人形と廃墟
本屋に行くと立ち読みしてしまう写真集たち。
廃墟の写真集をみるのが好きだ。あの”強者どもが夢のあと”感がたまらない。しょっちゅう本屋で立ち読みしてしまうが、見るたびにぞくぞくと寒気が湧いてくる。
雑草が生い茂り荒れた庭、所どころ黒く変色したコンクリート、割れた窓、そのままの家具・・・民家や団地ならそこに住人が、工場なら従業員達が、”そこに居た”であろうに、その余韻そのままに朽ち果てている。あまりに静かなその廃墟写真からは、元気な子供や幸せな家族、働く男達、”静”の反対側の”動”なる人々の様子がどうしたって思い起こされてしまう。それ程までに廃墟写真は”静”を感じさせるのだ。
人形の写真集を見るのも好きだ。廃墟写真を見た後、なぜか見たくなる。日本人形でも西洋人形でもいい。有名作家の作品もいいが、アマチュアの作家さんが作った、ただただ可愛らしいだけの人形も好きだ。人形の写真も廃墟に負けず劣らず”静”だ。
以前、有名なビスクドール作家の写真集を見ていた時、写真の人形が”死んでいるみたいだ”と思ったことがある。思ってすぐ、「はて?」と違和感を感じた。はて、何しろこれは人形なのだ。”最初から生きていない”だから死ぬはずもないのだ。その人形が”死んでいるみたい”とは、これはどういう事なのだ?と。
人形も廃墟もおそらくは”永遠に動かない”ように感じる絶対的な『死』の予感がぞくぞくする寒気の正体だろう。うまく言い表せないが、”生きている”私達は一秒も”静”であることはない。心臓は動き、皮膚では常在菌が繁殖・死滅を繰り返し、化粧は崩れ、酸素を吸い、二酸化炭素を出す。毎日ニュースをチェックし、仕事をし、勉強し、時代についていかなくてはならない。しかし、人形と廃墟はそういった”生”から完全に開放されている。それに対する憧れと恐怖が寒気の正体ではなかろうか。死ぬのは怖い、が、生きるのも辛い。永遠に変化せず、休んでいられたら・・・こんな憧れを向けられるのは人形も廃墟も迷惑だろうな。