情未央(じょうびおう) 想い、未だ尽きず9
海が打ち寄せるような音がする。耳を澄まして聞くうちに、竹林が風にざわめく音だとわかった。飛び立つ小鳥が鳴き交わす声。遠くの方から、微かに賑やかなざわめきが伝わってくる。
寒い。肩口や足先が冷えきっている。ぱっと起き上がれば、私は昨夜と変わらず茶卓の側の座蒲団に丸まって寝ていた。布団を掛けなかったせいで体が強張っている。
いの一番に火鉢の火をつけ直し、忙しく昼間の衣に着替えた。今日でこの世界に来てから二週間近く、衣の色会わせも様になってきた。長い髪だけは解かすのが精一杯で、結うのは凝珠に頼んでいた。ヘアゴムがないのに、普通の組み紐ではどうにもならない。少しの髪油と簪で、手早く結い上げる彼女の腕には驚くばかりだ。
扉を叩く音がした。
「大姐(おおひめ、嫡出の長女)、起きておいでですか?」冬燕という、凝珠より少し年下の侍女だ。凝珠は私の記憶喪失をできる限り周りに伏せ、付ききりで私の世話をしていた。冬燕は数少ない例外で、ふくよかな面立ちの気の良さそうな人だった。私の記憶喪失は知っていても、どこかあっけらかんとしていて、その明るさは不安な私の慰めになった。「冬燕は、単純に見えますが、信頼なさって大丈夫です。奥様にご恩を受けて、お屋敷に雇われた者ですから」凝珠はそう言って太鼓判を押した。
「起きてるわ、入って」入って来た冬燕に髪を結って貰いながら、私は尋ねた。
「今朝は賑やかな様子だけど、何か有ったの?」
「今日は旦那様、そして夫人とお嬢様が、康安からお戻りになる日なのです。二週間前に康安へご用事で行かれたのですが、お嬢様はお誘いを辞退されて屋敷に残られました」冬燕が教えてくれた。
康安といえば、この蘇宛国の首都だ。二週間前?宇文怜が記憶を失ったのと僅かな差で、この屋敷の一家は康安に出掛けた訳だ。私にとっては幸いだった。
「なら、お出迎えしないとね。冬燕、聞いてもいいかしら、私と妹…楊梓は仲が良いの?」異母姉妹ではあるが、楊怜は妹を可愛がっていたと聞いた。もし今でも親しい仲なら、たちまち私の変化に気付く筈だ。
「ええ、実の姉妹に劣らず親しくしておられました。子供の頃は遊び方から怪我の手当てまで、お嬢様が梓お嬢様の面倒を見ておいででしたし、大きくなられてからはお嬢様が落ち着かれて、お喋りな梓お嬢様を窘めたりしておられました。夫人もお嬢様には敬意を払って、梓お嬢様にいつも、姉上の落ち着きを見習うようにと仰って。」参った。私より四つ下だとすると、今楊梓は十四歳。一番無邪気な年頃だ。おまけにお喋りで何不自由ない育ちと来れば、あまり私の得意なタイプではない。
「なら…久しぶりに会ったら、夫人と妹が私に話す事は何だと思う?」
「それは…私ではなんとも」それはそうだ。私は質問を変えた。
「うーん…夫人が出かける前、私に話していた事は何だったか知っている?」
「そうですね…私どもはお身内の話には立ち会わない事がありまして、直接聞いたわけではございませんが、夫人はそろそろお嬢様の縁談をまとめるおつもりだと柳総管が仰っていました。 今回の康安行きの目的の一つが、嫁ぎ先の候補を探すことだとか…」冬燕が記憶を手繰った。私は血の気が引いた。
縁談?冗談ではない。自分が既婚者の体に成り代わっていない事を神に感謝していたのに、政略結婚などで男尊女卑の激しい家に嫁ぐ事にでもなれば、私の性格として耐えられない。まだこの世でどう生きていくかも見えないのに。
楊怜は結婚を先のべにしていたと、凝珠が言っていた。何を考えていたのだろう。
「冬燕、私が婚姻の事、何か言っていた?」私は探るように鏡の中の顔を窺った。
「あの…お嬢様は普段、優しい方でしたが、他人に愚痴などをこぼされる方ではありませんでした。物分かりが良すぎると、凝珠さんがたまに心配していたほどで。」こんなこと言って大丈夫かしらと不安げに私を見るので、思わず笑ってしまった。
「大丈夫よ、怒らないから。でも、乗り気ではなかったのね?」
「そうですねえ…お針やお料理の稽古はお小さい時から熱心でしたが、舞やお琴はほとんどなさいませんでした。ですから、公子方との音曲の会などはいつも妹君に譲られて。夫人に表立って意見はされませんが、私どもや出入りの商人に、それとなく名の知れた家の事情を聞いておられたので、心積もりはされておられたのかと。旦那様もこの件は、お嬢様のお考えに委ねると夫人に言われていたので。」
やっぱり、侍女や側仕えの人の情報は馬鹿にならない。大概の事なら知っているのだ。
朝餐が運ばれたが、私は帰って来る人間にどう対応するかで頭が一杯で、とても胃に入らなかった。じりじりしながら待つこと半日近く、昼過ぎにようやく屋敷の前が騒がしくなり、先触れの下人が先に駆け込んできた。
「皆様のお帰りです!」
私は凝珠と顔を見合わせた。私の顔は強張り、凝珠の顔も少し青ざめていた。きっと留守の間の私の不具合の責任は、側仕えの人間にかかって来るのだろう。私は彼女の手を握った。
「大丈夫よ、私からなんとか正直に言ってみるから。あなたは様子を見て、私の言うことを裏付けてくれる?いい、下手に自分の責任にしては駄目よ。あなたが離れでもしたら、私はどうしようもないんだから。わかった?」
手を取られた凝珠は私を見つめ、ぎこちなく笑って頷いた。
「大姐、お出ましを。」開け放しにした廊下から柳総管が呼び掛けた。外へ出ると、正門に急ぐ使用人達が通りすぎ、柳総管と冬燕が待っていた。私達は早足で急いだ。
正門に出て待つこと十分ほど、馬車の轍の音と共に大勢の人の流れが左手の道路から姿を見せた。先頭の馬車には徒歩のお仕着せの侍女と侍従が二人ずつ付き従い、鹿毛の馬二頭が引いている。後ろに数台荷物を載せた馬車が続き、最後尾を馬に乗って剣を携えた男達が警護していた。