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知らない子

作者: 雨宮ヤスミ

 

 

 水の流れる音だけが、この平坦な暗闇を河川敷の道だとわたし達に知らせてくれていた。


 トミは、そうしていないと川に落ちると心配しているかのように、わたしの手をぎゅっと握っている。


 わたしもそれを同じくらい強く握り返した。


 こんなにも強く人と手をつないだのは子供の頃の夏祭り以来だ。


 あの時のわたしはまだ小学一年生で、健在だった父に連れられて、人ごみの中をはぐれないようにその手を握っていたのだった。


 父の手に比べれば、当然トミの手は小さい。


 同い年のわたしの手よりも小さいのだから、成人男性のごつごつしたそれと比べるのが間違っている。


 だからこそ、今わたしはトミの手を「引いている」のだ。


 わたし達は並んで歩いているけれど、心はわたしの方が先に踏み出している。


 トミをわたしが引っ張ってやらねばならない。


 あんなことがあって、平気でいられるはずがないのだから。


「……シズ」


 か細い声でトミがわたしの声をかけてきた。


「ここにいるよ。手を握っているよ」


 わたしはそう教えてやった。


「知ってる」


 トミは少しおかしそうに笑った。それこそ知ってる顔で、だからわたしも笑い返した。



 河川敷の道はどんどん狭くなっていく。


 それは上流へ近づいているということなのだけれど、道が途切れて草っ原に続いているのを見ると、なんだか惜しいようなそんな気がするのだった。


「上に上がるよ」


 トミはわたし達から見て右手、川ではない方を指さした。


 土手の上の遊歩道へ続く小さな階段があった。


 手すりもないそれは闇夜に紛れて本当よりも急に見えた。


 わたしは川から別れがたい気がしていたけれど、トミの言葉に従った。


 少し前を歩いて、ずんずんと階段を上る。


 既に手は放していて、トミは少し息を切らしてわたしの後ろをついてくる。


 先に遊歩道へ上り切ったわたしは、改めて川を見下ろす。


 下流よりも流れが速い。川幅が狭くなったからだろう。


 山から流れ落ちる川は、上流に行くほど狭くて急、下流へ行くにつれて合流して大きな流れへと変わっていく。


 この川も、いくつも支流と合わさって、海へと行くのだろう。


 この先にあるのは、より純粋な姿の川なのだ。


「……ふうっ」


 トミが階段を上がり切った。運動不足の彼女は、荒い呼吸を何とか整えている。わたしはそれを待ってやった。


「前の時は、こんなに辛くなかったのにね」


 ね、なんて言われても、わたしは前の時なんて知らない。だから返事をしてやらなかった。


「行こ、もうすぐだよ」

「知ってる」


 少しとげのある言い方をしてしまったかな。それを補うように、トミと手をつないだ。


 わたしも反省はするのだ。



 東京の玉川上水というところで入水自殺した文豪の話を、最初にわたしにしたのは誰だっただろうか。


 この時聞いた話では、文豪が自殺したというだけで、「ふうん、なんか知らないおじいさんかな」などと思っていた。


 中学に入って、国語の教科書で初めてその文豪の名前と作品が一致した。


 友情を描いた有名な物語。激怒から始まって、赤面で終わる物語。


 ひどく童話的で、どこか滑稽で。


 わたしはやっぱり「知らない昔のおじさん」という気持ちしか持てなかった。


 その文豪が自殺した時、一緒に川に入った女の人がいたことを教えてくれたのが、トミだった。


 高校で出会ったトミは、今までわたしの知らなかった人種だった。


 教室で堂々と本を読んでいるその姿に、わたしは「とんでもない高校に来てしまった」と愕然としたものだ。


 奇跡的に偏差値の高い学校に合格したのは、そりゃ合格できた時は喜ばしかったけど、やっぱり身の丈に合った賢さの私立の方にしておけばよかったんじゃ、と後悔するほどに。


 この話をすると、トミはいつもおかしそうに笑う。


(シズだって、賢いじゃない――)


 わたしの次の次の次の、そのまたまたまた次くらいには。


 そういう嘲りを、トミが笑うたびにその瞳から探す。それは、決して見つかりはしなかったけれど。


 遊歩道伝いにわたし達は歩いて行く。最後に自動車のライトとすれ違ったり、追い越されたりしたのはいつのことだっただろうか。


 わたし達は今ふたりぼっちで、確かにあるのはトミの手だけだった。


「……前の時はね」


 遊歩道の終端で、トミはそれを待っていたかのように口を開いた。


 ここからは、山を取り巻くように急カーブしている車道に降りなければならない。


 そこからしばらく行くと、整備された登山道があるらしい。


「もっと明るかったんだ。満月の夜だったし、晴れていたから……」


 わたしは空を見上げる。月は沈み、星影は雲の向こうに隠れていた。


 暗い山の中は、人間がいるべき場所のようには思えなかった。トミは、わたしと手をつないだまま、そんな中を歩いて行く。


 確信があるのだろうけれど、わたしはどことなく、トミの足取りに危うさを感じていた。


 どこか、吸い寄せられるように登山道の方へと向かって行っているような気がして。


 急カーブを登って空き地のような場所に出た。トミは足を止めて、木々の間にある細い道を見上げる。


 階段状に丸太が置かれたそれは、大きな怪物がぽっかりと口を開けているかのようだった。


 トミの手に力がこもる。わたしはそれを、負けずに握り返した。


「ちょ、痛いよ……」

「知ってる」


 無感情に、わたしは応じた。



 トミに好きな人がいると聞いた時、わたしは天地がひっくり返ったかのように驚いた。


 嘘だ。天地はひっくり返らない。ひっくり返ったのはわたしの世界だけだ。


(同じ文芸部の先輩なんだけどね。何でも知ってて、すごく頭がよくて――)


 日本で一番賢い大学にも入れるほどの人で、うちの高校にしてみたって、非常に高級な生徒だった。


(君がオオタさん? トミからよく話を聞いているよ)


 トミの好きな先輩は、トミのことを馴れ馴れしくそう呼んでいて、だからわたしは曖昧に笑って見せただけだった。


 絶対にこの男に、シズと呼ばせてなるものか、と強く思ったものだ。いつまでも、この人の中では「オオタさん」でいようと。


 そんなわたしの密かな決意など知る由もなく、トミは先輩と何か笑い合っていた。


 やがて、トミと先輩は交際を始めた。


 先輩といるときのトミは、楽しそうだったけれど、わたしはそういうトミを見るのが嫌だった。


 わたしといる時のトミしか、わたしは知りたくなかったのかもしれない。いや、わたしといる時のトミが、トミのすべてでいてほしかったのだ。


 トミは先輩を立てた。


 先輩が「知っているかい?」と問うたことを、知っていても知らないと答えた。


(そうなんですね! お墓にさくらんぼを詰めるなんて、面白いですね――)


 知ってるでしょ、本当は。前にわたしに教えてくれたじゃない。ぎゅうぎゅうになってるのが、不謹慎だけど何だか面白いね、って笑い合ったじゃない。


 そう言いたくなるのをこらえて、わたしは二人を見守っていた。


(オオタさんはトミと仲良くしてくれているよね)


 先輩は、わたしの中にどろどろと蟠っているものになど気づいていないような素振りで、いつだったかそう言ってきた。


(トミとずっと、友達でいてあげてほしいな。近くにいてあげてほしい)


 あんたは東京の大学に行っちゃうから?


 そう聞き返してしまいそうになって、わたしは何とかそれを飲み込んだ。


 行くんなら勝手に行けばいいんだ。置いていくって言うんなら、トミに触れずに、トミのことなんて知らずに、黙々と一人でどこにでも行ってしまえばよかったんだ。


 それだけでも、わたしにとっては許しがたいことだったのに。


「先輩はね……」


 階段を上った先は、森林公園になっていた。


 遊歩道を歩く間に別れてしまっていた川と、わたし達はまた出会っていた。


 本当に小さな流れになってしまった川の、その傍らに設けられた木道を渡る。


 手すりも何にもない橋の下に、ささやかな水の音が聞こえる。


 水音は、わたし達のやってきた方へと去っていく。もっと大きな音で、トミの言葉をかき消してほしかった。


「大学なんて、行きたくなかったんだ」


 トミは、この旅路で初めて、あの男のことを口にした。


 いや、それどころではなかった。もっと、もっと久しぶりのことだった。


 あの人が死んで以来だから、半年ぶりだろうか。


 そう、先輩は死んだ。


 自殺だ。


 先輩の尊敬する、トミの好きな、あの文豪のおじさんと同じように入水自殺した。


 ここは東京でもないし、わたし達の町を流れる川は、いくら遡っても玉川上水には着きやしない。


 だけど、先輩は文豪のおじさんと同じシチュエーションで死のうとした。


 つまり、トミと一緒に水に入ろうとしたのだ。


 受験のストレスか、過度に期待をかけられていると感じていたのか。どこか満たされていなかったのだろうか。


 それでも、トミという心を許せる女の子がいたのに、トミをわたしから奪ったのに。


「周りの期待に応えるのが、窮屈になっちゃったんだ。だから、それに縛られたくなくて……」


 そこまで言って、トミはまた黙った。ただ、足を動かすことだけが使命かのように、歩いている。


 甘ったれてるよ。そんなことで、他人まで巻き込んで死のうとするなんて。


 わたしはそれを飲み込んだ。散々トミも、聞いてきた言葉だろうから。敢えて、今私の口から伝えるべき言葉ではない。


 最早わたしは、精神的にも身体的にも前にいなかった。純粋な流れはトミの中にあって、わたしはそれについていくしかなかった。


 それは本当は、最初からそうだったのだろう。わたしは過度に彼女を守ろうとしすぎていた。


 先輩にこの世に置いて行かれたトミが、心だけあの世に行ってしまったようになっていたトミが、事件のせいで引っ越してしまったトミが、こうやって帰ってきて自分で言ったのだ。


(先輩が死んだ場所に行きたいの。シズ、ついてきてくれる?)


 トミの頼みを、わたしは断れない。断るわけにはいかない。


 この先に何が待っているのか、知らなくたって。



 トミはずっと黙っていた。徐々に大きくなってくる水音に、声を取られたみたいに。


 黙ったまま、夜の山道を進み、ついにわたし達はそこへたどり着いた。


 大きな水音が聞こえる。


 木道の辺りを流れていたのは、操作された水だった。本当の流れは暗渠の中に押し込められていた。わたしは今、むき出しになったそれを目の当たりにした。


 滝だ。


 力強いしぶきを上げて、ごうごうと落ちていく。


「柵なんてなかったのに……」


 真新しい金属のそれに身を預けるようにして、トミは滝つぼをのぞき込む。


 闇の中に、水の底に、そのまま落ちていこうとしているように見えて、わたしは思わずトミの服の裾を掴んだ。


「大丈夫」


 トミは振り返った。暗い中でも赤い目をしているのが分かった。


「行ったりはしないよ、シズ」


 ただ、とトミは懐から包みを取り出した。


「これを、先輩に……」


 やわらかい紙の中に包まれていたのは、薄い赤色のさくらんぼだった。


「先輩の好きな作家はね――」

「命日が、桜桃忌なんでしょ?」


 知ってる。


 わたしの答えに、トミはうなずいた。


「わたしに、先輩を弔う資格なんて、あるのかなって、ずっと思ってた」


 あの日、トミはここまで来て水に入らなかった。


 先輩が入っていくのを止めることもできずに、逃げ出してしまったのだ。


「だけど、わたしが先輩のことを覚えておかないと。先輩の本当のところを、みんな知らなくて、好き勝手言って、わたしはそれが悔しいけど、何も、言え、なくて……」


 ああ、何と言うことだ。


 先輩と運命を共にできなかったことを、やっぱりトミは悔いているのだ。


「だからね、だからこそ、わたしがやらなくちゃって、やっと決心が、ついたんだ。それで、シズならきっと分かってくれるから、って、ここまで来てもらって……」


 ありがとう。


 トミは濡れぼそった目で笑った。


 その顔に、わたしはどきりともぎくりともつかない痛みを覚えた。


 笑っただけのはずなのに、暗闇の中で、見たこともない表情を浮かべているようだったから。


 トミはさくらんぼを一粒つまむと、それを滝つぼに投げ入れた。一つ、また一つ。お葬式の焼香のように見えた。


 わたしは黙って、その後姿を眺めるばかりだった。


 トミとの距離は、一歩分しか離れていないはずなのに、その姿は知りえない夢の向こうよりも遠くにあるように見えた。


 ああ、そうか。


 消えないトミのさっきの笑顔の、泣き笑いの顔の正体が分かった気がした。


 あれは、女の顔だ。


 先輩にだけ見せていた、わたしの知りえない、知りたくないトミの顔だったのだ。


 弔いの儀式はやがて終わった。


 闇の中、いくつかのさくらんぼが浮き沈みしているのが見える。


 トミはわたしを振り返った。わたしは顔を背けた。


 この後をどうするのかは、知らない――。




<知らない子 了>

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──待つ身がつらいかね、待たされる身がつらいかね。 人は、嘘で塗り固められた世界で生きてはいけないけれど、真実だけの人生もまた耐えられない。 息抜きと言うかバランスと言うか、そう言うのが足りない方…
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