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言を継ぐ者/彼方への詩篇  作者: 欺瞞に満ちた瀆神者
2/2

/2 -追憶-

まさか続くとは……。

相変わらずの駄文&電波注意です。



 ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った。

 この人はあかしのためにきた。光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである。

 彼は光ではなく、ただ、光についてあかしをするためにきたのである。


—『ヨハネによる福音書』1:6~8



    /0



「──貴方は人を憎んでいるのか」


 もう気が遠くなるほどの昔、誰かにそう訊かれた事がある。

 私は何も言えなかった。

 理由は単純、私にも分からなかったからだ。

 だが、今はどうだろうか。

 今ならば多分、あの時よりは明瞭な結論を返せるだろうと思う。

 

 今になって思えば、あんな事を訊かれた時点で気付いておくべきだったのだ。

 そうであればきっと、私はこんなモノには成り果てなかっただろうに────。



    /1



 もう知っている者はエゼキエルしかいないが、私は現在のインドと呼ばれる地で生を受けた。

 多くの人々に祝福された生誕だった。

 父はかつて司祭(バラモン)と呼ばれた特権階級であり、私はその跡継ぎとしての役割を担うことになっていたからだ。

 そうして幼くして数々の叡智を貪欲に吸収していった私の才を家族や同胞達は多いに喜んだ。私もその賛美に報いんと励んだ。


 そうして私は十五になった頃、同時代の多くの司祭(バラモン)がそうであるように巡礼をすることにした。賢人との邂逅を願ってのことだった。

 そうして初めて村を出て国中を巡っていた時、私はとある人々と出会った。

 とりわけ奇妙という訳ではない、私と変わらないごく普通の人々。

 その中に群衆から石を投げつけられている少年がいた。

 私は群衆の中に分け入り、彼らを怒鳴りつけた。

 彼らは私の身なりを見るや否や蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。

 少年もまた同様で、私を見て怯えながら傷ついた体を動かして逃げ去った。声を掛けても耳を塞いで断じて聞こうとはしなかった。

 どうしても気掛かりだった私は、夜をその街で明かした。


 翌日、少年は死んでいた。大きな石でも投げつけられたのか、路傍でボロ切れのようになって。


 私は愕然とし当惑した。

 訳が分からない。なぜ、彼がこのような仕打ちを受けなければならない?

 気づけば昨日の群衆のリーダー格と思しき男の胸倉を掴み、恫喝同然に理由を聞き出していた。

 男は餌を乞う魚のようにしどろもどろするばかりで答えない。

 そこで偶然巡礼に来ていた司祭に問うた。

 なぜ殺人を行った彼らが罪に問われないのか、なぜ彼が石で打たれたのか。

 彼はつまらなげに、嘲るように言った。


「私は今まで生きてきてそなたほどの無知者を見たことがない。それならそこに転がっている(むくろ)のほうが解していよう」


 私は唖然として訊き返す。司祭は嘲笑う。

 

「理由だと? 問われるまでもない。その小僧は不可触民(アウト・カースト)でありながら不届きにも庶民(ヴァイシャ)に物乞いを行ったからだ。同然の事だ。屑が人に物を恵んでもらうなど烏滸がましいにも程がある。ゴミはゴミらしく糞でも掬いながら畜生の皮でも剥いでいればいいものを。ソレが人に慈悲を恵まれながら生き永らえるなど実に穢らわしい」

「──────なん、だと」


 ──馬鹿な。

 たったそれだけのことで。

 

「だからそなたは無知者だと言ったのだ。この世界には役割というものがある。賎民は賎民としての、下民は下民としての、司祭は司祭としての与えられた宿業がな。……だがこやつはそれから逸脱した。賎民ならば賎民として生きていけようものを、アレはそれすら全うできなんだ。そのようなモノは既に人に非ず。下民どもに手討ちにされただけまだ幸運というものよ」


 知っている。この国には身分(ヴァルナ)があり、それによって人々の生業と地位が決まっていることを。


「……だから何だというのだ。それで人の価値が決まる訳ではないだろう! 貴様と彼らに何の違いがある? 同じ人と人ではないか。なぜそのような暴虐が赦される?」

「解せぬか? ならば学べ。これこそ正義、これこそがこの国を生かす論理であると。そなたは同じ人と宣うが、彼らとそなたが同類とでも言うつもりか? 無論、違う。彼らは庶民でそなたは司祭。彼らは石を投げるが、そなたは言葉を投げる。このように人は皆違う。違うからこそ住み分けが必要なのだ。決して混じり得ない者達を同じ共同体、価値観、民族の下に住まわせる為の手段、それが身分だ。そしてそれを正当化し、彼らを真実から遠ざけ、無知のままにする道具を宗教と呼ぶ。仮にそれらを無くし彼らを軛から放ってみろ。途方もない混沌がこの国を焼き尽くすことだろう」

「なぜそうだと言える? 人々はただ当たり前に暮らしたいというだけだろう。それがなぜ争いに繋がる」

「戯け。元より人とは平等を嫌う生き物だ。他人よりも優れていたい。他人とは違う唯一の自分でありたい。だから人は文明を築いた。そして各々に見合った能力を行使する為に身分が生まれた。そしてこれこそが救いだった。──解るか?」


 ──解って、しまった。

 身分制、それがもたらす正義の本質を。


「……そうか、そういうことか。敢えて人間未満の不可触民(アウト・カースト)を制度化することで隷属民達が抱える不満を逸らし、内政の安定を図る。そうして気兼ねなく国家の拡大を行うと」

「如何にも。そなたの掲げる平等とやらは空疎な空想。取るに足らぬ空論よ。そのようなモノでは何も救えん。人とは所詮、犠牲なくして生きていけん惰弱な種よ。なればこそ犠牲が必要なのだ。搾取される少数と搾取する多数。少数の犠牲で多数が生かされるのであれば是非もなかろう」


 ……彼の言葉に、反論することができない。

 それが間違いであるとは分かっている。しかしそれを弾劾するだけの正当性を持った論理を私は知らない。

 

「行くがいい、蒙昧なる者よ。だがもし、この先何も聞き入れぬというのなら──そなたはいずれ絶望する」


 そうして司祭は立ち去った。

 この時、私は初めてこの世は理に合わない悪意が渦巻いているのだと実感した。



    /2



 戦争が起きた。

 自衛の為の戦争ではない。ただ国土を拡大する為だけの理念なき争い。

 酷いものだった。

 戦うのが戦士だけであるのならまだ良い。だが駆り出された庶民や農民達は。

 国は彼らに死体袋か勲章、あるいはその両方を用意すると言った。

 だが大多数の者は戦いたくなどなかった。

 妻や子供から引き離され、兄弟、時には親子と共に知らぬ土地で知らぬ者と殺しあう。

 兵士として与えられた武器も急ごしらえの粗製乱造品ばかり。

 それでもただ戦う。今を生きる為に。

 これが終われば平和になるなど思ってもいない。すぐにでも争いは起き、その度に死地に駆り出される。

 駆り出した王族や貴族はただ権益の為に、自ら戦う戦士達は恩賞と栄誉の為に、そしてその他大多数は生き延びる為、家族が待つ故郷に帰るため。

 戦は苛烈を極めた。

 轟音、嘶き、慟哭、勝鬨。

 叫ばなければ腰が抜けてしまう。武器が重くて振るえなくなってしまう。

 焼け付くような殺意と熱気。舞い散る土煙と血煙。

 青いはずの空は見える筈もなく、心地よい筈のそよ風は気にもできない。

 後方には押し寄せる味方。前方には押し寄せる敵。

 前後左右は人だらけで逃げることなど出来はしない。

 訳も分からず武器を振る。近寄るな、死にたくないと。

 敵も味方も判ったものではない。ただ動くから、武器を持っているから敵。

 死にたくないから殺す。殺らなければ死ぬのは自分だ。

 その為に見に合わない凶器を振りかざす。

 刃が相手の首に突き刺さる。相手はゴボゴボと血の泡を吹き、意味のない呻きをあげながら(くずお)れる。

 その生暖かい紅色は、耳にこびり付く断末魔は消えることはない。

 だがその時だけは気にもならない。だから更に武器を振るう。

 もう戦意も無く怯えるだけの敵に刃を打ち下ろす。

 言葉は通じない。──命乞いをさせないように。

 言葉は通じない。──決して容赦させない為に。

 できるだけ速く、次の相手が来るより疾く。

 時には二人懸かりで敵を討つ。

 一人が槍を突き出し、胸に刺さる。もう一人が剣で頭をかち割る。

 鼓動に合わせて血飛沫が上がる。頭から胸まで両断されかけた所為で血か脳髄かすら判らない液体が二人に降りかかる。

 刃は途中で止まってしまう。骨に当たったからだ。

 相手が動かなくなっても振り下ろす。そうしなければ起き上がるかもしれないから。

 だから斬り刻む。肉塊になるまで、臓物すら踏み砕く。

 そこまでして生き延びたというのに、今度は後ろから刺される。

 恐怖で思考が麻痺してしまって訳もわからないまま叫ぶ。

 結局生き残れるかどうかを分けるのは運だけ。


 そうして戦いが終わった。

 されどその凄惨さに底はない。

 死んだ戦士の死体は手厚く葬られたというのに、殆どの死体は捨て置かれた。

 足元の砂利は砂ではなく骨。流れる河は水でなく血。

 累々たる死屍には蠅が、鴉が、犬がたかり凄まじい悪臭を放つ。

 放たれた火は空を焦がして見せる。


 それが私の初めて見た戦場だった。

 私は偶々司祭だったから巻き込まれなかっただけ。


 戦いが終わっても平和は訪れない。

 王侯諸侯は城で宴を開いているというのに、農民達に残ったものは荒れた農地だけ。

 そうして冬には飢饉が訪れる。強制的に駆り出された戦いの所為で満足に農業もできなかったから。

 せっかく生き延びたというのに、今度は家族と一緒に苦しむ。

 だから口減らしに子供を捨てる。あの時と同じ、生き延びる為に。

 飢饉を乗り越えても暮らしは楽にならなかった。

 領主に賦役という形で奴隷同然に酷使されるからだ。

 役に立たなければ捨てられるかもしれない。そんな恐怖に怯えながら戦いで傷付いた体を動かす。実際ノルマを達成しない者には容赦なく鞭が飛んだ。

 そうして数十年を耐え抜いたというのに、今度は老いと争わねばならない。

 老いは日々体を蝕み、骨と肉を役立たずに変えてしまう。

 そうすれば今度は家族に捨てられる。自分がかつてそうしたように。

 そうして入ったこともない山の中で、昔馴染んだ感覚──飢えと交わる。

 体は痩せ細り、満足に動くことすらできない。

 しばらくすると山犬がやってくる。弱った体ではとても太刀打などできはしない。

 腹を、足を、腕を噛み裂かれる。

 するともう何度も体験した惨劇──戦争を思い出す。

 ──痛い。苦しい。殺してくれ!

 山犬に言葉など通じる筈もない。彼らは無慈悲にも老人を生きたまま貪る。

 まずは柔らかい臓器から。次は脂肪。最後に肉を喰らって完食だ。

 

 老人は最期に思う。

 自分の人生は何だったのだろうか。

 虫けら同然に這い蹲り、時に罵声を浴びせられ、愛していた筈の子供すらも見捨て、最期には誰にも知られず朽ちていく。

 こんなものがヒトの一生だと言うのか。これでは雌に喰われる蟷螂と変わらないではないか。

 こんなことなら、生まれるべきではなかったのだ。

 そんなことを思いながら彼は親を呪う。

 愛の名の下に自分を産み落とした親を、その虚飾で覆った醜い享楽の果てに自分を苦界へと放り出した両親を。


 このように、どうあっても死は忍び寄る。

 どれほど美しい愛を手に入れても、どれほど素晴らしい幸福を勝ち取っても関係ない。

 ただ死の前に等しく膝を折るだけ。

 どれほど修行を積んでも誰の為にもならなかった。いくら神に通ずる力を手に入れても人は救えない。

 無数の欲徳が、醜い渇望が、人を陥れる。

 救いたいのに、幸福になりたいのに、それすら許されない。

 ただ身の丈に合ったことしかできない。

 私は偉大な英雄でも聖者でも王でもなかったから当然だ。

 けれど。

 私は彼らの助けになりたかった。せめて目の前の一人にでも笑っていて欲しかった。

 国中に苦しみが蔓延していた。煩悩が人々を翻弄していた。

 だから私を国を出て世界を廻った。

 ギリシアで深遠な哲学を学んだ。ローマで美しい愛について学んだ。

 愛。全てを慈しみ、受け容れるもの。

 身を焦がすだけの恋ではない、無償の愛。

 これこそはと思った私は愛を教え広めた。


 その頃、パレスチナではイエスと言う男がいた。如何なる罪をも洗い清める、神の子だという。

 一目会いたかった。

 そうすればこの徒労が──なぜ人々は生きねばならないのか、苦しまなければならないのか、という答えがもたらされるかもしれないから。

 実際、私も欲しかった。救済が欲しかった。

 ただ、欲しかった。救って欲しかった。

 この痛みが、嘆きが延々と蔓延るこの世界でどうすれば幸せに生きられるのか──。ただそれを教えて欲しい。

 しかし叶うことはなかった。

 その男は国家反逆罪で処刑され、その信徒達への弾圧が始まったから。

 ただ信仰のみを武器に立ち向かう信徒達と圧倒的な暴力でもって鎮圧にあたるローマ軍。

 凄惨だった。

 多くが殺され、残った者も磔にされて処刑される。


 ここにも死は手を伸ばしていたのだ。

 愛を謳い、救世を掲げながらも、暴力の中でしかそれを得られない。

 悔しくて、やりきれなくて、涙しながらそれを見届けた。

 彼らには戦うしか選択肢はなかった。

 イエスの信徒達は改宗しなければ磔、または闘技場で猛獣の餌にされる事になっていた。

 絶対の君主である皇帝ではなく天にあらせられる神を崇め、唯一の支配者と仰ぐのだから。

 それでは秩序などあったものではない。だから殺すしかない。

 宗教を頼っても、愛を求めても、救いはない。

 ただ絶望があるだけ。


 ────あぁ……。


 違う、違うんだ。

 人はこんなにも愚かではない。

 そう信じていた。……………信じていたかった。


 そうして私は故郷に帰った。

 そしてある研究に没頭した。

 ブラフマン。万物を支配する最高原理。あらゆる事象はこのブラフマンから発生したものであり、それから無数に枝分かれしながらも繋がりを持つアートマンによってカタチを持っているという。

 当時、私は既に老境に達していた。

 そこで人間の寿命ではどうあっても救世は不可能だと悟ったのだ。

 アートマン。延々と流転していく存在の核。魂の原型。思考や認識の主体。

 もし、自分の中のそれに到達し、呼び覚ます事ができたなら。

 もしそこに自我そのものを保存できれば記憶を記録として保持したまま生まれ変わる事ができるかもしれない。

 そこに一縷の望みを掛けた私は、残りの生涯をその研究に費やした。

 そうして完成した一つのシステム。肉体を記録装置とし、自我だけを生かし続ける外法。

 実際、その試みは成功した。

 私は生まれ変わったのだ。現在の肉体に宿る脳の人格とは別に、認識主体であるアートマンの人格として。

 毎回人間に生まれ変われるとは限らなかったが、それでも寿命を無視できるようになったのは完璧な成果だった。

 私はこの世界の理を逆手に取った技術を【サンヒター・ニルヴァーナ】と呼ぶことにした。


 それから四百年。

 ヨーロッパでは古代が終わり、中世へ突入した。

 ──また、死の香りがする。

 民族大移動。崩壊する帝国。無慈悲に殺されていく市民。憎しみのままに殺し合う諸民族。

 農奴制。変わらない搾取と被搾取の構図。

 停滞する文明水準と頻発する飢饉。

 いつも苦しむ人々は決まっていた。

 虐げられる農民。利益を貪る聖職者。獰猛で殺戮を良しとする騎士。

 子を庇って殺される母。ひもじいと泣く子供。盗賊となって果てなき奪い合いをする弱者。

 教会主導で行われる異端審問。

 弾圧される科学。無知と畏怖と迷信だけが世界を覆う。──なんという蒙昧。なんという無情。

 そして十字軍。

 神と愛の名の下に同じ神を信じる者達を殺しつくす為の闘争。

 同じ信念を、同じ世界を共有する者同士で斬り合う、殺し合う、奪い合う。

 大航海時代。

 新世界への冒険というまやかしに取り憑かれた者どもによる果てなき虐殺。

 踏みにじられる先住民と家畜以下の境遇に置かれる奴隷達。

 正義の為、この世を良くする為と謳いながら無惨な末路へ辿り着く。


 圧倒的な死と死と死。

 この世は地獄なのか。

 それでも止まる訳にはいかなかった。

 時に惨たらしく骸を晒しても、何も成せずに朽ち果てても。

 その度に生まれ変わり、ただ邁進する。

 意味や価値など考えている暇はない。ひたすら現世にしがみつく。


 時に様々な宗教の聖職者となった。

 しかしその度にそれらを放棄した。

 神に祈っても、教えを広めても、火に油を注ぐだけ。

 素晴らしい経典に人類の叡智が書かれていても、誰もその価値を理解しない。

 たださらなる絶望に突き落とされるだけ。誰も救えはしない。

 

 見回せど見回せど屍の山。

 フランス革命。市民革命。

 当然そこにも平和はない。

 革命派による恐怖政治。繰り返される断頭台への行進。

 

 産業革命。飛躍する文明。

 けれど何も変わらない。

 拡大する貧富の差。変わらず苦しむ人々。

 泥の中で這い蹲り、無意味に足掻くだけの一生。


 台頭する国家主義。

 死の匂いは更に濃く深く。

 勃発する大戦。途方もなく延々と拡大する戦線。

 新兵器で膨れ上がる死の数。

 そこに大義などなく、ただ苦しみ合うだけ。


 渦を巻く死。螺旋を成す苦悩。永劫に続く流転。果てなき──地獄。


 いつしか進むことができなくなった。

 それでも滅びることは許されない。

 生きて、この世界を見届ける。人の苦しみに寄り添い続ける。

 ただそれだけの理由。

 どれほどの絶望があっても、停滞したままでも、それだけは止められない。手放せない。

 ただそれだけに固執した。


「──貴方は人を憎んでいるのか」


 焼け落ちたような空の下、ある男は私にそう訊いた。

 私は何も言えなかった。分からなかった。

 憎んでいるのか、愛しているのか、それすらも。

 だから答えは返せなかった。

 その男の名はエゼキエルと言った。


 例え何度生まれ変わっても死からは逃れられない。

 あらゆる煩悩から生まれる惨劇が世界を喰い尽くす。


 第二次世界大戦。

 ここまでくるともはや人道などあったものではない。

 老人も赤子も女も子供も構わず灰燼と化す。

 全ては死へと収斂していく。


 そして冷戦。

 語るまでもなく悲惨だった。

 強国の論理で利用され、使い潰され叫びをあげる新興国。

 今なお続く紛争。何一つ変わっていない人間の本質。


 生き延びても、結局最後は死んでいく。

 何処に行くこともなく原子として流転する。

 この世界に救いなどなかった。

 生というもののなんと無意味。なんと曖昧なことか。

 生とは空虚。どんな功績を遺しても、輝くように生き抜いても。

 その最果ては冷たい死。

 意味のある生も、価値ある死も一つとしてありはしない。

 人に限らず、あらゆる命はただ苦しみ合う為に生きている。生かされている。

 死にたくない──たったそれだけの為に。

 それが、二千年かけて知ることができたたった一つの真実。

 命は救えない。我らは救われない。当たり前だ。命は潰し合う為に造られているから。

 どうして今まで気付けなかったのか。なぜこれほどまでに世界にしがみついてきたのか。

 

 ────私には、結局何もできなかった────。


 長すぎる停滞の中、私はいつの間にか救済という理想を綺麗さっぱり棄て去っていた。

 所詮その程度だったのか。純然たる事実を、当然の理を叩きつけられたというだけで消えてしまう程のものだったのか。

 あんなに固執していたのに、それだけが全てだったのに。

 何もできないというだけで、何も進まないというだけで、救いたいという夢が敗れたのか。

 その理想が本物だったのなら、心からの願いだったのなら、そんな事にはならなかった筈。

 私もあれだけ憐れんでいた彼らと同じ、醜く汚く下衆で蒙昧な人でなし。本当は死にたくなかっただけの癖にご大層な理想を盾に思い上がって、粋がっていただけ。

 私はただ、自分の幸福を追求するべきだった。

 幸せに笑い合う夫婦を、親子を。夢に燃える青年を。自分のものでない、誰かの幸福を見ているだけで私は幸せだったのに。

 それなのに、傲慢さだけで夢想家の真似事を始めた。

 ──私にはもう、彼らを見続ける資格はない。

 今なら、あの問いに答えが出せる。


「──違うんだ。私は人間を憎んでいるのではない。ただ、どうでもいいと思っているだけ」


 もう、彼らの事などどうでもいい。関わり一つ持ちたくなかった。

 人々の祝福を受けて生まれて来たが、最後まで報いることはできそうになかった。

 ただ手詰まりだった。

 後はもう、何もない世界で残りの寿命を使い潰すとしよう。そうすれば、少しはその思い上がりも正せよう。

 ──山でなら、あの冷たいヒマラヤでなら、一人そうしていられるだろう。


 私は誰を──何を憎んでいる訳でもない。

 ただ──自分と世界を見限っただけなのだ。



    /3



 ──懐かしい夢を見た。

 そういえば今日は12月31日だったか。

 思えば随分遠い所まで来てしまったらしい。

 もう二千年紀も終わり、新たなる時代で人々が沸き立っているというのに、私はここで亡者のまま。

 寒冷なヒマラヤの空気の中、私は一人空虚に沈む。

 そうしていると、ふと懐かしい男を思い出した。

 ……名前は、何だったか。

 いや、止めておこう。私はもう誰とも会わないと決めたのだ。ならそのような感傷など傷を抉るだけだ。

 

 そうして今日も、何もせずに時間(じゅみょう)を消費する。

 変わらない日常、変わらない自分。そんな在り方にすら何も思わぬ果てた自我。


 すると20世紀が最期を迎える寸前、扉を叩く音がする。

 私は感慨もなく玄関に向かった。

 


 もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。

 もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。


—『マタイによる福音書』6:14~15


お読み頂きありがとうございます。

今回は回想でした。


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