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情未央(じょうびおう)    作者: ツァンリン
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情未央(じょうびおう) 想い、未だ尽きず6

(いわ)く…

楊府(ようふ)の当代の(あるじ)は、三十年近く前に私の母である彩花(さいか)夫人を娶った。彼女は西華(さいか)の古くからの名門で、この何十年かは高官を輩出してはいないものの、身内から実直な文官を出すことで有名だった。彩花夫人も学識に富んだ、穏やかな人柄だったが、二十歳で嫁いでから六年間、子供が出来なかった。

現当主は妻に誠実だったが、婚姻前に親しかった女性がいた。跡継ぎを危惧した当主の母、老夫人は、当主に強く薦めてその女性、琅香(ろうか)を第二夫人に迎えた。結果、一年後にすぐ琅香夫人は若君を生み、名実共に楊府(ようふ)での立場を確立した。

長男の誕生から二年後、つまり嫁いでから九年後、彩花(さいか)夫人は娘を生んだ。跡継ぎの後の女児に、屋敷中が喜びにわいたし、母である彩花夫人は健康な赤子にこれ以上ないほど喜んだという。子供は、年を重ねても変わらぬ聡明さと明朗さへの願いを込めて、(りん)と名付けられた。

ところが生まれて一年半が過ぎた頃、元は健康だった私は原因不明の発作を起こすようになり、呼べる限りの名医を招いても理由が分からなかった。幾度も生死の境をさ迷う私に、彩花夫人は藁にもすがる想いで高名な道士や巫術士(ふじゅつし)に帰依し、私を救おうとしたが、病状は悪化もしなかったものの、完治もせず、そのまま楊怜(ようりん)は九歳を過ぎた。

この間、琅香夫人は私より四つ年下の妹、楊梓(ようし)を生み、屋敷には賑やかな幼子の声が絶えなかった。

琅香(ろうか)夫人はこの国でも裕福な商家の出で、人当たりが良く気配りの細やかな彼女は老夫人にも気に入られた。精力的な人らしく、屋敷の差配(さはい)も最初は老夫人と彩花夫人が担っていたものを、老夫人が年齢を重ね、彩花夫人が私の看病を侍女任せにしなかったので、次第に琅香夫人が切り盛りするようになった。

同時に下人たちも活気有る琅香夫人の方へと注意を傾けるようになり、彩花夫人は段々と表に出ることも少なくなった。

それでも、彩花夫人の地位は揺らぐものではなかった。訪れが減ったとはいえ、当主は変わらず彼女を尊重していたし、娘の私の為に薬石(やくせき、薬のこと)から大夫(たいふ、医者)、道士の祈祷から読み書きの先生に至るまで、出来ることは惜しまなかった。その甲斐あってか、私は八歳の頃には、体は弱かったもののなんとか普通の生活が送れるようになっていた。

琅香夫人も性格はさばけた人だったらしく、彩花夫人との仲は親密とまで言わずとも険悪ではなかったとか。お互い年の近い子を持った為に、世間一般の鞘当てなどに気を回す余裕がなかったのが幸運だったのだろう。

そのままなら、彩花夫人が楊府(ようふ)を出る理由など無いように見えた。だが、楊怜(ようりん)の母だという彼女は、穏和だが誇り高い所が有ったようで、口数が少ないが物をはっきり突き詰める人だった。それゆえに前々から屋敷を取り仕切る老夫人とは贔屓目(ひいきめ)に言っても疎遠で、琅香夫人がやって来ても下手に馴れ合うことをしなかったのだとか。子供の楊怜(ようりん)が大きくなるにつれて、二人の兄妹と無邪気に遊び回り、華やかな琅香夫人の場所に出入りするにつけ、彩花夫人の孤独は増していった。父親の当主は昼間出仕(しゅっし)して夜戻り、そもそも子育ては夫人たちに任せきりで、複雑な人間関係を気にかける人ではなかった。

そんな折、彩花夫人の父親が亡くなった。旧家の血をひく実家は、本家では今なお官吏を出していたが、彩花夫人の父親は次男だった為に分家を構え、官職にも就かなかった。子供も娘が三人だけで跡継ぎはおらず、長女の彩花夫人をはじめ二人の妹も皆よそに嫁ぎ、婿養子を取ることもなかったのだ。

その為、実家の相続は難航した。財産と呼べるものは特になかったものの、土地の権利や屋敷の所有は、他家に嫁いだ娘たちに管理が難しいことから、遠縁の男性に渡る事になった。この話し合いは長引き、ようやく話がまとまりかけたのは楊怜(ようりん)が十二になった春のことだった。

だが、彩花夫人は実家が他人の手に渡る事に耐えられなかった。とうとう、覚悟を固めた夫人は相続の権利を主張し、楊府(ようふ)を出て実家に戻る事にした。当然、外聞を気にかける楊氏(ようし)一族はこぞって別居に反対したが、夫人が考えを変える事はなかった。

本来、夫人は娘の楊怜(ようりん)を共につれてゆくつもりだった。けれど楊怜(ようりん)は生まれ育った楊府(ようふ)を離れるのを泣いて嫌がり、夫人も娘の先々を考えて離縁はせず、別居という形で実家に戻り、府中の十年以上彼女に仕えてきた者たちに、くれぐれも娘を頼むといいおいて去ったのだとか。それから六年、楊怜(ようりん)の方から訪ねていく事は有っても、彩花夫人が楊府(ようふ)に戻る事はめったになかった。

「…その時から、私は夫人にあなた様を託されてお側におりました。お嬢様はその時まだ十二になったばかりで、お母上の見送りには涙も見せませんでしたが、部屋に戻られて隠れて泣いておられたものです。けれど、その後、お嬢様は決して私どもの前では…いえ、他人の前では泣かれる事をなさいませんでした」凝珠(にんじゅ)は痛ましげに、彼女の方が泣きそうに呟いた。

屋敷に残った楊怜(ようりん)を、当主は勿論、琅香夫人も決して粗略には扱わなかった。けれど本当の母親がわりになるには、楊怜(ようりん)は物心がつきすぎていた。元々体が弱いせいか他人の感情の機微に(さと)く、兄妹と仲良く遊び回るのも好きだったが、幼い頃から書物によく親しみ、どうかすると武官を目指す兄より古今に通じていると父親に誉められたほどだった。

更に、早くに母親と離れたせいで、常に立場が不安定な事を自覚していた。琅香夫人は継子(ままこ)苛めなどは考えなかったが、実の子を優先するのが人情の常だし、楊怜(ようりん)楊怜(ようりん)で妹を可愛がり、張り合おうなどとは思わなかった。その内にいつか、自分から一歩下がった位置に甘んじるようになったのだとか。

拍車をかけたのは、世間の目も大きかった。離縁したわけでなくとも、「母親に見捨てられた子」という見方はしばらく根強く、同世代の針や芸事(げいごと)の集まりでは心ない当てこすりを言われることも多く、よく強張った顔で帰って来ていたという。親族の集まりでさえその声は皆無ではなかった。

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