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黒い矢の風雲伝  作者: 光闇居士


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第三章:フェンの渡し

挿絵(By みてみん)

CHAPTER III. THE FEN FERRY.


【しおの】

 ティル川は、あたかも大いなる沼地から滲み出してきたかのように、粘土を含んだ水をたっぷりと湛え、緩やかに流れる大河であった。このあたりの流域では、岸辺の柳に覆われた二十ばかりの湿地の小島の間を、水が漉されるように縫って流れていた。

 普段のティル川は薄汚れた様相を呈しているが、この明るく活気のある朝にあっては、すべてが美しく一変していた。風とイワツバメたちが水面に無数のさざ波を描き、澄み渡った空の輝きが、まるで笑顔のような青い断片となって、川面一面に散りばめられていたのである。

 街道と小川が合流する地点、その土手のすぐ下に、渡し守の小屋が居心地良さそうに佇んでいた。枝編み細工を粘土で固めて作られた小屋で、屋根には草が青々と茂っている。

 ディックは戸口へ歩み寄り、扉を押し開けた。中では、汚れた朽葉色の古びたマントの上で、渡し守が手足を投げ出して震えていた。もとは巨漢であったろうが、今は見る影もなく痩せこけ、この湿地帯特有の熱病(沼地熱)に蝕まれているのだ。

「おお、これはシェルトン様」渡し守は呻くように言った。「渡し船をお使いで? こりゃあ間の悪い時にいらっしゃった。本当に間が悪い! くれぐれもお気をつけなさいまし。『結社』の連中がうろついておりますぜ。ここはきびすを返し、橋の方へ向かわれた方が身のためでしょうな」

「いや、時は鞍の上にある(一刻を争うのだ)」ディックは答えた。「時とは駆け足で去るものだぞ、渡し守のヒュー。私はひどく急いでいる」

「強情なお人だこと!」渡し守は身を起こしながら口答えした。「無事にあの館(堀屋敷)まで辿り着けたなら、あんたは運がいい。これ以上は言いませんがね」

 そこでヒューはマッチェムの姿を目に留め、「そのお方はどなたで?」と尋ねつつ、小屋の敷居で立ち止まって、眩しそうに目をしばたたいた。

「私の親類だ。マッチェム殿と言う」ディックは簡潔に紹介した。

「ごきげんよう、良き渡し守」すでに馬から降りていたマッチェムは、手綱を引きながら進み出て言った。「頼む、舟を出してくれないか。先を急ぐ旅なのだ」

 病み衰えた渡し守は、じっとその姿を見つめ続けたかと思うと、突然叫んだ。

「こりゃミサにかけて驚いた!」そして、喉の奥から大声で笑い始めたのである。

 マッチェムは耳まで真っ赤にして身をすくませた。ディックは眉を顰め、怒りを露わにして、この無骨者の肩を掴んだ。

「こら、田舎者チャール!」彼は一喝した。「とっとと仕事にかかれ。身分あるお方をからかうなど無礼であろう」

 ヒュー渡し守はなおも何やらぶつぶつ言いながら舟を解き、深みの方へ少し押し出した。そこへディックが馬を引き入れ、マッチェムがそれに続いた。

「こちらの旦那は、随分と小作りなこって」ヒューはニヤニヤしながら軽口を叩いた。「どうも焼き型が違うようですな、おそらくは。いやいや、シェルトン様、あんたに言ってるんじゃありませんよ」彼はオールを握りながら言い訳を付け加えた。「『猫だって王様を見ることはできる(身分が低くても見る権利はある)』と言うじゃありませんか。俺はただ、マッチェムの旦那をじろじろ眺めただけでさぁ」

「貴様、無駄口はよせ」ディックはぴしゃりと言った。「背中を曲げろ(しっかり漕げ)」

 その頃には小川の河口に出ており、川の上下流が見渡せるようになっていた。どこもかしこも緑の小島に囲まれている。粘土質の土手はあちこちで崩れ落ち、柳が風に揺れ、葦が波打ち、イワツバメが水面すれすれに急降下しては楽しげにさえずっていた。この水の迷宮の中に、人の気配はまったくないように見えた。

「若旦那」渡し守は片方の櫂で舟を安定させながら声を落とした。「俺の勘じゃ、ジョン・ア・フェンが島のどこかに潜んでおりますぜ。奴はダニエル卿の仲間全員に対して、どす黒い恨みを抱いてやがる。どうです、上流に向かって、街道より一射アローフライトほど離れた辺りで降りるってのは? ジョン・フェンとは関わらねえ方がいい」

「どういうことだ? 奴もあの無法者の一味なのか?」ディックは尋ねた。

「いや、他言は無用ですよ」ヒューは言った。「ですが、俺なら上流へ行きますね、ディック様。マッチェムの旦那が矢でも受けたら、どうなっちまうかわかりませんぜ?」そう言って、彼はまた含み笑いをした。

「よし、そうしよう、ヒュー」ディックは同意した。

「ならば、こうしてくだせえ」ヒューは策を授けた。「そうと決まれば、その石弓クロスボウを外して――そう、構えて――よし、太矢クォレルをつがえてください。ああ、そのままで、俺を恐ろしい顔で睨みつけていてくだせえ」

「何の意味があるのだ?」ディックはいぶかしげに尋ねた。

「何って若旦那、もし俺があんたをこっそり渡したとなれば、それは暴力か恐怖に強いられてのことでなくちゃならねえからです」渡し守は説明した。「でなきゃ、もしジョン・フェンに嗅ぎつけられたら、奴は俺にとって最高に厄介な隣人になるでしょうからな」

「それほどの悪党が、そんなに好き勝手に振る舞っているのか?」ディックは尋ねた。「奴らはダニエル卿ご自身の渡し場さえ支配していると言うのか?」

「いいや」渡し守はウィンクしながら声を潜めた。「見てなせえ! ダニエル卿は落ちる。奴の時間はもうおしまいだ。奴は落ちますよ。……静かに!」

 そして彼は、沈黙のうちに櫂を漕ぐ背を丸めた。

 彼らは川を長く遡り、島の端を回り込んで、対岸に近い狭い水路を静かに下ってきた。そこでヒューは川の中程で水をかき、舟を止めた。

「ここの柳の間で降りてもらわなきゃなりません」

「ここには柳の湿地と泥沼以外、道なんてないではないか」ディックは反論した。

「シェルトン様」ヒューは切実に訴えた。「これ以上下流へは連れて行けねえんです、あんたご自身のためにも。奴は弓を持って渡し場を見張っている。通りかかるダニエル卿の味方は、誰だろうとウサギみたいに撃ち殺す気だ。奴が十字架にかけてそう誓うのを、この耳で聞いたんですから。もし昔からの馴染みじゃなかったら――ああ、それも奴があんなに背が高くなる前からの付き合いでなきゃ――俺だって奴を見逃したでしょうよ。ですが昔のよしみと、あんたが傷や戦に似合わねえ愛玩物(かわいらしい少年)を連れているから、五体満足で渡してやるために、この俺の哀れな二つの耳を危険に晒してやったんだ。我慢してくだせえ、俺の魂にかけて、これ以上のことはできねえ!」

 ヒューがまだ言葉を継ぎながら櫂に寄りかかっている時だった。島の柳の茂みから太い怒声が響き、続いて屈強な男が強引に木々を押し分けてくる音がした。

「畜生(疫病神め)!」ヒューは叫んだ。「奴め、ずっと上の島にいらっしゃったのか!」

 彼は慌てて、まっすぐ岸へ舟を向けた。

「弓で俺を脅すんです、良きディック様、はっきりと脅してくれ」彼は早口で付け加えた。「俺はあんたらの皮(命)を救おうとしたんだ、俺の命も救ってくだせえ!」

 舟は音を立てて強靭な柳の茂みに突っ込んだ。マッチェムは青ざめながらも、しっかりと警戒しており、ディックの合図と共に座板を伝って岸へと身を躍らせた。ディックは馬の手綱を取って続こうとしたが、動物の巨体と茂みの密度のせいで、二人とも立ち往生してしまった。馬はいななき、足を踏み鳴らし、渦の中で揺れていた舟は激しく揺れ動いた。

「駄目だ、ヒュー、ここは降りられる場所じゃない!」ディックは叫んだが、頑として通さぬ茂みと、驚いて暴れる動物との格闘で精一杯だった。

 その時、長弓ロングボウを手にした背の高い男が、島の岸に姿を現した。ディックは目の端で一瞬、その男が顔を真っ赤にして、急いで大弓を引き絞るのを見た。

「誰だ?」男は叫んだ。「ヒュー、誰だそれは?」

「シェルトン様だ、ジョン!」渡し守は答えた。

「止まれ、ディック・シェルトン!」島の男は怒鳴った。「十字架にかけて誓う、危害は加えん! 止まれ! 下がれ、ヒュー渡し守!」

 ディックは挑発的な答えを叫び返した。

「そうか、ならば歩いて行くんだな」

 男はそう言い捨て、矢を放った。

 不運にも矢を受けた馬は苦痛と恐怖で暴れ出し、舟はあえなく転覆した。次の瞬間、全員が川の渦の中で必死にもがくこととなった。

 ディックが水面に顔を出したとき、彼は岸から一ヤード(約一メートル)ほどの場所にいた。泥水で目が開かないうちに、彼の手は何か堅く強いものを掴んだ。すると即座に、その何かが彼を岸の方へと引っ張り始めたのだ。それは乗馬鞭であり、張り出した柳の上に這い出したマッチェムが、好機を逃さず彼の手の中へ差し出したものだった。

「ミサにかけて!」岸に助け上げられたディックは、息を切らして叫んだ。「これでお前に、命の借りができたな。俺はまるで砲弾みたいに泳げないからな」

 そして彼はすぐに、島の方を振り返った。

 川の中程では、ヒュー渡し守が転覆した舟と共に泳いでおり、射損じた不運に激怒したジョン・ア・フェンが、とっとと失せろと彼に怒鳴っていた。

「来い、ジャック」シェルトンは言った。「逃げるぞ! ヒューが船を岸に寄せるか、二人がかりで舟を元に戻す前に、奴の叫び声も届かないところまで逃げるんだ」

 言うが早いか、彼は自ら手本を示すように駆け出した。柳の間を縫い、沼地では草のタソックから塊へと飛び移って進む。方向を確認する暇などない。できることと言えば、ただ川に背を向け、走ることに全神経を注ぐことだけであった。

 しかし間もなく地面が上り始め、自分たちがまだ正しい方向にいることが分かった。そしてすぐに、ニレが柳に混じり始める固い芝生の斜面に出た。

 だがここで、ずっと後ろを引きずられるように走っていたマッチェムが、とうとう力尽きて地面に倒れ込んでしまった。

「置いていってくれ、ディック!」彼はあえぎながら叫んだ。「僕はもう駄目だ」

 ディックは引き返し、道連れが倒れている場所に戻った。

「馬鹿を言え、ジャック、お前を置いていくなんて!」彼は叫んだ。「俺の命を救うために矢とずぶ濡れ、ああ、それに溺れる危険まで冒してくれたのに、そんなことをすれば悪党の所業だ。あの時、本当に溺れるところだったのだぞ。なぜ俺がお前を道連れに引きずり込まなかったのか、聖人たちにしか分からんよ!」

「いや」マッチェムは言った。「僕は二人とも助けたはずだよ、良きディック。僕は泳げるからね」

「泳げるのか?」ディックは目を見開き、感嘆して叫んだ。それは彼自身には不可能な、唯一の男らしい特技だった。彼が賞賛する物事の序列において、一対一の戦いで敵を倒すことの次にくるのが、水泳であった。

「なるほど」彼はしみじみと言った。「人を侮ってはいけないという教訓だな。ホリウッドまでは俺がお前の面倒を見ると約束したが、十字架にかけて、ジャック、お前の方が俺の面倒を見られるようだな」

「よし、ディック、僕たちはもう友達だね」マッチェムは言った。

「いや、俺はずっと友達のつもりだったさ」ディックは答えた。「お前はお前なりに勇敢な若者だ、少々泣きミルクセップなところはあるがな。今日までお前のような奴には会ったことがない。だが、頼むから息を整えて、先へ進もう。ここはお喋りをする場所じゃない」

「足がひどく痛むんだ」マッチェムは訴えた。

「ああ、足のことを忘れていた」ディックは反省して言った。「よし、もっとゆっくり行こう。ここがどこなのか正確に分かればいいのだが、完全に道を見失ってしまった。だが、それもかえって良かったかもしれん。もし奴らが渡し場を見張っているなら、道も見張っているだろうからな。ダニエル卿が四十人の部下を連れて戻ってきてくれればいいんだが……風が落ち葉を払うように、あいつらを一掃してくれるだろうに。さあ、ジャック、俺の肩につかまれ、哀れな子よ。……いや、背が足りないな。賭けてもいいが、お前いくつだ? 十二か?」

「いや、十六だよ」マッチェムは答えた。

「にしては発育が悪いな」ディックは率直に言った。「だが手を貸してやる。ゆっくり行こう、心配するな。俺はお前に命の借りが一つある。俺は借りはきっちり返す男だぞ、ジャック、善きにつけ悪しきにつけな」

 二人は斜面を登り始めた。

「遅かれ早かれ、どこかの道に出なければならん」ディックは続けた。「そうすれば仕切り直しだ。……それにしてもミサにかけて! なんと華奢な手だ、ジャック。俺がそんな手を持っていたら恥じ入るところだ。言っておくが」彼は突然くすくすと笑い出して続けた。「ミサにかけて誓うが、ヒュー渡し守はお前を乙女だと思ったに違いない」

「いや、まさかそんな!」相手は顔を真っ赤にして抗議した。

「賭けてもいいが、思ったはずだ!」ディックは声を上げて笑った。「あいつを責められんよ。お前は男より乙女に見えるからな。それにまだあるぞ――お前は少年としては奇妙な見た目の悪党だが、おてんばハッシーとしてなら、ジャック、なかなかの美人だ――そうとも。女にしては器量がいい」

「でも」マッチェムは言った。「僕が女じゃないことは、君が一番よく知っているはずだ」

「ああ、知っているさ。からかっただけだ」ディックは軽く受け流した。「お前は母親より先に男になるさ、ジャック。元気を出せ、相棒ブリー! お前もいつか鋭い一撃を食らわせられるようになる。さて、俺とお前のどっちが先に騎士ナイトになれるかな、ジャック? 俺は騎士になるか、なれずに死ぬかだ。『リチャード・シェルトン騎士』、勇ましい響きだ。だが『ジョン・マッチェム騎士』も悪くない」

「お願いだ、ディック、水を飲むまで止まってくれ」相手は懇願し、小さな澄んだ泉が斜面からポケットほどの大きさの砂利のくぼみに湧き出ている場所で立ち止まった。「それにああ、ディック、何か食べるものが手に入れば! 心臓が痛くなるほど腹が減ったよ」

「なんだ、馬鹿者、ケトリーで食べなかったのか?」ディックは呆れて尋ねた。

「誓いを立てていたんだ――あのような争いに巻き込まれた罪を感じて」マッチェムは口ごもった。「でも今なら、ただの乾いたパンでも貪り食うよ」

「じゃあ座って食え」ディックは言った。「その間に俺は、道の様子を少し偵察してくる」

 そして彼は帯から袋を取り出し、中のパンと乾いたベーコンの欠片を渡した。マッチェムが夢中で食べ始める間に、彼は木々の奥へとさらに足を踏み入れた。

 少し先に地面のくぼみがあり、枯れ葉の間をせせらぎが流れていた。その向こうでは木々がより大きく育ち、間隔も広がり、湿地の柳やニレに代わって、立派なオークやブナの森が広がっていた。風が枝葉を絶えず揺らす音で、枯れマストを踏む彼の足音は十分に隠されていた。それは目にとっての月のない夜のように、耳にとっての良き隠れ蓑となっていたが、それでもディックは慎重に進み、大きな幹から幹へと滑るように移動し、鋭い視線を周囲に巡らせた。

 突然、一頭の雌鹿が影のように目の前の下草を通り抜け、彼はその予期せぬ遭遇に嫌気が差して立ち止まった。森のこの部分は確かに無人だったはずだが、臆病な鹿が逃げ出したということは、彼女は誰かが来ることを知らせる使者だったのかもしれない。これ以上進むのを止め、彼は最も近い大木へと向かい、素早く登り始めた。

 運が彼に味方した。登ったオークの木は、森のその一帯で最も高い木の一つで、周りの木々より一ファゾム半(約二・七メートル)も空に突き出ていた。ディックが一番上の枝分かれまでよじ登り、吹きつける強風に目が回りそうになりながらしがみつくと、背後にはケトリーまでの沼地の全景と、木に覆われた島々の間を蛇行するティル川が見えた。そして前方には、森を抜けてうねる街道の白い線が見て取れた。

 渡し船は元の状態に戻されており、今は渡し場のちょうど中程にあった。その向こうには人の気配はなく、風以外に動くものはなかった。

 木を降りようとして、最後の一瞥をくれたその時、沼地の真ん中あたりで動く点の一列が彼の目に入った。明らかに小部隊が土手道を進んでおり、それもかなりの速度で移動している。この光景に懸念を抱きながら、彼は勢いよく幹を滑り降り、仲間の待つ森の中へと戻っていった。

「命がけの川渡りと、逆転するパワーバランス」

敵の包囲網を抜けるため、主人公ディックと少年の姿をした連れマッチェムは、ティル川の渡し場に到着します。しかし、そこは既に反乱分子「黒い矢」の一味であるジョンに見張られており、病持ちの渡し守ヒューも手を出せない状態でした。

奇策を使って川を渡ろうとした一行ですが、待ち伏せていたジョンに見つかり、放たれた矢によってボートは転覆。ディックは鎧の重さと泳げないことが仇となり溺れかけますが、なんとマッチェム(実は泳ぎが得意)に救助され、立場が逆転します。

命からがら岸に上がり、ずぶ濡れのまま逃亡する二人。「乙女のような手だ」とマッチェムをからかうディックですが、読者にはマッチェムの正体(男装の少女)がほのめかされつつ、遠くから新たな追手が迫る緊張の中で章は幕を閉じます。


この短い章には、中世後期のイギリス社会の矛盾や空気感が凝縮されています。

「下克上」の萌芽と民衆の反乱

この章の裏テーマは「既存権威の失墜」です。

腐敗した騎士道: 領主(ダニエル卿)が政治的に日和見を繰り返し、民を顧みないため、民衆(渡し守やジョンのような森の住人)は領主に忠誠を誓っていません。

森の司法(黒い矢): ジョン・ア・フェンがダニエル卿の部下を狙い撃ちにするのは、法が機能しない乱世における「民衆による制裁」です。渡し守ヒューの「猫だって王様を見る権利はある(身分は関係ない)」という言葉や、貴族であるディックに対してジョンが矢を射掛ける行為は、身分制度が揺らぎ始めた時代の空気を象徴しています。

「聖」と「俗」の混在

文中に頻出する「ミサにかけて」「十字架ルードにかけて」という言葉は、当時の人々にとって宗教が「信仰」であると同時に「口癖(呪い)」のような生活習慣であったことを示しています。

しかし、神の名に誓いながらも、現実は「騙し討ち」や「人殺し」が横行しています。この「宗教的な言葉の氾濫」と「暴力的な現実」の対比によって、道徳が崩壊した内乱期(薔薇戦争時代)の虚しさを浮き彫りにしています。

「自然」という無慈悲な舞台

冒頭で美しく描かれた「笑顔のような」ティル川が、一転して彼らを飲み込む「脅威」へと変わります。

スティーヴンソンは、人間同士のちっぽけな争い(政治)に対し、自然(湿地や川)は圧倒的かつ公平な暴力として存在することを示しています。貴族も農民も、川に落ちれば等しく溺れる存在であるというリアリズムが、ロマンあふれる冒険譚の骨格を支えています。


なぜ騎士ディックは泳げないのか?

「男のたしなみ」のパラドックス: ディックは「泳ぐことは人を殺すことの次に偉大な特技」と驚嘆します。実は中世~近世初期、泳ぐことは騎士の必須教養ではありませんでした。むしろ鎧兜をまとう彼らは水に入れば沈む運命にあり、水泳は「裸同然で働く下層民や漁師の技術」と見なされることもありました。

ジェンダーの逆転: マッチェム(ジョアンナ)が泳げるというのは、彼女が「貴族の姫君として深窓に守られていた」のではなく、あるいは「奔放に育った」ことを示唆する面白い設定です。ここで「男らしいディック(泳げない)」と「女々しいマッチェム(泳げる)」という逆説的な対比が生まれ、後の性別判明時のカタルシスへの布石となっています。


中世のパンデミック「沼地熱(Ague)」

渡し守ヒューが「汚れた古いマントの上で震えている」描写は、単なる雰囲気作りではありません。これは当時、イギリスの湿地帯フェンズで猛威を振るっていたマラリア(Ague)の極めて正確な描写です。

水はけの悪い湿地帯は蚊の温床であり、フェン地方の住人は慢性的な熱病に苦しめられていました。「震えている」「痩せこけている」という病状描写は、当時の衛生環境と過酷な庶民の暮らしを冷徹に伝えています。ヒューが機敏に動けなかったのも、性格だけでなく、この病のせいなのです。


ロングボウの恐怖

ジョン・ア・フェンが持っている「長弓ロングボウ」は、当時の最終兵器です。騎士の装甲すら貫通するこの武器の台頭が、伝統的な騎士の時代を終わらせたと言われています。

ディックが、姿の見えない射手に対してこれほど神経質になるのは、当時の戦場においてロングボウがいかに「理不尽な死」をもたらす存在だったかを知っているからです。森の中から狙撃される恐怖は、現代の狙撃銃スナイパーの恐怖と何ら変わりません。

 

第三章は「川渡りのアクション」の中に、疫病の歴史、軍事技術の転換点、そして階級社会の動揺が巧みに織り込まれた、非常に情報密度の高いエピソードとなっています。

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