勇者がやってきました
少年は、魔物もゲロを吐くのかと感心した。
目の前に、トカゲのような姿をした魔物が、胸のあたりをおさえてのたうちまわり、嘔吐物を、雨粒がたまった地面にぶちまけていた。
「おえぇええええええええ。くっせぇええええええええええ」
魔物の声は、先ほど少年たちを怯えさせるほどの勢いなく、弱々しくなっていた。しかし、細長い口から唾をまき散らし、釣り長の黒々とした瞳で力強く睨みつけ、少年の背丈より大きい銀の槍をしっかりと握りしめているあたり、まだまだ戦意があるように思えた。
「こ、これが……魔法であるわけがない! 我が胸をつらぬく痛みは確かに認めざるをえない……だが! その臭い! その輝き! 魔法かと問われるなら、否! これは、例えるならゲロだ!」
魔物は先ほどの威光を取り戻すかのように、勢いよく地面を叩き、水しぶきをまきあげながら、魔法を解き放った当人に文句を言った。
「ゲロじゃないもん! これ魔法だもん!」
魔法を解き放つ当人――それは少年の妹であり、勇者であり、名をアリスというだが――アリスは、言い返した。
毅然とした態度で魔物に負けまいと、小さい握り拳を作り、地団太を踏み、魔物に立ち向かう姿は、妹らしくとても愛らしかった。
「いや、絶対にちがう! 魔法ではない! これは、間違いなくゲロである!」
「ひっどい! 魔法! ぜぇったい、ぜーったい魔法!」
アリスは、お人形のような可愛らしい顔に泥水をかぶりながら、成長に見合った小さい胸を一生懸命張ろうとしている――その姿は、立派にみえた。だけど、幼いアリスのまるまるとした頬、黄金色の瞳は真っ赤だ。
ワントーン高い特徴的な声も、若干涙目だった。
「やーい! やーい! ゲロ!」
「ちがぁーう!!!」
「ゲロ!」
「ちがう!!!」
アリスは頑張って魔物と言い争うが、その姿は段々としぼんでいった。
トカゲの魔物はアリスのその姿を見て、徐々に勢いをとりもどしたようにみえた。眩い銀の胸当てをまえにつきだし、細長く赤い舌を器用にべろべろしながら、妹を威嚇する。
「なんだ、これは……」
少年は防水加工が施されたペンの動きをとめた。もちろん、紙も防水加工してある。
妹のため、書こうと思っていた華々しい戦記、記録を綴ろうと思っていたが、どうもこれじゃない――予想していたのとは、だいぶ違った。
「もっと戦えよ! こう頑張って!」
少年の声が、むなしく灰色の空に消えた。
少年が考えていたことは、激しくぶつかる戦い。
剣、槍、弓などの武器と、妹の魔法が一進一退を繰り広げる様な戦いだ――こんな、言い争いは想定外だ。
いや、しかし――それは途中までうまくいっていたと言えるのではないだろうか。
少年はペンを顎に当てて、もう一度考えてみた。
問題はどこだったか――戦闘が始まった時、魔法は激しく魔物にぶつかった。ここまでは良い。それから、汚水色をした飴を煮詰めたようなドロドロした濃い色の魔法――『ふぁいあぼーる』が魔物に炸裂した。そしたら、あまりの臭いに魔物が苦情をいいはじめたのだった。
なるほど――と、すると。
少年は一人納得して、また妹と魔物のほうを向いた。
どうやら――
「ちがう! ゲロじゃない!」
まだ口喧嘩をしているようだった。
「まほう……ぐぅ」
妹の肩が、わなわなと震えた。この地域は一年中温暖な気候だから、寒さはない。だとしたら、なんだろうか。怒っているのか。
「うぅ……ちがうもん……」
雨粒か、妹の涙か、大粒の水滴が妹の頬からあごへ滴り落ちた。これは、もしかしたらまずいかもしれない。
「くっせぇーよ! ゲロ野郎!」
「う、うぅわぁーん!」
妹は、崩れ落ちた。膝をたたんで地面に座り込み、丸まってしまった。その姿は、まるでダンゴ虫のようだった。水を弾く特殊な繊維でつくられたローブをすっぽりおおいかぶさって、そのようにみえた。赤いダンゴ虫なんていなだろうけど。
「はっはっはっは! 勝った! 勇者などたいしたことないわ! さて、次はお前だ!」
「え?」
少年はとっさに名指しされて、眼鏡がずれ落ちた。なんてことを言うのか、「次は俺だと」と、面白いことを言う。
「ははは……ご冗談を。俺、なんもできませんよ」
「勇者といることは、それなりの武術をもつもの。もしくは、なにやら不思議な力をもつものが相場と決まっている」
「そんな! 勝手に決めないで!」
「逃がすわけにはいかん」
「う……」
少年は本を閉じた。そして、それを――空たかく思いっ切り投げた。
「とってこーい!」
「おれは犬じゃねーよ!」
「ですよねぇ」
しかし――この現状、少年はどうすることもできない。剣術を扱う術を持ち合わせいるわけもなく、戦いに役立つ技術ももっていない。あるとしたら、なんだろうか。こんど、妹に聞いてみよう。
情けない――
「さぁ! 観念しろ! 勇者の……ゆう……、おまえは勇者のなんだ」
「俺? 俺はですね……」
――勇者のなんであろうか。
(記録係だろうか? 身内だろうか? 妹についていったのはなんでだったんだろう。職がなかったからか。)
「俺は……」
「えーい! もうなんでもよい! 勇者の『何か』! 死ねぇ!」
トカゲ型の魔物の鋭い爪が、少年をおそった。
「うわ!」
少年は、それを辛うじて避けた。泥を全身にかぶりながら一回、二回と転がり、背負っていたリュックサックの中身をあたりにぶちまけてしまった。
リュックの中から、茶色のクマがでてきた。黒いボタンが縫われた眼と、古着を利用した安っぽい生地で作られたものだ。泥をかぶらなくても、もとから茶色であちこちに目立つ汚れも昔からだ――よく、妹を励ましていた時に使っていた。
「あ……そうか」
少年は口のなかにはいった泥を吐きながら、痛むからだを起こした。
「俺はなんにもできないけど、できることがあった」
「ふん! 死を目の前にしてわけのわからないことを言い出したか!」
魔物が、槍を少年の前に突きだした。
「俺ができること! それはこれだ!」
少年は、クマのぬいぐるみをとった。そして、妹の側にかけよった。
『こんばんわぁ』
「ぐすん……、ぐす……、くまさん……。あのね、あいつ私の魔法をゲロみたいって言うの」
『ほぉ。それは、かわった魔法だね。君はかわった魔法を使うんだね』
「うぅん。わたしは、魔法を使うことが下手だからこういうのしかでないの」
『そうかな。僕は誰よりも知っているよ。君が努力家なことを。兄はぐーたらだけど、君は一生懸命なのを知っているよ』
「うん……、ぐすん」
『元気出して。ぐーたらな兄貴を助けてあげてよ。ッチュ』
少年は、クマの人形の口を妹の頬に近づけて、キスをした。
「俺ができることは、妹を励ますことだ! 役目があるとしたら、俺は――勇者の励まし係だ!」
「勇者の励まし係!? なんだ! その奇妙な職は!」
「うっせぇ! いけ、妹よ! 俺は妹に頼ることしかできん! 昔から、そしてこれからもだ!」
「ふぁぁいあぁぼーる!」
妹の傷だらけの小さな手から、世界に一人しか使うことができないという、伝説に謳われた火の魔法――ファイアボールが耐えかねない悪臭と、醜い光を放ちながら、解き放たれた。
ただ、大昔の勇者が使ったとされるファイアボールと違うものだ。
本来のファイアボールは、海辺でみるような夕陽のように赤く輝き、獲物を見つけた鷹のように真っ直ぐと敵に向かっていくらしい。その魔法は、一言でいうなら『火の美鳥』と、文献に書かれてあった。
それに対し、妹のファイアボールは汚水のように濁った色であり、さらに力をなくしたように下降しながら相手に向かっていき、おまけにゲロのようなにおいのあるちょっと買った火の魔法だ。
どっからどうみても、美しい鳥には見えない。
だけど――
「う、うっわぁああああああああ! くっせぇええええええええええ」
トカゲの魔物は、重たい音と共に倒れた。ハノ字の恰好で倒れ、頭だけが骨となった。魔物の頭部からもくもくと白い煙があがり、焦げた臭いがするところ、やっぱりファイアボールは、火の魔法といえる。
――妹の『火の美鳥』はちょっとかわってるけど、それをあつかうことはやっぱりすごいことなのだろう。