情未央(じょうびおう) 想い、未だ尽きず2
私はふっつりと眼を開けた。
天井。木目の綺麗に整った古風な造り。父方の実家で見たものに似ている。
待って。私は自分の部屋で寝ているはずよ。我が家は現代家屋なのに。
うっすらと肌寒い。無意識に身体の上を探りかけて、ぴたりと手を止めた。薄いタオルケットのようなものが二枚重なっている。昨夜掛けた毛布ではない。
鼓動が急速に早まり出す。息を深く吸い込むと、覚えの有る、だが寝室で嗅ぐはずのない匂いが喉に広がった。雨に濡れた土の匂い。
私の部屋は二階で、窓は開いていても土の香りがしたことはない。第一今は秋のはじめで、朝方に雨が降ることはほとんど無い。
夢にしても、匂いの有る夢など初めてだ。それに、この肌に触れる風の動き。眠っているときに夢は見るが、だいたい自分は夢だと自覚している方だ。
これは夢じゃない。
見えかけた恐れの頭をぴしゃりと叩き落とし、ことさらゆっくりと起き上がった。私は寝起きにめまいがする時がある。
そして固まった。
二枚合わせの木の扉。ぴったりと閉じているせいで、光も風も入らない。松の浮き彫りが素朴に入れてある。床は敷物と言うには簡単な、藺草に似た筵が敷かれた板張り。鈍く黒ずんだ、輝きの無い金属の蝋燭立て。載せてあるのは私の知っている細くて真っ白な物ではなく、太さが五倍程の黄色を帯びた蝋の筒だった。私が座っているのは、自分のベッドより少し低い高さの寝台で、そろそろと手で触れてみると、木の台の上に何かの毛皮が敷かれ、その上に目の粗い織物が掛かっていた。
茫然と顔を上げると、足元の壁に小窓が開いていた。枕二つ分程度の大きさで、木の窓が片側に寄せてある。太陽の光がそこから入っていた。
さっきの風も、この窓からだったのだ。
文章にすると、私は十分冷静に見えるが、この時私の頭は真っ白だった。疑問が押し寄せてパニックになるところを、心か身体かが遮断している。半ば機械のように、目で見て触れられる物から情報を読み取った。
私の部屋でないどころか、我が家でもない。この空間は、少なくとも一般の住居ではない。博物館の古代展示室に入り込んだか、今人気の古装劇のセットに連れ込まれたようだ。
夢なのだろうか。ここまで嗅覚も、触覚も、視覚も明晰な夢は見たこともない。
寝ている間に誘拐されたのだろうか。まさか。我が家は自慢ではなくお金はない。出来の悪い芝居でもあるまいし。考える間に息を詰めていた。詰まったような喉に必死で息を吸い込み、ふいに怒りがこみ上げた。覚めたいときに覚めるのが夢だ。いい加減にして!
奇妙に痺れた頭で、右手を上げて思い切り自分の頬を打った。
弾けるような音と衝撃に目を閉じた。右頬がじんじんと痛む。
期待を込めて、ゆっくりと眼を開けた。
変わらない。
窓、扉、寝台。相変わらずの博物館景色。
無意識に後ずさった。寝台の後ろの壁に背をつける。
ここは私のいる場所ではない。
襖が押し開かれる音がした。私は座ったまま飛び上がった。
入ってきたのは、私より一回り年上の女性だった。
後になって、彼女の名前も性格も知るようになるのだが、この時の私はいきなり扉が開いて人が入ってきたことに本格的なパニックになっていた。第一印象の彼女は、頭の両側で髷を結い上げ、残りの長い髪を背中に垂らし、片手に木の桶を抱え、もう片手で扉を開いている。顔を半ば伏せている所を見ると、桶の中に水が入っているらしい。
女性が顔を上げた。私が見つめているのに驚いた様で、眼を見開いている。
「お嬢様、もう起きてらっしゃったんですか?いつもはまだ寝ておられる時間なのに」
敬語?何故年上の人に敬語で喋られるのだろう。
「お嬢様?」抑揚の無い声。初めて口を開いた。
「お嬢様、頬が、何故片方だけ赤いんです?」光を背にしているせいか、私の様子がよく見えるらしい。待って。
「お嬢様?」私はそんなものになった覚えはない。今時、そんな時代錯誤の呼び方は聞いたこともない。
「どうしたんです?まだ眠たいのなら、お休みになってください。お水は置いていきますから」私を伺う様子で、寝ぼけていると思っているのが分かった。
本当にそうなのだろうか。
名前。私の名前。
「私は…蒼玲よね?」
「お嬢様?」彼女に呼ばれる度、足場が削れていく気がした。寝台からもがくように降り、眼を見張る彼女から桶をもぎ取って床に置く。水が跳ねたが、そのまま彼女の肩を掴んだ。
「私の名前。知ってるんでしょう?名前で呼んで。私は…誰なの?」今の私は、自分が人間ということ以外、何も確かではなかった。
ようやく、彼女も私のおかしさに気付いたらしい。
「お…どうされたんです?お嬢様は楊怜お嬢様ですよ。楊府のご長女です」私をおどおどと見つめている。ふいにかっと怒りがこみ上げた。私より年上だと言うのに、何を怯えているのだ?
「ふざけないで!お嬢様?楊怜?これは現実よ、だからさっさと本当の事を言って。私は家に戻らないといけないの。人を馬鹿にするのも大概にして!ここはどこ?」
「せ、西華…西華に有る宇文府です」私に肩を揺すぶられて、本気で怯えた顔になっている。それでもまだ言い張るつもりらしい。西華?楊府?どこよ、それは?
「なら、私は誰?」
「お、お…旦那様のご長女で、楊怜様です。先の夫人と旦那様の一人娘で、お屋敷の大姐。兄君と妹君がいらっしゃいます。お嬢様、しっかりなさって下さい。気分がお悪いんですか?」
それ以上聞いていられなかった。彼女を突き放し、扉に突進して押し開ける。そして立ち竦んだ。
板張りの廊下に立っていた。一歩降りた所は丈の短い草地。少し離れて、竹の繁る林が広がっている。左手に廊下が続き、別の古風な建築に通じていた。右手には草地が広がり、水気の有る風が吹き付けてくる。濃厚な土の匂い。草木は露を帯び、雨が降ってからそう時が経っていない事を示していた。
一気に情報が押し寄せる。そして、見知ったものは何一つ無かった。
只の一つも。
水。鏡。私は誰?この世界は何処に行ってしまったの?
本能的に、建物の方ではなく、風が吹く右手に走り出した。後ろで叫び声が聞こえ、廊下を反対方向に走る足音がする。
「誰か来て、お嬢様が、お嬢様が…」
足が冷たい。濡れた泥が纏わりつく。かじかんだように上手く動かない指で必死に裾をたくしあげて走った。降り注ぐ日光は、朝とも昼とも区別がつかない。
幾らも走らぬ内、ちらちらと揺れる光が眼を突き刺して、私は瞬いた。
大きな池。広さは見渡せる程で、縦横になみなみと水を湛えている。向こう岸には雑木林が広がり、彼方に水田らしきものと山々が連なっていた。雨で増水したらしく、岸辺の水草がゆらゆらと不穏に波に揺れている。人の手が入っているらしく、草は茂っていても視界は開けている。
あまりに広大で、そして、あまりに人の気配が無かった。ビルも、車も、電柱も、人家も。平野が広がっているようなのに、密集した人家が見当たらない。
時が止まったような気がした。風に草が揺れ、ちゃぷちゃぷと波が揺蕩う。
ゆっくりと、ゆっくりと片膝を折り、水辺にひざまずき、水面を覗きこんだ。
もしも、その時見えた顔が赤の他人のものだったなら、私は間違いなく気絶して池に転げこんでいただろう。
池に映っていたのは私の顔だった。だが、完全な私自身の顔ではなかった。
色味の無い顔色。呆けたように見開いた瞳。黒く信じられない量の髪が顔を縁取ってうねり、肩から前に落ちかかって、水の中に住む幽鬼に見えた。
その女がまとっているのは、着なれた寝巻きではなかった。白っぽい襟の無い打ち掛けに似たものを喉のすぐ下できっちり合わせ、片手で喉元を掴んでいる。のろのろと見下ろすと、白ではなく縹色だった。垂れ下がったこれは、本当に、髪の毛?
ぐいと片手で引っ張った。痛い。離れない。両手でやっても同じ。
嘘よ。一晩で髪がこんなに伸びる訳がない。この服。芝居の衣装としか思えない。けれど、これほど目が粗い布は見たことがない。ここまで再現する必要が?
昨夜から、どれ程時間が経ったの?なぜ何も覚えていないの?母は、父はどこにいるの?
私は記憶を失ったのだろうか。
それとも、世界を失ったのだろうか。
背中から、慌ただしい足音が近付いてきた。