手さえ繋がせてくれない恋人が俺への愛を叫ぶ現場を目撃した
『俊太、あたしと別れてくれない?』
ある日の晩、俺は夢を見ていた。
夢の内容は、数か月前に別れた元恋人との終わりの日の夢。
元恋人とは、大学生の頃、友人が主催した合コンで出会った。
男女四人ずつの合コンで、俺達以外のカップリングは合コン開始後、すぐに決まり……俺達は余りものとしてしばらく会話を楽しんだ。
意気投合した、と言えば、微妙な空気だったが……話の流れで連絡先を交換し合って、なんだかんだ関係が続き、最終的には交際に発展した。
交際期間は約六年。
彼女と出会った時、まだ大学生だった俺達は社会人となり……仕事にも慣れ始めて、そろそろ結婚も視野に入れるか、と思った矢先に、俺は振られた。
自分で言うのもなんだが、俺は結構、頑固な性格をしていると思う。
彼女にどれだけ頼まれてもお金は貸さなかったし、彼女がどれだけ望もうが、飲み会帰りに彼女を迎えに行ったりしなかった。
それくらい、自分でどうにかするべき問題だと思っていたから……決して、手助けをすることはしなかったが、多分、そういう頑なな部分が、彼女は気に入らなかったのだろう。
『わかった』
だから、頑固な性格に反して、これ以上、彼女の重荷になるくらいなら、と破局を受け入れた。
『……引き留めてくれないんだ』
『お前が望んだことだろ?』
『……俊太って昔からそうだよね。全然、あたしの気持ちに寄り添ってくれない』
俺はもう何も言えなくなって、立ち上がった彼女をただぼんやりと眺めることしか出来なかった。
『清々するよ。あんたと別れられて』
もしかしたらこの時、彼女の腕を掴んで止めれば……あいつも心変わりをしてくれたのかもしれない。
でも、俺にはそんな真似は出来なかった。
俺がここで彼女を止めれば、彼女は今後一層、不満を溜め込むことになるだろうから。
これ以上、彼女に不満を……無理強いをさせることは、気が引けたのだ。
『じゃあ、サヨウナラ』
正直、付き合っている間、彼女に不満を抱いた回数は数知れない。
別れを切り出すか迷ったことも何度かあった。
でも、結局俺から別れを切り出すことはなかった。
なんだかんだ俺は、彼女と過ごす時間が楽しかったのだろう。
……だから俺は、未だに彼女の夢を見ては、女々しくも後悔の念に駆られるのだろう。
* * *
部屋の外からキジバトの鳴き声が聞こえて、俺は目覚まし時計のアラームが鳴る五分前に目を覚ました。
上半身を起こすと、昨日の残業が十時まで続いた影響か、はたまた悪夢にうなされたせいか、体に少し疲労感を感じた。
二度寝をしたい気持ちに襲われたが、心を鬼にしてベッドから体を起こした。
今日はどうしても外せない予定があったのだ。
昨晩買っておいた菓子パン、サラダチキン、プロテインを朝食として手早くに食べて、シャワー、歯磨き、髭剃り等の身支度を済ませて、家を出た。
「やべ、少し遅れた」
身支度に時間がかかったせいか、はたまた昨日の仕事の疲労のせいか、家を出る時間が予定より五分程遅くなって、俺は足早に駅へと急いだ。
少し走ったおかげもあり、予定の電車にギリギリ乗り込むことが出来た。
しかし代わりに、六月という夏日も増え始める時期という影響もあってか、程ほどに汗を掻いてしまった。
匂い大丈夫かな、とジャケットの匂いを嗅いでみるが、自分で自分の匂いはわからなかった。
体臭に不安を覚える中、一時間の電車移動を経て、俺はとあるアトラクションパークに到着した。
今日はここで待ち合わせの予定だった。
待ち合わせ予定の改札前、開園一時間前にも関わらず、既に駅はアトラクションパークの来場客と思しき人間で溢れかえっていた。
「村田さん、おはようございます!」
まもなく、待ち合わせの相手は駅改札の方向から、一人の女性がこちらに駆け寄ってきた。
スレンダーな体型。
色白の肌。
艶のある黒髪。
外国人のように高い鼻。
二重で大きな瞳。
こちらに駆け寄ってくる女性は、道行く人が思わず見惚れるくらいに美しい女性だった。
「お、遅くなってすみません……」
「気にしないでください。何なら待ち合わせ時間より早い到着ですよ」
黒髪長髪を靡かせて俺に謝罪する彼女の名前は、石川早香さん。
俺より三つ下で、今年二四歳になる女性だ。
「で、でも……村田さんを待たせてしまって」
「いいえ、気にしないでください。土地勘がない場所なので、少し早く到着しようと思っただけです。そしたら、ちょっと早く着き過ぎちゃいましたね」
彼女は、最近出来た俺の新しい恋人だ。
「……本当にすみません」
「いえいえ、こんな暑い中走らせてしまって、こちらこそ申し訳ない」
「そんな……それにしても、今日は中々暑いですね」
「そうですね。今日の気温、この時期の最高気温を更新しているそうですよ」
「そうなんですか。だったら納得です」
ただ……恋人同士の俺達の会話は敬語交じりで、どこかぎこちなさを感じた。
「……村田さん、ちゃんと日焼け止めはしてきました?」
「いえ、大丈夫かなと思って、してきていません」
「紫外線を侮っちゃいけませんよ。あたしはバッチリ塗ってきました」
「そうですか。石川さんの白い肌が無事なら安心だ。俺も日焼け甲斐があるってもんです」
俺達の会話がどこかぎこちない理由……。
それは多分、俺達の出会い方に原因がある。
「……開園まで少し早いですが、ここにいてもしょうがないですし、行きますか」
「は、はい! 今日もよろしくお願いします」
俺達の出会いは、婚活用マッチングアプリだった。
元恋人に振られた当初、俺はしばらく新しい恋を探す気にはならなかった。
女々しいことに、彼女との破局を相当引きずっていたのだ。
『村田、俺、結婚することになったわ』
しかし、破局でナイーブになっている俺の気も知らず、その頃に友人の結婚ラッシュが訪れた。
幸せそうな友人の結婚式。
ご祝儀で減っていく貯金。
実家からの圧力。
散々な目に遭った俺は、渋々、新しい恋人を探し始めた。
ただ、新しい恋人探しは困難の連続だった。
真っ先にぶち当たった問題は、どこで新しい恋人を探すか、ということ。
大学を卒業して数年が経ち、友人に既婚者も増えた今、元恋人との出会いのように合コンを開いてもらうわけにもいかず。
ならば職場恋愛も……公私混同になりそうで気が引けた。というか、職場では嫌われ者だから、俺なんかに靡く異性はいなかった。
そうすると、新しい恋人探しに使えるツールは限定的になり、結果、俺が手を出したのはマッチングアプリだった。
しかし、マッチングアプリでの恋人探しも迷走を極めた。
事前にネットなどで情報を得ていたが……現在、マッチングアプリは男性にとっては過酷すぎる仕様になっているのだ。
まず、マッチングアプリを利用するにあたって、女性は基本的には料金無料で運用出来るのに対して、男性は月額料金が発生する。一応、男性も無料で運用することも出来るのだが……男性が無料でマッチングアプリを運用しようとすると、アプリ内でのメッセージがすぐに見れなくなるのだ。だから、実質男性はアプリに月額料金を支払う羽目になる。それも、まあまあな値段が張る月額料金を。
ただ、そんなのはまだ序の口だ。
一番の問題はなんと言っても、婚活市場の男女格差だ。
マッチングアプリでは、女性は男性から容易に数十~数百の『いいね(マッチング希望)』を集められるのに対して、逆に女性から男性に『いいね』をされることは滅多にない。
そして何より、男性から気になっている女性に『いいね』を送っても、『OK(マッチング成立)』をもらえることが滅多にない。
それだけじゃない。
例えばこんなシチュエーションがありうる。
恋人を探すため女性のプロフィールを見ていて、気になった女性に『いいね』を送ると、偶然にもふと、珍しく女性側から『いいね』をもらい『OK』をする。
すでにマッチングアプリでの恋人探しに慣れているのだろうか、女性はすぐにランチに誘ってくる。
数度のメッセージしかしていない女性に興味があるわけではないが、何事も経験する意義は大きい。
一瞬の逡巡ののち、俺は女性とランチに行くことを選択する。
俺に必要だったものは、臨機応変な判断力だった。
その後、俺は高飛車な女のくだらない元カレの自慢話に二時間付き合わされた挙句、高級フレンチを奢らされて、帰宅後、女とのメッセージ欄はブロックされていた。
あの体験は中々忘れることが出来ない。
いやまあ、あれ以上の関係を築くことは、こちらから願い下げだったわけだが……それにしても、凄まじいババを引いてしまったとその時ばかりは思った。
ただ、残念ながらマッチングアプリで出会う女性は、そんな人が数多くいた。
高級フレンチとはいかずとも、数度のメッセージをしただけでブロックしてくるだとか。
会う約束をしたにも関わらず、ドタキャンしてくる人だとか。
そもそも待ち合わせ場所に姿を見せないだとか。
……さすがの俺も、もうマッチングアプリは辞めようか、と思い始めた時のことだった。
石川さんから『いいね』をもらったのは。
正直に言えば、石川さんから『いいね』をもらった時、俺は『OK』の返事を出すか迷った。
マッチングアプリにおいて、相手とマッチング出来るかは、登録者自身が登録した数枚の写真とプロフィールにかかっている。
石川さんから『いいね』をもらった時、俺は彼女の登録情報を一通り見たのだが……。
彼女が登録している写真は、一人暮らしの部屋で飼っているチンチラの写真一枚のみ。
『はじめまして。プロフィールをご覧いただきありがとうございます。
私は自分の仕事が好きで、これまで仕事中心の生活をしてきました。そんな中、周囲の友人も結婚し幸せそうな結婚生活を見ているうちに、私も素敵な家庭を築きたいと真剣に結婚を考えるようになりました。
これからよろしくお願いします。』
そしてプロフィールは、休日の過ごし方や理想の結婚像も特になく、定型文を貼り付けただけのものだった。
正直、地雷臭が凄かった。
それこそ、高級フレンチ奢らせ女に負けないくらいに。
……ただ、当時の俺はやけくそだった。
どうせもう辞めるつもりだし、最後に凄まじい地雷を見てやるか。
そんな気持ちで、石川さんの『いいね』に対して、『OK』の連絡をして、しばらくメッセージを送り合って……意気投合して、俺達は実際に会ってみることになった。
『あの……村田さんでしょうか』
『あ、はい……っ』
そして俺は、実際に出会った石川さんを見て、目を疑った。
まあ、地雷だと思って出会った女性が……これ程、絶世の美女だったのだから、皆に俺の気持ちは伝わるだろう。
そんなこんなで俺達は出会って、定期的にデートを重ねて、四度目のデートの際、晴れて恋仲関係になることが出来た。
「け、結構混んでいますね……」
「そうですね」
交際開始は先月の話。
今日は確か……七回目のデートだ。俺達は毎週土日のどちらかはデートをしている。
「見ろよあの子、めっちゃ可愛い」
「もしかしてアイドル?」
「やりてー」
デートの度、周囲の男性が石川さんにそんな反応を見せる光景にもさすがにそろそろ慣れ始めた。
そして、頻繁にデートを行っているおかげで、彼女の人となりもある程度知ることが出来た。
特に覚えていることは……。
『最近、夜、家のそばの海岸でさざ波の音を聞きに行っているんです』
だとか。
『趣味は……カラオケ? ですかね』
だとかだ。
また、今日のアトラクションパークデートは、彼女たっての希望だった。
彼女の実家はアトラクションパークの近くにあるものの、ここへは小学生の修学旅行で来て以降、一度も来たことがなかったらしく、折角なら行きたいとリクエストされたのだった。
アトラクションパークのデートは無言の時間が増えて、破局の原因になることが多いと言われ、付き合いたてのカップルが敬遠しがちなことは知っていたが……まあ、それで別れる関係ならば、その程度だったということだろう、と思って了承した。
「それにしても、今日は本当に暑いですね」
「村田さん、ハンディファンいります?」
「え……? 石川さんは使わないんですか?」
「あたしはまだそこまで暑く感じてないので」
「……それなら、お言葉に甘えて」
ただまあ意外とアトラクションパークデートは順調に進んでいるように思える。
「涼しいですか?」
「はい。ありがとうございます」
多分、俺達は互いに、そもそもそこまで積極的にコミュニケーションを取るタイプではないから、無言の時間も気にしない。
「そうですか。それなら良かった」
「本当、助かります」
正直、彼女との交際に関して、ここまでは一切、大きな不満はない。
「それじゃあ、どのアトラクションに乗りましょうか?」
「そうですねー。あ、あのエレベーターがグワングワンするやつ、乗ってみたいです」
ただ、不満ではないが……彼女に対して、少しだけ気になっている部分もある。
「……っと。結構、人増えてきましたね」
「ほ、本当ですね」
「石川さん、手を」
「え?」
「はぐれるといけないでしょ?」
「……あー」
些細なこと。
「えっと……」
「……どうかしましたか?」
本当に、些細なことなのだが……たった一つだけ、気になっているのだ。
「大丈夫です。最悪はぐれても、スマホで連絡つきますし」
どうも彼女は、俺とのスキンシップを拒んでいる節があるのだ。
* * *
石川さんとアトラクションパークデートをした翌日、帰宅後の俺のスマホのバイブが作動した。
スマホの画面を見れば、友人である新沼の着信が表示されていた。
「もしもし」
『もしもし? 元気?』
「ない。電話切るぞ」
『判断が早い!』
俺はため息を吐いて、渋々電話を続けてやることにした。
俺が新沼と知り合ったのは大学生の頃の話だ。俺達は学籍番号が一番違いということもあり、新入生歓迎会のオリエンテーションで箱根に旅行した際、同部屋で一夜を明かすことになり、それがきっかけで仲良くなった。
そして、彼との腐れ縁は、大学を卒業して以降も……更に言えば、彼が結婚した今でも続いている。
『村田ぁ、聞いてくれよぉ……』
「わかった。適当に相槌だけ打っておく」
『頼むわぁ』
ただ、最近の新沼との連絡はもっぱら、既婚者である彼の愚痴。
仕事に嫁に、新沼は色んな方面の愚痴を抱えていた。だから、月一……多い時は週一くらいの頻度で、俺は彼の愚痴を聞かされていた。
思うところは色々あるが、適当に相槌を打っていれば彼は満足するのだから、それくらいなら無問題である。
まあ、適当に相槌打っていれば満足するなら、自己完結出来るよね? とも少しは思うが。
『それで? 村田、最近、新しい彼女との調子はどうだ?』
ひとしきり自分の愚痴を語り終えた新沼は、俺に対して先輩面をする気になったらしい。
俺に石川さんという新しい恋人が出来て以降、新沼は自らの酒の肴欲しさか、はたまた気まぐれか。本当に先輩面をしたいのか、こうして石川さんとの交際状況を気にしてくれるようになった。
「別に普通だが」
『本当か? 本当だろうな? 今度は順調なんだろうな? 俺、これでも結構……お前が元カノと別れた時、心配してたんだぜ?』
「なんでだよ」
『いやそりゃあもう……あの時のお前、見ていられないくらい酷かったから』
……そんなにか。
少しだけ顔が熱い。
『今度は順調に進むといいな。そのためにも、ちょっとでも不満があるなら相談してくれよ。些細なことだと、彼女にも相談しづらいかもしれないしな』
「珍しくまともなことを……」
『だろ? 珍しくまともなこと言うだろ? いやー、照れるぜ』
珍しく、でいいのか?
いつも、まともなことを言ってくれないか?
「……ただなぁ。実際問題、別に不満はないんだ。石川さんに」
『そうか?』
「ああ、何せ彼女、俺には勿体ないくらいな美人だしな」
『それはそう』
新沼には以前、石川さんと交際を始めた時に、彼女の写真も見せていた。
『えー、本当に何の不満もないのか? 一切? がっさい?』
「うーん。本当にないなー。……あ」
『なんだなんだ? 不満か? 遺恨か? 痴情のもつれか?』
「お前、性根腐りすぎだろ」
一気に相談する気が失せたが……まあ、いいか。
「いやまあ、不満って程じゃないんだけどさ」
『おう』
「なんか彼女、どうも俺とのスキンシップを拒んでいる節があるんだよな」
『なんだよ。欲情しているだけかよ。風〇行けよ』
「スキンシップと言っただけで欲情につながるお前の頭の方が欲情してるんだわ」
俺はため息を吐いた。
「俺が言っているスキンシップは、行為じゃない。もっと軽いやつだ」
『軽いスキンシップ? ……ハグとか、キスとか?』
「もーっと軽いスキンシップだ」
『えー……手繋ぎとか?』
「ああ」
『お前ら、何回デートしたんだっけ?』
「えーっと……八回?」
『八回デートして、手すら繋がせてもらえないのっ!?』
新沼の声がやかましくて、俺はスマホを耳から遠ざけた。
「うるさいなぁ。今時、そういうのが苦手な人は結構いるだろ」
『……えー、お前、寛容すぎだろ』
「そうか?」
『俺なら八回もデートして手すら繋がせてもらえなかったら、別れるけどな。可愛いなら尚更だ』
「可愛い? ……可愛くないじゃなくて?」
『可愛いからこそ危ないんだ。……お前、遊ばれているだけじゃないのか?』
……新沼の言葉はすぐに理解出来なかった。
ただ、理解したらなんとも言えない気持ちになった。
『だってそうだろ。八回だぞ、八回! 八回デートすれば、高校生でももっと親密な関係を築いてるぞ』
「……そうかぁ?」
『お前、元カノと八回目のデートの時、何してたよ』
「何って……」
……うぐ。
『悪い。傷口をえぐってしまった』
「き、気にするな……」
俺は苦虫を嚙み潰したような顔で答えた。
『ま、まあ……お前が今の関係に不満があるわけじゃないならとやかく言わないけどさ。お前、婚活目的で今の彼女と付き合ってんだろ?』
「まあ」
『だったら、一回ちゃんと考えるべきなのかもな』
「何を?」
『……将来、どういう結婚生活を送りたいのかをさ』
* * *
新沼の言葉に悩まされて一週間が経った。
今日は土曜日。
石川さんとの九回目のデートの日だ。
「今日も暑いですねー」
「本当ですね」
背中は滝のように汗を掻いていて、酷く不快だった。
今日のデートは、とあるターミナル駅近くの港沿いを散歩する計画になっていた。
先週のアトラクションパークは楽しかったものの、人が多く、暑さも相まって体力的に非常にキツく……港沿いなら海や潮風の影響で少しは涼しいだろうと思って、俺から提案した。
しかし、港沿いでも日本の六月は暑かった。
「村田さん、ハンディファン使います?」
「え、いいんですか?」
「はい。今日は、実は二本持ってきちゃいました」
「……あはは。助かります」
石川さんの額には薄く汗が滲んでいた。それでも不快感をおくびにも出さず微笑む彼女からハンディファンを受け取って、電源を入れた。
生暖かい風が、ハンディファンから伝ってきた。
……わざわざハンディファンを二つ用意してきてくれるだなんて、石川さんは本当に気が利く女性だ。
唯一、そんな彼女に欠点があるとすれば……やはり、スキンシップを拒むところくらいだと思う。
……本来であれば、俺から提案するべきなのかもしれない。
八回もデートをしたのだから、手くらい繋がせてくれない? だとか。
今後のためにも、もう少しスキンシップを増やさない? だとか。
交際相手とより親密な関係になるため、俺から一歩を踏み出すべきなのかもしれない。
でも、どうもそんな提案をする気にはなれない。
スキンシップを増やしたい、だなんて女々しい提案をすることが気恥ずかしいこともあるが……。
何より一番は、俺は多分、石川さんとの交際に執着していないんだ。
彼女との現状の微妙な距離感に満足しているんだ。
彼女との交際が、別にいつ終わってもいいと思っているんだ。
『……将来、どういう結婚生活を送りたいのかをさ』
彼女との将来を……イマイチ、イメージ出来ていないんだ。
友人が結婚し始めたから。
親から孫が見たいと急かされたから。
婚活を始めた動機がそんな受け身な理由だから、相手に対して何も望んでいないのだろうなぁ……とぼんやりと思った。
「今日はありがとうございました」
結局、今日も碌なスキンシップは出来ず、俺達は解散した。
「はーっ」
帰りの電車、石川さんを彼女の最寄り駅まで送って、俺は一人ため息を吐いた。
「俺がこんなにも恋愛で悩む日がやってくるとは……」
実に女々しくて、自分で自分が嫌になる。
悶々とした気持ちを抱きつつ、俺はズボンの後ろポケットに手を突っ込んだ。
「あ」
ズボンの後ろポケットに手を入れた直前、無機物に触れた感触が手に伝い、俺は気付いた。
そういえば俺、さっき彼女に借りたハンディファンを返していない。
彼女の最寄り駅の次の駅に、電車が到着した。
俺は迷わず電車を降りた。
ここならまだ、彼女にハンディファンを返しに行けると思ったのだ。
俺は丁度やってきた反対方面の電車に乗り込んで、一駅戻り、電車を降りた。
改札を出て、彼女の家の方に歩き出した。
家の場所は知っている。前回、彼女の家の近場で遊んだ時、彼女の家の前で待ち合わせをしたためだ。
……彼女の家に近づくにつれて、少しずつこれで正解だったのか、と不安になってきていた。
しかし、ここまで来て引き返すのも今更過ぎて、面倒だった。
彼女の住まうマンションに到着すると、インターホンで彼女の部屋番号を呼び出すも、応答はない。
「……あれ」
石川さん、まだ帰宅していないのか?
……一体、どこにいるのだろう?
『最近、夜、家のそばの海岸でさざ波の音を聞きに行っているんです』
ふと、俺は思い出した。
そういえば彼女、最近海岸に行くことにハマっているらしい。
まさか、こんな夜中から……? と疑問に思いつつ、俺はスマホを開いて、彼女の家近辺の海岸を探した。
一番近い海岸は、ここから徒歩十五分程の位置にあった。
俺はバスが走る団地群をまっすぐ進んだ。この辺は区画整備が行き届いていて、迷うことはなかった。
まもなくオレンジ色の街頭と防風林を見つけた。
車の走行音を聞きながら、防風林を抜けると……暗黒の世界が眼前に広がった。
いや、幸い、向こう岸にどこかの工場地帯の明りが見える。
しかし、工場地帯の明りは遠すぎて、この辺を照らす明りにはならなさそうだ。
……この暗闇の中に石川さんがいる?
もしかして、向かう海岸を間違えただろうか。
いやしかし……スマホを見た限り、この辺に他の海岸はなさそうだ。
俺は途方に暮れた。
暗黒の世界に佇んでいると、さざ波の音が聞こえてきた。
穏やかな音だった。
悩み事の多い心が洗われるような……優しい音だった。
……さざ波の音に、心を落ち着かせている時のことだった。
「村田さーん!」
どこからともなく、聞き馴染みのある声がした。
……リラックスしていた心が一気に荒立った。
聞き馴染みのある声の主は間違いない……石川さんの声だ。
一体、どうして石川さんは俺を呼んだのだろう?
まさか、ここまで彼女を追いかけてきたことがバレたのだろうか……?
俺は返事をするか迷ったが、出来なかった。
「すきー!」
俺が返事をするより早く、石川さんが叫び声をあげたから。
「だいすきーっ!!!」
……どうやら石川さんは、俺が彼女を追ってここまで来たことに気付いたから、俺の名前を呼んだわけではないらしい。
「だーいーしゅーきー!!!」
……えぇ?
頭が混乱する。
何がなんだかわからない。
……でも、混乱する頭でも気付いたことがある。
『最近、夜、家のそばの海岸でさざ波の音を聞きに行っているんです』
どうやら石川さんは、家のそばの海岸には、さざ波の音を聞く以外の目的もあった上で行っていたみたいだ。
『趣味は……カラオケ? ですかね』
そして趣味は、カラオケではなく……おたけび?
連載化させたかったけど2話以降の展開が浮かばなかった
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