情未央(じょうびおう) 想い、未だ尽きず8
夢の中で、私は山の中に立っていた。碧の濃い深山のなかに河が巡り、流れは早いのに音がしない。岸辺に白い花を一杯につけた大木が聳え、清らかな真水の匂いと共に、有るかなきかの密やかな香りが漂っていた。見上げれば、太陽が昇る前の蒼を含んだ縹色の空。
何処からか、白い大きな雪片が降りてきた。右手を差し伸べると、それは当然のように、羽より確かな感触で掌に載った。
見れば雪片ではなく、露の珠を湛えた、まだ蕾の木蘭だった。顔を近づければ、一瞬の儚い薫りが胸に染み透り、哀しみに似た感情が込み上げた。
ふと、何かを感じて対岸を見やった。
あれは…人?
無人の世界にいつしか二人の人間が立っていた。対岸の畔に、互いに離れて私と向かい合っている。けれど二人とも、私に気づいた素振りは見せなかった。一人は袖の長い白衣を纏い、墨色の長髪を肩に流し、およそ山中の仙人のように、俗世の雰囲気を持たなかった。遠くて目鼻立ちは全く見えない。
もう一人は、片方よりやや背が高く、より細身だった。全身を黒い衣に包み、同じ色の披風(ひふう、風よけ)で自らを覆っている。夜の申し子のようだった。もう一人ほど人間離れしていないが、孤独で疎遠な様子。
一瞬のち、白衣の人間が踵を返した。衣の裾を翻し、背後の深林へ消えてゆく。
黒衣の人影は、気配を感じたのかさっと首を巡らせ、辺りを見回した。けれど離れてゆく白衣の人にも、対岸の私にも気づかない。そのまま彼も背を向け、別の方向へと歩み去る。披風が風をはらんで揺れた。なんとも知れぬ焦りに襲われ、二人を呼び止めようとした。なのに声が出ない。差し伸べた手が空を切った。
待って、待って、立ち止まって…
冷たい波が脚を濡らし、流れが私を彼らから隔てる。私は掌を握りしめた。水気を含んだ花弁の感触だけが、唯一手に掴める鮮明な感覚だった。