A person like a speaker
東京都目黒区上目黒に建物を構えるK大学病院の待合室に日野原は腰を掛けていた。
会社から病院へ向かうまでの道中に、唐突な驟雨に見舞われ、一目散に病院へと駆け込んだ。
途中のコンビニでビニール傘を購入するか迷った挙句、急いで走ればそれ程濡れはしないだろうと軽い気持ちでの賭けは、失敗に終わり、雨足は次第に強さを増していった。
途中、長話をしてしまったことを少々悔やむ。
「診察証と保健所の提示をお願いします。」
全身が濡れた日野原の姿を見た三十代後半くらいのナースは怪訝そうな表情を浮かべている。隠しきれていない細かな皴がよく目立っていた。
「お掛けになってお待ちください――。」
受付を済ませ横一列に伸びた長椅子に腰掛けると、院内の生暖かい空気を纏った濡れたシャツが肌に張り付き気持ちが悪かった。ジャケットを脱ぎネクタイを外し顔を上げる。
巨大な液晶テレビが壁に埋め込まれている。昼のニュースが放映されていた。画面上には、螺旋状にうねった長髪が印象的な男が、連行されている。留まる事を忘れたフラッシュはテレビ局や雑誌記者と思われるカメラから発光されている。その明るさと静けさは、雷が落ち、雷鳴がやってくる前の光景によく似ている。
男はみすぼらしいトレーナーを纏い、俯いていた。
――物騒な世の中だ。
日野原は流し目でニュースを見ると、思い出したかのようにカバンの中身が降り出した雨粒で濡れていないか確認した。
K大学病院は目黒区にある大学病院の中でも広大な敷地を有した病棟で施設の充実化、利用顧客の数は他の大学病院と比べても頭一つ抜けていた。
平日の昼前は特に利用患者が多いようで、老若男女問わず、至る所が人混みでごった返していた。
日野原は仕事帰りの夕方にしか訪れたことが無かったので年始の百貨店にも似た人の多さに終始圧倒された。閑散であるべき病院がこれほど賑やかで良いのか。
日野原はカバンから文庫本を取り出すと、栞が挟まったページを開く。駅前の書店で買ったばかりの文庫本は、インクと新紙の香りが僅かに残っていた。
――喉元にハサミを突き刺すなんて、どうかしている。
いつの間にか待合室は静寂な雰囲気に包まれていた。小児の血気盛んな鳴き声も聞こえなくなればせわしなく歩き回る事務員の足音も治まっていた。
日野原はページを捲る。
――クレゾール石鹸水。
文庫本を閉じ、宙を見上げる。天井は少しだけ黄ばんでいた。
静寂が何処か不安を誘う待合室で日野原は先程、自分が会社を首になったことを思い出した。
いつもと同じ時間、いつもと同じ場所でいつもとは違う事が起きた瞬間だった。
朝食は外国産のシリアルにサプリメントを無造作に混ぜ入れ牛乳と一緒に流し込んだ。
自宅を出て最寄り駅から三十分ほどメトロに揺られる。途中で一度乗り換えを挟み、中目黒駅に着くと改札口に定期券を押し付け、駅を出る。通勤ラッシュのピーク時への不平不満も、気だるい身体ごと膨大な人の波に擦りつぶされる。既にスーツはしわくちゃなのだが、それもまたいつも通りだった。
山の手通りに沿って直進し二回ほど赤信号で足止めをくらう。無線イヤホンを通してUK ロックバンドの新譜を両耳に受け、強引に気分を上げ会社を目指す。目黒川沿いの歩道は観光客もまちまちで一眼を首からぶら下げた外国人も珍しくなかった。
(株)サクラテクノロジー
花壇で飾り付けられた華やかな正面玄関を通り過ぎ建物の裏へと回る。従業員用出入り口のドアノブを捻り社内へ。顔認証システムの甲高い機械音が響くと電気錠のロックが解除される。
――――便利な時代だ。
フロントへ続く細い通路を二分ほど歩くと程よい大きさをしたホールに出る。受付の女性に軽めの会釈をして社員証明書を提示しエレベーターが到着するのを待った。
相変わらず不愛想な受付嬢もいつも通りで、日野原は自身が所属する部署がある十一階のボタンを押した。
イヤホンを外しポケットに突っ込むと、途中三階でドアが開く。
二十代くらいの女性二人組が乗りこむ。一人は小太りな体系でボブと言われる髪形をしている。日野原は目線を下に落とす。小太りな女性の全体重を支えている華奢な姿をしたハイヒールが視界に入り、どうしようもなく居た堪れない気持ちになった。片やもう一人の細身で絹豆腐のように肌が白い女性はどこかで見たことがある顔だったが、どこの誰だか思い出すことはできなかった。
「――お昼、どこにする。」
小太りの女が言った。右手は栗色の髪の毛を人差し指に巻き付け、左手はパステルカラーのスマートフォンを気だるそうに操作している。
「今日の気分はカレーかな。最近できたあそこがいい。えっと、バングラデシュの。数十種類のスパイスを使ってるんだってさ。」
細身の女が答えた。カプサイシンの発汗作用がどうたらこうたら。
「あそこね。でも信号わたって結構歩くんだよなぁ。週初まって二日目には、ちょっとだるめな気がする。サンドウィッチでいいわ。近いし。」
「え、昨日もじゃない。」
若い女社員は人目もはばからず騒いでいる。エレベーター内には女性二人の他に日野原しかおらず、もしかすると女性二人は自分の事が見えていないのではないかと自らを透明人間なのかと疑う。馬鹿げた話だが、それ程の声量だった。出社したばかりにも関わらず既に昼飯の話を始めている。
日野原はなぜだか聞き耳を立てていた。たかが一食、なにを食べるかでむきになれる幸福な精神が少し羨ましく思えた。
「じゃあ二人が食べたい物の間を取って、カレーパンでいい。」
「それ別に間を取ってないよね。」
「サンドウイッチの間を取ったらパンでしょ。」
「間というか中身ね。」
食べ物の恨みは恐ろしいとよく聞くが、女性は特に当てはまっていて良い意味で細胞レベルで水掛け論を興じていた。
突然、密室空間に機械音が響く。言い争いに水を差すにはこれ以上ないタイミングだった。小太りの女性は、一度はしまったスマートフォンをパツパツに着こなした制服のポケットから取り出す。
「またきた。」
「今日も?」
「うん。オフィスゴシップ。」
「今日はなんて。」
小太りの女性は眉間に皴を寄せる。覗き込む形で画面を見つめている。
「しし・しんちゅうの・・むし・・・?」
「なんだろうね。ことわざかな。」
「聞いたことない。」
「きっと私たちには関係ない事だろうね。」
「うん。」
「どんな意味があるんだろう。いったい誰がこんなことしているんだろう。」
「どんな意味があるかはわからないけど誰がこんなことをしているのかはきっと――」
女二人はスマートフォンをまじまじと覗き込んでいる。エレベーターは八階を通り過ぎた。
「あ、ごめんなさい。うるさかったですよね。」
細身の女性の方が振り返り頭を垂れる。香水だろうか。心地よい香りが宙に舞う。
「いぇ。別に。」
日野原は慌てて目線を逸らした。
「ねぇ・・ほら・この人・・・噂の・・・」小太りの女性が小声で細身の女性に耳打ちをしている。
「――。」
気分を害した日野原はイヤホンを着けようとポケットの中をまさぐるがイヤホンは見つからなかった。隠しきれない動揺が渦を巻いている。
「え?あぁ。そう。」細身の女性は一歩前進し日野原と直面する。「失礼しました。食べ物の事になると周りが見えなくなってしまって。声も大きかったですね。以後気をつけます。本当にすみません。」
煌びやかな笑顔は、不覚にも心拍数を乱し撫子色の背景を浮かばせる。
エレベーターが十階で止まりドアが開く。細身の女性はもう一度頭を垂れると、小太りの女性と一緒に降りて行った。
酸素が減った密閉空間には爽やかな香りが残っていた。
日野原は細身の女性をやはりどこかで見たことがあった気がして、思い出せずに頭を抱えていると、エレベーターは十一階に到着した。
ドアが開く。降りると同時に醤油顔をした警備員とすれ違い、日野原は思い出す。
あの女性は――
「昨日の朝に食べた納、豆、のパッケージに描かれたキャラクターに似ている。特に眉が。」