二人の出会い
だからあなたもあなた流儀に堂々とおやんなさい。
理性、分別、感情、情熱、その他なんでも、
空想というやつに、ありったけのお供をつけてね。
ただし忘れちゃいけませんぜ。道化なしでは車は動かない。
ファウスト/ゲーテ
高橋義考訳
水の都ヴェネツィア。
これから始まるのは十八世紀ヴェネツィアの、二人の怪傑の物語。
政治の乱れたこの都市に姿を見せるのは、やはり――。
「まったく、ゾロの奴には困ったものだ!」
最低だ!と吐き捨てながら、小太りの男は室内を落ち着きなく歩き回る。
彼は豪奢な絨毯をいらいらと踏みしめながら、なおも嘆くように、
「これではアドリアの真珠の輝きは、すべてゾロに穢されたも同然ではないか。水の都の高貴さも貞淑もあったものか! なんとしてもゾロを粛清せねば、ヴェネツィアの行く先はどうなることか分かるものではない……」
「しかしゾロは民衆の味方ですわ、モンテロ侯」
小太りの男は、声がしたテーブルへと顔を向ける。
そこにはゆったりと椅子に腰掛けた少女と、老執事の姿があった。
少女は口をつけていた紅茶のカップをコースターに置くと、
「それに……あの怪傑の大胆さこそ、この時代の色ではないかしら? あの姿にわたしは優雅さすら覚えますわ。……それにあなたが憂いておられるのはこの街の未来ではなく、明日の取引にかかったあなた自身の命運なのでは?」
「なにを言う。命運尽き果てるのはわしではない。とんでもないぞフランチェスカ――。かかっておるのは次の取引の結果ではなく、己の最後が間近に迫っているともしらぬゾロの命よ。いいかよく聞け。今度の取引は必ず成功する。そして、お前が英雄気取りの無法者の命を海に散らすのだ。わかっているな。もはやお前を出す以上、わしの失敗などありえない」
「気乗りのしない仕事ですわ。それにわたしの剣が、はたしてあのゾロに通じうるかどうか……」
少女の波打つブロンドの髪は燭台の灯かりに照らされている。
その流し目と白い肌が、年端に似合わぬ妖艶さを醸しだしていた。
「……ゾロに勝てるのはお前だけだ。期待しているぞ、フランチェスカ――」
モンテロが言った、そのときだった。
唐突に外が騒がしくなった。
フランチェスカは羽毛のように軽く笑う。
「……どうやら、噂の彼がお出ましになったようですわね」
「ばかな!」
モンテロは机を叩き、頬を震わせる。
外で怒号のように飛び交うのは、苦々しくもこの言葉だった。
「――ゾロだ! ゾロが出たぞ!」
◆
「ええい、かまわんっ」
モンテロは腕を振り上げた。
「この際、明日散るはずだった狐の命がこの夜へと早まっただけだ! フランチェスカ! 今からあの逆賊をお前の剣で蹴散らしてこい!」
怒鳴るモンテロを尻目に、フランチェスカはのんびりと紅茶を飲みきる。
そして、アントニオ、と執事の名を呼ぶと、そばに立っていた執事から真っ赤なストールの巻かれた剣を受け取った。
フランチェスカは椅子から立ち上がり、ストールを首に巻く。
馬好きのモンテロと昼から過ごしていたおかげで、幸いにも彼女が着ていたのは乗馬服だ。しかし――
「……と、このまま出るのはいただけませんわね」
「む、どうした?」
モンテロに対し、執事のアントニオが頭を下げながら答える。
「……これは少々外が騒がし過ぎます。おそらく、すっかり民衆の耳目も集まってしまっているのでしょう。となると、このまま衆目の前でフランチェスカ様がゾロを切り捨ててしまうと言うのは……」
「なんだ、そんなことか」
だったらこれを使えばよろしいと、モンテロが投げたものをフランチェスカは手にする。
モンテロが投げたのは、仮面舞踏会用の豪奢な仮面と、つば広の真っ赤な羽根つき帽だった。
フランチェスカはモンテロから受け取った、目元を隠す仮面を見回して、
「……はじめていい仕事をしましたわね、モンテロ伯爵」
「ん、なんか言ったか?」
なんでもありませんわ、とフランチェスカは仮面と帽子を被りつつ、船の看板へと飛び出した。
見えるのは、大運河とヴェネツィアの街。
ここは船の上だった。
明日の密輸に備えていた矢先に現れたのは、黒いマントと覆面で正体を隠した噂の怪傑、ゾロである。
ゾロは奥の船から飛び出し、追いかけてきた警備兵を相手にする。
左手には銀貨の入った布袋があり、彼はそれを持ったまま華麗な剣技で船員たちをあしらっていた。
「ゾロが逃げたぞ!」
ゾロは軽快に手近の追っ手をいなす。
そして住宅の屋根に伝い、微笑みと民衆の喝采を纏って退却しようとする。
「そこまでですわ」
そこに立ちはだかったのが、フランチェスカだった。
――うぐいす色の上衣に、白い乗馬用ズボン。
真紅のストールは首から肩まで覆い隠し、頭には大きな鳥の羽根飾りの帽子、そして極めつけは目元を隠す豪奢な仮面……。
ゾロと民衆は、突然あらわれたフランチェスカの姿におおいに戸惑う。
フランチェスカは、己の剣に手をかけた。
「――それを抜いたら、俺は手加減しない」
ゾロは決然とした小さな声で伝える。
その声を受けてフランチェスカは手を止めかけたが、
「あら……それは楽しみなことね」
にやりと口元を曲げると、スラリと銀の一振りを抜いた。
ゾロも戦いの姿勢を整え、持っていた袋を手近なところに投げる。
「もしかして、あいつはゾロと戦うつもりか!」
観衆がざわめく。
その視線は、屋上でにらみ合うフランチェスカとゾロに釘付けになっていた。
「馬鹿なことを……」
ゾロは呟き、剣を抜くのをやめた。
「あなたにまともに付き合う気はない。残念だが、剣を教えている時間はないんだ」
「あら。なぜそんなことをおっしゃるのかしら?」
フランチェスカは構えを取り、口許で微笑む。
「……わたし、小さい頃から剣は学んできましたの」
「しょうがないな……」
ゾロは呆れて肩をすくめると、剣を抜いた。
観衆が見つめる中、二人の剣戟が始まった。
ゾロの華麗な一閃。
それが飛び出す度に喝采が上がるが、仮面のフランチェスカも負けてはいなかった。
フランチェスカの返しの一撃がゾロの首すれすれを突いたとき、その鋭さには悲鳴とともに、少なからず歓声も聞こえたのであった。
「ほう、やるじゃないか」
フランチェスカにマントを突き破られ、ゾロは感嘆の声を漏らす。
そして、フランチェスカに攻撃をしかける。
そのときだった。
フランチェスカは、隙を突いてゾロに口づけた。
ゾロは驚き眼で飛びのく。
「い、一体なにを!」
「あら、あなたはもしかして……はあん。なるほどね」
フランチェスカは唇に指を添えておどける。
「破廉恥な真似を……」
ゾロは口を拭い、剣戟がつづく。
いつのまにか観衆は声をあげるのも忘れ、すっかり二人の決闘に見入ってしまっていた。
ゾロはフランチェスカから距離を取って、びっと剣を横に振る。
「……これ以上やっても意味がない」
粛々と言うゾロ。
フランチェスカは軽快に、
「あら、流石は天下のゾロ様ですわね。わたしにはさっぱりあなたの言動が理解しかねるのだけれど?」
「お前が俺に勝てないことは、もうわかったはずだろう」
ゾロは、フランチェスカの一手先を読んで剣を振るうようになっていた。
「そうね……」
フランチェスカは剣を下ろすと、
「――けれど.結局負けるのはあなたですわ。その細い腕一本で、この国を相手にいったいなにが出来るというの?」
「この国の政府は間違っている。総督の独裁をお前は認めるのか?」
「どうなのでしょう。それはわたしの問題ではありませんし、問題にもなりませんわね」
フランチェスカは剣先を回す。
ゾロは口を下に曲げて、
「総督はこの国を軍事国家にしようとしている。このままでは、ベネツィアが火の海になるのも時間の問題だ。それを平和だと語るのは矛盾ではないのか?」
「矛盾こそ真理にも勝る最強の論理。あなたは総督には勝てません」
フランチェスカは剣の切っ先をゾロに向ける。
「そうね……いやしくも正義を果たそうとするのなら、その左手で相手にピストルをつきつけておくくらいの要領が欲しいところですわ。でなければ、あなたは後は死ぬだけなのだから」
「なんと言われようと、俺は力の限りやるだけさ」
再び放たれたゾロの素早い一撃を受け止めきれず、フランチェスカの剣は後方へと弾かれてしまった。
ゾロは、放っていた布袋を回収する。
「あいつを逃がすな!」
勝負が決したのを見て、ガスパロの怒号が飛んだ。
ゾロは袋を軽く放り上げ、その布袋めがけてZの字を剣で刻んだ。
――たちまち袋から銀貨がこぼれ出し、観衆の群がる広場へと降り注いだ。
銀貨の雨によって広場は騒然とし、欲にまみれた声とモンテロの悲鳴が入り混じって大変な騒ぎとなる。
「兵器の密輸などさせはしないさ。これからもな」
混乱を見計らって、ゾロは漆黒のマントを翻して暗がりへと去っていった。
「勇ましいことは良いことですわ」
フランチェスカはじかれた剣を拾い、それを鞘に収めつつ言う。
「――くそ! 忌々しいゾロめ! こら、お前ら、わしの金を返せ――!」
銀貨を拾い集める民衆の渦に飛び込んでもみくちゃにされるモンテロを尻目に、フランチェスカも、闇夜へと姿をくらましたのであった……。