってるんだよ? あなたには効かなかったみたいだけど」
フゥと一息ついて、彼女は続ける。
「もしあなたが私に大して攻撃的な人間であったのならば、私はさっさとここを出て行っていたよ。今までもそうしてきたしこれからもそうしていくの」
それは、なんだかとても寂しいことのように思えた。とはいえ仕方のない面もあると思う。人間に害なせる存在というのは人間社会で生きていくのは難しいのだろうから。
「そうだ、何かしてみたいことはないかな? 力になるよ」
何か彼女のためにできることはないかと考えた結果、そんなセリフが口をついて出ていた。
そんな僕の言葉に、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしてしまった。何か変なことを言ってしまっただろうかと気まずい気持ちになりそうなところで、彼女はこらえきれずに吹き出した。
「フフッ、何それ。私ができないことをあなたがしてくれるって言うの?」
見た目こそ少女であるものの、実際に過ごした年月は成人したばかりの自分とは比べ物にならないほど長いのだ。それに僕の社会的地位だと彼女が何かをしてみたいといっても大した力にはなれないだろう。そんな浅慮さに僕は身の縮こまる思いだった。
「でも……、ありがとう」
そんな僕に彼女がそう言ってくれたことで僕はいくらか救われる思いだった。
「そうね……、吸血鬼にとっては到底無理なお願いなんだけど」
そう前置きして、彼女は『お願い』を僕に伝える。
「もう一度、太陽が見てみたいの。写真なんて偽物じゃなくて、本物をね」
そういって優しく微笑んだ彼女の瞳に垣間見えた哀しみを僕はしばらく忘れることができなかった。
ほどなくして大学の夏休みも終わり、僕は帰省していた実家から下宿先へと戻ることになった。
母に捨てられたりしないようにと下宿先まで持ってきた懐中時計だけれど、なくさないよう化粧箱に大事にしまったきり、僕はその存在を忘れてしまった。
同じように彼女のことも、――あれほど強烈な体験であったにもかかわらず――忙しい大学生活の中で頭から抜け落ちてしまって、その後の生活でもそう思い出すことはなかった。
洋館にある棺桶の少女のことを思い出したのは実家で暮らすことになってからのことだ。
母親が倒れたとの知らせを聞き、急遽見舞いに訪れた僕たち兄妹は母親から家のことを頼まれたのだ。しかし妹はすでに身軽ではなかったためにこれを拒否、結局僕が仕事を辞めて地元で暮らすことと相成った。
せっかく手に入れた割のいい仕事を手放すのに未練はあまりなかったろうか。なんでかな、部長が面倒な頑固者だったからかもしれない。
下宿にある自分の荷物は特に何も考えずとにかく詰め込んだのであまり把握していなかったのだが、実家に荷ほどきをしてる際に雑貨を適当に放り込んでいた段ボールから、父親から譲り受けた真鍮製の懐中時計が発掘された。
「これは……」
あれからこれには特殊な改造が加えられ、一見ガッチリと嵌っている文字盤なのだがある特定の操作をすれば文字盤が簡単に取り外せるようになっている。色々と調べて自分で施した会心の仕掛けである。
カチャカチャと時計を弄ると文字盤がぐらぐらと揺れはじめる。ひっくり返して外せば記憶通りそこには彼女の居場所までの道のりを示す地図が入れられていた。とはいえ、あの屋敷が記憶通りの場所にあるならばこの紙切れはもう必要のないものなのだが。
父親が亡くなったころに一時期会っていたが、あれ以来顔も見せていないことになる。彼女は今でもあの洋館で暮らしているのだろうか。
思い立ったが吉日というし、今日にでもひとっ走り洋館まで出向いてみようか。
「変わらないな」
以前のように門を開けて中庭へと浸入する。放置されて伸びきってる草も、通るところくらいは一度刈ったほうがいいだろうか。これからは結構な時間があるのだから、頭の片隅に置いておこう。
彼女が棺桶から出て僕の来訪を待っていたことはないが、念のためノックをしてから彼女の部屋にお邪魔する。
電灯で中を照らしてみれば棺桶は記憶と同じ姿で部屋の中央に安置されている。飽きたら出て行くと言っていたから、柩がここにあることにまずは安心である。持ってきていたランプに火を灯して柩の前方に置けば部屋全体が仄暗く照らされた。
ずっと音沙汰のなかった僕のことを彼女はどう思っているだろうか。永い時を生きているのであればあまり気にしないでいてくれるのかもしれない。
緊張から一つ息を吐いてから重厚な蓋に手をかけてゆっくりと開けた。
彼女は記憶の中の姿と変わらない様子で柩の中に横たわっていた。蓋が完全に開ききったあたりで身じろぎをして、その体を緩慢な動作で持ち上げる。寝起きの彼女はいつもこうだったっけと懐かしい気持ちを感じた。
「久しぶり」
彼女の目が僕の姿を捉えるのを待ってから僕は彼女に声をかけた。しかし、僕を待っていたのは想定していた言葉ではなかったのだ。
「あなたは誰?」
初めて会った時のようにきょとんと首を傾げて、彼女は問いを投げる。
この言葉は僕にとって少なからず衝撃であった。今の今まで忘れていた僕が言えた義理ではないのかもしれないが、あれだけ楽しい時間を過ごしたにも関わらずそれを忘れるというのはひどいと思ってしまうのも仕方ないのではなかろうか。
……それとも何か別の理由でもあるのだろうか。
彼女は嘘などが好きな性格ではなかったように記憶している。そうなると記憶を喪失している可能性が疑われるな。
「何年か前に、君と会っていたんだが、覚えてないかな」
問うてみると彼女は悲しそうに顔を伏せた。
「ごめんなさい、私あまりものを覚えていられないみたいなの……」
ああ、やはり記憶喪失だったか。彼女は永遠を生きる吸血鬼なのだ。僕たち人間と根本的に違うところがあってもおかしくはない。
これからまたかつてと同じように時間を重ねて行けばいいのだ。
手始めに、まずは自己紹介から始めるとしよう。
「そういえば」
いつか言おうと思っていたのだが、なんとなくタイミングを逸し続けていた話題をついに振ることにした。
「何?」
「昔に会った時に、太陽が見てみたいと言っていたけど、その願いって今もあったりするのか?」
僕の質問にそこまで言ってたんだ、と驚く彼女だったが、すぐに柔和な笑みで応える。
「そうだね、その『願い』は今でもあるよ」
もちろん、本物が見れるはずもないけどと続けた彼女の顔に影が差していたのはランプのせいだけではないのだろう。
「もし」
そう前置きして、僕は彼女と再開してから考えていた提案を口にする。
「もし君さえよければ、夜に見れる太陽を一緒に見に行かない?」
口にしてから、なんて気障なセリフなんだと思ったりもしたが、もう後には引けなかった。
全くピンと来ていなさそうな表情をしていた彼女だったが、意を決した僕の表情から何かを感じたのかすぐに悪戯っぽい笑みを浮かべて言う。
「うん、ありがとう。エスコートよろしくね」
こうして、僕と彼女の初デートの予定が決まった。
僕が夜の太陽と表現したものが何だったのか。それは花火のことだ。
実は彼女から初めて太陽を見たいという願いを聞いた時も、花火のことを思い浮かべていたはいた。地元の花火大会はすでに終わっていたし、学生の身分で遠出できるほどの余裕は当時なかったせいで、その時に口にすることはできなかったのだが。
花火大会当日、僕は日が沈むのを待って、買ったばかりの車で彼女の居る洋館まで迎えに来ていた。
屋敷の扉を開けると、ちょうど彼女がエントランスに降りて来ていたところだった。
彼女はいつもの簡素な白いワンピースの上から薄手のカーデガンを羽織っていて、赤い瞳を隠すためか、鍔の大きな麦わら帽子を目深に被っていた。
お待たせ、いや、今来たところ、というドラマかと言いたくなるようなやり取りをした後、僕の車まで案内する。
「へぇ、今の車ってこんな感じなのね……」
僕の車を見た彼女の感想はこんなところだ。思わず口をついて出たといった感じである。
彼女の車のイメージがどんなものなのか気にはなったけれどそれを聞き出すほど僕は無粋ではないつもりだ。地元の人間でもあまり知らない穴場まで運転する間、彼女は流れていく風景を終始興味深そうに見ていたものだ。ただ、不可解なものを見つける度にあれは何? と運転中の僕に問いかけるのはやめてほしい。
僕らが穴場と称す高台につくほんの数旬前くらいに、花火大会はすでに始まっていた。
パン、パパンと前菜の小ぶりな花火が上がり続ける中、僕は彼女を最も見晴らしのいい場所へと連れていく。
「わあ、これが……?」
目を輝かせて真正面を向いたまま、彼女は呟く。
「うん」
僕は花火を見るようなふりをして彼女の横顔を盗み見ていた。今の彼女はなんとなく見つめていないとどこかに消えてしまうような、そんな儚さを感じてしまった。尤も、彼女の眼から涙がこぼれるのを見止めたところで慌てて視線を外したのだが。
そんな僕に気付いたのか、彼女のくすくすと笑う声が聞こえた。
しかしそれに対して特に何かを言うようなことはなく、再び佳境に差し掛かっていた花火大会の様子に集中したようだった。
そのあとは、花火大会が終わるまで僕も彼女もただ静に、轟を上げて打ちあがる大輪を見つめていた。
花火と共に打ち上げられた煙が晴れてきたころに、僕たちはほとんど同時にふうと息を吐き、顔を見合わせて吹き出してしまった。
「どうだった、この『太陽』は?」
ひとしきり笑い合った後に僕は彼女にそう訊いてみる。
「うん、まぶしかったよ」
暗闇でもはっきりとわかるくらい晴れやかな笑顔で、彼女は答えた。
お読みいただきありがとうございます。
この作品は丹尾色クイナの企画のもとに、『光るきれいな石を拾いまして。 ~六畳一間の世界征服~』などを書いている癸(http://mypage.syosetu.com/564200/)が書きました。
活動報告にて裏話などを上げています。
…っていうかそれ読まないと特に何の変哲もない作品になっちゃったかも……。