7. モブ、勇気を出す
「梅ちゃん、何かあったら私達を頼ってね」
お母さんは優しく穏やかに微笑んだ。
「どうして……そんなに優しくできるのですか? 今あったばかりの他人に、どうしてここまでできるのですか?」
「人に優しくするのに理由はいる? それに、もう私達は他人じゃないわ。食卓を囲んで、鍋をつついた仲じゃない」
「ひとみとうめは、おともだちだよ?」
「はい……そうですね……」
梅さんの目から涙が溢れ出した。
くしゃくしゃな顔で梅さんは泣く。
梅さんは涙を拭うけれど、両手から涙がとめどなく流れ落ちていく。
お母さんは梅さんのもとに寄って、ふわっと抱きしめた。
瞳は梅さんの頭をずっとなでなでしている。
女性陣は強いな、と僕は思った。
僕とお父さんは、泣いている梅さんを見て、おろおろしていた。
そうして、梅さんが目を真っ赤にして、たくさん泣いたあとに、ぽつりと言う。
「ありがとうございます。でも、もう大丈夫です」
「ほんとに? うめ、もうつらくないの?」
「はい、瞳さん、ありがとうございます」
「また、うめがなきたくなったら、なでなでする!」
瞳が元気よく言うと、梅さんは微笑んだ。
僕も梅さんのために何かできないかと考えた。
梅さんの頭を撫でるのは……駄目な気がする。
「もう遅い時間だから送るよ」
僕は紳士になって梅さんにいう。
どうかな?
割とスマートな気がする。
「こんな遅い時間に小学生二人は危ないわ。剛志さん、送っていってもらえる?」
「もちろんだ」
「でも、そこまでして頂くには……。連絡すれば迎えが来ますので」
梅さんはこれ以上お世話になるのはまずいと思っているようで、辞退しようとする。
「ちゃんとご両親に挨拶しておきたい。灯都がこれからお世話になるからな」
「なんで僕がお世話になるんだよ」
僕はお父さんにツッコミを入れるが、今の言葉がお父さんの冗談だと気づく。
きっと、梅さんに対する配慮なのだろう。
そうだよね、お父さん?
結局、梅さんは両親の説得に負けた。
うちの両親はこれと決めたことは、譲らないからね。
僕とお父さんと梅さんの3人で梅さんの家に向かうことになった。
ひとみもいきたい! と妹が言っていたけど、瞳はお母さんとお留守番だよ。
お父さんの車はワインレッドのSUVだ。
高級車ではない。
お父さんは高級車をばんばん乗り回す趣味はないらしい。
それにお金を使うぐらいなら、みんなで一緒に旅行したいと言っている。
僕もお父さんの意見に賛成だ。
皆で海とか山とか行って美味しいものをたくさん食べたい。
車の中では会話は主に僕の話題だった。
僕が学校でどういうふうに過ごしているかを、梅さんが話すという流れだ。
梅さんから見た僕は、真面目で優秀な生徒らしい。
教師からの信頼も厚く、皆の尊敬を集めているのだとか。
うん? 誰だ、それは?
きっと、僕じゃないね。
教師にはこき使われるし、友達はほとんどいない。
梅さんはお世辞が上手いな。
でも、悪い気はしない。
そうして話していると、梅さんの家に着いた。
梅さんの家は豪邸だ。
オシャレな白塗りの家は現代的な造りだ。
僕はぼけーっと大きな家を眺める。
僕の横では、梅さんがつまらなそうに豪邸を見ていた。
門の前で車を止められた。
お父さんが守衛さんと話し、後部座席に梅さんが乗っているのを確認した守衛さんは、電話で誰かと繋いだ。
そのあとに、門が開かれて中に案内される。
広く、手入れされた庭を通る。
そのままエントランスに行き、梅さんを下ろした。
ついでに、僕とお父さんも車から降りる。
玄関の扉が開かれ、中から紺色のジャケットを着た男性が出てきた。
男性はすたすたと梅さんの前までいく。
その直後――。
ぱしん、と音が響いた。
梅さんが頬を叩かれたのだ。
「こんな時間まで何をやっている! 私の時間を奪うな」
開口一番の厳しい言葉に僕は呆気にとられる。
「申し訳ありません」
梅さんは腰を曲げて深々と頭を下げた。
「謝罪はいらん。今後、一切こういうことをするな。お前が愚か者だと私も低く見られる」
僕は二人の会話を聞いて、もやもやした。
なんだろう?
父と娘がする会話じゃない気がする。
梅パパが僕たちのところまでやってきた。
「娘がご迷惑をおかけしました」
梅パパは厳しい表情を一転させ、懇切丁寧にお父さんに接する。
その様子の変わりように、僕はちょっとだけ怖くなった。
「いえいえ、素敵なお嬢さんでしたよ。礼儀正しく、頭も良い。ぜひ、娘に欲しいくらいです」
お父さんが穏やかに言うと、梅パパはすぅーっと目を細めた。
「今後、このようなことが起こらないよう、娘にはきつく言い聞かせておきます。今日のことは秘密にしていただけないでしょうか?」
「秘密にする? はて、何を秘密にするのですか?」
「愚女が家出をしたことです。そのような醜態を晒すわけにはいきませんので」
「梅さんは灯都の友達ですよ。友達の家に遊びに来ただけです。家出ではありません」
梅パパが僕をちらっと見てきた。
だけど、梅パパは僕なんかに興味がないようで、お父さんに視線を戻した。
「梅さんをお預かりしていることを伝えなかったのは私の不手際です。申し訳ありませんでした」
お父さんは謝罪を口にした後、頭を下げた。
本当は僕のわがままなのに、僕の代わりに謝らせてしまった。
僕は申し訳ない気持ちになった。
「わかりました。そういうことにしておきましょう」
「次は事前に連絡します」
「大丈夫です。もうあなたの家に娘が行くことはありませんので」
そうして梅パパは、もう話すことはないと言わんばかりに身を翻し、僕たちのもとを去っていく。
僕は隣にいるお父さんをちらっと見る。
あ、これはきっと怒っているだろうな、と思った。
だって、口角が上がっているのに、お父さんの目は全然笑っていない。
梅パパは、梅さんのもとに行くと冷たい表情をした。
そして、僕たちに聞こえないように梅さんに囁く。
その瞬間、梅さんの肩がびくんと揺れたように見えた。
僕はなんだか嫌な気持ちになる。
何を話したかわからないけれど、梅さんにとっては良くないことだ。
だから、僕は大きな声を出して言った。
「梅さん! また、遊びに来てね!」
僕は子供だ。
子供だから、空気なんて読まない。
子供だから、遊びたいという気持ちを素直に伝える。
僕は子供という特権を最大限に使うことにした。
梅さんが振り向く。
同時に、梅パパが怪訝そうな目で僕を見る。
「梅さんは僕の大切な友達だよ! だから、これからもいっぱい遊ぼうね!」
僕は子供だ。
梅さんも子供だ。
だから、僕たちは子供らしく一緒に遊ぶんだ。
「はい!」
梅さんは笑った。
それはもう、とびっきりの笑顔だ。
花が咲いたような満面の笑みだ。
梅さんの笑顔を見た僕は嬉しくなった。
僕は子供だから、できることは少ない。
梅さんの家庭の事情に踏み込むことはできない。
そんな僕でも梅さんを笑顔にできた。
それは、とても大切なことのように思えた。
それから、僕とお父さんは追い出されるように睦月家を出た。
去り際、梅パパが僕に鋭い眼光を飛ばしてきた。
僕は梅パパに恐怖を抱いた。
お父さんが車を運転する。
僕は助手席のシートにもたれながら、前をじっと見つめる。
「よく言ったな。偉いぞ」
ちょうど赤信号で車が停まったとき、お父さんが僕に言った。
「僕が言わなければ、お父さんが何か言ってました。だから、僕が言ったんです」
お父さんは僕の回答を聞いて、はっはっは、と快活に笑った。
「灯都は本当に頭がいいな。……そして、優しい子だ」
お父さんは右手でハンドルを握りながら、左手で僕の頭をぐしゃぐしゃと撫で回す。
ちょっと力強くて痛かったけど、僕はなんだか嬉しくなった。
「でも、頭が良いものも考えものだな」
「どうしてですか?」
「心配することがないってのも、また心配なことなんだ。灯都は頭が良いから、すぐに正しい答えを自分で見つけ出してしまう。それは灯都の良いところだが、もっと父さんを頼って欲しい。親は子供に頼られたい生き物だからな」
お父さんは僕の頭を撫でていた左手をハンドルに戻す。
信号が青になり、車が進む。
お父さんの優しさに僕は嬉しくなる。
それと同時に、あっ、と気づいたことがある。
どうした? とお父さんが尋ねてくるが、僕はなんでもないと首を左右に振った。
僕は梅さん親子の会話に違和感を覚えていた。
その理由がわかった。
梅パパが吐いた言葉に、梅さんを心配している言葉がなかったからだ。
僕のお父さんは、僕を心配してくれる。
それは僕という人間を見てくれているからだ
梅パパは梅さんを見ていない
だから、僕は違和感を覚え、嫌な気持ちになったのだ。
「僕はお父さんの子供で良かったな」
「急に何を言い出す」
「だって、ほんとのことだもん。人生ってお金とか地位とかよりも大事なものがあるんだね」
僕のしみじみと呟いた言葉に、お父さんは目を大きく開いた。
「小学生の息子が俺よりも先に悟りを開いてしまった」
僕はお父さんの嘆きを無視して、窓の外の景色を眺める。
赤やオレンジの光りが夜の街を照らしている。
信号待ちをしている人や、道を歩いている人たちがいる。
僕の目から見れば、彼らはそこにいるひとで、ただの通行人だ。
そして、彼らから見た僕も『そこのひと』だ。
別に特別なんかじゃない。
この世界が本当に少女漫画の世界であったなら、僕はきっとモブキャラだ。
でも、モブにはモブなりの人生があるし、モブだって豊かな人生を送れる。
僕は平凡な人生を謳歌しようと思った。