情未央(じょうびおう) 想い、未だ尽きず5
一週間が過ぎた。祈りは叶わず、私は変わらず古代にいた。
毎朝起きるたび、木目の天井に失望する。どうすれば、故郷に帰れるのだろう。
それでも凝珠の前では笑うようにした。辛気臭いのは嫌いだ。事実、私は恵まれた状況だった。ここは封建制度が確立した世界だ。奴婢の扱いは主人によって異なるのが当然で、楊府には大勢の奴婢がいた。私のように朝寝などできもせず、日が上る前から起きて働く彼らに気後れした。洗濯も掃除も厠の汲み取りも全て手作業だ。分かってはいたが、実感してからはなおさら落ち着かなかった。服を着ること、火口を扱うこと、部屋の雑巾かけやお茶の入れ方はすぐ覚え、合間に凝珠に思い付くことを片っ端から聞いた。
この間、凝珠以外の人にも会った。私を部屋に連れ戻してくれた壮年の男性は柳総管といい、屋敷の管理を受け持っているという。役目に相応しく物に動じぬ三十代後半の、にこりともしない人で、静かに私の様子を見ていたが、ただ見下すことも、好奇心を持つこともなく、落ち着いて私の説明を聞いたあと、大夫(たいふ、医者)を手配すると言って、廊下でしばらく凝珠と立ち話をしたあと去っていった。部屋に戻った凝珠は眉をひそめていたが、緊張の色はなかった。恐らく、彼は信用できる人間なのだろう。その後もちょくちょく二人で話しているのを見たので、からかうつもりで夫婦なのかと聞いたら、何と本当にそうだった。人とはわからない。彼は感情の淡白な人に見えたのに、活気の有る凝珠と夫婦なのが不思議だった。けれど意志が通じているようだから、仲は悪くないのだろう。
大夫の診断は受けたが、予想通りというか、脈を見て眼を覗かれた後、質問をされてから、安静にして時間を置くようにと言われただけだった。凝珠は腹をたてたようで、鍼を打ってほしいと頼んだので、五十過ぎの大夫は肩に血行を良くすると言って鍼を打って帰ったが、顔の血色が確かに多少良くなった程度だった。
最初の日、混乱した頭で連想したのは楊の姓を持つ隋朝だったが、この場所は隋ではなかった。いや、そもそも、私が知っているどの歴史にも無い国だった。
私は文字通り異世界に迷いこんだのだ。
この世界は喬原と呼ばれていた。幾つもの国家が林立する古代世界で、晨榠、高明、嬋耀、天焔、そして私がいる蘇宛の五か国に別れている。彼女は私の為に紙に書いて説明してくれたが、どれ一つ私には馴染みがなかった。歴史にこんな国々はない。蘇宛?大宛国のこと?私は過去の中にいるのだろうか?
字を読み書き出来るのは十分な知識の一つで、幸いに彼女は世の中を知っている方だった。労働力が人間に限られていれば、全員が文字を学ぶ余裕はない。即席の手帳に書き出してゆく字を見ながら、字が読めることに感謝した。漢字以前の古代文字か、解読不能の崩し文字だと覚悟していたのに、文章は意味が読み取れるものだった。
晨榠は天下にも名だたる大国の一つで、数十年前から青氏が支配し、今の皇帝青辺颯は二代目の君主だとか。風土としては現代で言う寒冷地に近く、北の地に位置する。
同じく大国の一つ、高明の皇族は皓氏。今の皇帝は在位が長く、皇族にしては珍しく、皇后一人を長く寵愛して、彼女との一人息子を幼くして皇太子に立て、更に若干十四の時には監国の地位を与え、軍事、外交を含む多大な権力を与えた。
この皇太子も幼い頃から神童の誉れ高く、名ばかりの監国どころか、単身幾つも語り草になる手柄を立て、とうとう高明の皇帝は功績を讃える意味で彼を国名で呼ばせることにしたのだ。その時から彼は高明太子として、喬原に名を轟かせているらしい。
私は思わず苦笑した。噂は恐ろしい。テレビもネットもない時、口から口へと伝わる内に話が大袈裟になるのは当然だ。きっと、本来の事実はもっと精彩に欠けるものなのだろう。悪評ならともかく、皇室の威厳が上がるのは封建国家には望むところだ。
この時の私には想像もつかなかった。いつの日か噂の登場人物に会い、この世には噂より遥かに奇妙な、人知を越えた世界が存在すると知るようになるとは。
嬋耀は喬原に名だたる美しい国で、風光明媚な景勝地が多く、国は小さいが文化、芸術共に優れた国家だとか。皇族は汐氏。現在の皇帝は男女合わせて四十人近くの皇子皇女がいる。
天焔、皇族は焔氏。喬原で唯一国名と同じ姓を持ち、太古からの血筋を受け継ぐ。喬原の中では最も若い皇帝を戴き、他国出身の臣下に政治の実権を握られたまま、十年ほどそのままだとか。
そして、今私がいる蘇宛。皇族は旭氏。国土は南方に位置して、気候は温暖なものの、致命的な特徴があった。圧倒的に水が多いのだ。沿岸部は外海に面し、川、湖、池、滝、沼等が連なり、皇都の康安は周囲を大河に囲まれた水の都だとか。故に行政の最大の懸案は治水だった。四方を巡る水を利用して水運が発達し、小型舟を操る渡し守が数多くいる。
今の皇帝は齢七十を越え、もうすぐ在位何十周年かになるらしい。皇太子と第二皇子が跡継ぎを争っているが、政治の実権を一身に担っているのは元王。元は臣下ながら皇族の姓である旭氏を授かり、皇帝の下、万人の上の地位を手に入れたとか。
だが、私がいる楊府は、皇都から遠く離れた西華にあった。楊氏は古くからの名門で、地方官を務めており、西華を治める皇族の分家の下で行政を統括していた。
勿論、この長い話を一時に聞いた訳ではない。凝珠は侍女の中では等級の高い側仕えで、私に付き添って、細々とした繕い物などをやりながらゆっくりと話してくれた。私も縫い物は出来たので、押し問答をした挙げ句、二人で針を持ちながら喋ることにした。これなら遊んでいる訳ではない。
各国の事情や、皇族の話はすらすらと聞かせてくれたが、事がこの屋敷の事情になると、彼女は口が重くなった。身分差から来る遠慮かと思ったが、それだけではないらしい。だが日が経つ内に、私も焦りだした。このままこの世界にいるしかないのなら、自分の事さえ知らずにどう生きていけばいいのだ?
「凝珠、お願いよ。言いにくい事でも正直に言って。分かるでしょう、私が何も覚えていないのは嘘じゃない、本当だと。このままでは、生きていけないの。貴女に聞いた事は他人には言わないわ、誰も罰を受けないようにするから。答えてくれるのは、貴女しかいないのよ」八日目の昼過ぎ、私は訴えた。
凝珠は聡明だった。そして慎重だった。訳もわからず世界が変わってしまった私にはこれ以上無いほどの有難い存在だったが、一度目に聞いても当たり障りの無い返答しかしないので、未だに屋敷内の人間関係は雲をつかむような話だった。
後になって、私は彼女の慎重さがどれ程得難いものだったか、私を守ってくれた事がどれ程幸運だったか悟ったのだが、それはまだ先の話。人間、今が大切だ。
「お嬢様、記憶を無くされた夜、何があったのか、私も知らないのです。ただ、夫人が婚約の話を持ち出されてから、お嬢様はよく黙りこんでおられました。元から口数が多い方ではありませんが、もしや思い詰めた事が理由ではないかと…」
「なんですって?婚約?」私は仰天した。楊怜の部屋は年頃の娘にしては落ち着いた色合いで揃えられていて、衣服もさすがに上質な布地で刺繍が施されているものの、男の影が有るようには見えなかったのだ。
「その…婚約、もう決まっているの?」
「まだ、はっきりしたお話は何も。ただ、一月近く前に夫人がお嬢様を呼び出され、婚約の事をお話になったのです。もうとっくに嫁ぐ年なのだから、そのつもりで身の回りに気を付けるようにと…」
楊府が名門で、なおかつ官僚ならば、政略結婚だろうか。大いにあり得る。これが封建社会の慣わしだ…女性は生活を保証される為には結婚が不可欠なのだ。
震えをこらえた私を誤解したのか、凝珠が慌てて付け加えた。
「ご心配なく、お嬢様は浮いた話など一度もございません。年の釣り合うような貴公子の方々とは、めったに顔も合わせられませんでした。夫人も無理にお嬢様を表の場に出そうとはされませんでしたし。」
どうやら、楊怜に隠れた恋人などは居そうもない。私はほっとした。恋人でもいれば、楊怜と私の違いがはっきりする。騙すことは嫌だった。
その時、扉の外から若い侍女の呼び声がしたので、凝珠は一言断って出ていった。
その夜、夕食を終えた後、私は昼間の話を持ち出した。
「つまり、凝珠は、私が結婚が怖いので気鬱のあまり記憶を失ったと?」
彼女は吃驚して私を見つめ、眼差しは複雑だった。けれど昼間からの間に心を決めたらしく、しばらく黙った後に静かに話し出した。