Who is the culprit?
I'm free to be whatever.
長針と短針。
寝屋の壁に設置された振り子時計がカチカチと、さながらメトロームのように一定なリズムを奏で、ひたひたと闇を深めてゆく。
その煩わしい音に聴覚が反応し、わたしは眼を覚ました。
気づくと追いかけあう二本の針は既に、十二の英数字を通り過ぎており、日付が変わったことを教えてくれた。
睡眠時間は三十分弱といったところだろうか。上半身にグッと力を入れ起き上がる。
寝ぼけ眼によるぼやけた視界には用が無く、眼を擦る。
床に大きなはんぺんが落ちている。おでんに入っている真っ白な。
――――
そんな筈はない。
もう一度先程より力を入れ目を擦るとカメラのピントを合わせたように視界が鮮明になってゆく。
四角形の窓から、額縁を切り取った形状の明かりが差し込んでいる。どうやら巨大はんぺんの正体はただの外灯光だったようだ。
呼吸を止め耳を澄ませるが、聞こえてくるのは振り子時計の無機質な音だけで、わざとらしい夜の静寂が、今日もまた睡眠不足に拍車をかける。
わたしは、凝り固まった首の筋肉を解そうと頭を左右交互に傾かせた。そしてベッドから降りると、その足でキッチンへ向かった。
単層フローリングの冷たさが裸足の足裏を伝ってくる。夜は冷える。その感覚が、夏から秋へと移り行く季節の変わり目を感じさせた。月日が過ぎるのは早いもので、つい今しがたまでは、掛け布団はおろか素っ裸で眠れていたというのに。
コップに注いだ水道水を口内に含み。一度ゆすぐ。
シンクに水を吐き出すと、舌には苦い後味が残った。鉄の味とでも言えば伝わるだろうか。
眉をひそませ、正面の引き戸からセブンスターを手に取ると箱の中から一本抜き出しそのまま口に加える。ガスコンロのつまみを捻り点火させ、煙草を加えた顔面ともども、火に近づける。
顎の付近まで伸びた長い前髪が燃えたのか、焦げ臭い匂いが鼻腔に伝ったが、気にせず煙を吐き出した。
コーヒーを飲もうとやかんに水を入れ火にかける。
わたしはカフェインという成分に取りつかれている。
時間ができれば我知らずコーヒーカップに手を伸ばしてしまい、一瓶百二十グラムのコーヒー豆が一週間持たず無くなってしまう。
ラベルに表示されているように六十杯分の豆を約一週間で消費するとなると、単純計算にして、一日約八杯弱を飲んでいることになる。
カフェインが身体に良い影響を与えない事を理解はしているが、いつの日かネットで調べた致死量と定められたラインには遠く及ばないので、あまり気にせずに嗜むことにしている。
足元の収納にはどうゆうわけか癖で買い溜めした二十瓶ものコーヒー豆がストックされている。
――――
途端に外の空気が吸いたくなった。
キッチンの反対側にあるベランダへ出るには、冷たいフローリングを通るほかないので、一
瞬躊躇したが、意を決し足早に駆け抜けた。
翡翠色のカーテンを引っ張り、ドア窓を開けると生温い風が肌を通り過ぎた。
煙草の煙を巻き込んだ向かい風が眼球を襲い、わたしの瞳には涙が湧く。
既にくたびれてしまったスウェットの袖で涙をぬぐいベランダに出ると青黒く染まった街を見渡した。
吹き荒れる風が強引に木々を揺らしては、ざわざわと不気味な音を立てている。
日中に降った雨で今日はベランダには出られないと思っていたが既に止んだらしい。
――――
わたしは月を探した。暗闇の中に浮かぶ変幻自在の弦月を。
わたしは決してロマンチストな人間ではない。月を見上げノスタルジックな気持ちにはならず、むき
になり兎を探しもしない。
ただ、ベランダに出てはその都度、視界に入り込んでくるそれを、わざわざ探してまで見当たらないという事が少しだけ気持ち悪いのだ。
柵から上半身を乗り出してまで空を見上げたが月は叢雲に隠れていた。
マーク・トウェインは言った。
人は皆、月である。
誰でも他人には見せない影をもっている。
ひも解くと、普段は手作りのスポンジケーキを皆に振舞ってしまうほど他人へ好意的な部分を持っている人間や、欠点、付け入る隙が微塵も感じられない人間らしからぬ人間な程、プライバシーが守られる自宅、他人の眼が向けられない場所になると、蛻の殻になってしまったり、背筋が凍る程残虐な事件を引き起こすサイコパスのような人格を潜めていたりする。
あくまでわたしの勝手な解釈なのだが。
――――
確かにいたずら好き、わんぱく小僧というイメージが付いたトムソーヤですら、時に人間味を感じさせない、暴力的な部分が見え隠れするのだから、人には影、裏となる部分が存在するのだろう。安易に表裏一体とは言い難く、仕方がない事だ。
人には良くも悪くも心、感情というものが備わっている。
しかしわたしたち人間は、どこまでも陰が無い月になりたがっている。裏を持たない月に。というのも、影があってはいけない、不完全な人間は許されもせず、はじき出されてしまう社会が、既に眼前に広がっているからだ。
出る杭は打たれるために存在しているらしい。
好物のフライドポテトと豚肉のローストを食べるためには、通貨である紙切れと硬貨を手に入れる為に働く必要がある。
付け合わせのポテトをポルチー二茸のソテーに、メイン料理を仔牛のビステッカに変えたければ、学校のテストで高得点を取り偏差値の高い大学に入る事を勧められるだろう。
しかし根底は変わらず食。働。学。結局このサイクルを回すために生きてゆく。そのサイクルの中で生きてゆけるのも、影が少ない一般的に通常(常識人)とカテゴライズされる人間で、影を無くし月になりたがっている人間だ。
わたしが思う社会人というのは、社会に出て働いている大多数ではなく、社会という窒息しそうな籠の中で己を消そうと努めている者の事を指している。
なので、やはりわたしは月にはなれないだろう。光りが差さない影(裏)の部分は、尽きぬほどあれど、眩く光る表の部分が僅かでも有りはしないのだから
――
月になれなければ、人にもなれない。人にもなれなければ、わたしは一体何者なのだろう。
せめて生まれる前くらい一般的な細胞でありたかった。
通常、普通と呼ばれる細胞が欲しかった。通常な人間でありたかった。おそらくこの気持ちは域を出ない僻みであって劣等感なのだろう。
他人から見てのわたしは獅子身中の虫ということわざが当てはまる。
不本意で授かった生にしがみついて、もがき生きようとしたところで世の中に害を与えてしまう。
悪意は皆無だとしても。
わたしは煙草のけむりにため息を忍ばせ、上空へ吐き出した。
――ふと、コツコツと何かが何かを弾くような音が聞こえた。
雨が降ってきた。
大半が灰になった煙草を灰皿代わりにしているアルミ缶に落とし、室内へ戻る。
裸足でベランダに出たせいか、足の裏が薄汚れている事に気づき濡れタオルを作ろうとキッチンへ向かったが、立ち止まり踵を返した。
――できることなら睡眠は極力とっておきたい。
近頃のわたしは、こうして三十分ごとに目を覚ましては、煙草に火をつけ燻らせてしまう。本能は睡眠を欲しているようだが、想いとは裏腹に眼が覚めてしまうのだ。
この睡眠サイクルは非常に疲労が溜まる。瞼を閉じ、意識が途絶え、レム睡眠と呼ばれる境地に差し掛かったところで強制的に意識がブートするのだ。
こんなことなら、明け方まで眠れない方がよっぽど楽だ。
わたしは不眠症で悩む人間に対し岡焼に似た感情を抱いていた。
自力で眠りにつけなかろうが、睡眠薬を飲めば本意で無いにしろ、安定した睡眠時間を確保できる。
わたしは二時間以上継続して眠ったことが覚えている限りではない。長い間で身に着いた習慣はスタンダードになってしまい、数年前、人間の平均睡眠時間が約八時間と聞いた時には耳を疑った。
後に、普通ではない自身の身体は、他人と比べて病症が起きやすいのではないかと考えだすと、眠るという行為に恐怖心を覚えた。そうして悪循環の沼に口元まで浸かったわたしは、他人よりも長すぎる夜に、もがき苦しんでいる。
目を覚ましてしまう理由を挙げてゆくときりがない。十本の指を折っても数え切れない程だ。
――ある時は何者かの手によってどこかの閉鎖空間に閉じ込められる夢を見たとき
――ある時は何者かが持ってきたオフィス用穴あけパンチを耳の軟骨部分に当てられ、嘲
笑を背後にピアス穴を開けようと、脅される夢を見たとき
――ある時は何者かによってアレルギー反応を起こす食べ物を自身で口に入れるまで拘束
され続ける夢を見たとき
どの夢をみた時も目を覚ました時には溢れ出る寝汗で皮膚は潤いすぎていて、体温が上昇し身体が焼けるように熱くなっていた。浅い睡眠は悪夢を見せる。
けれども、それよりも、そんな地獄のような悪夢よりも群を抜いて多かった原因があった。
自らの八重歯だ。
わたしの口内には左右の上歯から尖った歯が二本生えていた。
一般的に犬歯と呼ばれる部分の歯で、哺乳類全般、無論、人間誰にでもあるものなのだが、わたしの場合犬歯の発達が人並みでは無かった。
その二本の歯がもたらす異様さは、小学校を卒業する時には既に、すれ違う人々が視線を飛ばし振り返るほどに成長していた。
――わたしはどうすることもできなかった。
――わたしのコンプレックスは生まれたときから決まっていたのだ。
遺伝によって。
細胞によって。
歯が切り裂いては修復を繰り返してきた下唇は腫れあがり、わたしはすっかり元の形を忘れてしまった。
忌々しい顔の半分を隠すため、医療用マスクを欠かす事はなかった。
それは外気温が三十度越えを記録し、空蝉が目に入る太陽光の下でも同じだった。
一度、街を巡回する警察官にその姿で遭遇したことがあった。警察官はわたしにマスクを外し顔を見せるよう促した。
その時のわたしは、一体何の意味があってそのような悪意に満ちた事をするのだろうと心が痛んだが、後に思い返すと炎天下にも関わらず半袖シャツを着た人間が、溢れるほどの汗をかきながら医療用マスクをつけて歩いている姿は、当然異様な光景だっただろうと自分でも思う。
当時髪の長さも腰辺りまで伸びていた。
職務質問は免れない。
――マスクを外したわたしの顔面を見た後、警察官が浮かべた表情。哀れむような表情は、数年経過した今でも脳裏に焼き付いており、ふとした拍子に蘇っては動悸が止まらなくなる。
そういった理由があり、わたしはこの季節を長い間待っていた。夏が過ぎ、マスクをつけても目立たない季節。
わたしがわたしのままにわたしだといえる心地よい季節。
わたしは寝室のベッドに倒れこみ、すでに数え切れないほどの回数を重ねた妄想を今日も始める。
――――もしもこの歯が無かったら。忌々しいこの歯が無かったら。
わたしは自分だけの世界に入り込む。
――――この歯が無ければあんなことにはならなかった。あんなことをされずに済んだ。
想像を始めるときりがなく手足に電撃が走ったかのように疼きだす。にじみ出た汗を拭いながら床に落ちていたリモコンをのそのそと拾い上げテレビのスイッチを押す。
仄暗い部屋一面を青白い光がじんわりと照らした。
「「――猛暑の夏と言われた今夏の残暑も、昨日を境に落ち着きを見せ、やがてピークが去るでしょう。本日からは、うってかわり全国的に冷え込む模様です。昼過ぎからは雨が降る
場所もあるでしょう。東京での降水確率は八十%となっています――」」
画面上に映る天気予報氏が穏やかな口調で言うと、たちまちスノーノイズが発生した。埃臭いブラウン管テレビは時折、こういった事が起こる。白黒のザラザラ模様が画面内に広がる。
わたしは重い腰を上げテレビに近づき個体の側面を目掛け軽めの平手打ちを見舞うと途端に息を吹き返した。
天気予報氏の纏った白いネルシャツは汗が滲み、右腕を動かすたびに、灰色になった脇の下がチラチラと顔を覗かせ気味悪い。色彩は乏しいブラウン管テレビのくせに、その様は、嫌にハッキリと映った。右手に握っている銀色の細長い棒が指す先は、液晶パネルに浮かぶ東京と位置する場所。
「「――以上本日の天気でした――」」
天気予報氏が言う。
画面が切り替わると同時に、キャスターも替わった。四十歳半ばくらいの女性が一度お辞儀をする。先程の男天気予報氏とは相反し汗一つ浮かばせることなく、濃い目の化粧がカッチリ決まっている。特徴的な赤いルージュ。塗りたくったファンデーションのせいか、顔面と首。色の違いが極端に露わになっている。顔面だけ不気味な程白い。女性ではそう珍しくない光景だ。
女キャスターは手元の資料を丁寧に漁ると目線を正面に移した。
「「――次のニュースです。本日十四時頃――を――ました――」
――――。
急激な睡魔に襲われる。
朦朧とした意識の中視界は小さくなってゆき、音声もだんだんと消失してゆく。
最後の力を振り絞る。俯せ寝のまま、手の届く場所に常備してある消毒液をガーゼに垂らし、切れた下唇にあてがう。
太めの注射針で刺されたような痛みが襲った。
傷の処置は慣れたものだが、この痛みはいつになっても慣れない。血液が付着したティッシュペーパーをくず籠に投げ入れるとキッチンから高い音が聞こえてきた。どうやらお湯が沸いたようだ。
わたしはやってくる眠気を堪えながらも今度は靴下をしっかり履いて堂々とキッチンへ向かった。
「「――警察は――重要参考人――して」」
暗闇の中に小さな光
誰もいない部屋の中、テレビの音だけが反響する
「「――の行方を追っています」」