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我が生涯の物語

 水路に沿って建築された住宅街の一角に、フランチェスカの屋敷はあった。


 家具の数が彼女の懐事情を表している。

 現在は特に家具が少なかった。

 フランチェスカは、なにがあっても手放さないと決めている紅い天鵞絨(ビロード)の掛かったソファーの上に縮こまっていた。


 なにやら手帳に筆を走らせつつ、実に幸せそうに笑みを堪えている。

 紅茶を淹れてきたアントニオは、フランチェスカの様子を見ると、


「昨晩はいかがなされましたでしょうか」

「聞いてちょうだいアントニオ。ひょんなことからアンジェラ嬢を、ついにわたしの手記に加えることができました。あの子ったらあれだけ純潔をうたっておいてあんな……思い出すだけで痺れますわ。昨日は本当に神のお導きという以外にありません」

「……昨晩は、ゾロのところへ参られたのではなかったのですか?」


 聞かれて、フランチェスカは一度筆を止める。

 そしてすぐにすらすらと文章を書き上げて手帳を閉じ、ソファーに座りなおすと、


「昨日は本当に色々ありました。わたしもまだまだですわね」


 言いつつ、紅茶のカップを傾ける。


「それは、アントニオにはお聞かせ願えないお話ですか?」

「そんなことはありません。けれど……そのうちわかることですわ」


 お茶菓子を用意していたアントニオは、テーブルにそれを置く。

 フランチェスカは出されたクッキーを細い指で取り上げ、


「ま……この国がなにを考えていようと、わたしの知ったことではありませんけれど」


 と言って、好物のクッキーを笑顔で頬張った。


「そうですか……」


 アントニオは、ソファーに置かれた手帳に視線をずらす。


 フランチェスカは、この本を自分の人生でいっぱいにすることを自分の人生としていた。


 だが……ギャンブルで勝ったの負けたの、さまざまな恋人との情事の感想だの、フランチェスカが大事にしているその手帳の中身はお世辞にも褒められたものではない。中身を覗くような真似はしないが、確かにフランチェスカはそれを書いているようだ。好きに生きる彼女の生活のなかで、この手帳こそ、彼女の生活の中心だった。


「……本当にその小さな本を埋めることが、フランチェスカ様の人生でいいのですか?」


 アントニオが言う。

 フランチェスカはムッとして、齧りかけのクッキーを置いた。


「……あなたには関係のないことです。アントニオ」


 怒りを買ってしまった執事は、腕を胸元において頭を下げた。


「申し訳ありません。出すぎた真似を……」

「いいのよ……わたしも少し言い過ぎました」


 フランチェスカはまたクッキーを食べる。

 アントニオは部屋の空気を入れ替えようと、窓に歩み寄って戸を開け放つ。

 外がやけに騒がしい様子だったので、そのまま街道に視線をおろす。


「号外! ゾロと対峙したあの仮面の続報を知りたい奴は買った買った!」


 アントニオが眉を寄せて訝しんでいると、


「意外と早かったですわね」


 ソファーで外の喧騒を聞いていたフランチェスカは、そうつぶやくと身支度を始める。


「アントニオ。そろそろ下に降りてみましょう」

「かしこまりました」


 アントニオは頷き、フランチェスカの剣とストールを取り上げたが、


「おや、これは中身が違っているようですが……」


 剣の柄を見て執事が言うと、


「それはゾロのものです。わたしの剣は今頃大運河の底か――もしくは、ゾロが持っていてくれたらいいのですけれど」


 鞘から少し引き出して刀身を眺めていたアントニオは、うむと納得したように剣を鞘に収め、それをストールごと大きな布で巻いて携えた。


 アントニオが部屋の扉を開け、フランチェスカが外に出て行く。

 執事を引き連れて新聞を買い、目を通してみる。


「ん、上々の仕上がりですわ」


 フランチェスカは、読み終わった紙面をアントニオに渡す。

 アントニオが新聞の見出しに視線を這わせると、そこにはこう書いてあった。


『彼の名はカサノバ? 水の都に現れたシオール(仮面)マスケラ(紳士)、今度は淑女を助ける――』


 ふむ……とアントニオは息を漏らし、号外を四つ折りにして持つ。


「情報元は匿名とありますけれど、アンジェラに違いありませんわね。多少違っているところがありますけれど、きっとそれは政府のことを考慮したのでしょう」

「真実はいかがだったのですか?」

「アンジェラを襲ったのは酔っ払いの中年ではなく若い軍人でしたわ。アンジェラに袖にされて、ついにたまりかねてしまったようです」

「目下、ヴェネツィアの軍は活気立っています。彼らが早まった行動に出てしまうのもその影響でしょうか」

「どっちにしろろくでもありませんわ。アンジェラにも悪い癖はありますけれど、淑女はいつだって尊敬欠かさざるべき相手なのです」


 フランチェスカは通りを進み、アントニオもそれに続く。

 周囲に見えるのは華美に造形された建物たちだ。

 水路の小船に乗らないところを見て、フランチェスカの目的地に見当がついた。


 二人がやってきたのは、屋敷の近くにあるサン・マルコ小広場。

 フランチェスカが扉を押したのは、小広場に面する街で一番大きな図書館だった。

 フランチェスカは司書の女と会話をする。


「……そう。ありがとう」


 話を終え、待たせていた執事のところへと戻り、ゆるいウェーブのかかったブロンドを揺らした。


「ロリタはいないようですわ。彼女の自宅に向かいましょう」


 執事はかしこまり、フランチェスカに続く。

 二人はゴンドラに乗って運河を流れ、街を縫うようにして移動する。

 道中、陸や船ですれ違った女性が何人もフランチェスカに手を振り、フランチェスカも愛想良くそれに応じていた。


「淑女たちの間を渡り歩くコツはね、別れ方を知っていることなの」


 フランチェスカは執事に、微笑とともに説明する。

 やがて二人は岸に降りて代金を漕ぎ手に払うと、ロリタの家の前にたどり着いた。

 一応ノックをしてみる。


「ロリタ?」


 扉を叩いた後にフランチェスカは声をかけ、じっくりと耳を澄ます。


「……開いてます」


 と、か細い返事が返ってきたのを受けて、フランチェスカは扉を開ける。

 ロリタの部屋はこれといって特徴がなかったが、職業柄かやはり本が多く、それらはよく整頓されていた。


「アントニオ、紅茶を三つ」


 フランチェスカから指示を受けると、アントニオは頭を下げて台所へと下がっていく。 フランチェスカはリビングとひと繋がりの寝室に向かい、窓際の机で見つけた本を手にとって読み始めた。


「……なにしてるんですか」


 ベッドから顔を出して、ロリタが消えそうな声でいった。

 フランチェスカは手元に本を開いたまま、


「あら、だいぶ熱が上がっているようですわね。具合はいかが?」

「あまりよくは……ありません」


 元気のないロリタを見つめながら、フランチェスカは本を机に置き、


「今、アントニオが台所を借りています。なにか食べたいものはありますか? あるのならば買ってきますわ……アントニオが」

 ありません、と言ってロリタは身をよじってフランチェスカに背中を向ける。

 フランチェスカは隣に立ってロリタの額を触り、ロリタも、熱を測られながら動けないでいた。


「ふむん……」


 フランチェスカはロリタから手を離し、机に置いた本をまた取りにいく。

 ロリタのおぼろげな意識は、椅子に座って本を読み出したフランチェスカを捉えた後でゆっくり落ちていった。

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