ノエル
ふざけているのだろうか、とノエルは思った。
つるつるした手触りの広告。
「冒険を、現実にする?」
そんなの信じられるかと思いながらも、玄関先に雨ざらしの表札──ぺらぺらの広告でもはや看板の役目は果たしていないように思う──を眺め続けた。
やっぱり帰ろう。こんなところに来たのは気の迷いだったのだ。
そこまで思ったけれども、どうしてだか、踵を返すことができなかった。
気の迷い、ということについては、ノエルは思うところがあった。
その言葉は、自分に相応しくないというような気がする。正しくは、自分の目に見えているこの世界には、であろうか。
迷い、とわかるほど、迷っていない状態というものがわからない。それは、他人を見た時に、あの人は迷ってなさそうな気がする、まっすぐ歩いているような気がするという推測で感じられるものでしかないのだ。自分に関しては、いつも迷ってきていた気がする。それは心根の問題ではなく、人生の行先をといったほうがただしいかもしれない。
ノエルは、まさか自分はそうならない、となんとなく思い続けていたことに限って自分が陥ってしまうという、誰に、何に与えられたかわからない属性があった。
ノエルは普通の家庭に生まれた。普通、という基準をどこで得たのかはわからないが、いつの間にか、自分は普通の家庭に生まれたのだ、と思っていた。
父がいて、母がいて、子供は自分ひとりだった。きっと自分は、この生活や立場が普通であり、普遍であると言葉ではなく肌で感じながら、明確にはそのことに気がつかないままに生きていくのだと、意識の裏の裏で、覚悟のようなものがあった。
けれどそれは、今にして思えば、人生の中で、わずかな瞬間だったように思う。普遍など、普通など、ないのだ。
そう、ノエルは思うに至った。
なぜかというと、それら全てを失ったからだ。
父と母は、離婚した。自分を生み出した存在の片割れがいなくなる。それは父だった。
けれどふたつがひとつとなり自分を生み出したのなら、その片割れがいなくなった段階で何もかも失ったも同然なのだと思った。
けれど、ここまでは、まだ、世の中の普通という基準を、それほど踏み外していなかったように思う。なぜなら、ヒトの人生には、普遍的に、それぞれ悲しいことがあるからだ。
父がいなくなったのは多分、夢を追うとか、そういう理由だろう、と幼いノエルはそう思っていた。それが病によるものだのだと知った時、心がすっと冷えるような感覚があったのを今でもはっきりと覚えていた。
世界は、美しくない。抗えない何かが存在している。そう感じた。
けれどノエルには、父の葬式に出た記憶がなかった。だから、ヒトが死ねばそういう儀式があるのだと知ったのは、それからずいぶんたってからだった。贅沢なことをして、と思った。けれど、そちらのほうが普遍に近いものだったのだ。
それから母がいなくなった。
としか、ノエルには思えなかった。
ランドセルをまだ背負っていた頃。学校の帰り道。心のなかでこっそり「自分だけの道」と名づけていた景色の綺麗な田んぼのあぜ道を歩いていた。田んぼと田んぼの間。用水路の水の流れる音が海辺のよう。田畑からの温かい生命の気配。ぽかぽか陽気。良いことが続くという予感。その中で、たんぽぽを摘んだ。ママにあげようと思った。
良いことが続く。このままずっと続いていく。幼いながらに、この丸い地球の真理に触れたような気がした。言葉にすることは難しかったけれども、感じていた。幸せのようなもの。幸せと名付けるのならこの感覚なのだろうというものを感じていた。
母が、ブランコに乗っている。最初に感じたのは、それだった。
どこかで、こういう景色を見た気がしたのだ。
どこかのドラマか、アニメかだと思う。丘の上にある、生命そのものを象徴するような大木の枝にぶら下げられたロープ。それはブランコになっており、乗る者を、まる丘の向こうにある自由の国へ連れて行くように、びゅん、びゅんと揺れる。
それに似ていた。
首をつることで、ママは自由の国に行けたのだろうか。