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情未央(じょうびおう)    作者: ツァンリン
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情未央(じょうびおう) 想い、未だ尽きず4

二日が経った。今日が三日目の朝だ。

あの日、私が口をつぐんでから、凝珠(にんじゅ)はそっと出て行くと、食事を持って戻ってきた。お盆の中身を見ると、玄米のお粥、青菜の茹でもの、黄色い、恐らく卵で作った小菜が並んでいた。お粥からは湯気が上がり、お米の甘い香りがする。

目の前のお盆から、凝珠に眼を移した。彼女は微笑むと、まるで子供に言うように応えた。

「どんな状態でも、ご飯は食べなければ。身体も動きません」

私は、うん、と頷いた。声が出せなかったのだ。

冥界で石榴(ざくろ)を勧められた女神の話が頭をよぎったが、私は人間だし、それに、現金だが、不安に浸るより、お腹を満たした方が建設的だった。

その日は、服を着せてもらい、手洗いの使い方を教わって、火口(ほくち)を使おうと奮闘して日が暮れた。何かしらしていないと、じっとしていると気が狂いそうだったのだ。だが、それで一つ分かった。ここはやはり古代だ。これほどの不便を、いくらやらせとはいえ、現代にやる馬鹿はいない。そして、もうひとつ。古代では、私は全く役立たずだ。火をつけることでさえ、これほど手間がかかる。

凝珠は付きっきりで助けてくれ、文句のひとつも言わなかった。私は逆にそれが怖かった。

「凝珠、分かったでしょう。私はもう元の楊怜じゃないのよ。全くの他人なの。単なる足手まといよ。なのに、どうして…何も言わないの?」初日の夕方、私はとうとうたまらずにぶちまけた。秋の夕陽が空を茜色に彩り、妖しいほどの美しさ。けれど、これほどの恐ろしさで見たことはなかった。

幼い頃、夕方になると、私は決まって泣き叫んだ。光が薄れ、闇が近づく時刻。特に、母が留守の時など、帰ってくるまで泣き止まなかった。今思えば、私が本当に恐れていたのは、闇ではなく、孤独だったのだろう。闇だけなら、私は目を見開いて、黙ってにらみつけていたから。いつか、自分の大事な人が、自分の無力さのせいでいなくなるのではないかという恐怖。

そして、母は必ず帰ってきてくれた。

「大丈夫です、お嬢様。私がおりますから」凝珠がふと微笑んだ。そういえば、朝から彼女以外の人をあまり見かけないが、彼女はいったい、この体の持ち主にとって、どういう関係なのだろう。

「凝珠、あなたは私の…乳母(うば)なの?」どうやらここはバリバリの封建社会のようだが、単なる侍女にしては、彼女の態度はあまりに親身だった。

「いえ、私がお嬢様のおそばにいるのは、あなた様が十二の時からです。奥様…先の夫人が、くれぐれもお嬢様を頼むと私におっしゃいました」

奥様?その人が楊怜の母親なのだろうか。

「夫人…あの、母はどこ?」他人の母親だが、今はこう呼ぶしかない。

「あの、夫人は…今はお屋敷にいらっしゃいません。お会いしたいですか?」なぜか、凝珠が少し慌てた。こちらを見る目が瞬いている。どういうことだろう。

「もしかして、あまり仲がよくないの?」ふと思い付いた。朝に大騒ぎをしたのに、仮にも親なら、様子を見に来るくらいするのではないか?それに凝珠のこのつっかえた様子。

「とんでもない!お嬢様は、お母上の唯一のお子さまです。どれだけお嬢様を大事にされていたか、私はよく存じております」凝珠が血相を変えた。

「そう、なの。なら、しばらく夫人…母には知らせないでいいわ。心配をお掛けするだけだもの」話の真偽はともかく、娘がいきなり記憶をなくしたと聞けば、動転するのが当然だ。第一、この長い夢が、いつ終わるかもわからないのに。

ふと気づくと、凝珠がこちらをまじまじと見つめていた。

「どうかしたの?」何かおかしなことを言っただろうか。

「お嬢様は、やっぱり、変わられないのですね」妙に哀しげに呟かれて、どきりとした。この体の持ち主のことは、何も分からないのだ。周りの人間の言葉から「楊怜」の実像を推測するしかない。この長い夢が終わるまで、夢の中の習俗を知らなければ。

「楊怜…私って、どんな人間?」

「…お嬢様は、めったに内心を話されないお方でした」

「人当たりの悪い子だったの?」それなら覚えがある。私も愛想がいい方ではない。

「いいえ、どなたにも声を荒げることなく、夫人やお父上には礼節を守り、私共下人には親しみやすい…お優しい方です」どう聞いても、「淑女の有るべき姿」を列挙したようなお嬢様像だ。まさか、記憶を無くしたついでに理想的な令嬢になってほしいのだろうか。

うろんに見返す私に気付くと、凝珠は意外にも笑い出した。それは気持ちのいい、朝目覚めてから初めての笑い声で、私は半ば吃驚して、半ばほっとして、会話を続けるのがずっと楽になった。

「凝珠、本当の事を言って。私はそんなにいい子じゃ無かったんでしょう」

「貴女は、小さな時はいたずら好きでした。よく笑われて、よく泣かれて。頑固で意地っ張りな所もあって、若君が貴女をからかわれても、決して後に引こうとなさいませんでした。一度など、書院の前で掴み合いをされたのを、私がお止めしたんですよ」ありきたりな言い方をやめて、凝珠は正直に話すことにしたらしい。こちらの話の方が、ずっと現実味があった。

「それからは?」

「先の奥方様がご実家に帰られてから、お嬢様はだんだん落ち着かれました。外に出られることも滅多になく、いつも家事を差配されていない時には書物を読んでおいででした。下のお嬢様はいつも華やかに装われておいでなのに、ご自分の身なりには気を使われずに、私共は多少歯がゆい思いをしておりました」

「ちょっと待って。母は…母上はいつからここにいないの?」先程の話で、楊怜の母親が今屋敷にいないことは聞いたが、一時的に出掛けているのだと思っていた。この口振りでは、家を出て何年も経つらしい。

「お嬢様が十二の年、夫人は御体が優れずにご実家に戻られました。ただ、お嬢様は楊府(ようふ)大姐(おおひめ)ですから、夫人は将来の為にお嬢様を残されたのです。お嬢様自身も、ここで生まれ育った訳で、離れるのを嫌がられました」つまり…夫婦仲が悪くなったのだろうか。

「夫人は離縁したのね。」

「違います!」凝珠が血相を変えた。

「旦那様は、決して彩花(さいか)夫人を離縁なさいません。本来ならお屋敷を出る理由など無かったのに、夫人は自分から太夫人(たいふじん)に遠慮されたのです。ですからお嬢様は、れっきとした宇文府の大姐です」

「太夫人というのは、今の奥方様?」この様子だと、どうやら現代と仕組みはそう変わらない。婚姻の有無によって、子供の利益は大きく変わる。そして古代らしく、一夫多妻制が当然で、離縁は男の責任でなく女の恥と考えられるのだろう。ここまで考えて、私はげっそりした。時代劇で見ている分には他人事で済むが、実体験など冗談ではない。私の母だという彩花夫人も、太夫人という人も、人となりは全く知らないが、家一つに二つ世帯が有り、夫を共有するようなことが上手くいく訳がないのだ。宇文怜の母親は、帰れる実家があって幸いだったのだろう。

「私は今何歳?」

「十八ですよ。冬生まれですから、もう少しで十九になられます」すると、楊怜は私より一つ下なのだ。七年近く、母親から離れて生きてきたのだ。自分に引き比べて、微かに尊敬の思いを抱いた。

日はとっくに暮れており、凝珠は蝋燭をつけて火鉢の火を起こしてくれた。冷たい手を近づけると、温かさに肩の力が抜けた。

夕食を下げる凝珠を、私は慌てて呼び止めた。

「凝珠、もし…明日になっても、いつになっても、私の記憶が戻らなかったら…私に教えてくれる?家の事や、世の中の事や、いろいろ…あなたの暇な時でいいから」聞くのは恐ろしかったが、言わなければならなかった。明日の朝目覚めて、現代に戻っていれば何の心配もない。楊怜の意識だか魂だかも元に戻る筈だ。誰もがそれを望んでいる。

万一、戻らなかったら?私は相変わらず、この古代で生きるのだとしたら?

今日一日は終わった。けれど毎日、物の分からぬお嬢様に、当たり前の事を聞かれてはうんざりするだろう。記憶喪失の有閑階級など、ただのお荷物だ。そして私は、他人に面倒をかけるのは大嫌いだった。

「私はお嬢様の侍女です。何があっても、必ずお側にいます。そう奥方様に誓いました」迷いの無い答えに、私は罪悪感に襲われた。忠義にせよ義理立てにせよ、彼女は私が元に戻ると信じている。

失望させたくなかった。これほど真心を尽くしてくれる相手を。

「有り難う」声が掠れた。

彼女が出ていった扉をしばらく見つめ、今朝着ていたのと同じ造りの寝衣に着替えた。帯を試行錯誤してきつく結わえ、足袋(たび)を履こうとして、ぴたりと手を止めた。

痣がない。

おぼろな蝋燭の下で、どれだけ眼を凝らしても同じだった。右の(すね)に、八歳の時から残っていた痣がない。

長い髪を見たときと同じパニックがこみ上げた。今日一日、凝珠に簡単に結い上げて貰ったものの、初めての重さに違和感がつきまとった。それでも、まっさらな足を見た今はもっと恐ろしい。これは、自分の体ではない。

気付くと両腕できつく自分を抱きしめていた。

楊怜。私と全く同じ顔と、違う体を持つ、十八歳の少女。

あなたはいったい誰なの。今どこにいるの。

どうかお願い、目覚めたら、自分の部屋に、現代に戻れていますように…


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