決して勇者を召喚してはならぬ
残酷な表現があります。
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大橋勇海は朝学校に行く子供達を見送り残った家事を片付けた後、スーパーに買い物に行こうとエプロンの紐を引いた。
結ばれていたリボンが解け、緩やかに交差した紐を解こうとしたその時、勇海の視界がグニャリと曲がった。ぐるぐると回る視界と、水の中に潜っているような耳を塞ぐ低い聞き慣れない音。
訳が分からないまま、勇海は立っていられずに膝をついた。その瞬間、勇海は見慣れぬ場所に座り込むことになった。
「やった!成功だ!」
何が起こったのか理解出来ていない勇海の耳に、喜ぶ声が聞こえてきた。まだ目眩がする頭を押さえて座り込んだまま勇海が顔を上げると、石造りの壁に天井が見えた。部屋の中は暗く、壁には大きなタペストリーが垂れ下がっている。
そして自分を取り囲むローブを着た人々。その人々は、嬉しそうに顔を見合わせたり勇海を見たりしている。年配のローブを着ている者は、何故か勇海を恐ろしいものを見るような目で見ていた。
何だここは、この人達は…?混乱したままの頭に疑問を浮かべた勇海の元に、騒がしい足音とともに若い男性が現れた。
「本当だ!ついに成功したか!よくやった!」
男性は、整った顔を喜色に染めてローブの者達を労っている。そして勇海に手を差し伸べた。
「ようこそおいでくださいました、勇者様。私はこの国の王子、クリスティアンです。急ぎ、国王陛下に報告に参りましょう。」
勇海は差し伸べられたクリスティアンの手には触れずに、嫌々と頭を振った。
「すいません。私は勇者ではありません。ここは何処ですか?私、帰らないと…。」
クリスティアンは困ったように微笑むと、勇海の固く握り締めた拳に優しく触れた。
「勇者召喚で参られたのですから、貴方様は勇者様です。さあ、こちらです。」
クリスティアンは優しく、だが強引に勇海を立ち上がらせると、勇海の手を引いて歩いた。勇海は不安でいっぱいだった。召喚?召喚って何だ?昔やったゲームで召喚獣というものがあったが、あれはすぐに帰って行った。自分もすぐに帰れるのだろうか…。
先程の部屋は地下室だったようで、長い階段を登っていくと豪華な廊下に出た。クリスティアンも警備をしている兵士も、綺麗な服や鎧を身にまとっている。脱ぎかけのエプロンを着けた自分は、何と場違いなのだろう。
手を引かれたまま、勇海は国王の前まで来てしまった。頭を下げた方が良いのだろうか。こういう場での作法など分からない勇海は、視線を彷徨わせた。すると勇海の後ろにいたローブの者が膝を付いたのが見え、勇海も同じように膝を付けて下を向いた。
「陛下、勇者召喚が成功しました。この方が、勇者様です。」
「ほぉ。勇者よ。よくぞ参られた。して、能力はどうであった?」
国王がそう言うと、勇海の後ろを歩いていたローブの者が、膝を付き頭を下げたまま口を開いた。
「スキルはございません。能力も、同年代の一般女性と変わらないものでした。」
「ふむ。そうか。では、騎士達と同じ訓練をさせるとしよう。能力が上がり次第、魔王討伐に向かって貰う。」
国王の言葉に、勇海は顔を上げた。
「そんなっ。困ります。買い物に行かないと。それに、子供達が帰って来た時に私が居ないと…。私が勇者だなんて、何かの間違いです。お願いします。帰らせて下さい。」
「…そうか…。しかし、そなたは勇者召喚で喚ばれたのだ。魔王を倒さねば、元の世界に帰る事は不可能だ。」
勇海は頭が真っ白になった。魔王を倒さないと帰れない。魔王を倒さないと、子供達にも、夫にも会えない…。そんなの自分に出来る訳がない。ダイエットの為の運動だって続かないのだ。魔王と言われる程の存在を倒す為の、過酷な訓練についていける訳がない。
つまりは、もう二度と、愛する者達に会えないという事ではないか。
勇海はポロポロと涙を流した。何故こんな事になってしまったのか。視界に広がる鮮やかな色々が輪郭を成さずに揺れているのを、絶望的な気持ちで見るしかなかった。
「勇者様、お願いします。魔王の脅威から、私達を救って下さい。貴方様だけが、頼りなんです。」
クリスティアンの願いに、勇海は頷く事など出来なかった。
「魔王を倒せば、元の世界に帰すと約束しよう。部屋を用意してある。必要な物があれば用意しよう。侍女に言うと良い。」
国王がそう言うと、クリスティアンは一礼をして勇海の手を引き部屋を出た。泣いたままでいる勇海を部屋まで案内すると、クリスティアンは優しく勇海の肩に手を置いた。
「困った事があれば、いつでも言って下さい。」
そう言って勇海を部屋に残してクリスティアンは部屋を出て行った。
頭が上手く回っていないのに涙が止まらない。勇海は暗い瞳のまま床に座り込み、用意された食事にも手を付けられないまま時間だけが過ぎていった。
気が付くと勇海はベッドに横になっていた。しかも肌触りの良いワンピースの寝間着に着替えている。いつの間にか疲れて寝てしまい、誰かに発見されたのだろう。
重かったろうに…。勇海は申し訳無い気持ちで思った。四十代になった勇海は日頃運動など全くしない、全く引き締まっていない体型だった。
ドアを叩く音にドキリとしながらも返事をすると、若いメイド服を着た女性が入ってきた。食事の乗ったカートを押している。
「おはようございます。勇者様。朝食をご用意致しました。」
「あ、ありがとうございます。あの、昨夜は貴女が私を…?」
無機質に言う侍女に勇海か問うと、侍女は頷き答えた。
「はい。失礼ながら、私が着替えと移動を致しました。」
「あああごめんなさい…。お手数をおかけしました…。」
勇海が小さくなって謝ると侍女は表情を変えずに首を振り、テーブルに朝食を並べた。クロワッサンにスープ、サラダにフルーツが並ぶ。とても美味しそうだ。
「本日より訓練が始まるそうです。朝食後に着替えをお持ちします。」
「はい…。」
美味しい朝食を、勇海は沈んだ気持ちで食べた。昨日は子供達はどうしただろうか。帰って来たのに家は留守で、待っていても勇海は帰って来ない。お姉ちゃんはしっかりしているから、きっとお父さんに連絡しただろう。待たせてごめんね。不安にさせてごめんね。あの子達を今すぐにでも抱き締めたいのに…。
またじわりと涙が出た。自分には訓練を受けて魔王討伐に向かう選択肢しかない。そうすれば、元の世界に帰れる。訓練したところで普通の主婦であった自分が魔王を倒せる筈がないが、これしか方法がない。魔王との戦いで死んでしまうかも知れない。怖い…。嫌だ…。でも……………。
何年かかっても、いつか絶対に元の世界に帰るんだ。勇海はそう決心すると、朝食を食べて訓練に向かった。
訓練は本来ならば鎧を着てするらしいが、勇海は鎧を身に付けて動く事が不可能だった。侍女が用意した服を着て走り込みや筋肉トレーニングを行う。すぐに息は上がるし動けなくなる勇海を、兵士達は呆れた表情で見ている。勇者なのに…。そんな声も聞こえる。
勇者じゃない。私はただの主婦なんだ。こんなトレーニングついていける訳がない。そう思いながらも毎日トレーニングをしていた。
初日は一時間で動けなくなり地面と仲良くなっていた勇海は、隊長に怒鳴られていた。怒鳴られたってもう動けない。しかし隊長によって強引に立ち上がらせられ、フラフラと訓練を続けさせられた。
だが勇海は一週間程で鎧を着てトレーニングをする事が出来るようになった。弛んでいた身体も引き締まり、硬い筋肉がついている。
筋力の成長速度に隊長も驚いている。勿論勇海もだ。あちらに居た頃は、あんなにダイエットに頭を悩ませていたというのに。兵士達は手のひらを返したように、流石は勇者様!と感激していた。
兵士達のトレーニングに慣れた頃、魔術師から魔法を習うようになった。魔法訓練の方も、最初は全く出来なかった。魔術師達からは、兵士達と同じような呆れた目で見られていた。しかしこちらでも勇海は一週間で初級の回復や攻撃魔法を扱えるようになった。魔力もどんどんと増えている。若い魔術師達からは賛美の視線を送られたが、老いた魔術師達は恐怖の色を更に濃くして勇海を見るようになった。
そんな中、クリスティアンが勇海の訓練を見学に来た。老いた魔術師達がクリスティアンに何かを訴えている。彼等は勇海が、訓練所を見下ろす場所に居る彼等の会話を聞いているとは露ほども思っていないようだった。
「殿下、本当に勇者様を魔王の元へ向かわせるのですか?」
「何の為に勇者を召喚したと思っている。勇者には魔王を討伐して貰わねばならん。」
クリスティアンは不愉快そうに魔術師と勇海を見た。勇海は彼等の会話に耳を傾けながら訓練を続けた。
「そもそも勇者召喚はしてはならぬと伝えられております。」
「ハッ!災いを呼ぶ、だろう。ではどうやって魔王を討つと言うのだ?見ろ。勇者は一月でこれ程までに成長した。我が国にこれ程の成長速度を誇る戦士はいないだろう。」
「だからこそ。です。このままいけば、勇者様は魔王を凌ぐ力を手に入れるでしょう。しかし、これ程の戦士を敵に回したら、国は滅びます。」
クリスティアンは魔術師を忌々しそうに睨むと訓練所を出て行った。敵に回さなければ良いのだ。正直年増は好みではないが、勇者を王子妃に迎える事で対策としようとした。
「…はい?失礼ですが殿下、寝言は寝て仰って下さい。私は既婚者です。殿下の求婚をお受けする事は出来ません。」
そう真顔で言う勇海に対し、美しい顔を微笑ませたクリスティアンは内心毒づいていた。だがそれは勇海も同じだ。クリスティアンが勇海を愛しているから求婚したのではないと分かっている。そしてこの世界の誰かを愛して夫を裏切るつもりは毛頭無かった。あちらに帰った時に、夫と再会を喜べない事はしたくなかった。勇海はあちらに帰る事を諦めていない。
時は流れ、勇海は勇者と呼ばれるのに相応しい力を手に入れた。勇海は魔術師、僧侶、アーチャーを同行者に魔王領へと旅立った。
勇海はこちらに召喚されてから、誰とも打ち解けずにいた。毎日世話をしてくれた侍女ともだ。そしてこの同行者達とも打ち解けずに旅をした。
自分が荒んだ目をしているのが分かる。スキンケアなどもしなくなり日焼けした肌、盛り上がった筋肉、あちこちに出来た傷跡。あちらに戻っても、夫も子供達も、きっと私だと分からないだろう。
魔王討伐に向かう一行に選ばれた彼等は皆、王国最強と言われる達人だった。魔術師の魔法は敵を薙ぎ払い、僧侶の祈りは傷を治し、アーチャーの矢は外れる事は無い。
魔物の蔓延る魔王領を進み、魔王城を攻略し、勇海達は魔王と対峙した。
「…客か…。」
魔王は暗い目をした大きな男だった。玉座に座りこちらを見ただけで立ち上がりもしない。魔王は戦う気は無いようだ。
だがアーチャーの矢が風を切り魔王に向かうと、魔王は立ち上がり長い剣を振り矢を払い落とした。
溜息をついた魔王は哀しそうな表情のまま勇海に斬りかかった。剣と剣がぶつかり合う高い音が響く。勇海が魔王の剣を弾き魔王がまた勇海に斬りかかる。勇海も素早く反応し、広い玉座の間にリズム良く高い金属音が響いた。
魔術師が魔法を放ち、アーチャーが弓を引く。僧侶も同行者達に能力を向上させる魔法をかけていた。勇海が魔王の体を剣で傷付けてから少し退ると、僧侶が勇海に魔法をかけていない事に気がついた。
成程。次はそういう事にしたのか。王国の人間の考える事に不快感を感じた勇海は、魔王に再度斬りかかった。しかしここで力を使い果たす事は出来ない。勇海は力を温存しながら戦った。
力をセーブしているのに、勇海は魔王よりも素早く動き、剣を交えれば魔王よりも強い力で弾き返す。勇海はこの戦いで苦戦する事は無かった。
魔王は倒れ、暗い瞳を勇海に向けた。焦点の定まらない瞳を勇海に向けたまま、力無く魔王は呟く。
「…そうか……お前は…勇者、か…。………愚かな奴等め…。勇者…お前は…飲まれるな、よ………。」
勇海は魔王の言わんとする事が分からなかったが、魔王が勇海を憎んでいない事は察した。魔王は自分を殺めた相手を何故か案じていた。勇海は魔王の傍に膝を付き魔王の最期を見送ると、振り向きざまに風の刃を放った。
それはアーチャーの放った矢を切り払い、更にはアーチャーの体を引き裂いた。血を吐いて倒れたアーチャーは身動きも取れない程にダメージを受けており、これを癒すには同行者の僧侶にも時間が必要だ。だが僧侶は動かずに勇海を睨んでいる。
「何故矢を放ったのですか?魔王ではなく、私を狙っていましたね。」
勇海の問いにアーチャーは答える事が出来ない。アーチャーの視界は霞み、多すぎる出血に震えている。問いかけの答えは、魔術師によって得る事が出来た。
魔術師は転移魔法を唱えていた。しかもその転移門の規模は大きく、王国の兵士達百名程を一度に転移出来る程のものだった。
成程な。勇海は魔王との戦いで魔術師が殆ど魔法を放たなかった理由に納得した。…この為か。
兵士達は勇海に向かって突撃してきた。その間に僧侶はアーチャーに駆け寄り回復を施し始めた。魔術師も勇海に対して攻撃魔法を唱え始めている。
後方に居た兵士達が矢を放つ。弧を描いた矢が勇海に降り掛かろうと矢尻が下を向いたその時、勇海の手から白い光が放たれた。玉座の間に居た魔術師以外の全員が白い光に包まれ、その眩さに目を瞑る間も無く消滅させられた。
魔術師は到底辿り着けない高みに居るレベルの勇海に腰を抜かした。こんな魔法まで扱えるようになっていたとは思わなかった。勇海は魔力ポーションを飲むと魔術師に歩み寄る。
「さて、また兵士達を呼びますか?それとも私を攻撃する理由を話しますか?見当はついていますが、そうであって欲しくないですね。」
勇海は口元だけで笑い魔術師を見た。金縛りにあったかのように動けない魔術師は、恐怖で歯をガチガチと鳴らしている。
「…答えませんか?では、国王陛下に聞くしかありませんね。」
勇海は魔術師の腕を後ろに回して縛ると、魔術師の作った転移門から王国に転移した。転移した先は兵士達の訓練所で、多くの兵士が整列していた。兵士達は現れた勇海と魔術師を目を丸くして見たが、すぐに事態を飲み込み臨戦態勢をとった。
「動かないで下さい。動いたら消します。」
勇海はそう言うと、魔術師を引き摺りながら城に入ろうと足を踏み出した。しかし兵士達は勇海に剣を引き抜き向かって行く。兵士達は、勇海の魔法によって一瞬で消え去った。魔術師は同じ光景を二度も見てしまい、顔が土の色になっている。
勇海は国王の前まで来ると、魔術師を床に乱暴に転がした。
「国王陛下。魔王は倒しました。その報酬は兵士達の命では無かったと思いますが…。私をあちらに帰して頂く約束はどうなりましたか?」
勇海は座っている国王を見下ろして聞いた。咎める者も、国王を守る者もいない。立ちはだかる者は皆、勇海が殺してここまでやって来たのだ。
青ざめ苦い表情をした国王は勇海を見上げ、何も話さない。勇海は剣を抜き国王の喉元に切先を突き付けた。
「兵を千人向かわせれば勇者に勝てると思ったのですか?ならば、勇者召喚などせずに魔王に千人の兵士を向かわせれば良かったじゃないですか。」
「…ゆ、勇者召喚も、兵を向かわせたのも、クリスティアンの案だ。結局、勇者には適わなかったが…。」
勇海は溜息をついて初めの質問に戻った。勇海の足元には魔術師が転がっており、その魔術師を勇海は踏み付けている。魔術師が逃げない為にそうしているのだが、もう魔術師には逃げる勇気も無かった。
「で、私は帰して貰えるのでしょうか?」
「……………。」
沈黙から答えを得た勇海は剣をそのまま押し込んだ。何も言わないままの国王に背を向けて勇海はクリスティアンを探す。
魔術師を引き摺りながら城内を探していると、クリスティアンの気配は勇海の知らない所にあった。
隠し通路らしい。入口も出口も分からない。地下水路を移動しているのだろうか…勇海はクリスティアンの居る辺りの地面に拳を当て抉るように穴を開けた。轟音と共に割れた土の塊や石は崩れ落ち、暗い地下水路に光が差す。
クリスティアンと王子妃、近衛兵達が驚きの表情で勇海を見上げた。そしてクリスティアンの表情は勇海の姿を見ると恐怖の色を深める。
「殿下、あちらに帰る約束を果たして頂きたいのですが。」
「そっ…それは………不可能、だ…。」
勇海は瞬時に距離を詰めるとクリスティアンの白い首に手をかけた。
「私は魔王を倒しました。何故命を狙われねばならないのでしょう?」
近衛兵達が勇海に剣の切先を向けているが、勇海は構わずクリスティアンを問い詰める。クリスティアンは微かに震えながら答えた。
「それは…勇者があちらに帰れないと知れば、国にとって災いになると思ったからだ。召喚された勇者は、二度とあちらに帰れない。」
瞳を怒りの色に染めた勇海は手に力が入ってしまう。苦しそうに呻くクリスティアンの声で我に返り、手を離した。激しく咳き込んだクリスティアンは、風の音のような呼吸音を鳴らしながら先を続けた。
「大昔、勇者はこの世界を捨ててお前の居た世界に渡ったんだ…。勇者は神の愛し子だった。愛し子を失った神はその悲しみから邪悪なる物を次々と生み出した。強大な邪悪に太刀打ち出来ない人間は、あちらに渡った勇者の子孫を召喚し、頼った。神は愛し子の血が戻り喜んでいる。しかし、勇者の子孫は望郷の念が消えず、皆魔に落ちる…。だから勇者召喚はしてはならぬ。……そう言われていた。」
「なのに、また召喚をしたのですね。何故学ばないのですか…。召喚された勇者は魔王を倒す。その後、新たな魔王となるのに…。繰り返されるだけなのに…。」
勇海はあちらに帰れない。この悲しみと怒りを、愛する事の出来ないこの世界にぶつける事を、勇海は躊躇うつもりは無かった。
「頭の固い爺共の戯言だと、思っていた…。」
「殿下、貴方にも償って貰います。」
果たされると思っていた約束を違えられ、闇色に染まる勇海の心には復讐心が燃えている。国王も、クリスティアンも、勇海は許す事が出来ない。勇海と家族の人生を壊した報いを受けさせる。あんなにも幸せだったあの頃は戻って来ないのだ。
覚悟したクリスティアンは項垂れながらも最期の願いを口にした。
「頼む、勇者…息子と妃は…。」
勇海は王子妃の腕の中で眠っている赤子を見た。ふくふくの柔らかそうな頬と、ふんわりとしてまだ薄く細い髪の毛。赤子を見ると、どうしても子供達を思い出してしまう。
「…子供を殺すつもりはありません…。」
そう言うと、勇海は王子妃と彼女が抱く赤子以外の者の首を瞬時に切り払った。首を切り離された体は力を失い、血飛沫を上げながら崩れ落ちる。血を浴びながら唖然と立ち尽くす王子妃に、勇海は暗い声で声を掛けた。
「お逃げ下さい。私の居ない所に…。」
白い顔を一層白くした王子妃は目を見開くと瞳を潤ませながら赤子を抱き締め、勇海に背を向け走り出した。縺れそうになる震える足を懸命に前に出し、王子妃は勇海から逃げ出した。
勇海は城に住み、魔術師にあちらに帰る手段を調べさせていた。しかし魔術師は、一月もしないうちに自害した。勇海はどうでも良かった。期待していた訳ではない。美しかった城は荒れ果て、時折兵が勇海を倒す為訪れる。
統治者を無くした国は滅び、魔物の蔓延る地と化してから何年もの時が過ぎた。
子供達はどうしているだろう。どんな大人になっているだろうか。夫は元気にしているだろうか。もしかしたら、再婚しているかも知れない。それで良い。私は帰れないから…彼が、子供達が幸せなら、それで良い…。
勇海は夫と出会った頃の事や新婚時代の事、子供達が産まれた頃や小さかった頃の事を何度も思い出す。切なく悲しい気持ちと絶望が、勇海の胸を埋め尽くしていた。
もう私はあちらに戻る事は出来ない。余りにも沢山の命を奪った殺人鬼である私の手は血に塗れすぎている。こんな汚れた手で子供達を抱き締める事など出来はしない。
玉座に目を閉じて座っている勇海の元に、兵士達がやって来た。一番前に居る兵士はかなりの遣い手なのだと気配で分かる。恐らくこの兵士は新しく召喚された勇者なのだろう。
勇海は今日、この勇者に倒される。あの時自分が魔王を倒したように。
勇海は剣を握りゆっくりと立ち上がった。
お読み頂きありがとうございました。
2021.9.4.少し改稿しました。




