They keep talking
日野原愛人は首をひねっていた。
凝り固まった肩の筋肉をどうにかしてほぐそうとしたしたわけではないが、社会人も六年目となると、多少なりとも蓄積疲労を感じざるを得ない事を理解はしていた。
サクラテクノロジーの自社ビルを地上からまじまじと見上げるのは、入社して以降二度目だった。無論、土、日、祝日の休日を除く日には、勤労のために足繁く訪れはしたが、こうして下から見上げてみると、目黒区に有する他のビルと比べても、全くもって見劣りしない程立派な佇まいに感心した。
晴れた日には、周囲の街並みが台形の姿をしたビルの全面窓ガラスに映し出され、幻想的なオブジェを作り出すのだが、日野原の頭上遥かにあるあいにくの曇り空は、みずみずしい青色を微塵も見せることなく居座っている。
雲に覆われ、どんよりとした空を見るたびに、日野原はものもらいに侵された腫れぼったい瞼を連想するのだった。
菊の節句。
今にも雨が降り出しそうだというのに花粉が彼方此方に舞っているらしい。
鼻がむずむずと騒ぎだした日野原は、くしゃみをかまそうと大きく息を吸い込む。
間抜け面を見せまいと俯きながら――
「「そとまわりですか?」」
背後から声が聞こえた。
くしゃみの途中で話しかけられるという予期せぬ事態に困惑する。
その代償は大きく、日野原は、口の周りにまとわりついてしまった大量の鼻水を拭き上げようと、薄墨色をしたスーツの右ポケットからポケットティッシュを取り出した。
自宅から持ってきていた物は既に出社の時点で使い果たしてしまっていたので、駅前でもらった物に助けられた。マスクを外し迅速かつ丁寧に鼻水を拭き上げる。
春先から梅雨にかけて発症すると認知されがちな花粉症だが三、四月が際立っているだけで実際は通年発症の病気である。
有名どころでキク科のヨモギ等。重度の花粉症患者には、季節は特に関係が無い。マスクは常備、ポケットティッシュは最低でも三個は持つことにしていた。
といったわけあって日野原は普段から進んで家から出ない生活が身についていた。
聞き覚えのある嗄れ声のする方を振り向くと、榎田芳和が後頭部を掻きながら歩を進めていた。
何年間使用しているかわからないほど黒ずんだタオルを、腰のベルトに挟ませている。
ふわふわという表現からかけ離れたタオルにはアカシヤ商店という文字が僅かに薄く残っている。
会社近くの揚げ物屋の名前だ。注文が入ってから油で揚げるササミカツが人気という口コミが流れていた。
「えぇ、まぁ、そんなところです。外回り。そうですね。外回りです。」
日野原はわざとらしく不愛想に言葉を返した。先程の鼻水をとっ散らかせた原因である榎田に恨みを感じ取らせるかのように。
「――ブォンッ」
鈍いエンジン音が聞こえた。
駐車場に停車している白いワゴン車の後ろドアが開くと運転手と思われる人物がせっせと一メートル台の植物を運んでいる。ワゴン車の側面には【サクラテクノロジー】と横文字でボディペイントされている。横一列に十台ほど並んだ同じ車種の配送車は去年一斉に買い替えたばかりで自動運転機能も搭載されているらしい。
「――しかし、営業兼研究課の人間は大変ですなぁ。行ったり来たり。彼方此方たらいまわしにされて。営業車がありませんからね。さぞ交通に関しては不憫でしょう。――わたしは以前から思っていた事でして、配送車はあれどなぜ営業車は無いのかと。」
目頭の窪みが年々深くなってゆく榎田は、トレードマークである赤褐色のバケットハットを被っている。
色落ちが激しく生地もヨレヨレなのだが、妙に様になっていて少しばかり似合っているのが癇に障る。
「営業車がない理由はわかりませんが、車の免許を持っていない社員も多いので、あまり関係ないのかもしれませんよ。」
「免許を持っていないと――」
「ええ。それと、デスクワークばかりしていると歳をとった時に腰のあたりにきますから。身体が動くうちは走り回ろうかと。」
皮肉混じりに言いのけた後、日野原は僅かなり後悔した。大人気ないという言葉は適所ではないが、相手は還暦を迎える老爺。向きになる必要が無い。自分は何に張り合っているのだろうと、気持ちが少し沈んだ。
荷物を積み終えた配送車のワゴンは排気ガスを残し山の手通りへと出て行った。
片や榎田は、ひるむ様子も見せず笑顔を浮かべている。
「そうですか、会社のためにとご立派な心意気に感心しますな。けれども自身では気づかぬうちに身を滅ぼしてゆく例もこの時代そう珍しくありません。――ブラック企業。パワーハラスメント。マインドコントロール。ふたを開けたら茹で蛙のようになっていたり。そういった方たちをわたしは無数に見てきましたから。」
名前こそ伏せているが、茹で蛙と例える矛先は、日野原に向けての言葉だろうと解釈した。
榎田は口元を歪め、皮肉をやり返すよう続けざまに喋りだす。
「その点私の仕事は楽で。こうして作業着を着て伸びた雑草を引っこ抜けばいい。社長が園芸にこだわりを持たない方で助かっています。」
榎田は漂白剤にでも漬けたのかと疑問が生まれるほど真っ白になった顎髭をわしわしと触っている。
背後の樹木には榎田が使用したであろう剪定鋏が立てかけられていた。赤褐色に錆び付いた二十センチほどの刃渡り。所々に雑草を生やした土に突き刺さっている。
俯くと、ふと地面に小さな竜巻が発生した。
秋の風が渦になったように落ち葉を巻く。
風の圧力が前髪をかきあげる。
瞬間、バランスを崩すほどの強風が二人を襲った。
春一番が季節を間違えたかのように。
榎田は目線を日野原からサクラテクノロジーのビルに移すと、一転、ぼんやりとした表情をしている。
どこか寂し気な、明かりが消えたような瞳を見せて。
「植物なるものは自然の形が最も美しいと言ってしまえばそれまでです。誰にでもできるのですよ。このような仕事。わたしじゃなくとも――」
榎田は俯き、荒唐無稽な呪文を詠唱するかのようにブツブツとぼやいている。何か霊的なものに取り憑かれたように。
日野原は同僚の松戸武士がいつの日かに言っていたことを思い出していた。
榎田芳和。年齢は五十台後半で、サクラテクノロジーの庭師兼清掃員。現在は契約社員だが、三年程前は営業兼研究第二課の責任者だった。
日野原は当時、第一課に在籍していて、第二課の内情は松戸からの聴き伝えでしか知り得なかったのだが、理論的なコミュニケーションを取る事に長けていて部下からの人望も厚いと聞いた事があった。
長年の勤続の中で、幾度となく孫娘が顔を出していた。一見男の子のようなショートカットが特徴的な子で大きな桜の花弁が印象的なヘアゴムをつけていた。
最近はめっきり見ていない。
噂というのは、本人の意思にそぐわない形で生まれる。
【二世帯住宅で暮らしていた榎田の娘夫婦は九州の方へ引っ越し、今は別々に暮らしている】
だったり
【仲違い離婚を気に榎田の娘である嫁の方が、家を出て行ってしまった】等、
あることないこと噂だけは光の速さで流れてゆく。
実際問題それが壮大な規模を誇る会社の内情というものだ。
悪意を持った印象操作が走り回る人の群れで気を付けることは、他人に関わりすぎない事。良くも悪くも一定の距離を保つことだ。
噂は所詮噂であって決して真実ではない。
榎田は再び目線を日野原に移した。
「――春になるとビルを取り囲んだソメイヨシノが一斉に咲き乱れ、その麗しさと散りゆく尊さに毎年のように心を打たれます。」
榎田は先程とは人が変わったかのような表情と声になっていた。口元には笑みがこぼれている。
――さっきの表情は一体なんだったのだろう。
まるで別人だ。
日野原は眼を擦った。決して花粉で眼が痒かったわけでは無い。
「落ちた花びらの量にも心を撃たれます。」
「――落ちた花びらに?」
「えぇ。地面に広がった花びらをかき集めるのが一苦労でね。なにせ腰が悪いもので。」
日野原は首から垂れ下がる社員証明書の紐をいたずらに人差し指に巻き付け、周囲を見渡した。九月の木々は色彩が乏しく殺風景な景色が広がっている。
ソメイヨシノ。染井吉野。日本国内に数百種類存在する桜の内、約八割を占める。冬の間、成長抑制ホルモンによって発芽を抑えられた花芽は、春になると冬眠から目を覚ましたように開花する。サクラテクノロジーの社ビル周辺にも約二十本のソメイヨシノが植栽されている。敷地内を囲むようにして聳える先は目黒川沿いに連なる桜のアーチに繋がっている。
三月の下旬、桜前線が報道されると最寄りの中目黒駅は熱気を帯びるほどの観光客にまみれ、出社するのも一苦労だ。
「――春は苦手ですね。目黒川沿いは人が多くて。」
中目黒駅から徒歩十分ほど歩いた場所に居を置くサクラテクノロジーは主に植物の栽培、販売、設置、を業務とする会社で全国、津々浦々のホームセンターに自社で開発、栽培した植物を卸している。全国各所に支店、栽培施設を設けており地域行事やイベントにも深く携わっていた。
社名もモチーフである桜がイメージされている。創業者の苗字が吉野であったか、孫の名前がさくらであったかは忘れたが、桜の花言葉である純、潔、が、ブラック企業では無い証明などと、企業説明会の時冗談まがいに言われたことを覚えてはいた。
日野原が回想に耽っているとそれを遮るように榎田は呟く。
「スーツ姿が羨ましいですな。――私もね、何年か前までは、背筋を伸ばし働いていたのですよ。この会社がここまで大きくなったのも――私が――何十年もかけて――。」
榎田芳和が責任者から現在の清掃員になった本当の理由を知る社員はいなかった。
この件に関しては、世代交代と安直に、強引に受け止められていた。それはとても不自然で、まるで誰かが意図して発信したかのように当時は感じた。榎田は天下りという言葉を自ら頻繁に使用した。プライドというものがあるのだろう。
「創業から二十五年を迎えるにあたって、榎田さんの力は無くてはならなかったものだと思っています。」
「気休めなら――」
「いえ、礎を築くのは、いつの時代も先人達であり、わたしたちは敷いていただいたレールに乗っているだけですから。」
日野原が発した言葉は本心である。勘違いしてはいけないのは、いつの時代も形を生みだす事が難儀であり最も美しいという事だ。産みの苦しみというのだろうか。
「ご謙遜を。それでもそう言っていただけるのは、冥利に尽きます。」
「とんでもない――ところで、まだあちらに?」
「――えぇ。はい。」
会社から数十メートル離れ場所にあるプレハブ小屋。以前は空き空間のようになっていて電気、ガス、水道が通ったまま使用されずにいた。
元は設備が整った会議室か何かだったらしく冷暖房も付いている。そのプレハブ小屋の隣には使われなくなった電気機器。パソコン器具が集積された倉庫があり、余程の要件が無い限り従業員が近寄ることはなかった。
数年前、サクラテクノロジーは自社ビルの大規模修繕工事を行った。立派な本社の陰に隠れるようにして、ひっそりと佇んでいるプレハブ小屋と隣の倉庫は工事をされなかった唯一の建物でもある。
故に誰も近寄ろうとはせず、話題にも上げられない。無いものとされていた。
――――そこに榎田芳和は住居を構えていた
会社の役員が何を考えているかは知らないが、会社の敷地内に人が住んでいる事実はとても奇妙でアブノーマルだと日野原は首を捻る。
日野原の業務上、プレハブ小屋隣の倉庫、社員はケターと呼称するのだが。ケターの中にある大型シュレッダーを使用する頻度が極めて多い。
重要な書類を処分するときは、責任者が束にして処分しなければならない。
シュレッタ―があるケターには、室内通路から続く一本道を通るほかないので、途中決まってプレハブ小屋の前を通過する。その度、横目に通り過ぎては、締め切られたカーテンの隙間からバケットハットが顔を覗かせ不快感が込みあがるのだ。
「――そろそろ失礼します。」
日野原は浅めに一礼して、去ることを伝える。腕時計を見ると時刻は十一時を回っていた。
「お気を付けて。」
榎田は右手をひらひらと振っている。普段小汚い恰好をしている印象が強い榎田だがその日は真新しい手袋を着けていた。
――――ノルディック柄といっただろうか。作業用だとすれば少々ポップだと思うが。
「手袋。よくお似合いです。以前の物はどうされたのですか。少し特徴的な。」
「あぁあれは。失くしてしまいました。」
「そうでしたか。」
「ッグシュ‼」
「風邪ですか。」
「いえ、花粉症が酷くて。」
「榎田さんもでしたか。実はわたしもでして。ティッシュ使いますか。」
「あぁ。助かります。」
榎田は藍色の手袋を外し、鼻をかむ。以前付けていた手袋は宝石店の定員が付けているような綿製の物で庭師が軍手を付けていないチグハグさが妙におかしかった。
「そうだ。日野原君。知っていますか。」
「何をですか。」
日野原はティッシュを受け取りポケットにしまう。
配送車が又一台会社から出て行った。
「最近会社で流れている噂の事です。」
「――噂。えぇ。まぁ。もちろん。知らない事は無いです。」日野原の額には汗が浮かぶ。浅黄色のネクタイを緩め、シャツのボタンを弄りながら上から二つ目まで外した。
「――知っているのですね。」
「――。」
「お気をつけください。」
「――なにがですか。」
「真実というのは、確実にどこかの誰かが見ているものです。どんなに小さな事でも。四面楚歌になってしまっては後に引けませんよ。」
榎田の顔つきが豹変する。先程も見せた別人のような表情だ。
――――目つきだけは昔から変わらない。人を人だと思っていない眼。見下すような。昔からそうだ。
「ご忠告、ありがとうございます。」
日野原は強引に頬の骨格を上げた。嫌悪の変貌性が垣間見える
コンクリートの灰色がぽつぽつと濃くなってゆく
視線の先にある目黒川の水面にもぽつぽつと何かが弾けている
雨が降ってきたようだ
秋の長雨。俄雨ではなさそうで
色褪せたタオルを頭にかぶせ、形だけでも雨を防ぐようにする
振り返ると既に彼は姿を消していた
――――気づいていないとでも思っているのか
――――あなたが何をしたのかを
「ッグシュ。」
兎にも角にも湿り気の中にも限らず舞い続ける花粉。もう少しだけ手加減してくれ