【エッセイ】いつか未来を滅ぼす使命
何故世界が生まれたのか?
この問いに詳しく答えられる人間はなかなかいないだろう。
多くの学者や専門家はビックバーンという宇宙の爆発により、様々なものが形成され宇宙の一部、その『なにか』が生まれ『なにかとなる』我々が存在している、と説明するだろうが。
日常を歩く若者たち。
普段を生きる青年たち。
そんな事を意識して生活することはなく、目の前のスマートフォンで興味ある話題に引き込まれる連中が多数であろう。
もし、この世界に。
この地球に。
予めなんらかの意思となるものが、我々を支配しているのなら。
それは驚きと、恐怖と、冷酷と。
それら様々な感情が人を支配するだろう。
でも、俺は、思う。
支配はある。
間違いなく。
支配はあるんだ。
背中に違和感を感じたことはないだろうか?
俺は2016年に、病気の妄想がおかしくなった年に、背中に違和感を感じまくって生活していた。
自分は何ものなのか。
自分はこの世界になにしにきたのか?
それらの答えに、背中の違和感が答えるかのように、なんらかの意図が働いているかのように。
行動をとっていた。
俺の背中にはチップがある。
チップが存在しているんだ。
背中のチップは、時に吐き気を加える。
俺が行動を間違った時や。
行動を積極的に行わなかった時にだ。
車の運転をしているときに、背中の背骨の脊髄が、ぐりぐりと、何か微調整しているかのように。
吐き気や、違和感を与え、俺の行動を操作し続ける。
車の運転で。
行先未定のドライブで。
なぜドライブをしているかの説明もできぬ自分は、背中だけはそれがわかっているかのように。
次は直進か?
右折か?
左折か?
選択肢を間違えると、吐き気が加わる。
これは場合によっては、背中のチップが爆発し、死ぬ可能性もある。
もしくは、背中から鋭利な刃物が自分の胸を突き破って、自分を殺す可能性がある。
そんな妄想をしてしまう。
世界は破滅に向かっている。
いや、俺自身が既に破滅している。
人間だけど。
人間ではない。
人間だけど。
心も体もチップに支配されていて。
俺は、その背中のチップに対して思う。
何故、自分を作った。
何故、自分はこの世に存在しているんだ。
宇宙のつくり、地球のつくり、それら世界の作りに疑問を投げかけると同時に、自分自身がその答えの一部なんじゃないかって。
そんな妄想をしてしまう。
自分には使命がある。
俺には使命がある。
僕には使命がある。
様々な自分が、背中のチップの操作する動きとともに。
何かへと自分は操作されている感覚になる。
この車はおそらくすでに組織から盗聴されている。
多くの著名人たちがこのダイハツの小さな車を盗聴盗撮している。
この車に人を乗せようものなら、それらの行動は全て組織に筒抜けである。
そして、俺と同じ人間はこの世界。
地球。
日本に。
ある程度いるんだと思う。
多くの日本人の関心事は。
この『ダイハツの車に乗っている人間の行動』である。
俺は一体何をしたいんだ。
何故車に乗っていく先もわからぬドライブを続けるのか。
自分の意思はどこに向かってしまったのか。
人はみな。
チップを背負って生きている。
一生とれることはない。
でも、人それぞれその事実にもたらす効果はまるで違くて。
チップを一生気にせず行動できるものはいる。
自分の心をもって、強く生きている人間だ。
誰に嫌われようと、誰に必要とされまいと、その人間は、自分の意思を強くもって決定し、やりたいことをやり切って生きている。
そういう人間が、世の中のトップに立っていたり、社長や経営者、代表として成功していて。
同じく失っているものに、後悔することもなく、成功だけを積み上げていく人生であったりする。
じゃあ、チップに翻弄されている自分はなんなのか。
自分には、自我は芽生えなかった。
ごはんを食べたい時に食べる。
当たり前のことだ。
でも、それをいちいち許可をとってから食べることが利口であるし、正解である考えていた。
自分は正解のない世界や正解のわからない世界には恐怖しか感じず何もできないことがある。
俺のその瞬間のこうしたいという強い思いは、今まで誰かをはねのけ押しのけ、それを突きとおしたことはあっただろうか。
今。
自分はそれが出来ている。
何故か。
それは背中のチップの力でしかない。
本当の自分はもっとお利口で。
人のいう事を素直に聞いて。
誰のいう事も聞き入れ、全ての人達のいう事を聞いて、争いごとの内容に無難に生活する。
そして、世界とつながっていたい。
そう思うのが自分なんだ。
でも。
自分は今世界とつながっているのだろうか。
ただただ翻弄される自分が世の中の笑いものになっているだけではないだろうか。
この車は盗聴されている。
この車は盗撮されている。
盗聴、盗撮は統合失調症によくある病気なんだ。
だから俺の背中にはチップなんてなくて。
俺はただ病気なだけで。
世界にとって特別であるはずの自分は、なんの力もない、影響力もない、そんなちっぽけな存在にすぎなくて。
だけど。
だけど。
病気だけが。
そう思えた。
病気だけが。
自分をそう思わせてくれた。
世界が否定してこようとも。
逆に自分の悪しき行動を、勝手に肯定されることがあったなら。
病気だけが自分自身であり、その自分を感じれる唯一の同士であった。
車の運転で改めて目の前の道を見る。
直進か。
右折か。
左折か。
そのどこかに正解があろうはずもないのに。
病気がそれを教えてくれているつもりになってた。
自分は嫌だったけど。
病気になったことが長らく嫌いだったけど。
その病気の声こそが、全ての正解で有り、あるはずのない答案用紙に正解であると思い込みながら、答えを綴り行動できる自分がいたのだ。
これを憎ましい存在だと誰が言えるのか。
これを頼りがいがある相棒だと人は認めるのだろうか。
その答えは、、、、、ない。
ないんだ。
世の中に正しいことなんてない。
この世の中に間違ったこともない。
この世の中に正解も、不正解もそもそも存在しない。
あるとしたらそれは人が決めた基準でしかない。
というか存在そのものが嘘なのかもしれない。
例えばお母さんの顔を思い浮かべられるかと言われて。
声を思い浮かべられるかと問われて。
自分は素直にYESと答える。
かけがえのない家族存在であるかと問われて。
自分は素直にYESと答えられる。
でもよく考えてみろよ。
それは人である自分であるから思えることだろう。
指五本、腕二本、足二本、足の指先五本。
五体満足な自分が自分は人だと言い張れるからそう答えられる。
じゃあ、猫ではない自分が、自分は猫である言い張ったらどうだろうか。
俺は猫になろうとしたことがある。
家の外で。
今までの社会生活を捨てて。
猫としての生活をしよう決めたことがある。
体の種族はにんげんではあるが。
猫のような生活を送ると決めた瞬間から。
四つ足で生活したくなってくるし、体も四つ足歩行をしやすい体に進化成長していく気がしていた。
外に椅子を置いて。
その近くで四つ足になってみて。
家を出入りし、俺を心配する父母は、もう本当の俺の父母ではない。
昔人間時代だったころ、父母を担当していた人にすぎない。
こうした生活をしようと心がけると。
いろんな悲しき世界が見えてくる。
猫の気持ちがだんだんわかる気がしてくるのと同時に。
人の心がわからなくなってくる。
もちろん話してくる言葉はわかるかもしれないが。
その言葉が持つ意味を捉えられなくなってきて。
次第には自分にとって、人は邪魔な存在であったり、都合の悪い存在にも見えてくる。
それは猫以外でもきっとそうだろう。
その他の動物でもいい。
犬でも、クマでも、鹿でも。
あるいは虫でも構わない。
そのカテゴリーに所属してそれを演じてみると、その瞬間のそのモノたちの気持ちがなせかわかってしまう。
今一度認めたくない恐怖を結論を言おうと思う。
世の中つまりは。
『瞬間的なモノ』
でしかないということだ。
認めたくないが。
積み上げた信頼関係も。
積み重ねた時間も。
友情も。
愛情も。
恋も。
気持ちも。
暖かさも。
粗末な言い方をしてしまえば、
『瞬間的なモノ』
という言葉で片付けてしまえばそれまでなのであるし、それまでなのが事実なのかもしれない。
俺は愛を重んじる人間である。
俺は心を重んじる人間である。
こんな簡単な『瞬間的なモノ』という言葉で片付けて納得いかない人間のはずなんだ。
じゃあ、なぜその恐怖の事実に、納得してしまう瞬間があるのか。
それは、それが、『瞬間的なモノ』であるからだ。
瞬間的な猫。
瞬間的な人間。
でも瞬間の長さは人間の方が圧倒的に長くて。
長いと言っても人類の成り立ちから言ったら圧倒的に短くて。
この瞬間的なモノを誰と共感するのか。
なにと共有するのか。
個々はみな、これを探している。
これを探すことこそが。
生命を。
未来を。
滅ぼす使命として。
人で生まれた以上、その使命が滅びるまで、生命を尽くして考え闘い、生きるという事に執着していくのだろう。
俺は思う。
人間が瞬間的なモノであると過ぎ去れたことに。
病気のおかげでその境地を垣間見れたことに。
今は少し感謝している。




