6. モブ、水炊き鍋を食べる
僕は梅さんと瞳を二人きりにさせて、お母さんに買ってきたポン酢を渡す。
そして、次に、お父さんを見た。
「梅さんは家に帰りたくないようです」
僕は梅さんを連れてきた経緯をお父さんに説明する。
ほうれんそうって大事だからね。
と言っても、本当のところ、梅さんが何で悩んでいるのかはわからない。
僕の話を聞いたお父さんは真剣な表情で頷いた。
よくお母さんに怒られているお父さんだけど、こういうときは頼りになる。
きっとお母さんは、こういうお父さんを好きになったんだろうな。
間違っても、普段のだらしないお父さんに惹かれるとは思えないもんね。
「話はわかったが、一度ご両親に連絡しておくべきだ。きっと心配してる」
お父さんのいうことは正論だ。
正しい大人のあり方だ。
でも、僕は首を左右に振った。
「梅さんは家にいたくなから、抜け出して来ました。何か事情があるはずです。だから、両親に連絡するのは、ご飯を食べてからでは駄目ですか?」
「駄目ってことはないが、万が一のことを考えるとだな……」
お父さんは眉間に皺を寄せた。
梅さんは大女優と大富豪の娘だ。
そんな梅さんがいなくなったら大騒ぎになるだろう。
ひょっとすると、既に大騒ぎになっているかもしれない。
もしかしたら、梅さんの両親はものすごく心配しているのかもしれない。
でも、僕は梅さんの心配をしたい。
梅さんは一人で公園にいて、辛そうな顔をしていた。
よっぽど辛いことがあったに違いない。
梅さんはちゃんと人の気持ちを考えられる女の子だ。
そんな梅さんが大人を心配させてまで家出してきたのだ。
僕は梅さんの大冒険に付き合ってあげたいと思った。
「万が一のときは僕が責任を取ります」
「小学生の灯都に責任を取らせるわけにはいかんよ。……だが、しかし。灯都がそこまで言うなら、連絡を入れるのは美味しいご飯を食べてからにしよう」
お父さんは優しい。
僕のわがままに付き合ってくれる。
だから僕は、お父さんに「ありがとうございます」と感謝を伝えた。
こうして僕たちは梅さんと一緒に食卓を囲んだ。
僕の前が妹、右隣がお父さん、斜め右がお母さん、そして左の誕生日席に梅さんがいる。
今日の夜ご飯は、僕の予想した通り鍋だった。
それも僕の好きな水炊き鍋だ。
ぐつぐつと煮込まれた豆腐や白菜、鳥のもも肉が美味しそうだ。
うちのご飯は基本的に一般家庭の料理だ。
ファアグラとかキャビアとか高級肉なんてものは、めったに出てこない。
僕は梅さんにちらっと視線を向ける。
梅さんはどうしたら良いのか迷っているようだった。
鍋の食べ方がわからないのかな?
梅さんはお嬢様だから、自分で装うことはしないのかもしれない。
しょうがないな。
僕は梅さんの前にある椀を取る。
そして、菜箸を使って椀に具材を入れてあげる。
豆腐とお肉と白菜とその他諸々だ。
そして、僕が買ってきたポン酢を椀に入れてあげて完成だ。
僕は具材を入れた椀を梅さんの目の前に置く。
「はい、どうぞ」
「え、あ、うん。ありがとうございます」
「どうしたの? 食べないの?」
「いただきます」
梅さんは箸を使って白菜を取る。
そして、ふーふー、と冷ましたあとに、ゆっくりと口に入れた。
「……美味しい」
梅さんが小さな声で呟いた。
それを聞いたお母さんが笑みを浮かべる。
「まだまだたくさんあるわよ。どんどん食べちゃってね」
梅さんがたくさん食べると、鍋の中が空になってしまう。
僕は自分の分がなくなる前に、しっかり確保しようと思った。
水炊き鍋は日本人が全員好きな料理だ。
だから、きっと梅さんも大好きだ。
そうなると、具材の取り合いが起こってしまう。
鍋の中で小さな戦争が勃発してしまうのだ。
だから、僕は椀いっぱいに具材を装った。
「灯都、そんなにたくさん盛らなくても、なくならないわよ」
「そうだ。梅ちゃんみたいに行儀よく食べるんだぞ」
「にぃにが怒られてる」
僕はみんなに一斉に言われてしまった。
梅さんの前だから、ちょっとだけ恥ずかしい。
それにしても梅さんの食べ方は綺麗だな。
箸の持ち方や背筋をピンと伸ばした姿勢。
一回で食べる量も少なく、上品だ。
梅さんの動きを見ていたら、梅さんが僕のほうを見た。
「なに?」
「あ、いや、食べ方が綺麗だなって」
僕がそういうとお父さんがからかうように言ってきた。
「灯都、口説いてるのか!」
僕は、はっはっはと笑うお父さんを睨んだ。
僕は純粋に梅さんの食べ方を褒めただけなのに。
「剛志さん、子供の恋を邪魔しちゃいけませんよ」
お母さん、それはフォローになってないよ。
本当に、恋とかじゃないから。
僕の両親の頭の中はお花畑なのだろうか。
「にぃにはうめに、こいしてるの?」
妹がぱっちりした目で僕を見てきた。
子供というのは純粋だ。
特に妹の心は清く、一切の汚れがない純白だ。
だから、両親の言葉を信じてしまうのだろう。
でも、僕は梅さんに恋をしているわけじゃないんだ。
ただ、食べ方が綺麗だと思っただけなんだ。
本当にそれだけなんだ。
誰か僕の気持ちをわかってほしい。
「違うよ、にぃにが恋をしてるのは瞳だよ」
僕はそういって妹と目を合わせた。
なぜだか、梅さんが僕に冷たい眼差しを向けてくる。
でも、僕は自分の気持ちに嘘はつけない。
こんなに可愛い妹に恋しない人は、人間じゃないと思う。
人でなしだ。
瞳のことを老若男女が好きになるに違いない。
だけど、妹が彼氏とか連れてきちゃったら、僕はきっと泣く。
まだまだ先のことだろうけど。
「にぃには、ひとみにこいしてるんだ。こいってなに?」
「恋ってのは相手を大切に想う気持ちだ」
「じゃあ、ひとみもにぃににこいしている! にぃにたいせつだもん!」
ああ、僕は今死んだとしても後悔なく逝ける。
すごく幸せだ。
僕が幸せに浸っていると、梅さんが僕に向かって呟く。
「……シスコン」
梅さんでも、そういう言葉を知っていたのか。
ちょっとだけ驚いた。
梅さんはもっと上品な言葉しか知らないと思っていた。
「シスコンで何が悪い。僕は紳士的なシスコンだ」
僕は堂々と宣言する。
僕にとってシスコンとは褒め言葉なのだ。
妹が、しすこんってなに? と聞いてきた。
だから、僕は「瞳が可愛いってことだよ」と答える。
えへへ、と笑う妹はまるで天使のようだった。
瞳が可愛すぎて、僕は危うく昇天するところだった。
それから僕たちはわいわい話しながら、水炊き鍋を食べた。
「ごちそう様でした。こんなに美味しいご飯は久しぶりです」
「梅ちゃんさえ良ければ、いつでも来てね」
「灯都の嫁になれば、毎日食べられるぞ」
「あら、それは名案ね。どう? お嫁に来ない?」
この二人は酔っているんだろうか?
お酒は飲んでいないはずだけど……。
僕はまだ小学生だ。
結婚なんて考えられる歳じゃない。
梅さんが困ったように眉をハの字にしている。
「お父さんもお母さんも悪ふざけしない。梅さんが困っています」
僕は注意すると、妹も抗議の声を上げた。
「にぃにのおよめさんはひとみだもん」
ああ、なんて可愛い妹なんだ。
僕は感動して涙が出そうだった。
いますぐ瞳を抱きしめて、よしよしと頭を撫でてあげたい。
だけど、僕は強靭な精神力でぐっと堪える。
そして梅さんに視線を移した。
「ごめんね。騒がしい家庭で」
「いえ、私の家と違って賑やかで楽しそうです……羨ましいな、と思いました」
「羨ましい?」
「はい、私の食事はいつも一人なので。こんなにも大勢で、楽しく食事ができるのが羨ましいです」
梅さんがそういったときだ。
突然、瞳が椅子の上に立った。
僕は、危ないよ、と言おうとしたが、喉から出かかった言葉を飲み込む。
瞳が背伸びしながら、梅さんの頭を撫でようとしていたからだ。
「ひとみね、なでなでされたときにうれしいの。かなしいときでもうれしくなるの」
「悲しい? 私が……ですか?」
「うめ、なきそう。だからよしよしする」
「私は泣きそうですか……?」
「うめ、かなしいかおしてるよ」
妹は拙い動作で梅さんの頭を撫でた。
その瞬間、梅さんの瞳から、一粒の雫がこぼれ落ちた。