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青の旅人  作者: レスト
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世界を敵に回した男と世界の敵になった少女

 当代の魔王ティハーニアによる《裁きの矢》が降り注ぐ。

 彼女の瞳は、既に何の感情をも湛えてはいなかった。

 魔王は人の奴隷だった。

 世界の大半を支配する帝国の徹底的な教育と制御によって造り出された操り人形であり、最強の兵器であった。

 ただ主たる帝国に命令されるまま主の敵を滅ぼすだけの、ほとんど自動的な存在。

 だが彼女の虚ろな心に反して、魔王の力は猛々しく荒れ狂うばかりだ。

 人の手で無理に抑圧された彼女の魂と、彼女に宿る力の意志が、世界への憎悪となって現象していた。

 死肉のごとき色の禍々しい巨大なオーラが、まるで彼女を覆い隠す繭のように包んでいる。

 呪われし力が溢れ出すとき、もはや外側から彼女の姿を捉えることは叶わない。

 そうして、魔王の特別な魔力で彩られた紫光の濁り矢は降り注ぐ。

 帝国の敵を滅ぼす死の雨が、大地を血に染めていく。



 ***



 家が燃えている。


「父さん! 母さん!」


 少年が必死に両親を呼びかけたとき、既に二人は魔王の矢に貫かれて事切れていた。


「……っ! 逃げるんだ! エニカ!」

「パパぁーー! ママぁーーー!」


 嘆く暇も許されなかった少年は、泣き喚く幼い妹を連れて家を飛び出す。

 無我夢中で走った。


 どこでもいい。とにかく村から離れないと!


 いたるところ殲滅の矢は降り注ぐ。

 少年の周りでは逃げ惑う人々が次々と撃ち抜かれて、ゴミのように死んでいく。

 確かに彼の村は地図上では帝国の敵国に属していた。

 だが小さな農村だ。表立って敵対したことなどない。

 進軍の通り道にいた。それだけだ。

 この虐殺は単に邪魔か見せしめにしようというだけの理由なのだ。

 運命を呪っても、絶対的な力に為すすべなどない。

 生者と死者とを分かつものは、ただ運が良いか悪いか。やはりそれだけだ。

 少年はせめて絶対に手を放すまいと妹の手を固く握った。後ろを気遣って振り返る余裕などなかった。

 生きることだけに必死だった。


 ……だから、少年の手を引く重さが突然軽くなったことにも気付けなかったのだ。


 結局のところ、少年は誰よりも幸運だった。

 彼は「ただ一人」、死の矢を受けることなく、村を囲む帝国兵に見つかることもなく、攻撃範囲外の森まで逃げおおせた。

 体中擦り傷だらけ、息も絶え絶えだがどうにか生きている。

 ようやく一心地着いた少年は、妹を少しでも安心させようと振り向く。


「なあ、エニ……!?」


 少年が握っていたものは――幼い妹の腕だけだった。

 二の腕の途中から先は、千切れてなくなっている。


 妹だったものの、焦げ付いた肉の匂いが鼻をつく。

 彼は迂闊にもやっと気付いた。

 妹は悲鳴を上げる間もなく、とうに死んでしまっていたことに。


「うわあああああああああああーーーーーーーっ!」


 少年は絶叫した。

 ほとんど肘から先だけになった妹だったものを抱え込んで、嗚咽を上げる。

 側に立っていた木の幹に、何度も何度も頭を叩きつける。

 守れなかった。不甲斐ない自分を痛めつけるように。

 だがそれ以上に彼を支配していたものは――怒りだった。

 この世のすべての理不尽に対する怒りだった。


 村人たちが何をしたというのだ。俺たち家族が何をしたんだ!

 ただ帝国にとって敵国の領土だったというだけで。進軍の通り道にいたというだけで!


「許さない。絶対に許さないぞ……! 帝国め!」


 少年は、憎悪に心を燃え滾らせる。

 あまりの憎しみと怒りの深さに、やがて両親譲りの美しいブロンドヘアを真っ白に染め上げてしまうほどだった。



 ***



「……また、あの夢か」


 かつて無力な少年だった男は、上質なベッドの上で目を覚ました。


 ――いよいよ明日だ。


 気持ちが昂っている。

 すっかり目が冴えてしまった男は、手持ち無沙汰が落ち着かず、愛剣の刃を研ぐことにした。

 豪華な装飾が施された守護者の剣。譽れ高い「帝国の」業物である。

 帝国に家族を殺された者が復讐を誓う。ありふれたほどよくある話だった。

 彼らは通常、レジスタンスに所属する。

 しかし彼が選んだのは、別のより屈辱的で困難な道だった。

 男はあえて帝国の剣士となり、獅子身中の虫となって最大の機会を狙うことにしたのだ。

 彼は考えた。

 人間同士の戦いであれば、レジスタンスも他の国もさほど負けてはいない。

 だが無理だ。帝国にはどうやっても勝てない。

 あの魔王をどうにかしない限りは。

 魔王は帝国最強の人間兵器である。街を更地に変え、森を焼き払い、天を裂き、大地を揺らす。

 詳細は最上部層だけの秘密であるが、女性が素体であるということだけは聞き掴んでいた。

 一度だけ、彼も「謁見」したことがある。

 と言っても、常に禍々しい闇のベールに全身を覆われていて、直接姿を見ることも叶わなかったが。

 ただ、その恐ろしい力だけは心底痛感した。

 彼自身の力を幾万と倍して重ね合わせたとしても、絶対に届かないだろう。そう戦慄するほどの圧倒的な魔力を感じたのだ。

 家族の仇であるのに。その場で斬りかかりたいほどの激情を抱いていたのに。

 いざ目の当たりにすれば、身が竦んで動けなかった。

 情けないと悔やんだが、今は早まらなかった自分を褒めたい。

 男には野望があった。何をおいても為さねばならぬ使命があった。

 帝国に最も損害を与える方法は――やはり魔王を殺すことなのだ。

 絶対無敵の魔王を正面から打ち破ることは不可能だ。

 しかし、あの化け物にも唯一の弱点があることを知った。


 ――すべては明日のために。


 そのために本心を偽り隠し続けた。

 帝国のグリン(犬のように忠実な動物)と口々に蔑まれても、彼は虎視眈々と帝国内での地位と実力を高め続けた。

 元々才能があったのか、復讐への執念がそうさせたのか。

 彼は早くから頭角を現し、史上最速と称されるスピード出世を果たした。

 あれからたった12年。いや、もう12年か。

 若干24にして、彼は親衛副隊長の地位にまで登り詰めていた。


『白髪の悪魔』スレイン・アークベルト。


 年功と実績の上では隊長カールセンに一歩譲るものの、既に実力は一番であるとの評判だ。

 男はこれまでの道のりを確かめるよう念入りに剣の手入れを終えると、ゆっくりと鞘にしまった。

 今の地位に至るまで、やりたくない仕事もたくさんした。命令され、やむを得ず無辜の民を手にかけたこともある。

 とても褒められた人生ではない。悪魔とはよく言ったものだ。

 死ねばまず地獄に落ちるだろうと、彼自身は考えている。

 そこまでして、ここまで来た。


「もうすぐだな」


 明日には大事な儀式がある。

 魔王には『耐用年数』が定められている。膨大な魔力を留めておく器としての限界があるのだ。

 限界を迎えた魔王は、殺処分されることになっていた。

 彼女は死ぬが、その力は継承の儀によって次の優秀な素体に受け継がれる。

 そうして代を経るごとに、魔王の魔力と怨念は継ぎ足されて強くなっていく。

 既に86の骸の上に、現在の魔王の力は形作られていた。

 次の素体は並外れて優秀であるとの評判だ。もし次の魔王が誕生すれば、史上最悪の兵器となることは間違いない。

 だが力が継承されるその日だけは――。

 素体に魔王の力が馴染み切らないうちだけは、彼女を殺す絶好の機会なのだ。

 継承の儀の警護は代々親衛隊が務めることになっている。

 感情を押し殺し。屈辱と悪名、艱難辛苦に耐え。彼はようやくこの機会にまで辿り着いた。


 やっとだ。

 たとえ明日この身滅びるとしても、魔王を殺すことさえできれば――。


 帝国の優位は大きく損なわれる。未来へ繋がる楔となるだろう。

 若き剣士は、復讐の刃を研ぎ澄ませていた。



 ***



 継承の儀は、魔王宮と呼ばれる建物の内部で執り行われる。

 立派な名前をしているが、実体は優秀な素体を生み育て管理するための非道な人体実験施設らしい。

 らしい、としたのは噂話だけのことであるからだ。実情は最上部の者か研究員当人でもなければわからない。

 表向けにできない性質から、宮殿外部はともかく内部は警備も少数精鋭に限られる。それも普段は主要部たる地下区画には立入禁止である。

 内部の警備に就く親衛隊選りすぐりの15名に、もちろん彼も含まれていた。

 ついにこの日、地下区画が解禁される。

 儀式の間へ向かう途中で、スレインは当然予想される人物と鉢合わせた。


「スレインか」

「カールセン隊長」


 スレインは表面上、敬愛をもって隊長に接する。

 最年少で副隊長となったものだから、カールセンとは親子ほどの年齢差があった。


「継承の儀は初めてだったな」

「ええ」


 そしてこれが――最初で最後になるのだ。

 彼が密かに決意を固めていると、隊長はしみじみと語る。


「私は三度目だ。何度見てもすごいものだよ」


 魔王の耐用年数は6~10年程度だと聞いたことがある。

 この人も30手前で副隊長になっていたのだったか、とスレインは酒の席での記憶を呼び起こす。


「いよいよだな。歴代最強の魔王が生まれる。我が帝国の未来は明るいぞ」


 無邪気に喜ぶ様は、帝国以外歯牙にもかけない理想的な軍人そのものだ。

 その裏でどれほどの人が脅かされるかなど、気にもしていない。

 スレインは今少しばかりの面従腹背を続ける。


 一面では人格者であることは認めよう。身内には面倒見の良い男であることも認めよう。

 俺に目をかけ、鍛え上げてもらったこと。取り立ててもらったこと自体には一応義理もある。

 だが、やはり――。


「そうですね。楽しみです」


 取り繕った笑顔の裏に暗い感情を隠しながら、スレインは同伴する。

 儀式の間には、執行者である三名の研究員の他に親衛隊長と副隊長だけは入ることが許される。

 事の最中は素体が不安定になる。不測の事態のため、両名のみは立ち会う習わしなのだ。

 辿り着いたところは地下の最奥、人が十人ほども入ればいっぱいになるような窮屈な部屋だった。

 入り口には分厚い金属扉、周囲も分厚い石壁で覆われ、地や壁には大小無数の管が走っている。

 管は赤色や紫色をしており、どうやら金属製ではない。

 まるで血管を思わせる生々しさがあった。


「光栄なことだぞ。この秘密を目にできる者は本当に少ないのだ」

「まったくありがたいことですよ――本当に」


 やんわりと別の意味の本音を混ぜつつ、スレインは儀式の進行を注視する。

 魔王の素体は、毒々しい紫色をした禍々しい肉繭のような入れ物に収められている。

 ここに至っても姿を隠し通す徹底ぶりだ。帝国の秘密主義には呆れるばかりだが。

 入れ物は二つあり、壁際に設置されていた。

 正面左に現魔王ティハーニア、右に新魔王となる素体が入っているようだ。

 肉繭の上部から太い管が伸びていて、各々中央の箱型機械に繋がれている。部屋にある大量の管もその機械に集積している。

 スレインは生理的嫌悪感が込み上げてくるのを自覚した。生体機械のグロテスクさは、悪趣味としか思えない。


 だが――仇が目の前にいる。

 手を伸ばせば、すぐ刃の届く位置に。


 つい殺気を発しそうになるも、必死で抑える。隣の隊長に気取られてはならない。


 まだだ。くたばりぞこないとは言え、あれは人の剣が及ぶものではない。

 もう少しだけ待て。


 逸る感情を押さえつけて、懸命に自分へ言い聞かせる。


「これより『魔王』の抽出転送を開始する」


 主席研究員の合図とともに、左側の管が激しく波打ち始めた。

 何かを吸い上げている。

 左の肉繭からまるでこの世のものとは思えない――獣のような、絞り上げるような女の叫び声が続いた。

 世界のすべてを呪う怨嗟の声。


 これか。地下深く、音さえも届かない秘奥で儀式が執り行われる理由は!


 スレインは耳を塞ぎたい気分になったが、強い意志で推移を睨み続ける。


「おお……!」「素晴らしい……」


 倫理が麻痺しているのか、カールセンも研究員も恍惚の表情で魅入っている。


 ――今だ。ここしかない。


 敵が完全に無防備を晒した瞬間。

 彼は電光石火の勢いで、隣人の鎧の隙間を縫うように剣を突き刺した。

 奇しくもカールセンが手ずから伝授した技であった。

 直ちに研究員たちへの攻撃も行う。急所にナイフを投擲して仕留める。

 ものの一瞬にして見事な手際である。

 不意打ちを受けたカールセンは、信じられない顔でスレインを見つめ返す。


「スレ、イン……!?」

「あなたも俺の敵だ。死んでもらう」

「……そう、だった、の、か。お前の……その、目……」

「すみません」


 隊長は死の淵で思い返していた。

 スレインは他の誰とも目つきが違っていた。

 誰よりも肝が据わっており、生き急ぐように過酷な修練を重ねた。ハングリーさでは群を抜いていた。

 だから興味を覚えたし、育て上げる気にもなった。


 そうか……。

 あれは――復讐者の目だったのだ。


 スレインが剣を引き抜くと、カールセンは血溜まりの中に斃れた。

 彼は物言わぬ屍となった男を複雑な目で見下ろす。

 直接の仇ではない。世話になった相手に死をもって返すことに、まったく罪悪感がないわけではない。

 だが生かしておけば最大の障害となる。

 彼の戦力的価値をこの上なく認めるからこそ、不意を突いて殺す以外の選択はなかった。


「……俺もすぐ後を追いますよ。たぶんね」


 魔王を討った後、帝国からの追っ手を振り切って無事生き延びられると思うほど、彼も楽観的ではない。

 決死の覚悟だ。決して後戻りのできない、彼だけの秘密の作戦なのだ。


 命ある見物者は彼一人のみになった密室で、なお儀式は続く。

 力尽きたのか、既に左側から声は途絶えている。

 やがて一度、肉管の脈動が止まる。

 今度は右側が波打ち始めた。

 左から搾り取られた何かは、中央の機械を経由して右の肉繭へ注ぎ込まれていく。

 別の女のおぞましい絶叫が、部屋いっぱいに轟く。

 スレインは顔をしかめながら、終わりまで見届ける。途中で手を出して良いものか自信がなかった。

 ようやく女の叫びが止まり。肉管の蠢きも落ち着いて、静寂が戻る。


「終わったか」


 彼は隊長の血に塗れた剣を数度素振りし、飛沫を飛ばすと構え直した。

 まず歩を進めた先は、新魔王の収められている右でなく、旧魔王の入っている左だった。

 もう魔力は感じられない。とっくに抜け殻だろうと彼は踏む。

 あまり時間はないが、直接仇の面を拝めるチャンスの誘惑には勝てなかった。

 迸る怒りのままに一太刀浴びせると、肉繭が裂けて中身が露わになる。


「は……?」


 乾いたミイラのような、生気を搾り取られた女の屍がそこにあった。

 驚いたことには――若い。若過ぎる。

 素体が成人になるかどうかの少女であることを理解してしまう。


 これが……こんなものが、魔王だと……。


 スレインは絶句した。

 恨みを込めて滅多刺しにしてやろうと考えていたのに。立ち尽くしてしまう。

 魔王というからにはもっと禍々しく、妖艶で力に溢れ。仇として相応しい姿形を思い描いていた。


 馬鹿な。

 この若さで、10年も兵器として「使った」だと!?


 嫌な予感がする。

 逸るまま足は駆け出していた。

 もう一方――力の継承された、右側の肉繭を斬り裂く。


「ちくしょう」


 幼い少女が、眠っていた。

 歳の頃は8~10歳と言うところか。

 手足はか細く、頬はこけている。明らかに発育不良だ。

 赤ん坊が胎内で丸まるような体勢で震えている。痛みに泣き疲れ、世界に怯えていた。

 哀れな子供だ。

 だが確かに高まりつつある魔力の波動が、彼女が新たな魔王になったことを示している。


「帝国のくそったれめ!」


 スレインは激情のままに吐き捨てた。


 道理で徹底して姿を隠すわけだ。非人道、悪趣味の極みにもほどがある!


 魔王の真実を知ってしまった今。

 彼をあれほど衝き動かしてきた恨みが、やり場のない激情となって彷徨っていた。

 それでも彼は、剣を構える。

 目の前の女の子は、まだ魔王の力が定着し切ってはいない。


 殺すなら今しかない。


 腕が小刻みに震えて、焦点が定まらない。


 馬鹿野郎。何を躊躇っているんだ俺は!

 せっかくここまで来たんだ。

 人に恨まれ、罪なき者を殺し。あらゆるものをかなぐり捨ててまで辿り着いたというのに!

 あとほんの少し刃を突き出せば。今なら刺さるのだ。届くのだ。

 この手に世界の人々の命運がかかっているんだぞ。

 殺せ。斬り殺せ。殺してしまえ!


 なのに身体は一向に動こうとしない。自分で自分の心が理解できなかった。


「うおおおおおーーーー!」


 目を瞑り、叫び。勢いだけで剣を振りかぶる。


 考えるな。

 とにかく事を終わらせてしまおうとしたとき。


 不意に耳を打つ少女の寝言が――。

 小さく震える声が、時を止めた。


「こわい、よ……」


 ――――。


「ああ、くそおおっ!」


 スレインは乱暴に剣を鞘に戻し、肉繭の中から彼女を取り上げた。

 動きの邪魔にならぬよう肩の上に担ぐ。それが容易くできてしまうほど、新たな魔王の身体は小さくか弱かった。


 何やってるんだ。俺は!


 理屈に合わない。道理が通らない。

 自分でもなぜそんなことをしているのかわからない。


 仇だぞ。魔王は虐げられる者たち、すべてにとっての敵なんだ。

 俺にとってもだ! なのに何やってるんだ!


「くっ!」


 ――こんな子供、今日であれば殺すなどいつでもできる。


 そう言い聞かせて。とりあえずの言い訳を無理やり自分にして。

 いつまでもここにはいられない。じきに誰かが来る。

 この惨状を見れば、間違いなく追っ手がかかる。

 未だ名も知らぬ魔王の少女を抱え。いつでも剣を抜ける気構えを固めて、スレインは走り出した。



 ***



『白髪の悪魔』スレイン・アークベルト、乱心す!


 帝国城内を凶報が駆け巡る。新魔王を連れ去ったこともすぐ割れた。


 その反逆者は今、眠る少女を肩に抱いて息をひそめていた。

 城下の外周壁――絶壁が向こうにそびえている。

 城内を脱出するまでにも当然一悶着あった。

 親衛隊の警備兵をはじめ、追っ手を何人も斬り殺した。中には直接の部下だった者もいた。

 とんだ大犯罪者だな、とスレインは自嘲する。

 既に目立つ金属鎧と装飾剣は投げ捨て、予め近場に隠していた自由傭兵の皮鎧と魔鉄の大剣に手早く換装してある。

 親衛隊の上等装備など、ここにいますと言うようなもの。質は下がるがやむを得ない。

 ついでにその際、激しく動いても取り落とさぬよう、少女を紐で自らに括り付けることもした。

 生き延びることを絶望視していたが、黙って命をくれてやるつもりもない。入念に逃走準備はしていたのが活きている。

 さて彼には、このまま城下町に留まるという選択肢はなかった。

 自身も有名人として面が割れている上、魔王の彼女はあまりにも人目を引き過ぎる。

 綺麗な紫色の髪など世界にそうあるものでもないし、何より禍々しい魔力が問題だ。

 どこにいても、魔のわかる者には存在を知らせてしまう。

 もちろん今すぐ殺してしまうのなら、話は別だが。


 どうするのだ。スレインよ。


 逃げながら、彼は何度も自問自答していた。

 殺された家族と村のみんなのことが度々脳裏を過ぎる。

 この手で殺めてきた幾多の罪なき人々も、今しがた血で染めた兵たちも。

 一方で、少女の儚い重さは常に肌を通して伝わってくる。

 これから仇そのものになりゆくとしても、まだ今は非道な魔王システムの犠牲者でしかない。

 しかし放っておくわけにはいかないことも頭ではわかっている。


 ――ああ。やっぱり元魔王の死体を滅茶滅茶に刺しておくんだったか。


 彼は後悔にかぶりを振った。動揺でそれどころではなかったから。

 様々な感情でいっぱいになって、一寸先のことさえ何も見えない。

 気を抜けば、それだけで涙が出て来そうなのだ。

 とにかく今は足を止めている場合ではない。命ある限り生き抜けと、生命の原初的欲求が辛うじて前に進む力を与えている。

 帝国城下には、北門と南門がある。

 北に向かってはなだらかな平原が広がるばかり。身を隠すなら南方、森へ辿り着ければわずかに希望がある。

 だがどちらの門にも、とうに兵が多数配置されていることだろう。隙間などありはしない。

 彼は南へ向かって走りながら、再び絶壁を睨み上げた。


 たった独り。どこまでやれるものか。


 最悪は、この少女をおいて自分だけがくたばること。

 すべては元の木阿弥になってしまう。せめて死ぬならばこの子も道連れだ。


 ともに死ぬ。それでも構わないじゃないか。


 再び自嘲めいた響きが心を占める。


 やはり南門には厳戒態勢が敷かれていた。巨大な門は固く閉ざされ、その上には弓兵や魔導師がずらりと並んでいる。

 せっかく着替えた小細工も、用をなすのはここまでのようだ。

 剣を抜いて威勢堂々と進み出る。気後れしてはならない。

 反逆者に気付いた兵どもはざわめき立つ。才気溢れる若き副隊長の勇名は国中に知れ渡っていた。

 だがいかに個の武に優れようとも多勢に無勢。大量の弓矢と魔法が、いつでも放てるよう準備されている。

 スレインは少女の存在をちらつかせ、怒号を轟かせた。


「撃つな! 俺を射かければ、魔王も死ぬぞ!」


 こうなれば、人質として最大限利用させてもらう。

 見目儚い少女であることも効果的だった。

 あれが本当に魔王なのか、と別の意味の動揺が走る。

 戯言を疑う者も中にはいたが、彼女に宿る膨大な魔力を感じ取れる魔導師たちにとっては自明の事実だった。

 この少女こそが魔王であるという認識が浸透するまでのわずかな間に。

 スレインは二の腕に気力を漲らせ、さらに魔鉄の大剣には微量の魔力を纏わせた。

 剣士である彼に魔法は使えない。だがこうすることで刃こぼれを防ぎ、継戦能力を高めることができるのだ。

 流麗な装飾剣を投げ捨てて選んだ得物は、あえて無頼漢に相応しい大剣とした。

 力と質量に任せて叩き斬るだけの業物。

 手練れに対しては不便もあろうが、複数の雑兵を相手にするならばこれほど実用的な武器もない。

 彼は総攻撃を受けるより先んじて動き出した。風駆けるがごとくの速さで、勇猛果敢にも南門の至近まで突進する。

 中途半端な前進、まして後退は死を意味する。

 あえて懐に入り込み、弓矢や魔法の射線を減らすのが肝要だと、経験により理解していたのだ。

 人質の存在により、方針の未だはっきりしないことも彼に味方した。

 一足飛びで石造の巨大門へ手が届く位置まで達すると、彼は鬼の形相であらん力の限り剣を振るった。


「るああああーーーーっ!」


 細腕から繰り出されるとは到底信じがたい剛剣が、一振りするたび南門を豪快に削り取っていく。

『白髪の悪魔』の評判違わぬ気迫溢れる雄姿に、雑兵たちが思わず息を呑む。

 材質が石であることも、防護魔法がかかっていることも、物の問題ともしない。

 放っておけば破られてしまうやもしれない。それほどの勢いだった。


「ええい! ならば出合え! 正面から反逆者を討ち取れ!」


 帝国魔術部から「魔王の命さえ無事ならば、如何にしても良い」との言質をようやく取った現場指揮官は、数の有利に任せた白兵戦を仕掛ける。

 たとえ槍や剣が彼女を傷付けても、それで使い物にならなくなったとしても。

 またすぐに継承してしまえば問題ない。

 帝国の血も涙もない判断であった。


 わらわらと兵士たちが飛び出してくる。

 側防塔から、やはり弓矢と魔法がいつでも狙っている。

 絶体絶命の窮地にあって、なお若き反逆者は勝機を見出そうとしていた。

 使えるものは勇名でも脅しでも何でも使う。


「我が名はスレイン・アークベルト! この身帝国に背けど、我が力健在にして天を衝くばかり!」


 彼は雑兵へ見せつけるように大剣をぶん回す。


「命惜しくば下がれ! 我が首を狙う無謀者は、この剛剣が真二つに裂くであろう!」


 現状できる精一杯の大見得を切ったわけだが。

 訓練された帝国兵は、これしきで怯えて逃げることはしない。数々の部下を指導していた彼だからこそよく知っている。

 だが人に感情ある限り、完璧な一枚岩など存在しない。付け入る隙はあるものだ。

 最初の雑兵が斬りかかったのを合図として、次から次へと襲い掛かってくる。

 的確に反応を見定めていたスレインは、恐れの少ない者から優先して斬り捨てていく。

 恐怖は伝播する。

 及び腰になる者が増えていけば、少しでも有利に立ち回ることができる。

 復讐のため、この日のために磨き上げた剣技が冴え渡る。

 幾多の返り血が、彼の皮鎧を真紅に染め上げていく。

 特徴的な白髪と紅い瞳。何より戦いで常に彼が見せる、死を想起させる凄まじい鬼の形相。

 これらが相まって、まるで悪魔が人の姿を借りて現象したかのようである。

 一騎当千と謳われた『白髪の悪魔』、その名の由来であり真骨頂だった。

 しかしいかに当代随一の英雄と言えど、彼は人ならざる領域にはいない。

 兵数百も屠る頃には疲労が蓄積し、動きが鈍り始めた。

 スレインは焦っていた。石門を叩き切る隙を得られない。

 ならば開門のレバーを求めて動こうにも、数の暴力は偉大だ。兵の相手が手一杯で見動きが取れない。

 やはり無謀だったのか。


「うっ!」


 突如走った激痛に、彼は呻いた。

 気付けば、太ももに矢が一本突き刺さっている。

 激戦の隙間、針の穴を縫うような一射。とんだ狙撃の名手がいたものだ。

 そこから形勢の均衡は崩れた。踏ん張りの効かない剣は勢いも衰える。

 対照的に威勢を取り戻した帝国兵たちは、着実に反逆者を追い詰めていった。

 雑兵の剣が次第に浅傷を付け、二本、三本と、辛うじて致命傷は避けるとも着実に矢傷も増えていく。

 とうとう背後から手が伸びてきた。

 魔王の少女、その紫色の長髪が乱暴に掴まれる。


「やめろ!」


 スレインはなぜそんなにも必死なのか、自分でも理解できないまま叫んでいた。

 だが前方から押し寄せる剣を食い止めるので限界だ。振り返る余裕もない。

 動揺から動きが鈍ったところへ、兵士の剣が煌めく。

 いよいよ反逆者の命を断ち切ろうとしたとき――。


 xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx!


 それは単純な防衛本能だったのかもしれない。

 いや、彼女を兵器と成した世界への恨みそのものだったのかもしれない。

 この世のものとは思えない。声とも物鳴りともはっきりしない。

 ただひたすらおぞましい唸り音が彼女の身体から、いや彼女を包む何もない空間から生じる。

 少女のか細く小さな体から、禍々しい紫色のオーラがむくむくと浮かび上がる。

 魔王の証明。

 邪悪なオーラは、それ自体独立した意志を持っているかのようだった。

 膨大に溢れ出したそれは、無数に枝分かれする魔の手と化して、周囲へ一斉に解き放たれた。

 そして目に付くばかりの剣士、弓兵、魔導師に至るまで。すべてたちどころに。

 首根っこを力任せに掴み、へし折り。あるいは手刀で胴体を串刺しにし。紫炎を纏わせて燃やし尽くした。

 恐るべき力の発現。

 人間同士の戦いは、一瞬にして怪物の子による一方的で凄惨な殺戮の場へと成り果てた。

 血溜まりの中心で、ただ一人生きて傷だらけの若者が呻く。


「これが、魔王の力なのか……」


 敵中にも関わらず、スレインは半ば放心しかけていた。

 彼女の暴力は、どうやら己に向けられることはなかった。彼が生きていること自体が証左だ。

 そして破壊の規模から見ても、やはりまだ完全ではないことだけはわかる。

 先代魔王ティハーニアは――完全体魔王は、もっと遥かに圧倒的でどうしようもない奴だった。

 スレインは項垂れる。


 俺は本当に何をしているんだ。

 命に懸けても、今この子を殺すべきではないのか?


 何度も己に問いかけてきた疑問が、再度頭をもたげる。

 大剣を持つ手が震える。


 ここでオーラの展開よりも早く剣を突き刺せば。

 俺ならできる。やれるはずだ!


 だが……だがなぜだ。どうして決心が付かない!


 ままならない感情の渦を抱えて、目の前を見れば。


 ――ああ。何ということか。道が拓けている。


 頑丈な石門でさえ、魔王の炎の前には脆くも崩れ去るのだ。


 行けと言うのか? この期に及んで。

 運命は何を示す。俺に何を求めるのだ。


 スレインは大きく息を吐いた。


 結局はこれまでもそうしてきたように。

 ただ結論の先送りをして、彼はふらつく身体を押して駆け出した。

 森へ。とにかく身を隠せる場所へ。


「逃がすな! 追え! 追え―――っ!」


 既に後方よりさらなる追っ手がかかっていた。躍起になるほど魔王の戦力的価値は重いのだ。

 血気盛んな追撃者どもに対して、若き反逆者の受けた傷は決して小さくはない。刺さった矢を抜いて傷を手当する暇もない。

 魔王という格好の目印も逃走をすこぶる困難にしていた。

 敵に魔導師がいる限り、魔力探知から完全に逃れることができない。

 下手に少女が力を見せてしまったのもまずかった。生半可な攻撃では死なぬという確信を与えてしまったからだ。

 もはや敵方は手段を選ばず、自重していた魔法や魔法の矢さえ飛んでくる始末。

 それらを大剣一本のみで打ち払いつつ、スレインは生命をすり減らしながら大森林の強行軍を続けた。



 ***



 決死の逃亡は、夜半にまで及んだ。

 執拗な追っ手との戦いで、彼はついに限界を迎えようとしていた。

 視界が少しずつ霞んできている。

 夕暮れから降り始めた大降りの雨も、一時身を隠すのには役立ったが。引き換えに容赦なく体力を奪っていた。

 消耗しているのは少女もまた同じ。どうやら高熱と悪夢にうなされているようだ。

 今彼は息も絶え絶えに、木陰にもたれかかるようにして身を潜め。

 もう幾度目になるかわからない追っ手をやり過ごそうとしていた。


 だが――まずい。魔導師がいる。


 これでは位置情報が筒抜けだ。隠れても意味がない。

 しきりに頬を叩く雨粒までもが、彼を容赦なく打ちのめす。

 ほとんど絶望的な気分に浸りながら、それでも敵を数える。


 三十人。散開した捜索部隊では最大の規模だ。

 おあつらえ向きに弓兵までいやがる。


 既に気力尽き果て、魔力も枯れ。栄光もすべて置いてきた。

 身一つになった空っぽの復讐者、か。


 ――ここらが潮時かもな。よくやったよな。


 いざというときの覚悟を固めつつ、ずたぼろになった大剣へ視線をやる。

 それから、今一度背中に目を向ける。

 弱々しく眠っている姿だけ見れば、生きていた頃の妹エニカのようだ。


 なあ小さな魔王よ。お前はどうしてあのとき力を貸したんだ。

 生きたかったのか……?

 このどうしようもなく薄汚れた世界で。ただ使われるばかりで。

 愛する者もいないのに。

 俺だって、殺してやりたいとまで思っているのにさ。


 とうとう二人の隠れている位置を魔導師が嗅ぎ付けたようだ。

 追えだの殺せだの、物騒な声が近付いてくる。

 スレインは歯を食いしばった。


 お前たちの手になどかかりはしない。せめて最期は誇り高く自ら死んでやる。

 憎き仇であり、世界の災厄であるこの小さな魔王を道連れに……!


 なのに。

 土壇場になって、彼の目からは涙が溢れてくる。


 なぜだ。なぜ俺は……逃げ切りたかったと。

 この子を生かしてやりたかったと。そう思っているのだ。


 だがもはや栓なきこと。状況は予断を許さない。

 いよいよその手に握る大剣を自らに向け、力を込めようとしたとき。


 ――――!?


 声が止んだ。兵士どもは凍り付いたように動かない。

 それどころか、一切の音が消える。

 雨粒でさえ、時の止まったようにぴたりと宙で静止していた。

 スレインは困惑した。

 死の淵で、俺は頭がおかしくなったのか。夢か幻でも見ているのか。


「やあ」


 透き通る女性の声がして、はっと振り返る。

 そこにいたのは、険しい森の中にはまるで似つかわしくない、穏やかな雰囲気を湛える少女だった。

 顔つきはどこかあどけなく、しかし大人のような不思議な落ち着きも窺える。

 帝国には珍しい黒髪が、雨粒に濡れてしっとりと輝いている。

 山中を往くには明らかに相応しくない、貫頭衣の実に粗末な装い。

 そのせいでネックの切れ目からわずかに乳が覗いてしまっている。妙な色気があった。

 だが全体として妙に小奇麗で、逃亡奴隷のような悲愴さを一つも感じさせるところがない。

 ただそうした違和感を除けば、見た目ばかりはどこにでもいそうな少女だ。

 大自然をハイキングでもしに来たかというほど呑気な佇まい。それがまた恐ろしいほどに不自然だった。

 歴戦の勇士である彼には、直感的にわかってしまった。

 自身と彼女以外の時間が止まっている奇妙な状況も、己の判断を支持する。


 こいつは――魔王と同じ。

 いや、下手するとそれ以上かもしれん。


 この世にあり得べからざる力を持っている。

 俺たち人間が逆立ちしたって、敵うような相手じゃない。


 ――そうか。つまりこれは、そういうことなのか。


 スレインは一人相撲で納得し、とうとう観念した。


「俺にもついに死神のお迎えが来てしまったってわけか」

「そういうのじゃないんだけどなあ」


 死神と呼ばれた少女は、ただ困ったように苦笑いしている。


「じゃあ何者なんだ」

「通りすがりの旅人だよ。確かに時折、死神とも呼ばれているけれどね」


 彼女は物騒な二つ名に似合わない、人当たりの良い穏やかな微笑みを浮かべた。


「俺の命を取りに来たって言うなら、もう少しだけ待っておくれよ」


 やらなきゃならないことがある。

 彼は今一度大剣にちらりと目を向けた。


「それなら、君がやる必要はないよ。まして君が死ぬ必要もない」

「なに……?」

「用があるのは君じゃない。そこの女の子だから」


 スレインははっとして、目の前の人物へ獣のような睨みを効かせた。

 死神と呼ばれた少女は、興味深く彼の心の動きを見て取りつつ。

 どこか含みのある調子で切り出す。


「魔王――とても厄介な力だね。彼女の魂と分かちがたく結び付いている」


 彼は寒さと痛みによるものか、対峙する少女への畏れか。

 はっきり区別の付かないまま、わずかに震える手で大剣の柄を握り締めている。

 そうしなければ、満足に虚勢も張れそうになかった。

 だが、何のために?

 明らかにこの少女は自分が目的ではないと、そう言ったのに。


「魔王の力はその子への定着と成長に伴って、飛躍的に増大していく。君もその子自身も間違いなく持て余す」

「……だろうな」

「帝国にも、誰の手にも負えない化け物へと成り果てる」

「そんなこと。嫌と言うほどわかってるさ」


 かつて故郷を焼き払い、先ほども兵を焼き尽くしたのを目にしたばかりなのだから。


「そして。やがて世界を滅ぼすだろう」

「そうか……」


 彼にとって、さして衝撃はなかった。

 いずれそうなるだろうと、とうに予感していた。


「蓄積された呪い。ほとんどの者はそれが行き着く先の本当の恐ろしさを知らない。それほどの潜在的脅威が、その子には宿っているの」

「…………」

「どうやら君は、よくわかっているみたいだけどね」

「そう、だな……」


 改めて残酷な事実を再確認させられたところで。

 どうしようもないことは、最初からわかっていて。


「可哀想だけど、ここで死なせてあげた方がみんなのためだ。それもわかっているのでしょう?」


 すべてを見通すような青い瞳が、じっと彼を見つめている。


 まったく否定はできない。

 むしろついさっきなど、自らの手でそうしようとしていたのではないか。

 だが。だがこのやるせなさは、なんだ。

 なぜ俺はなお毅然として、憎き仇の少女を奪われまいとしているのか。

 今ここで終わらせてやることが正しいと、頭ではわかっているのに!


 そんな彼の矛盾を、死神の少女は見透かすように突いてくる。


「そもそも。なぜ君はそんなことをしているの?」

「…………」

「君は誰よりも魔王を憎んでいるはずだ。その君が、なぜその子を連れて必死になって逃げているの?」 


 いよいよ正面からはっきりと問われて。

 スレインはもう、冷静さの仮面を貼り付けることができなかった。

 ずっと心の奥底に留めておいたはずの感情が、たまらなく溢れてきた。


「そんなの……! 俺だってわかんねえよ!」


 副隊長であり続けた、戦士としての矜持。化けの皮が剥がれる。

 大剣を取り落とす。その重みを支えていることも、もうできなかった。

 ほとんどあの日の無力な子供のようになって、喚いている。


「仇なのに! 俺が一番殺したいのに! なんでこんなことやってんのか、ぜんっぜんわかんねえよ!」


 彼は憎しみと怒りと、よくわからない想いでぐちゃぐちゃになりながら。

 まったく心の整理が付かないまま、滂沱の涙とともに叫んだ。

 肝心なところで大人にはなり切れなかった。自分に嘘が吐けなかった。


「けどさ。なんか、違う気がするんだ! はっきりと言えねえけど……こんなことのために、俺は……そうじゃねえんだよ!」


 少女は、彼の複雑な心境にいたく同情する。

 それでも世界を守る者の役目として、あえて冷酷に事実を告げる。

 甘さと優しさだけで世界は救えないことを……彼女はよく知っている。


「ならどうするの」

「それは……」


 何も考えなどない。答えもない。

 単なる子供の我儘でしかないことは、自分が一番よくわかっていた。


「帝国もあらゆる勢力も、君と小さな魔王を放ってはおかない。今や君たちは世界の敵だ」


 世界の敵という言葉が、ひどく重苦しい響きを伴って胸の内へ沈んでいく。

 年端もいかない少女が、掛け値なしに世界の命運を握っている。


「どうやってその子を守り切れる? その子の力を復讐や悪いことに使わないと誓える? 憎しみがその子に向かないとどうして言える。もしその子が暴走したとして、責任を取れるの?」

「ぐっ……!」


 取れるだなんて、とても言えない。

 現に今だって、何をどうしたらいいのかわからなくて。

 なぜ仇であるこの子なんか庇おうとしているのか。それすら自分で自分を理解できないのだから。


「たとえ問題を先延ばしにしたところで、いつか。いつの日か大事な決断をしなければならないときが来る。そのとき、君はどうするつもり?」

「…………」


 物言えぬ彼の覚悟を見定めるように、少女は悪魔の提案を持ちかける。


「その子を渡しなさい。責任が持てないなら、私が終わらせてあげる」

「くっ……!」

「せめて痛みのないようにしてあげるから」


 悩み苦しむ青年を諭すように、一歩、一歩と。

 死神と呼ばれた少女は、なすべきことをなすために歩み寄っていく。

 スレインは膝も震えてろくに動けない身体で、必死に抵抗の意志を示す。

 目の前の相手を、ただ睨み続けている。


 なぜそんなことをやっているのか、わからない。

 最悪の結末を迎える前に、この子を死なせてやることが。

 そうするのが正しい(・・・)ことは、わかっている。

 さっさと渡してしまえばいい。楽になってしまえばいい。


 だけど、違う。違うんだ。


 そうして、いよいよ触れるか触れないかのところで。

 土壇場になって、彼はようやく真実の気持ちを絞り出した。


 ――ああ。


 やっと少し、わかった。


 同じなのだ。無残に殺された妹と。


 年端もいかない子が。もっと普通に生きられたはずの子が。

 ただ生まれ持った運命のせいで、死ななければならないなんて。


 こんな世界は間違っている。


 このクソったれな世界を変えたいから。

 かつての俺たちが、少しでも笑える明日を夢見たから。

 俺は命を懸けて、裏切者になってまで帝国を討ち果たそうとしていたのではないか。


 なのにどうして。この子だけが例外と言えるんだ!


「頼む。待ってくれ!」


 スレインは決死の形相で、死神の少女に頭を下げる。

 そうすることしかできなくとも。これが彼の戦いだった。


「たとえ俺にこの子を守る力がなくても……その資格がなくても! この子には、明日を笑って生きる権利があるはずなんだ!」


 極限まで追い詰められた若き戦士が、やっとのことで絞り出した答え。


「この世界はまだ捨てたものじゃないと! 俺は、俺は……っ! この子に、少しでも見せてやりたいんだ……っ!」


 (エニカ)にも、見せてやりたかった。


「だから頼む! お願いだ! 今だけは待ってくれ!」

「――そっか」


 死神と呼ばれた少女の瞳が、憐れみと慈愛を湛えている。


 そんなことを言って。

 かつて救えぬはずのすべてを救いたいと。青い理想にもがき苦しんだ一人の旅人がいた。

 その若者には結局、救えなかったものがたくさんある。

 数え切れないほどある。今も。


 少女は――ユウは。

 ほんの少しだけ、彼に悟られないように口元を緩めた。


 さて。君はどうだろうか。

 いよいよ世界の敵になる君に、その子と世界が救えるか。


「わかった。スレイン。君に任せよう」

「え……」


 なぜ俺の名を……?


 思わぬ返事に虚を突かれた男は、つい毒気の抜けた顔を晒してしまった。

 長く険しい道を選択した『戦友』に、ユウはせめてものエールを贈る。


「忘れないでね。その大切な気持ちを。君にはその子を幸せにする義務があるのだから」


 そして、と念を押すように肩を優しく叩く。


「君自身も幸せにならなくちゃいけないよ。子は人を見て育つ。想いは伝播するものだから」


 それだけ言うと、少女はくるりと二人に背を向けた。

 最初から返答次第では、そうすることを決めていたのかもしれない。


「追っ手は私が何とかしよう。逃げ延びて、そして抗ってみせなさい。運命に」

「おい。お前はいったい――」

「ちゃんと見ているからね」


 ――止まっていた時が、動き出す。


 気付けば、もう死神の少女はどこにもいなかった。

 すぐそこへ迫っていたはずの兵士どもの喧騒も、いつの間に消え失せている。

 雨ばかりは思い出したように戦士の頬を叩き、衰弱した魔王をさらに打ちのめす。

 世界はなおどこまでも厳しく、前途は見えそうもない。

 それでも。もう迷いはない。

 スレインはぬかるみに落ちた大剣を拾い上げ、魔王を大事に背負ったまま森の奥へ奥へと進んでいく。

 不思議なことに。あらゆる脅威は退けられて。

 青年と少女は、この日はもう誰にも見つかることはなかった。

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青の旅人はどれも考えさせられるストーリーで面白いです
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