断絶の十三月
何時なのか、何処にあるのかも分からぬ学校の廊下で夕焼けに照らされた濡羽色の髪を追いかける。歩く度、左右にさらさらと揺れ動く後ろで一纏めにされたそれはまるで馬の尾のようで、見ていると思わず手を伸ばしてしまう。しかし、触れるかどうかというところで風圧を感じたかと思うと、次の瞬間には弾けた音と手にヒリヒリとした痛みがあった。
「触らないで、付いて来ないで、話しかけないで」
刃物を突きつけるように鋭い声で僕を制すとそのまま歩き始める。
「ごめん。僕が悪かった。でも付いてくるなっていうのは無理だ。僕も図書室に向かってるから」
馬の尾が一際大きく揺らめいたかと思うと彼女はこちらに振り返り、そのまま歩き去っていった。眼鏡のレンズが陽の光で反射していて目は見えなかったが、恐らくは怒りの色に染まっていたのだろう。僕は相変わらず嫌われたままで、関係に改善の兆しは見えない。ため息を一つ吐くと、諦めて図書室に向かった。
図書室で一冊の小説を読み終えた。三百頁程のものだったので三時間は経過していると思うが、窓から溢れる光は相も変わらず茜色のままだ。時計の針も午後五時を指したまま動かない。備え付けられた日めくりカレンダーは破られた十二月三十一日が地に落ちたまま。一月は彼方に消えた。かといって今が十二月、もしくは一月なのかと言うとそれも違う気がする。だから、僕はどこか皮肉を込めてこの時間の進まない世界を十三月と呼んでいた。
今日も何も変わっていない、進んでいない。朝と夜もなく、ただその狭間の夕焼け色の世界に僕とあの子は閉じ込められている。僕は本を戻すべく立ち上がった。やること、いや、やれることと言えば校舎内の探索と唯一と言っても良い娯楽施設である図書室で本を読み漁ることだけだった。どういう訳かは知らないが、時間が進まないだけでなく、この高校の敷地内からも出ることは出来ないのだ。外の景色は見えるのだが、それより先に進もうとすれば、見えない壁に弾かれる。
新たに持ってきた本をぱらぱらと捲っていく。木製のテーブルに積み上げられた本はあれから増えて四冊になっていた。空腹を覚えていた上に集中力も切れかけていたが、ここを動くわけには行かなかった。動けば彼女はここにやって来て、幾つかの本を拝借して何処かへと消えるだろう。僕と関わろうとしないのだ。だが、僕は彼女と話がしたかった。二人しか居ないのだ。人ならば繋がりを求めるのは普通だろう。一人では知恵が浮かばなくても二人ならば何かここから出るための方策が見つかるかもしれない。だから、僕はなんとかそういう場を作ろうと有り余る時間を使ってこっそりと彼女の行動を観察していた。すると図書室へ本を借りに来て別の教室で読んでいることが分かった。尤も見つけられない時もあったが、何処かしらで本を読んでいるのは間違いない。となれば接触するためには本がある図書室で待つのみだった。
それからもう一冊読み終える頃には引き戸がガラガラと音を立てた。
「やっと来てくれた」
「いつまでここに居るつもりなの」
不機嫌という刺がびっしりと生えた声が僕に刺さった。正直に言うとここまで嫌われる覚えは全くない。いや、もしかすると記憶を失くす以前の僕が何かしら失礼な行為を働いた可能性はあるが、それにしても嫌いすぎだ。ちょっと、いや、物凄く悲しくなる。
「こうでもしないと来てくれないでしょ」
彼女はそれ以上は無駄だと言うように踵を返したが、その背中に言葉の網を投げた。
「話してくれるまで僕はここを退かないよ」
「これだけ嫌われている相手にそんなに関わりを持ちたいの?」
ため息混じりにこちらを向いた彼女に僕は深く頷いた。彼女は無駄のない動作で一直線に僕の真向かいの席から一つ横にずれた席に座った。ここまで徹底していると傷付くよりも先に笑ってしまいそうになる。
「用件は?」
「その前に名前ぐらいは教えてよ。呼びにくいし」
「進藤」
「進藤さんね。一つ言っておくと僕はどうもここに来る以前の記憶が無いみたいで名前も覚えていないんだ。だから好きに呼んでくれていい」
「その割にはあまり不自由してなさそうね。本も読めてるし、会話も問題なさそう」
それについては僕も不思議だったのだが、以前ここで読んだ本に人間の記憶には意味記憶とエピソード記憶の二種類があり、前者は単語の意味や数式の解き方など学習で覚える記憶を指し、後者は個人の体験、誰と何処で過ごしたかなどの所謂、思い出を指すものと書かれていた。そして記憶喪失で失われるのは後者であることが多いらしく、ご多分に漏れず、僕もそうなったという訳だ。
そのようなことを説明すると進藤さんはそれで、と僕にとっては割りと重要な問題をさもどうでも良さそうに流して先を促す。取り付く島もないとはこのことだ。
「この校舎……夕方のまま時間が止まった世界には僕と進藤さんしか居ないみたいなんだけど、この認識であっているかな。後、記憶を失くす以前の僕は進藤さんと知り合いだった?」
「前者はそれで合ってる。後者はいいえ」
「じゃあこの変てこな世界に二人だけ閉じ込められたことについて僕と進藤さんの関連性はないと。あと知り合いじゃないにしては随分と僕のことを嫌っているけど」
「人が人を嫌うのに大層な理由なんて要る? なんとなく嫌い。姿や声が。それで十分でしょ」
「美人に言われると堪えるね。この際はそれでもいいよ。それよりも大事なのはここが何処なのかというのと出る方法はあるのかということ」
「私も何処なのかは知らないし、時間が止まっている理由も知らない。分かるのはこの場が日本の高校の校舎をモデルにした建物だということ、ここから出ることが出来ないことだけ」
最初の言葉が余計だったのか進藤さんはぴくりと眉を動かしたが、席を立つこと無く会話を続けてくれた。今までのことが嘘みたいなその対応に深い感動を覚えてしまう。とっても嬉しいぞ。
「じゃあその出られない場所から出る方法を一緒に考えようよ。文殊の知恵には足りないけど、二人でなら一人よりも良い知恵が出てくると思うんだ」
「悪いけど、慣れ合うつもりはないの。嫌いな人なら尚更。私は一人で考えさせてもらうから。後、話を聞いてあげたのだからここにずっと居るのは止めて」
「わかったよ。とりあえず、今は出て行く。でも、時々で良いからまたこういう場を設けたいんだけど、駄目かな」
彼女はそれには答えず、そっぽを向いた。否定よりはマシかもしれないが、限りなく否定に近い態度だ。僕は苦笑いしながら図書室を後にした。
誰もいなくなった図書室のテーブルに堪らず突っ伏した。触れることは許さなかった。綺麗な身体が汚れてしまうようで悍ましかったから。視線を交わらせることも許さなかった。綺麗な瞳が濁ってしまうようで耐え難かったから。
「汚い汚い汚い汚い汚い汚い」
自分の身体をぎゅっと抱きしめ、呪詛のように唱える。何度つぶやいた所で汚いものは汚いままで、一度こびりついたそれが落ちることはない。不意に頭に針を思い切り突き刺したような鋭い痛みが一回二回と続いた。痛みがこれ以上悪化しないようにと頭を強く押さえ付ける。もう何度も経験したものだが、耐え難く、何より自分という存在を踏み荒らされているようで我慢ならなかった。
「消えろ、私の世界から。私を、汚すな」
痛みとともにどうしようもない感情が打ち寄せる波のように襲ってきて、私はそれを吹き飛ばすようにして握りしめた拳を思い切りテーブルに叩きつけた。
何処かノスタルジックな雰囲気を漂わせている廊下をただ歩く。記憶が無いのにノスタルジィを感じるというのもなんともおかしな話だったが、どこか心地良く感じる。
今日は進展というほどではないが、収穫はあった。一つは進藤さんと会話が出来たこと。もう一つは今の会話であったおかしな点。『ここが日本の高校の校舎をモデルにした建物ということ』。普通、高校にしか見えないこの場をそんな風に呼称する者が居るだろうか。居るとしたらそれはここが高校ではなく、高校をモデルにした建物だと知っている者だけだ。僕は確信した。進藤さんは何か知っている。
夕焼けの光を鬱陶しく思い、窓に目を向けると眠そうな顔をした癖っ毛の少年の姿が見えた。今でこそ多少は慣れたが、自分の姿なのに見覚えもなく、しっくりこないというのはどうにも変な気分だ。これは本当に僕なのだろうかと自問したくなるが、そもそも僕が僕自身を知らないのでどうしようもない。また、記憶を取り戻したいという思いもそこまでない。だって記憶を失くしてしまったのならもう、今までの自分とは別人なのだ。記憶を取り戻した所でそれを自分のものだと受け入れる自信がない。むしろ取り戻した際に自分がどうなるのかという恐怖の方が勝っている。今、ここで窓を見つめている自分とかつての自分、それを同一のものとして呑み込めるのだろうか。その後、元々の自分として生きていくことが出来るのだろうか。僕は僕なのに、知らない僕が居る。それはなんとも気味の悪い感覚だった。物語の主人公のように一途に失われた記憶を取り戻そうと駆け抜けることは僕には出来ないらしい。
「でも、だったらここを出てどうするんだろう」
答えを促すように窓に映った自分を軽く叩く。しかし、それで答えなど返ってくるはずもない。頭を振って頭にもやもやと浮かんでくるものを払った。さっき読んだ本にテセウスの船等というものが書いてあったばかりに余計なことを考えてしまう。
僕は空腹を満たすべく、調理実習室に向かうことにした。不思議なことにそこの冷蔵庫には何時来ても食材で溢れているのだ。制服にしても更衣室のロッカーに替えが用意されていて、シャワールームもある。布団は用務員室にご丁寧なことに二人分用意されているし、寒ければ各教室にはストーブだってある。つまり、ある程度不自由なく暮らしていけるだけのものがここには揃えられているのだ。まるで死んでもらっては困るとでも言うように。先ほどの進藤さんの言葉を聞いてからそういうものの全てがより薄気味悪く感じてきた。やはり、ここから何としてでも出なければならない。
「気味が悪いからここを出たい。別の場所に行きたい、そもそも人が二人しか居ない上に時間が止まっているというのはおかしいことだ」
要するにここが気に入らないから出たい。理由などそれで十分なのかもしれない。独り頷くと僕は足を早めた。
一日経ったかは分からないが、それぐらいの間隔を開けたつもりで再び図書室にやってきた。するとテーブルに残された本が先ず目に入った。もしかしたら進藤さんが居るのかもしれない。気付かれると逃げられそうなのでなるべく音を立てないよう城に忍び込む間者の如く、慎重に慎重を重ねて彼女の姿を探す。
すると何個目かの書架に目を通した所でその姿を見つけた。胸元にハードカバーの本を一冊抱え、右腕とつま先を大きく上へと伸ばし、一番上の段にある本を取ろうとしていた。進藤さんは凛々しい顔立ちとキツい性格も相まって背も高いように見えるが実のところそうでもない。しかし、いざそれを意識させられる光景に出会うとなんだか顔が綻んでしまう。貶す意図はないのだが、微笑ましい。
ここに脚立等はないのか、しばらくうさぎのように跳ねたりしているが、一向に取れる気配はないし、諦める気配もなかった。本を積み重ねて踏み台にするということも考えたようだが、本を一冊床に置こうとしてすぐに止めたところを見ると例え咎める者が居なくてもぞんざいな扱いはしたくないらしい。仕方がないので見つかることも厭わず横に並ぶと目当ての本を取った。坂口安吾全集というタイトルを確認するとそのまま進藤さんに渡す。
「ありがとう」
受け取るか受け取らないか、見て取れるほどの悩みをひょっこり出した手から滲ませ、結局は受け取った。逃げられることも想定していたが、本への欲求には代えられなかったらしい。
「どういたしまして。嫌味じゃないけど、受け取ってお礼を言って貰えるとは思わなかった」
「助けてもらったのにお礼を言わないのは人道に反する」
相変わらず目を合わせないままに言うその顔は少し朱に染まっている。姿を見られた恥ずかしさが半分、屈辱が半分と言ったところか。この後、結局逃げられてしまったのだが、それからまた何日分かの時間を使って追いかけていると再戦の機会が訪れた。
「まさか一緒に読書できるとはね」
「身の毛のよだつ様なストーカー行為を働いておいて良く言う。犯罪者め」
苦虫を噛み潰したような顔で嫌味をぶつけてくるが、目が合うとすぐに逸らしてしまう。恥ずかしがっているという様子ではないのだが、何かしてはいけないことをしてしまったというような、一瞬我に返った表情をするのでどうにも気になる。
「僕って直視するのすら躊躇われるほど醜悪な顔してるかな」
「してる」
即答だった。
「ところでここを出る方法は思い浮かんだ?」
「全然」
分かりきっているのに訊いた。知っているのならとっくに出ているだろうし、一人でやれることは少ない。つまり、一人が出来ることはもうないのではないか、という確認だった。
「じゃあさ、一回二人で校門をくぐり抜けてみるってどうかな。今までずっと単独行動だったから二人ならではの行動を試してみたいんだよね」
「ゲームじゃあるまいし、無理でしょ」
断言する進藤さんを無理矢理に引っ張って試しみたが、駄目だった。先の景色は見えるのに見えない壁に弾かれる。そう簡単にはいかないと分かってはいたが、思わず吐いた溜息を丸めて赤い空に投げつけたくなる。一体どうすればここから出られるのか。だが、進藤さんとの関係改善という第一目的は少しずつ進み始めているのは確かだ。無駄ではないし、これが脱出の鍵になると僕は信じていた。何か意味があるはずなのだ。一人ではなく、僕ら二人が閉じ込められているという意味が。
夕暮れが張り付いた図書室、目の前に居る彼をちらと伺う。真剣に本を読んでいるようで気付く様子はなかった。心の中で自分は何をやっているのだと嘆息する。過ちの連鎖を断ち切る。そう決意し、彼とは距離を置いてその存在を拒絶した。断絶し、それは長く続いていてこれからも続くはずなのだ。にもかかわらず、またこうして日に日に関係が戻り始めている。彼の強引さが磨きを掛けているのもあったが、一番はそれを跳ね返せない自分の弱さだった。甘えてはならないのに甘えている。
ふと読んでいた本に目を落とすと恋の文字を拾い上げていた。頭を振る。次に拾ったのは愛の文字。
「なんなんだこの本は!」
ふざけた文字ばかりを見つける自分とこの様な文字が載っている本が許せずに思い切り音を立てて立ち上がってしまった。
「ど、どうしたの」
「あ、いや、何でもない……です」
気の触れた者のような振る舞いをすれば誰だって驚くし、引く。私は顔が熱くなるのを感じながら席に付いた。こちらを心配そうに見つめてくる瞳が痛い。取り出した眼鏡拭きで眼鏡と心を拭きながら平常心を取り戻すよう努めた。私は本から恋だの愛だのを見つけてそれを育みたいなどとは思っていない。偶々目についてしまったのだ。
しばらく、本に没頭し場の空気が戻るのを見ると本を持ち、そっと立ち上がる。頭痛。それに気を引き締める必要があった。書架に本を戻し、彼の姿を確認する。あの分だと当分本の世界から戻ってくることはないだろう。私は図書室の左最奥部まで行き、下段にある本を特定の順番に入れ替えた後、本棚の右側を強く押すと回転を始めた。そこに身を滑り込ませて本棚がまた元の位置まで回転し終わるのを見届けて前を向く。
ずっとそこに身を置けば狂ってしまいそうな白の部屋。まるで異世界。しかし、最奥に備え付けられたコンピューターとそこに至るまでの道へ左右にずらりと並ぶ培養液に浸かった人間が入ったカプセルでここが異世界等ではなく、もっとふざけた何かだということが分かる。死んだ父親が作った研究室だった。
無言のまま奥に向かって歩く。一歩を踏みしめる毎に心が冷たくなっていくのが分かる。今はそれがありがたい。頭痛。こめかみを片手で抑える。鳴り響く声には耳を貸さない。
「私を、汚すな」
戦いなのだ。大切な人と私の尊厳を守るための。奥に辿り着き、椅子に座ると横に並べられた小さい十個のカプセルと端末から出ているシート状の皮膚電極を額に貼り付け、端末から伸びたプラグを私の首筋に作られたコネクタに接続する。まるでニューロマンサーのようだが、私が電脳世界に行くわけではなく、やってくるのはここにある脳から流れ込む何か。私の中に棲み着いている幾つかの魂を安定させるためのものだ。ごぽごぽと歓声を挙げるかのように脳と培養液を入れたカプセルが泡立つ。対する私の肌には粟が立った。何度やっても気持ちが悪い。私の全てが踏みにじられている。どうしようもない怒りが湧く。
私は研究対象にして容れ物だった。ここにある脳は不死を望む金持ちたちのもので、ずらりと並んだ生成途中の身体は彼、彼女らのために用意されたもの。元の肉体が限界を迎え、死が迫った時、莫大な金を払った奴等は私の身体へと魂を移した。どういう訳かは知らないが、私は複数の魂を容れることが出来る人間らしいのだ。通常、魂と呼ばれるものは外部に保存しようとするとどういう訳かその存在が霧散してしまう。しかし、他に居るのかは知らないが、私のような器としての適性を持った人間に入れておくことで防ぐことが出来るらしい。そして、私は容れ物として選ばれた。稀代の科学者である父は人の魂について極秘に研究していて、実験に使える貴重な生き物とパトロン、両方を手に入れることが出来ると喜んで私を使った。元より父娘仲は悪く、母は既に他界している。止める者も止められる者も居なかった。私の中にいる十人の魂は新たな身体が出来上がるまでの長い時間を基本的に眠っているのだが、不意に目を覚まして何事かを喚くことがある上に短時間、身体を支配されることがある。完全に乗っ取られる等ということは父によるとないらしいが、酷い頭痛を伴う上に自分の身体なのに他者が居るという事実が私を蝕む。私は私なのに、知らない誰かが居る。それは耐え難い屈辱だった。私が、父に、誰かに、踏みにじられている。そして何より許せないのは実験に彼を巻き込んだことだった。
父が研究していることの一つに魂の強度を調べることがあった。曰く、人の魂とはコンピュータにおけるハードディスクのようなものであり、この世界の魂は肉体が消滅した時にイニシャライズ、初期化されて何処かに消えた後、新しく生まれた肉体に再びセットされる。そして新たな人としてデータの書き込み、生が始まる。俗に言う前世の記憶だとかデジャヴはイニシャライズしきれなかったデータの残骸で、要はこの世の魂は輪廻転生を繰り返しているという言い分だった。父の高名さを考慮しても笑い出したくなるほどの荒唐無稽さだが、研究の責任者が死んでなお続いているということはそういうことなのだろう。そして、父が彼を使って行っている実験は人工的な輪廻転生だった。この日本の高校をモデルとした空間に私とともに閉じ込め、人として生きる。ある程度データがたまるととイニシャライズして再び新たな生を始めさせる。記憶の消去と書き込みを繰り返し、人間の魂はそれに何処まで耐えることが出来るのか調べるという非道な実験だった。
彼は何処かの孤児院から引き取った少年らしく、元々私との接点はなかったが、この二人ぼっちの空間で長く過ごす内に関係が深まるのは無理もなかった。しかし、そこで恋愛に発展したのが間違いだった。恋人の記憶が眠りから覚めたら消えていた。笑えるものではない。初めにそれを経験した時、私は彼との全てを断絶しようと努めた。しかし、そこまで広くもないこの空間での出会いは避けられない。ましてや彼は記憶が消えても遅い早いの違いはあれど、必ず接触を持とうとしてくる。私はどうしようもない馬鹿だ。その事実に運命的なものを感じ、嬉しくて受け入れてしまうこともあった。そして彼を消され、絶望する。何度繰り返したのだろうか。今もまた同じ過ちを犯そうとしている。
頭に私と会ったのは初めてだという風に接する彼の姿が浮かぶ。心を通わせた者の中から自分が消える。その事実に悲と苦と辛、その他諸々が絡まって私の身を切り刻む。それに耐えて消えようとする想い出を拾い集めようとしても叶わない。やはり、全てを断ち切るしかないのだ。この不幸しか産まない全てを。
そのためには亡き父の跡を引き継いでいるこのプログラムをなんとかしなければならないだが、私にはどうすることもできない。物理的な破壊は試したが無理だった。反抗することは予想済みだったのだろう、生半可な強度ではない。コンピュータにログインすることも不可能。ならばとそれこそニューロマンサー的にコンピュータから伸びるプラグを私のコネクタに付け、コンピュータに侵入、人間ウィルスとなってハッキングしてやろうと思ったのだが、『この人物のアクセスは認められていない』。とアクセス自体を弾かれた。接続者の魂を識別しているようで、私が私である限り、どうにもできない。そして以前、彼と共にこのコンピュータの破壊を目論んだことがあるが、彼もまた私と同様の手順でハッキングを試みた所、弾かれた上に強制的に魂を初期化された。私、あるいは彼。この世界で反乱分子となる者への対策はしてあるということだ。死ぬことすらこいつは許してくれない。
「何か、何かないの」
分かっていたことだが、解決策など出てこない。焦りだけが募っていく。
「遅いな」
かなりの時間が経ったはずだが、進藤さんは本を戻しに行ってから帰ってこない。図書室から出た形跡はないが、図書室に居ない。煙の様に消えてしまった。
進藤さんが今回のように図書室中で忽然と姿を消すことは前にも何度かあった。不審に思った僕は一度試しに図書室の扉上部に付箋を挟んだことがある。古典的な方法だが小さい上に人間、下は見ても頭上を見ることは何かしらの目的がなければそうそう見ない。仮に気づいたとしても身長的に彼女では踏み台か何かを用意しなければならず、時間が掛かる上に音も立ててしまうので効果的だ。結論から言うと付箋が落ちた形跡はなく、それでいて図書室の中に彼女の姿はなかった。窓から飛び降りるという選択肢もあるが、図書室は三階。スタントマンか何かでもない限りはただで済まないだろう。となるとこれらが何を意味するのか。
「隠し部屋とか……まさかな」
だが、ないとは言い切れなかった。こんな訳の分からぬ世界なのだ、そんなものの一つや二つあっても可笑しくない。
「今までの何か知ってる風なものと合わせて問い質すか、あるいはここで張るか」
出来るなら問答無用で話を次の段階に進められる後者を採りたいところだが、隠し部屋のようなものがあるのなら当然、それに入る際は周りに注意を細心の注意を向けるだろうことを考えると難しい。前者は前者で難しいが、現状採れそうなものはこれしかない。
「訊くか」
関係はそれなりに良好にはなっていると僕は思っている……が、二人揃っても事態は膠着している。やはりここを二人で出るためには進藤さんが知っていることを吐いてもらうしかない。
眠りから覚めると僕は真っ先に進藤さんの捜索に乗り出た。図書室には居なかったので、過去の経験から進藤さんが居る確率の高かった教室を虱潰しに探していくと二つ目で見つかった。
「何?」
僕は以前、進藤さんが口にした、ここは日本の高校をモデルとした場ということ、隠し部屋の件を材料に知っていることがあるのなら話してくれと問いかけた。
「知らない」
そう言って逃げようとする手を掴む。
「離して」
「逃げないで、僕の目を見て言ってくれ」
眼鏡越しに目が合う。光は失われてはいないが、どこか暗い。その瞳の暗さを払う何かを投げ入れるように言葉をぶつける。
「外へ出たいんだろ。一人じゃどうにもならないのなら、助けて欲しいのなら、言えばいいんだ。僕は進藤さんを助けるから」
彼女の心に向かって精一杯に手を伸ばす。
「あなたはいつも私に優しさだけを向けてくれるんだね」
何処か自嘲気味にそう言う。気に入らなかった。
「今は怒ってるけどな。自分だけが苦しんでいるみたいな顔をして、僕を蚊帳の外に置いてる。ここから出たいのは進藤さんだけじゃないんだ、僕だって出たい。自分が自分になる前に、名無しのままここに閉じ込められるのはごめんなんだ。助けられるのが嫌なら僕を助けてみろよ、散々手間かけさせたのに非協力的で、そんなのじゃ出来ることも出来ないよ。大体君は本当の意味で対話をしなさすぎなんだ」
何だか喋っている内に熱がどんどんと入ってきて、止まらなくなってしまった。口から言葉が溢れてきてそのまま進藤さんへと流れていっている。どれだけ説教やら愚痴やらをぶつけただろうか、気付くと進藤さんは笑っていた。初めて見る笑顔。
「そうだね。もうこんなの嫌だよね。私もちゃんとした私になりたい。だから、助けてください。私もあなたのことを何とかして助けます」
十三月の世界に身を置いていなかったら信じられないような内容の話をしてもらうと僕らは進藤さんの父親が作ったという研究室までやってきた。
「これが……お父さんは随分と良い趣味してるみたいだね」
カプセルに入った幾つもの身体を見て僕は言う。
「良い趣味過ぎて目眩がするでしょ」
最奥のコンピュータまで来ると進藤さんは引っ張りだしたプラグの片側を自分のコネクタに接続し、しばらく躊躇うようにそれを見つめるともう一方を僕に差し出した。
「リスクはとても高いけど、本当に良いの?」
「他に選択肢がないしね。進藤さんが苦しめられた分と今まで死んできた僕の分、派手に暴れるとするよ」
僕らに対して万全のセキュリティを誇るコンピュータをぶち壊すために立てた策はこうだ。僕が先ず、進藤さんの魂にプラグで接続して中に巣食う金持ちどもの魂を破壊する。その後に僕と進藤さんが繋がったまま、お互いの魂を混ぜて同一化を図る。コンピュータが僕と進藤さんの魂を個別に識別して弾いているというのなら、一時的にでも僕が僕でなくなり、進藤さんが進藤さんでなくなるしかなかった。
問題は一度一つに混ざった魂が二つの身体に宿るため、何が起きるかわからないということだ。同一化が過度に進むと最悪、感覚等の共有の果て、他人と自分を線引きするものが失われ、個人の存在が消滅する危険性があった。二つの身体があるのに支配する意識は一つだけという歪な状態になる。そうなれば、まともな人間としては生きられないだろう。僕らはそうならないように祈るしかなかった。
「じゃあ、始めよう」
頭に浮かぶ嫌なものを断ち切り、戦いが始まった。
赤以外の空を見たのは何時ぶりだろうか。いや、青い空を見たことはないのだが、見たことがある不思議な感覚があった。同一化の軽い症状だ。
「青空って凄く綺麗なんだね。何より眺めていて疲れないのに感動だよ」
「これから嫌というほど見られるのに、今からそんなに見つめてたら飽きるんじゃないの」
そうなればその時だと僕は笑う。赤い空だけがある、時間が凍り、全てが断ち切られた十三月はもうない。あるのは進む時間とこれからの希望、そして不安が詰まった一月とその先にある無数の月日。僕らはそういう場に帰ってきた。
「進藤さん、おかえり」
「急にどうしたの?」
「進藤さんの元いた世界に帰ってきたんでしょ? なら出迎えなきゃなって」
「じゃあ、ただいま」
陽の光を受けて一瞬、きらりと光った眼鏡と向日葵のように大きく咲いた笑顔が眩しかった。
ここにはもう断絶はない。




