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黒い矢の風雲伝  作者: 光闇居士


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第六章:日暮れまで

挿絵(By みてみん)

CHAPTER VI. TO THE DAY'S END


【しおの】

 実を言えば、まさに今こそ一刻も早く逃げ出さねばならない時であった。「黒い矢」の一党が、四方八方から彼らのいる丘をめがけて這い登り、押し寄せてきていたからである。足の速い者や、開けた場所を通ることのできた者たちは、仲間を大きく引き離して標的のすぐ近くまで迫っていたし、谷間を抜けてきた者たちは左右に翼を広げるように展開し、両側から少年たちの退路を断とうとしていた。

 ディックは迷うことなく、一番近い茂みへと飛び込んだ。そこは背の高いオークの林で、下草が少ない分、足場はしっかりしている。斜面を下る地形も手伝って、二人の逃げ足はかなりの速度に乗った。次には開けた場所に出たが、ディックはそこを避けて左手へと進路を折った。二分後、似たような難所が現れたが、彼らは再び同じように迂回した。こうして二人は絶えず左へ、左へと舵を取りながら、一、二時間前に渡ったばかりの街道と川の方角へとにじり寄っていったのである。その間にも、追っ手の主力部隊は逆方向、つまりタンスターの方へと向かっていた。

 二人は息を整えるために立ち止まった。追跡の音はしない。ディックは地面に耳を押し当ててみたが、やはり何も聞こえなかった。もっとも、風が梢を鳴らす音が騒がしく、確かなことは言えなかったのだが。

「進むぞ!」

 ディックは声を絞り出した。二人は死にそうなほど疲れ果て、マッチェムは傷めた足を引きずっていたが、残る気力を奮い立たせ、再び丘を駆け下り始めた。

 三分後、彼らは常緑樹の低い茂みをかき分けて進んでいた。頭上高くでは大木が枝葉を差し交わし、切れ目のない屋根を作っている。そこはまるで大聖堂のように天井が高く、柱廊が並ぶ広間のような林だった。彼らが今、悪戦苦闘しているヒイラギの藪を除けば、下草はなく広々と開け、滑らかな芝生が広がっている。

 向こう側へ抜けようと、常緑樹の最後のとばりを押し分けると、彼らは再び林の中の薄明かりへと飛び出した。

「止まれ!」

 声が轟いた。そこには、巨大な幹の間、五十フィートもしない前方に、深緑の服を着た恰幅の良い男が立っていた。走ってきたせいでひどく肩で息をしているが、即座に矢をギリギリと引き絞り、二人を狙い澄ましている。マッチェムは悲鳴を上げて足を止めたが、ディックは躊躇することなく短剣を抜き放ち、その森番フォレスターに向かって一直線に突進した。相手はその猛攻の大胆さに毒気を抜かれたのか、それとも撃ってはならぬという命令に縛られていたのか、矢を放たなかった。

 彼がたじろぎ、我に返るいとまさえ与えず、ディックは喉元に飛びかかり、芝生の上に仰向けに突き倒した。矢はあちらへ、弓はこちらへと飛び散り、弦がビンと悲鳴のような音を立てる。武器を失った森番は襲撃者に組み付こうとしたが、短剣が閃き、二度、非情に振り下ろされた。二つのうめき声が続き、ディックが立ち上がった時、男は心臓を刺し貫かれ、すでに物言わぬ骸となっていた。

「行くぞ!」

 ディックは叫び、再び前へと駆け出した。マッチェムも足を引きずりながら必死に後に続く。実のところ、今の彼らの足取りはひどく鈍く、走る姿も痛々しいもので、まるで水に上げられた魚のように口をパクパクさせ、荒い息をあえがせていた。マッチェムは脇腹の差し込むような激痛に耐え、頭はくらくらとしていたし、ディックの方も膝が鉛のように重かった。それでも二人は、ただ消え残る勇気だけを頼りに、走る形だけをどうにか保っていたのである。

 やがて彼らは林の端に出た。森は唐突に終わり、数ヤード先にはライジングハムからショアビーへと続く街道が、二つの森の壁に挟まれるようにして走っていた。

 その光景を見て、ディックは足を止めた。走るのをやめると同時に、騒然とした物音が急速に大きくなってくるのに気づく。最初は激しい突風が吹き抜ける音のようだったが、すぐにまざまざとした輪郭を帯び、馬のギャロップの轟音へと変わった。

 そして瞬く間に、武装した兵士の一団が角を曲がって現れ、少年たちの目の前を疾風のように駆け抜け、またすぐに去っていった。彼らは命からがらといった様子で、隊列は無惨に乱れている。中には傷を負っている者もおり、血まみれの鞍をつけた騎手のいない馬も並走していた。明らかに、大合戦に敗れた残兵たちだった。

 彼らがショアビーの方へと去り、その音が消え入るかどうかのうちに、新たな蹄の音が響き、別の脱走兵が道を駆け下りてきた。今度は単騎だったが、その見事な甲冑からして高貴な身分の男に違いない。すぐ後には数台の荷馬車が不格好な駆けキャンターで続き、御者たちは命が惜しいとばかりに馬に鞭打っていた。これらは日中の早い段階で戦場を離脱したものと思われる。だが、その臆病さが彼らを救うことはなかった。

 少年たちが呆気にとられて見守る前まで来た時、傷だらけの甲冑を着た、怒りで我を忘れた様子の男が荷馬車に追いつき、剣の腹で御者たちを切り伏せ始めたのだ。ある者は荷台から転がり落ちて森へ逃げ込み、残りの者は座ったまま、人間とは思えぬ声で「臆病者め」と罵られながら切り殺された。

 この間ずっと、遠くの騒音は増し続けていた。荷車の轟音、馬のいななき、男たちの叫び声――巨大で混沌としたどよめきが風に乗って膨れ上がり、軍隊全体の崩壊が、まるで洪水のように道を押し寄せてきていることは明白だった。

 ディックは陰鬱な表情で立ち尽くしていた。ホリウッドへの分岐点まで街道を行くつもりだったが、計画を変更せざるを得なくなった。だが何より、彼はライジングハム伯の旗印を見分け、ランカスターの「赤薔薇」にとって戦局が決定的な敗北に終わったことを悟ったのだ。ダニエル卿は本隊と合流していたのだろうか、そして今は敗走し破滅したのだろうか? それともヨーク側に寝返り、名誉を失ったのだろうか? どちらにせよ、醜悪な運命であることに変わりはない。

「来い」

 彼は厳しく言った。そしてきびすを返し、足を引きずるマッチェムを連れて、森の中へと踏み入った。

 しばらくの間、二人は無言で森を縫うように進んだ。日はすでに傾き始めている。太陽はケトリーの彼方の平原に沈みつつあり、頭上の木々のこずえは黄金色に輝いていたが、影は濃さを増し、夜の冷気が忍び寄り始めていた。

「ああ、何か食べるものさえあれば!」

 ディックは突然立ち止まって叫んだ。

 マッチェムは座り込み、泣き始めた。

「自分の夕飯のためには泣けるんだな。だが人の命を救う時には、お前の心はずいぶんと冷淡だったじゃないか」

 ディックは軽蔑を隠さずに言い放った。

「お前の良心には、七人の死が乗っかっているんだぞ、ジョン君。俺は絶対にお前を許さないからな」

「良心だって!」

 マッチェムは激しい目つきで見上げて叫んだ。

「僕の良心だって? 君の短剣にこそ、人の赤い血がついているじゃないか! なぜあの男を殺したんだ、あの哀れな魂を? 彼は矢を引きはしたけど、放ちはしなかった。君を手の内に収めておきながら、見逃してくれたんだぞ! 自分を守ろうともしない人間を殺すなんて、子猫を殺すのと同じくらい『勇敢』なことだね」

 ディックは言葉を失った。

「正々堂々と殺したさ。俺は弓に向かって飛び込んだんだ」

 彼はわめいた。

「卑怯な一撃だったよ」

 マッチェムは言い返した。

「君なんてただの田舎者ラウトのいじめっ子だ、ディック君。有利な立場を悪用しているだけだ。もっと強い奴が来たら、君がそいつの靴にへつらうのが目に見えるようだよ! 復讐なんて気にかけてもいないくせに――報われないお父上の死も、正義を求めて叫ぶ哀れな亡霊のことも。でも、もし技術も力もなくて、君と仲良くしたいだけの弱い人間が手の中に入れば、君は『その』を叩きのめすんだ!」

 ディックはあまりの激怒に、その「その娘(she)」という言葉が漏れたことにさえ気づかなかった。

「なんだと!」

 彼は怒号した。

「そいつは初耳だ! 二人いればどちらかが強くなるのは世の常だ。優れた男が劣った男を倒す、劣った男は当然の報いを受ける。お前は鞭で打たれるべきだ、マッチェム君。俺を誤った方へ導き、恩知らずな態度をとった罰としてな。お前には相応の報いを与えてやる」

 そしてディックは、どんなに怒っていても平静を装う習性があったが、腰のベルトを外し始めた。

「これが俺からの夕食だ」

 彼は不気味に言った。

 マッチェムは涙を止め、シーツのように真っ白な顔をしていたが、ディックの顔をしっかりと見据え、身じろぎもしなかった。ディックはベルトを振り上げながら一歩踏み出した。だがそこで彼は、道連れの大きな瞳と、痩せて疲れ切った顔を見て、気まずくなって手を止めた。彼の勇気は萎え始めた。

「自分が間違っていたと言え」

 彼は弱々しく言った。

「嫌だ」

 マッチェムは答えた。

「僕は正しかった。さあ来い、残酷な奴め! 僕は足が不自由だ、疲れている、抵抗もしない、君を傷つけたこともない。さあ、打てよ――臆病者!」

 この最後の挑発にディックはベルトを振り上げたが、マッチェムがあまりに怯えた様子で身をすくませたので、彼の心は再び挫けた。革帯は体の横に力なく下ろされ、彼は自分が馬鹿のように感じて立ち尽くした。

「疫病神め、このあまのじゃく!」

 彼は吐き捨てた。

「そんなに腕力が弱いのなら、口の方をもっと慎むべきだぞ。だがお前を打つくらいなら、首を吊ったほうがましだ!」

 そう言って彼は再びベルトを締めた。

「殴りはしない」彼は続けた。「だが許すこともしない――絶対にだ。俺はお前を知らなかった。お前は主人の敵だった。馬も貸してやった。俺の夕食もお前が食った。それなのに俺を木偶の坊だの、臆病者だの、いじめっ子だのと呼びやがって。いやはや、ミサにかけて! 器は満ちて溢れ出したぞ。弱いというのは大したことだな、全く。どんな酷いことをしても罰せられないんだからな。いざという時に人の武器を盗んでも、持ち主は取り返すこともできない――お前は弱いからな、全くだ! ならば、槍を持って突進してくる相手に『自分は弱い』と叫べばいい、そうすれば体を突き刺されるがままに任せてくれるだろうよ! ふん! 馬鹿げた理屈だ!」

「それでも君は殴らなかった」

 マッチェムは静かに返した。

「もういい」

 ディックは言った。

「もういい。教えてやろう。お前は育ちは悪いようだが、見所はある。何より、間違いなく川から俺を救ってくれた。いや、忘れていたよ。俺もお前と同じくらい恩知らずだったな。だが、さあ、行こう。今夜中に、いや明日の朝早くホリウッドへ着くつもりなら、急いだほうがいい」

 ディックは喋っているうちにいつもの機嫌を取り戻したが、マッチェムは何も許していなかった。彼の粗暴さ、殺された森番の記憶――そして何より、自分に向けられ振り上げられたベルトの光景は、そう簡単に忘れられるものではなかったのである。

「形だけなら礼を言うよ」

 マッチェムは言った。

「でも正直なところ、良きシェルトン様、僕は一人で行きたいんだ。森は広い。お願いだ、それぞれの道を行こう。夕食と教訓の借りはできたね。それじゃあ、さようなら!」

「なんだと」

 ディックは叫んだ。

「そういう腹づもりなら、勝手にするがいい。疫病神め!」

 二人は互いに背を向け、方向など考えずに、ただ喧嘩に夢中になって別々に歩き始めた。だがディックが十歩も行かないうちに名前を呼ばれ、マッチェムが駆け寄ってきた。

「ディック!」

 彼は言った。

「こんなに冷たく別れるのは礼儀知らずだね。ほら、僕の手だ、心も添えて。君が僕のためにしてくれた素晴らしいことや助けに対して――形だけじゃなく、心から感謝するよ。どうか達者で」

「ああ、若いの」

 ディックは差し出された手を握り返して言った。

「お前も上手くいくといいな、行けるものならな。だが大いに疑わしいがね。お前は理屈っぽすぎるよ」

 こうして二人は二度目の別れをした。そして今度は、ディックの方がマッチェムを追いかける番だった。

「ほら」

 彼は言った。

「俺の石弓クロスボウを持っていけ。丸腰で行かせるわけにはいかん」

「石弓だって!」

 マッチェムは言った。

「いや、ボーイ、僕には弦を引く力もなければ、狙う技術もないよ。何の助けにもならないさ、良き君。でも感謝はするよ」

 夜のとばりが降り、木々の下では互いの顔も見えなくなっていた。

「少し一緒に行ってやろう」

 ディックは言った。

「夜は暗い。せめて道のあるところまでは送ってやりたい。お前は迷子になりそうだからな、気が気じゃない」

 それ以上言葉を交わさず、彼が先に立って歩き出し、相手は再びその後に続いた。闇はますます深くなり、時折開けた場所で、小さな星が点在する空が見えるだけだった。遠くではランカスター軍の敗走する音が微かに聞こえ続けていたが、一歩進むごとに背後へと遠ざかっていった。

 三十分ほど無言で進むと、彼らはヒースの広がる大きな開墾地に出た。そこは星明かりの下でぼんやりと光り、シダが茂り、一位イチイの茂みが点々と黒い影を落としている。ここで彼らは立ち止まり、互いを見やった。

「疲れたか?」

 ディックが尋ねた。

「いや、もう疲れすぎて」

 マッチェムは答えた。

「横になって死んでしまいたいぐらいだよ」

「川のせせらぎが聞こえる」

 ディックは言った。

「そこまで行ってみよう。喉が渇いてたまらないんだ」

 地面は緩やかな下りになっており、果たしてその窪地には、柳の間を流れる小さなせせらぎがあった。二人は岸辺に一緒に身を投げ出し、星を映す水面に口をつけて、心ゆくまで冷たい水を飲んだ。

「ディック」

 マッチェムは言った。

「もう無理だ。これ以上一歩も動けない」

「ここへ降りてくる時に、手頃な窪みを見つけた」

 ディックは言った。

「あの中で寝よう」

「ああ、喜んで!」

 マッチェムは声を上げた。

 その窪みは砂地で乾いていた。イバラの藪が縁に垂れ下がり、ほどよい屋根を作っている。そこで二人の少年は身を横たえた。暖を取り合うために身を寄せ合うと、あれほど激しかった喧嘩のことなどすっかり忘れてしまっていた。

 やがて、眠りの女神が雲のように二人を優しく包み込み、夜露と瞬く星の下で、彼らは安らかな休息へと落ちていった。

その森は、あたかも大聖堂の回廊のようであった。天を突く巨木が枝葉を差し交わし、切れ目のない屋根を作っている。神聖で静謐なその空間を、息を切らして駆ける二つの影があった。追っ手から逃れるディックとマッチェムである。行く手を阻む森番に対し、ディックは迷うことなく刃を向け、その命を奪った。それは生き残るための野生的な本能の炸裂であり、静寂な「神の庭」で繰り広げられる、人間という種の罪深い営みの始まりでもあった。


林を抜けた彼らの目に飛び込んできたのは、敗走するランカスター軍の無惨な姿だ。それは組織的な撤退ではなく、統制が失われ恐怖だけが伝染していく「敗走」という名の地獄絵図であった。高貴であるはずの騎士が、己の逃げ道を確保するためだけに、行く手を塞ぐ味方の御者を無慈悲に切り捨てる。輜重隊という、軍隊において使い捨ての駒とされる者たちの悲劇。そこには、物語の中で語られる煌びやかな騎士道など微塵もなく、あるのはただ、極限状態で露呈する人間の卑劣さと、身分も教養も剥がれ落ちた冷徹なリアリズムだけであった。大義名分など、生存本能の前では無意味であることを、この光景は残酷なまでに突きつけていた。


この惨劇を前に、二人の魂は激しく衝突する。「人殺しは野蛮だ」と涙ながらに良心と内なる道徳律を説くマッチェムは、近代的なヒューマニズムの代弁者であり、「やるかやられるか、力こそが正義だ」と主張するディックは、中世的なリアリズムそのものであった。激昂したディックは、躾と称してベルトを振り上げる。だが、その手は空中で止まった。彼は相手が弱く怯えていたからだと言い訳をするが、その深層には、無意識のジェンダー認識が働いていたに違いない。マッチェムの大きな瞳と白蝋のような顔立ちに、彼は荒っぽい男同士のルールが通用しない「庇護すべき何か」を感じ取ったのだ。それは二人の関係が、単なる主従や戦友から、より親密なものへと変化していく微細な予兆でもあった。


激情と暴力の嵐が過ぎ去り、二人は枯れ川の窪みに身を沈める。母なる大地の子宮のようなその場所で、彼らは泥のように眠りについた。大聖堂のような森の静寂が、再び彼らを包み込み、その罪や対立を一時的に浄化していくのだった。


スティーヴンソンがこの章において、読者の喉元へ鋭く突きつけたもの。それは、中世という時代が纏っていた煌びやかな「騎士道」という建前と、泥臭い「生存競争」という本音の間に横たわる、あまりにも深い断絶であった。


かつての通俗的な物語において、騎士とは常に勇敢であり、高貴な血筋の者は気高く振る舞うものと相場が決まっている。だが、ここで描かれる現実はどうだ。敗走する貴族は、ただ己が生き延びんがために、進路の邪魔となる自軍の御者を、ためらいもなく斬り捨てる。戦争という極限状態においては、身分も教養も剥がれ落ち、露わになるのは人間の卑劣な生存本能のみである。赤薔薇だの白薔薇だのといった大義名分など、死の淵においては何の意味も持たないという冷徹なリアリズムが、そこには横たわっている。


この章の神髄とも言えるディックとマッチェムの衝突もまた、二つの異なる魂の対立を鮮烈に映し出す。ディックは中世的なリアリストだ。「やるかやられるか」「力こそ正義」。それが彼の生きる世界の掟であり、信仰さえも形式的な儀礼に過ぎない。対するマッチェムは、近代的ヒューマニズムの体現者である。彼は「良心」を説き、弱者への慈悲を訴え、無防備な者を殺めることに罪の意識を抱く。彼の信仰は内なる道徳律に根ざしている。作者はマッチェムの口を借りて、暴力が支配する野蛮な中世世界に対し、現代にも通じる人間性への問いかけを投げ込んでいるのである。


視点を少し変え、戦場の狂気という側面からこの光景を眺めてみよう。ここで描かれているのは、軍事用語で言うところの「敗走」の恐ろしさに他ならない。指揮系統が保たれた「撤退」とは異なり、統制を失い、恐怖だけが伝染し、個々がただ盲目的に逃げ惑う状態。とりわけ、貴族たちが自軍の輜重隊、すなわち物資を運ぶ荷馬車隊を見捨て、切り捨てていく様は残酷だ。当時の軍隊において、傭兵や徴収兵がいかに使い捨ての駒として扱われていたか。そして、馬を駆る貴族と、泥濘に足を取られる歩兵や輸送隊との間に横たわる機動力の格差が、いかなる悲劇を生むかが見事に活写されている。


そんな殺伐とした逃避行の中、ディックが激昂し、マッチェムに対してベルトを振り上げた一瞬に、物語は微細な、しかし決定的な転換点を迎える。ディックはその手を止めた。相手が弱く怯えていたからだと言い訳をするが、その深層には、無意識のジェンダー認識が働いている。男装しているとはいえ、マッチェムの大きな瞳と白蝋のような顔立ちを前にして、彼は本能的に悟ったのだ。こいつは荒っぽい男同士の喧嘩が通用する相手ではない、庇護すべき存在なのだと。この暴力の未遂こそが、二人の関係が単なる主従や戦友から、守る者と守られる者、ひいては恋人同士へと変質していく予兆を含んでいる。


そして何より忘れてはならないのが、この惨劇の舞台となる「大聖堂のような林」という空間の意味である。頭上で枝葉が差し交わし、切れ目のない屋根を作る森は、神聖で静謐な神の庭として描かれる。だが、その足元で繰り広げられるのは、森番殺しに代表される人間同士の浅ましい殺し合いだ。変わらぬ自然と、罪深き人間。静寂と騒音。神の目と血の臭い。この残酷なまでの対比が、人間の営みの矮小さを浮き彫りにする。


狂乱の一日を終え、最後に二人が川の窪みという、あたかも母なる大地の子宮のような場所で眠りにつく時、そこには、積み重ねられた罪や対立が一時的にせよ浄化されていくような、静かなカタルシスが漂っているのである。

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