The Sky is falling
空が落ちるなどと言えば、人はそれを杞憂と言うのだろう。
私が『恐るべきもの』を飼っていると言ったら、人はそれを嘘だと思うだろう。
あるいは思春期における一過性の思い煩いだと、嘲笑うのかもしれない。
何よりも最悪なのは、信じてしまったときだ。それはあなたを殺してしまう。
これは誰も知らない話で、ほとんど誰も真面目には信じない話。誰にも打ち明けられるはずのない物語。
だけどそいつは確かにいて、この胸の内にはっきりと存在していた。
そいつは、しょっちゅう何かを「落とし」ていた。
何かいたずらのように。もしくは明確な何か意思を持って。
まるで制御の効かない化け物なのか。私の隠された醜い本心の顕れなのか。そのときはわからなかった。
物心付いたときから、いやおそらくその前から。ずっとそれは棲み着いていた。
私はきっと化け物だ。たぶん本質的にはどうしようもない存在なのだ。
人知れず『恐るべきもの』と対峙し続ける。そういう運命だった。
けれど、あいつだけは。
真実の私を見ていた。『恐るべきもの』をしかと見ていた。
図々しくも、ほとんど手遅れになってからいきなりやって来て。
ずかずかと痛いところを土足で踏み込んで。
戦えと。そう言ったんだ。
***
――ああ。私は。なんて。
なのに。空は馬鹿みたいに晴れていて。
どんなに死にたい気分でも、何もかも嫌だと思っても。
あいつらと一緒だ。ちっとも同情してはくれない。
薄汚れた醜い私には、濁った曇り空が良く似合う。都会の星も見えない夜空が心地良いんだ。
何もかも透き通っていて、誤魔化しの効かない青空なんて。星の海を散らして輝く綺麗な夜空なんて。
大っ嫌いだ。
***
本質的でない会話を乾いた笑顔でやり過ごしながら、私は色褪せた通学路をいつも通り進んでいた。
大魔道養成学校。略して養学。14歳から19歳までの未成年が一つ所に集められて学問をし、青春なるものを味わうとされている。
20歳以上が通う大魔道学校への繋ぎとなる中等教育機関だ。
まったくいつまで過去に縋るのか。大魔道とは笑えない話である。
魔石というリソースが世界からすっかり枯れてしまった現代では、大魔道の名は歴史的由来と象徴以外の意味を持たない。
非魔の秘術、略称アラマによって、ここ百年で新たな世界秩序は辛うじて再構築されつつあった。
しかしかつての栄光は見る影もなく、徐々に徐々に世界は終わりつつある。
とある試算によれば、あと数百年もすれば人は原始の大地で生きてゆくか滅びるしかないのだとか。
有限の何かを巡って、何度も繰り返し悲惨な戦争が起きた。
今は一応休戦中。またいつ始まるかわからないけれどね。
下らない。もはや戦争準備学校だ。奇跡も魔法も、もうどこにもない。
ゆえにただ「落ちる」というだけのことが、現代では即死や大怪我に繋がる重大なインシデントとなる。
赤い血の飛沫が、私の頬をぬめりと打ち付けた。
まただ。今日も誰かが「落ちる」。
私は無情動かつ無表情に、物言わぬ肉の塊となった何かを見つめていた。
制服でわかる。うちの学生か。
社会に絶望が蔓延している。もはや死は誰にとっても愛すべき隣人なのだ。
「こんなこと」で学校は、一々活動を止めることはしないだろう。
定型的で心無いお悔やみの言葉の一つでもかけて、つつがなく日常は続いていく。
隣で少女が嗤っている。
「またー? 汚れるから他所でやって欲しいよね」
「そうだね」
適当に合わせておく。壊れかけた人形のように。
誰かにとって命を賭すほどの一大事は、誰かにとって煩わしい些事でしかない。
ほとんど誰も悲しんではくれない。家族や親しい友人を除いては。いや、時には誰すらも。
少女の形をした何かが言った。
「わ、うそ。血が付いてるじゃない。着いたら、すぐトイレ行っといでよ」
「うん。そうする」
ほどなくして玄関で別れ、私は真っ直ぐ手洗いへ向かった。
すぐには洗面台を使用せず。
脇にある個室へ入り、わずかに震える手で鍵をかけると、弱々しい溜息が漏れた。
「はあ」
朝からひどく疲れていた。このまま何もせず、じっとしていたかった。
では。
頬を伝い、さして知りもしない誰かの血の嘆きを洗い流す涙は。何なのだろうか。
私はまだ、人のままでいられているだろうか。とっくに化け物へ成り果ててしまったのだろうか。
それとも。こんな悩みを持つことさえ贅沢な傲慢で。生まれたときからどうしようもない存在なのだろうか。
目を瞑り、胸に手を当てて問いかける。
確かな鼓動だけが。私がまだ生物的には人であると、一応はわからせてくれる。
嫌な汗が少しでも引くように。いくらかでも気分が落ち着くのを待つ。
これは誤魔化しのための儀式のようなもの。気休めに過ぎない。
本当は無駄なのだ。わかっているのだ。
か弱い少女一人にとって、抱える事情はあまりにも大き過ぎる。
しかし誰にも言えるはずがない。
人はそれを嘘だと思うだろう。もしくは年頃の他愛もない誇大妄想だと嘲笑うだろう。
数少ない、信じた者は皆死んだ。
母親でさえも。こいつは簡単に殺した。
何一つ信じることもせず、馬鹿にして嗤ったクソ親父だけが、のうのうと生きてやがる。
『恐るべきもの』は、ニタニタと気味の悪い笑みを浮かべている――ように感じた。
実際のところ、表情などは読み取れないわけだが。そもそも生き物なのかも不明だが。
ただそれの機微を感じ取ることはできた。昔からの腐れ縁だ。
袖で目を拭ってから、誰にも聞こえない程度に呟く。
自分でも驚くほど冷たい声が出た。
「お前。またやったのか」
『恐るべきもの』は、否定とも肯定とも付かない曖昧な態度で、ゆらゆらと揺らめいている。
まるでこちらの苦悩を眺めて、ただ面白がっているかのように。
そういうときは大抵、クロだ。
きっとまた「落として」しまった。最悪の日課は達成されたことだろう。
お前はそれで満足か。いいか。今日はもう満足しておけよ。
胸の内に言い聞かせて、私は個室を後にする。
血も涙の痕も見せないように。しっかり顔を洗い流して、教室へ向かう。
他人となんて、行動に描いてみればたったそれだけの違いだ。誰も気付きはしない。
私も社会の小さな歯車の一つ。滞りなく戦争準備は続いていく。
***
流行りの終末感に満ちた空気に乗じて、こいつは事を引き起こす。
決して目立たぬよう。誰にも知られぬよう。
不可視の怪物は、必ず毎日何かを「落とし」続けた。
運が良ければ、対象はただの物だ。小動物であることもある。
多くは、人になりつつあった。
駅のホームで。近所の通りで。出かけ先のどこかで。
必ず、私の観測範囲で。毎日何かが「落ちた」。
それは決して私を傷付けることはしない。どんな高所から致命的な威力を持ってしても、私にぶち当たることはない。
大抵は、いとも容易くそれが行われる現場を見届けるか、血のかかる至近距離に居合わせて。
臓物をぶちまけ、つまらない死体を見せ付けられる。それだけだ。
私が一日生きるということは、誰かの「落ちた」屍を積み、その上に生きるということ。
いつだったか。耐えかねて自ら身を投げたことがある。
「落ちる」のは私だけでいい。実に殊勝で健気な心掛けだったか。
だがよりにもよってこいつは。『恐るべきもの』は。
本体である私だけは、決して「落とそう」とはしない。
見えない力がクッションとなって、私は無情にも護られた。何度試しても同じことだった。
非力で冴えない少女の抵抗は続いた。
非魔車の前へ飛び出してみた。
急ハンドルが切られ、相手が溝へ「落ちて」死んだ。それからはもう怖くて同じ手は試していない。
首にナイフを押し当てても。最後のトドメを引くことはできない。
他にも色々やってみたが。やがて自ら死ぬことは諦めた。
数々の問題行動は鳴りを潜め。私は社会に望まれるままの外面を貼り付け、実に下らない平凡な優等生になった。
その裏で、また誰かが「落ちて」死んでいく。
私のせいか。社会が殺しているのか。とても素敵な競争だなあ。あはは。
死を目撃するそのときばかりは、ひどく無関心で無感動になった。そうするのが理想的な対応だった。
このまま、何も感じなくなればいいと思っていた。そうしたら楽になれるのに。
けれど私は、まだ人知れず涙を流していた。『恐るべきもの』を睨み付け、決して敵わないと絶望しながら。
いったい何になると言うのか。心ばかり嘆いてみたところで。儚くも散った犠牲者たちに対して、何の慰めになると言うのか。
しかもだ。泣くところなんて、人に見せることはできない。あいつは弱いと思われてしまうから。
おかしいのは、どちらなのか。
***
一つ、傑作な話をしよう。
私は社会で優等生と定義される存在になりつつあったが、決して飛び抜けて頭が良いわけではない。
受験日は運悪く風邪だった。最難関校を受けていた私は「落ちる」ところだった。
それでも別によかった。仕方ないと言い訳ができるから。
普通でもよかった。たぶん普通がよかった。
だけど『恐るべきもの』は、私だけは決して「落とす」ことはしない。
約五十人が謎の体調不良で欠席した。私のところだけ、試験場はガラガラになっていた。
後日判明したことだが、より始末の悪い話だった。
みんな「落ちて」いた。合否ではない。物理的に。
さすがにニュースにはなったかな。
奇妙な偶然。何かの呪い。世間ではそういうことで片付けられたが。
私さ。私が殺したようなものなんだ。
残酷で都合の悪い真実は、私のみに刻まれている。胸の内の憎たらしいヤツがそれとなく教えてくれた。
私の約束された順調で絶望的な人生のために、彼らは犠牲になったのだ。
大魔道養成第一学校は、エリートを育てるための機関だ。
『恐るべきもの』は、ただ嗤っていた。
***
そんな私にも、たった一人だけ。親友と呼べる子がいた。
いや、そう呼びたかった子というのが正しいかな。
向こうがどこまで想ってくれていたのか、結局はわからないままだから。
それに秘密だけは決して話すことはしなかった。それはあなたを殺してしまう。
たまたま席が隣同士だったのが始まりだった。
当初私は模範的な少女を演じ、社会の操り人形として彼女と本質的でない会話を繰り返していた。
彼女は凛としていて、芯の強い子だった。自分というものをしっかり持っている子だった。
「私は――だと思うな」
それが口癖だった。
本質的でない会話の中にも、不意に穿つ言葉が混じることがあった。
ある日、道徳の講義があった。
国全体のために個を犠牲にして捧げる。実にありふれた、どうでもいい話だったように思う。
感想を求められた彼女は、はっきりとした口で言った。
「私、そういうのよくないと思うんです」
「――――」
周囲が、ざわついた。
大魔道養成第一学校は、エリートを育てるための機関だ。
冷静さ、非情さや強さこそが美徳であり。思いやりや優しさ、弱さなどはおかしいもの、唾棄すべきものとされる。
実に狂った世界だった。
なのに彼女は、正しいことをやめなかった。
だから必然として。
あまりにも悪目立ちしていた彼女は。壮絶ないじめに遭った。
誰もが大きなストレスを抱え、誰もが深い絶望を宿し、見せかけの強さに覆い隠して辛うじて生きている。
攻撃性さえもが美徳だったのだから。はけ口にはちょうどいい。極めて当然の帰結だ。
目立たない箇所にたくさんの痣と傷ができた。私には、彼女がそれを隠しているのがわかってしまった。
けれど何もしなかった。何一つ心配の言葉をかけることさえしなかった。
それは模範的人として、正しくないことだからだ。
彼女はなお凛として、普段と変わらぬ様子であり続けた。
そうだ。彼女は正しい。
誰にも何をされても、ただ憐れむような眼を向けるだけで。決して、一度だってやり返すことはしない。
武術の心得があることも、本当は強いことも。本質的でない会話の中で聞いて知っていたのに。
私はやはりつまらない優等生だったから、一度だって助けることはしない。
ただ、眺めているだけだ。あの子と話すこと自体、減ってしまった。
隣同士だって言うのに。本当は……眩しいと思っていたのに。
ある日、見てしまった。
男子生徒がよってたかって、彼女を輪姦している。
さすがに数人がかりでは、どうしようもなかったのかもしれない。
強きオスが弱きメスを蹂躙する。実に狂った光景だった。
それを見て、私はなんて思ったと思う? 実に傑作だよ。
これで明日から来なくなるだろうと。せいせいすると。
無駄な戦いを続けている強情者には、お似合いの末路だと。
ほとんど意識せず、口元が歪んで――そんなことを考えてしまう自分が本当に嫌だった。
社会に毒されている。私もじきみんなと同じになってしまう。
翌日。何事もなかったように登校してきた彼女を見て、私は目を丸くしてしまった。
あなたは。どうしてそんなにも。
「おはよう。――さん」
「……どうして?」
「ん? どうして? ――ああ。そんなこと」
そんなこと。
強がりではない。彼女は本当にどうでもいいことのように、さらりと言ってのけた。
――ああ。あなたはなんて「強い」のだろうか。
それに比べれば、あの下らない連中の。そして私の。
何と醜くて、浅ましいことか。
大人たちや同級生が声高に宣うような、偽りの強さではない。
綺麗だ。そしてどこまでも危うい。
そんなに真っ直ぐで、眩しく生きられるあなたが羨ましくて。妬ましくて。
私は、そんなあなたが――大っ嫌いだ。
だからある日。いつものように輪姦されている光景をぼんやりと眺めて。
つい願ってしまった。
あんな仕方のない奴ら、みんな「落ちて」しまえばいいのだと。
それから、彼らは学校へ来なくなった。二度と。
『恐るべきもの』は、嬉しそうにぐるぐるしている。
***
親しくもない誰かの死は、情報である。取るに足らない者の死であれば、なおさらのことだ。
毎度のことながら、心にもないお悔やみの言葉が一つばかり放り投げられ。
澱みなく日常は続いていく。
いつものようにトイレで誤魔化しの儀式を済ませた後。
私はやけに上機嫌だった。そう振舞うことで、辛うじてバランスを取っていたんだと思う。
昼休み。彼女にもやっと話しかけることができた。
「よかったじゃない。色々と困っていたんでしょ」
だけど。彼女は言ったのだ。
とても綺麗な。真っ直ぐな目で。
「何がよかったの? 人が死んで、何がよかったって言うの」
「――――」
抉られる思いがした。致命傷だった。
だって。私はあなたのために。
それじゃあ、私は……。
「私、あなたがそういう人だって思わなかった」
「――――」
最悪だ。最悪だ最悪だ最悪だ最悪だ。
想定できることだった。
彼女がそういう人であると。最初からわかっていたはずじゃないか。
なのに。私は。どうして私は。
……最低だ。
不意に頬へ熱い涙が伝う。
いけない。決して見せてはならない弱さなのに。
「――さん?」
「違う。これは、違うの」
もう取り繕うこともできなくて。
「あ、待って!」
私は袖で顔を覆ったまま、教室を飛び出してしまった。
屋上へ駆け上がり、誰も見ていないことを確認して。
こんなときだって、周りのことを気にして。常識が染み付いていて。
「うあぁぁ……」
さめざめと泣く。
こんな馬鹿みたいに涙を流すのは、小さいとき以来だった。
『恐るべきもの』は、憎たらしくケタケタと嗤っている。楽しそうに蠢いている。
いいさ。嗤うならいくらでも嗤うがいい。
私は本当に、どうしようもない存在で。バカで愚かで。救いようがなくて。
なのに。
「――さん。ここにいたんだね」
「来るなっ!」
なんで来るの。もう来ないでよ。ほっといてよ。
こんなみっともない顔。見せるわけにはいかないの。
せめてもの抵抗で逃げる。
屋上の端。そこは自殺の名所だった。
どうせ死ねもしないのに。形だけの脅し。
本当に、ろくでもない。
「――さん」
「来ないでって、言ってるでしょ!」
「……ごめんね。あなたのこと、誤解してた。あなたも同じなのかって思っちゃった」
「同じさ。死んでせいせいしたの。あんなヤツら」
「でも」
その先をどうしても言わせたくなくて。
「あなたはいいよね。強いから」
「え……?」
「私なんかさ。いい子でいようって。ずっと皮被って。周りに期待されるままに生きて」
「…………」
「あなたは。いつもまっすぐで、眩しくて。羨ましいって思ってた。私は、したくたってできないのに」
すぐ何かを「落として」しまうから。化け物だから。
『恐るべきもの』が、今だってどす黒く渦巻いている。
卑怯な私は。面と向かう勇気もなくて。
振り返りもせずに告げる。
「嫌いだ。あなたなんか、大っ嫌いだ」
「――さん」
「あなたを苦しめるヤツなんて、みんな、みんな。死んでしまえばよかったんだ!」
「でも。あなたは泣いてる」
――――。
「あなたって本当は――」
「違う」
「優しくて――で」
「違う!」
違うの。そんなんじゃないの。
これですら。本当の私ではない。
すべてをさらけ出すことなど、到底できやしない。
だけど。
最も剥き出しの私に近いところで。
彼女は私を淵から強引に引っ張り寄せて。抱き締めていた。
「いいんだよ。私の前では、無理しなくていいんだよ」
「わたし、は……わたしは……!」
こんなこと、される資格がないんだ。
殺したんだ。私が殺した。殺させてしまった。
その一言が最後まで言えなくて。それは必ずあなたを殺してしまうから。
だから、固く歯を食いしばって。でも、溢れる涙が止まらなくて。
「つらいときは泣いていいの。私は、そう思うけどな」
あなたが。そんなだから。私は――。
「――――」
「――――」
もう、なんて言ったのかも覚えていない。
ひどく幼稚で。醜くて。みっともなくて。
だけど確かに。
世界は。その日だけは。
何よりも輝いて見えたんだ。
***
彼女はよく話してくれた。
自分はエリートになるために、第一養学に来たのではないと。
非魔の秘術。その研究を推し進め、人を救う技術に育てることを考えているのだと。
そんなの無理だと嘲笑うことは一度もしなかった。
彼女なら。この人ならいつかきっと。塞ぎ込んだ世界に風穴を開けられるかもしれない。
少女みたいな化け物は、少女みたいな夢を彼女の中に見つけた。
真っ暗な世界に、小さな光が灯った。
私は誓った。あなたの夢を手伝うと。
つまらないだけだった人生に目的が生まれた。
彼女は口先だけの有象無象とはまるで違う。
実際極めて優秀だった。反骨精神旺盛な道徳を除いては、常にトップの成績を維持し続けた。
私はどうにか二番の座を守っていた。
時折彼女に教わりながら、刺激を受けながら、一歩後ろを付いていくことが幸せだった。
『恐るべきもの』は、退屈そうにしていた。
彼女は理知的で、聡明で、そして致命的に優しかった。
だから。その後のことも必然だったのだろう。
――戦争が始まった。
私たちは、もれなく学徒動員されることになった。
彼女がリーダーに選ばれた。
***
どんないじめにも仕打ちにも、一つの弱音だって吐かずに凛としていた彼女は。
どうしても。人を傷つけることだけはできなかった。
不器用でカッコよくて。到底醜く生きられないほど。彼女は気高く純粋だった。
出陣がすぐそこに迫った――忘れもしないあの日だ。
哀しみがいっぱいに胸を満たしているのに。バカみたいに空は晴れ渡っていて。
青くて。嘘みたいで。
彼女は、死の淵にいた。
「あのときと、すっかり逆になっちゃったね」
「ねえ。待ってよ……。思い直してよ」
縋りつこうとする私を、彼女は手で制止する。
「……色々考えたんだけどね」
彼女は、寂しそうに空の向こうを見つめた。
「無理なの。私には、人を殺すことなんて。自分が許せない」
「でも……。夢はどうするの!? 生きようよ。今は無理かもしれないけど。また戦争が終わったら、きっと研究だって……!」
「それはあなたが継いで」
いつものように凛として。冷たく突き放されたようだった。
いつだって。正しいのは、あなただ。
私はもう、小さな子供のように泣いて駄々をこねるしかできなくて。
「いやだ……! ずっといっしょじゃなきゃ、やだよぉ……」
「ねえ、――。一つだけ。覚えておいてね。ただ絶望して、死ぬんじゃないのよ」
何があっても気高く。弱みも晒さず、涙一つ見せることさえしてくれなかったあなたは。
私の前で、この一度だけ涙した。
密かに世界に挑もうとして。その機会すら与えられなかった無念は、いかほどか。
「私は――私が私であるために。私自身の尊厳のために。死ぬの」
勝手だ。あまりにも迷惑だ。
私に希望を与えておいて。一人だけいなくなるなんて。
そんなことを考えてしまう自分すら、殺したいほど恨めしい。
違うの。そうじゃないの。
正しさだけで人は生きられない。どうしてそんな簡単なことが呑み込めないの。
醜くたっていい。どんなに手を汚したっていい。
私が、あなたに生きていて欲しいから。
その一言が、泣きたいほど。喉から手が出るほど言いたいのに。
今にも先立つあなたが。あまりにも美しいから。
――『恐るべきもの』は、我が意を得たりと躍動し始めた。
待って。まだ。やめろ。
その子は、ダメだ。それだけは。ダメだ!
そんなこと、私は望んじゃいない!
いつだって。正しいのは、あなただ。
間違っているのは、世界の方なんだ!
けれど。どうしようもなく結末は決まっていた。
後生だ。
世界があなたを殺すなら。どうして私も一緒に死なせてくれないの!
『恐るべきもの』は、嫌に優しく彼女の足に纏わりついて。
最後の一押しを。
誰よりも綺麗で尊い彼女を、そのままで終わらせた。
「――。ありがとう」
ああぁ。「落ちて」いく。
目の前で親友が。唯一心を許せると思っていた人間が。
最も美しくて、最も嫌いなものが。
乾いた無機質な、いつも通りの音を立てて。
「落ちて」しまった。手の届かない向こう側へ。
人生の最悪なのに。泣き叫んだっていいはずなのに。
私は。ただ呆然としていて。現実味がなくて。
送り出してしまった私は。それさえきっと、許されなくて。
やがてふらふらと歩み寄り、単なる確認作業を行った。
真っ赤な染みが広がり。物言わぬ血と肉の塊になって。それだけだ。
あなたは、馬鹿だ。
さっきまで。あんなに輝いていたのに。そんなにも無個性ではなかったのに。
死んでしまったら、誰だってみんな同じ。
何にもならない。まったくつまらない。
***
そうして。
彼女がするはずだった役割は、すべて私が請け負うことになった。
それはそうだ。二番目に優秀だったのだから。お鉢が回ってくるのは私だ。
「期待しているよ。――さん」
心無い期待が肩を叩く。
自ら命を投げ打ったあの子に対しては、誰もが冷淡で辛辣だった。
結局は、そうなのだ。
誰かにとって命を賭すほどの一大事は、誰かにとって煩わしい些事でしかない。
「弱虫だ」「非国民だ」「どうしようもないクズだった」
お前にあの子の何がわかる!
喉まで出かかった怒りの叫びは、実際には出てこない。
詮の無いことだと、頭ではわかり切っているからだ。
ただ胸の内にドス黒い感情が湧き起こり、結局はこいつらと同類になろうとしている自分が一番許せなくて。
誰も悲しんでくれない。私だけだ。私だって死なせてしまった。
ありもしないものに縋って。あちこち見て回って。聴いて。
あなたのことなんて、やはり誰も関心がなくて。
いたたまれなくなって、私はまた屋上へ抜け出した。
「いたんだ……」
手摺りをそっと撫で、もう一度、彼女が見たはずであろう最期の景色を眺めやる。
もう染みは綺麗に拭き取られてしまって、あなたはどこにもいない。
でも。
「ほんの数日前まで、ずっと。ここに、いたんだ……」
これから、戦争が始まる。
こんなことが。もっと凄惨なことが。ずっと。ずっと。これからも。
お前たち大人は。この先大人になろうとする私たちは。
世界が終わるそのときまで、下らない戦争ごっこを続けるというのか――。
あなたは優しかった。この汚れた世界で生きるには、あまりにも純粋だった。
母親も。近所の優しかったお兄さんも。親身になってくれた先生も。他にも。みんな。
『恐るべきもの』が。私が。世界が。みんな死なせてしまった。
愛すべきものは、もうどこにもいない。
なのに私だけがのうのうと生きて。もうすぐたくさんの人を殺しに行く。
――ああ。私は。なんて。
なのに。空は馬鹿みたいに晴れていて。
どんなに死にたい気分でも、何もかも嫌だと思っても。
あいつらと一緒だ。ちっとも同情してはくれない。
薄汚れた醜い私には、濁った曇り空が良く似合う。都会の星も見えない夜空が心地良いんだ。
何もかも透き通っていて、誤魔化しの効かない青空なんて。星の海を散らして輝く綺麗な夜空なんて。
大っ嫌いだ。
――もう何も見たくない。
形ばかり続いてはいるけれど。
本当は。世界はもうとっくに終わっていて。救いようがないのかもしれない。
人に生きる価値なんて、とっくにありはしないのに。
――もういい。もう疲れた。
みんなみんな。「落ちて」しまえ。
嘘みたいに綺麗な青空なんか、「落ちて」しまえばいい。
どこまでが無意識で。どこまでが本心だったのか。
『恐るべきもの』は、かつて聞いたこともないような高嗤いをした。
漆黒の力場は、空を覆うばかりに大きく膨れ上がっていく。
それはけたたましい叫びを上げ、うねりながら存在を増長させていった。
「え……?」
それが伝えるところと、直感によって理解してしまう。
私以外には誰にも聞こえない、怨嗟の響き。
この世の終わりを望むモノの声。
「お前……まさか。そこまでしようって言うの……?」
それほどの力を持つ存在であると。
愚かにも私は、このときまで正確には理解していなかったのだ。
迂闊にも。薄々、本能的なところではきっとわかっていたのに。
空に見えない蓋がされて。世界が閉じられていく。
地面に向かって押し付けられる。
ああ――空が「落ち」ようとしている。
『恐るべきもの』は、見えざる力によって世界を終焉へと導く。
私を除いては、誰も恐怖の正体を知覚することはない。
ただ事後認識される現象として、それは引き起こされる。
世界がぺしゃんこになって。潰れて。そしてみんな死ぬのだ。
たったそれだけのこと。
この上なくシンプルでどうしようもない、世界の終わり。
「ふ、ふ。あはは」
私の口から、壊れたような笑みが零れた。
まるで空の蓋が「落ち」るように。
青い空が、ゆっくりと迫ってくる。
あとはもう、黙っていれば。今まで通りのことだ。
誰にも言わなければいい。みんな気付いたときにはもう手遅れで。
真っ赤な果実のように。潰れて。ぶちまけて。みんな同じになる。
あっけなく死んでしまった、あの子のように。
なのに。だと言うのに。
望んでしまったことなのに。
どうして。涙は止まらないのか。
――そのときだ。
いよいよ「落ち」始めた空の蓋をぶち破って、何かが。
いや誰かが、唐突に「落ちて」きた。
遥か空の上から、明らか凄まじい速度で突っ込んできたというのに。
私のいる屋上へ正確に狙いを定めると。激突の直前、ふわりと浮かんで事もなげに着地を決める。
これだけでも、だいぶおかしいのだけど。
「やあ」
妙なのが、普通に声をかけてきた。
薄手で、男の服装……?
盛大に意味がわからない。そういうお年頃なのか?
確かに思春期の私と同じくらいには見えるけれども。
見た目だけはただの女の子なのだ。可愛いがそれだけだ。
むしろあどけなさすらあって、今にも終わりつつある世界の淀んだ空気にはまるで似つかわしくない。
やけに男らしい恰好が、何ともちぐはぐで。なぜにそのチョイスなのか。
そして、深い海のように澄んだ青い瞳をしている。星のような不思議な輝きを秘めている。
「は……? いや、誰?」
とにかくすべてが唐突に過ぎる。
最悪の状況さえ忘れて。思わず間の抜けた声が出てしまったのも、仕方のないことだろう。
問うた相手――少女はふっと柔らかく微笑み、またわけのわからないことを言い出した。
「通りすがりの旅人さ」
「旅人って……変なヤツ……」
「よく言われるね」
「妙に神々しいし……。まるで終末の天使か死神みたい」
「そう言われることも、あるかな」
彼女は、どこか困ったように苦笑いしていた。
だが見かけに騙されてはならない。まったく尋常の存在ではない。
終末の空気さえ弛緩しそうなやりとりの裏で、私は大いに混乱していた。
今まで「落ちて」きた奴は、みんな潰れて死んだ。例外なくそうだった。
しかしこの女。
渡り鳥が優雅に舞い降りてきたように。いつまでも自然体で、悠然としていて。まるで危機を感じさせるものがない。
服ではない。オーラと言ったらいいのか。
不思議な海色の衣が、彼女を薄く覆い包むように纏われていた。
空のように青く、海のように穏やかで。そして美しい。
この世界にとっての明らかな異物。
あまりに綺麗過ぎる存在だから、天使か死神かなんて口に出てしまったのだ。
だから何となく。いや、正直に言おう。
まったく気に入らない。
よそ者が。勝手に出しゃばってきて。しかもこんなときにだ。
お前は何だ。哀しみに浸ることもさせてくれないのか!
『恐るべきもの』も、そこにはまったく同調している。初めてはっきりと意見が合った瞬間かもしれなかった。
「私に何の用?」
我ながら子供のように棘のある言い方になってしまったが、そんなこと気にしてもいられない。
「随分物騒なことを考えていると思ってね」
「……どうしてそんなことがわかるっていうのよ」
「何となくわかるの。そういう人をたくさん見てきたから」
少女は知った風な口をきく。だがそこには経験に裏打ちされたとしか思えない、独特な含みがあった。
じっとこちらを覗き込む瞳が、何かを見定めている。
まるで突き刺すような。すべてを見透かすような嫌な視線が、私を射抜く。
そして言った。
「君は深く、とても深く絶望しているね」
「…………」
図星だ。
いっそのこと、全部終わってしまえばいいと。何もかもやけになっていたところだから。
お前のせいですっかり台無しだが。
「ふざけないで」
不思議とこいつに対しては。遠慮もなく、体面もなく。好きなだけものを言えるような気がした。
そんな気持ちにさせる人当たりの良さがあるからなのか、それとも魔性なのか。
「いきなりやって来て。ずかずかと人の心に土足で踏み入って。お前に何がわかるっていうの!」
「そうだね。私は所詮よそ者だから。君の深い事情まではわからない」
どこか寂しそうに、少女はわずかに目を伏せる。
「けれどね」と顔を上げたときには、またあの貫くような気味の悪い視線が私を真っ直ぐ捉えている。
「私には君の心が何となく視えているの。君が『恐るべきもの』と呼ぶものもね」
「はあ……!?」
待て。待って。
どうしてそんなことがわかる。お前にはほとんど一つだって情報は与えていないのに。
まさか本当に心を――。
それによくない。非常にまずいことになった。
『恐るべきもの』は、己の正体に近付く者には決して容赦をしない。
ほら、もう牙を剥いて襲い掛かってしまった。
ところがだ。
驚いたことに、『恐るべきもの』でさえも彼女には容易に手が出せないようだ。
いつものことなら、一瞬で捻り殺してしまうはずなのに。
彼女の肌一枚のところで、漆黒の力場がぴたりと止まっている。
あの青いオーラだ。それがどうやらあらゆる脅威を退けている。
少女は、坊やをあやすようにくすりと笑った。
「とんだ暴れん坊。随分苦労してるんじゃない?」
「嘘だ。そんなこと」
初めて「落とせ」なかった。
『恐るべきもの』の暴力だけは、絶対的に信頼していたのに。
明らかに私ではなく、『恐るべきもの』へ向かって。直接語気が強められる。
「少し大人しくしていろ」
海色の瞳が、キッと細められると。
たったそれだけで。『恐るべきもの』は、ぶるぶると震えて縮こまってしまった。
まるでいたずらをして叱られた、小さな子供のようだった。
そんな『こいつ』の姿を見るのも、まったく初めてのことだった。
「よしよし。いい子だ」
私にも飼い馴らすことのできない化け物を。この女は一瞬で手懐けてしまった。
再び、青き衣の少女は私へ向き直る。
「別に隠すことでもないかな。私はこの世界の外側からやってきた。だから旅人」
「ああ。そういうこと……」
妙に腹落ちがあった。
佇まいも落ち着きも。澄んだ瞳も、揺るぎない意志も。
まったくこの世界の人ではあり得ない。
いや、本当に人なのか?
まさに終末の刻現れる天使か死神。そのものではないのか。
自称旅人は、本質的でない会話ではない本質的対話を求めていた。
「どうかな。話してごらんよ。このよそ者を壁だと思ってさ。それですっきりすることもあるでしょう」
何なのこいつ。本当に……何なの?
「ただ」
彼女は思い出したように、自らが舞い降りてきたところを見上げる。
「そのためには時間が必要だからね。まずは当面の危機を対処しよう」
どうやらこの人には、破滅的事象の正体がとっくにわかっているようだった。
「お前にも、視えていると言うの?」
「空に蓋がされて、落ちかけているんだよね」
「ならどうして、そんなに冷静でいられるのよ」
今にも世界が終わろうとしているのに。
少女は一つも余裕を崩すことなく、柔らかに微笑んだ。
「大丈夫。あんなものは、世界の終わりでも何でもないから」
「あんなものって」
「一つ。教えてあげよう。まず君が思っているより、世界はずっと広いんだってこと」
そして彼女は、唄うように語った。
「私の故郷に、こんな故事がある」
いまにも空が落ちて、身の置きどころがなくなると心配し、嘆く者がいた。
「けれど実際そうはならない。それは君の心配し過ぎというものだね」
「でも。現にそうなっているじゃないの」
「だからさせない。人はそれを――杞憂と言うんだ」
彼女の左手が天高く掲げられ。
そして、光が放たれた。
彼女の纏うものと同じ。
温かな光の射す海のように。澄み渡る青い空のように。綺麗で。
私は……映像でのみ、このような奇跡を見たことがある。
魔法――この世界から失われてしまったもの。
青き光は途中で弾けて、無数の枝に分かれて。
あまねく空を覆い尽くした。
『恐るべきもの』が仕掛けた破滅の壁に、真っ向から激突する。
そうして。空の蓋はいとも簡単にぶち割られた。
キラキラと力場の細かい欠片が降り注ぎ、私たちにしか視えないオーロラがきらめいている。
少女は凛として。どこまでも揺るぎなく。力強い光の意志をもって。
まるでそうなることが当然のように。私を穏やかな目で見つめていた。
「ほらね」
決して私に、ただ絶望へ塗れることを許しはしない。
まただ。大嫌いなヤツがきた。
私は、直感的にそう思った。
***
「しまった。派手なことをしたから目立っちゃった」
「誰のせいだと思っているのよ」
空の蓋は見えなくても、魔法は誰でも目にすることができる。
突如空を覆った謎の光に下の方がざわめき始めたので、少女はばつの悪そうに困り笑いをしている。
その姿だけ見れば、今しがたとんでもないことをやらかしたとは到底見えない。その辺のどこにでもいる普通の女の子のようだ。
それこそ、正体を隠している私と同じ。
少女は、私に向かって手を差し伸べる。
「とりあえず、ゆっくり話せるところへ行かない?」
「嫌でも連れて行く気のくせに」
「あはは」
口ぶりは穏やかだけれど。
何か有無を言わせない雰囲気が、はっきりとした意思が感じ取れる。
この堂々としたところ。妙にあの子を彷彿とさせる。
そうなると、私に否は言えない。せめてもの抵抗に、ちょっと投げやりに答えてみた。
「いいさ。地獄でも天国でも連れていけば」
「物騒だなあ。そういうのじゃないから」
手を取り、ほんのわずかな間、奇妙な浮遊感を包まれていると。
もうそこには、満天の星空が広がっていた。
確かに地獄でも天国でもなかったが……また、嫌いな景色だ。
あっさり昼の景色を夜に変えた少女に、私はとうとう呆れてしまった。
「何でもありだね……。お前って」
「色々と経験がありまして」
「ほんとはいくつだったりするの?」
「さあ」
彼女は曖昧に笑って、明らかに誤魔化している。
何となく、常人の年齢ではないのだろうなと確信した。
「ここがどこだかわかる?」
「知るわけないでしょ」
「君が戦争で向かうところだよ」
「……人殺しはやめろって。説教でもしに来たの?」
「そうじゃない」
少女はやんわりと否定する。積極的に肯定してもいないようだが。
「一度くらい、しっかり見ておくことは大切だと思ってさ。これから君が背負うことになる業を」
まるで自分もそうしてきたかのように。彼女はそう言った。
促されるまま、周囲を見渡してみる。
灯りも少なくて、薄暗い。のんびりとした田舎の風景が広がっていた。
雲一つないキャンバスに、星屑を散らした美しい夜空。
確かに……綺麗で、のどかだ。そして空気が美味しい。
この後業火に焼かれることを思えば、心が痛まないわけではない。
だが相手にとってもそれは同じ。やらなければ、やられる。
世界はそういう風にできているから。残酷だから。
「あんな悪意に満ちた学校じゃ、気が滅入るでしょ」
「また、知った風なことを」
少女は、ただ真っ直ぐ。私だけを見ている。
何を期待しているのか。何を言わんとしているのか。
とりあえず、同意した。
「でも、そうだね。ほんとに、そう」
「うん」
それでも。私はやるんだ。
あの子に代わり先頭に立って――やらなければならない。
今一度昏い覚悟が固まったところを見定めて、彼女は切り出した。
「本題に入ろう。確かに当面、世界の終わりは避けられた」
「ならもう、いいじゃない。放っておいてよ。関係ないでしょ」
私だって、そう何度もやけになりたくはないんだ。
『恐るべきもの』の本当の恐ろしさを、もう知ってしまったから。
「そうもいかない」と、お節介な少女は小さく首を横に振る。
「もうわかっているよね。これが終わりではなく、始まりですらないことを」
そう。今の君自身が、一番よくわかっているはずだ。
グサリと言葉のナイフを突き刺され、私は狼狽える。
『恐るべきもの』は、今なおこの正体不明の少女にずっと怯えている。
いや――本質的なところで怯えているのは、私こそなのか。
いつの間にか、冷や汗がどっと全身を浸しているのを感じていた。
「君が『恐るべきもの』と呼ぶそれは、君自身の魂と不可分に結び付いている。君そのものの厄介な性質なんだ」
「はあ……。結局、私自身が化け物だったってわけ」
「その側面は否定できない」
この少女は、優しいのか。優しくないのか。
いかに残酷なことであろうと、本質をずばずばと言い当ててくる。
態度は親身に寄り添っているのに、どこか突き放しているようで。
「この世界を覆うものは、絶望という病だ」
「随分とカッコつけて言ってくれるじゃないの」
カッコつけたところをチクリと刺し返すと、わずかに少女も狼狽えた。
何だかちょっと可笑しい。ほんと変なヤツ。実はわかりやすいのかもしれない。
でもすぐ気を取り直して、彼女は続ける。
「だけどね。そんなことで本当は、世界は滅びたりはしないんだ。多くの痛みを伴って、それでも世界は続いていく」
やけになって、破滅的な戦いをしなければ。
特大の釘を刺しながら、少女は淡々と事実を連ねる。
一つの世界は確かに有限だ。けれど魔法だけが、世界のリソースではないのだから。
本当の滅びは、まだまだ先にあるはずだと。
あの子が願っていた夢の、その先を。おそらくこの人は知っている。
「けれど。君だけは違う」
透き通る青い瞳が、私へ最大限警告の楔を放つ。
「ちょっとやけになって望んだだけのことが、いとも簡単に破滅的事象を引き起こす」
「……何が言いたい」
「もし本気で願えば、どうなると思う?」
「…………」
「もし明日世界が滅びるとしたら。それは他でもない。君なんだ」
つまりは。決定的な一言が告げられたのだった。
「間違いなく。君こそが世界を滅ぼしうる者だ」
「――――」
私こそが、世界を滅ぼすもの。
そうか……。やっぱり、そうだったのか……。
幼い頃から、何となく。もしかしたら。そうなんじゃないかって。ずっと、恐れていた。
黄昏の世界に終末の鐘を鳴らすもの。世界の端を引き「落とす」怪物。
それこそが、私の正体……。
――まただ。また泣いている。
この間からずっと。もうおかしい。
「じゃあ。私は、どうすればいいの……。自分では、死ぬことだってできないのに……」
「残念ながら。簡単な逃げ道はないよ。この絶望という病に満ちた世界で。君は『恐るべきもの』と、一生戦い続けなくてはならない」
『恐るべきもの』は、自分も叱られてしまったかのように。意気消沈して佇んでいる。
わかりやすい答えを得ることはできなかった。
旅人はただ通りすがり。課題と事実を伝えてくれるだけ。
悲しかった。悔しかった。そして、無性に腹立たしくなってきた。
湧き上がる激情のまま、私は彼女に詰め寄る。
まったく幼い感情だけが先走って、胸倉を掴みかかっていた。
「お前は……お前は! 本当に、何しに来たんだよっ! 私は危ないんだろう! 殺すなら、とっとと殺してしまえ!」
「…………」
今度は少女が、叱られてしまった子供のように。
ただ哀しそうに私を見つめて、じっと歯を食いしばっている。
私は乱暴に、何度も何度も彼女の胸に拳を叩きつけた。
「どうしてなんだよ。どうして、こんなことばっかりなんだ!」
あの子さえいてくれたら。それで十分だった。
どんなに過酷な世界だって。私は希望を持って生きられたんだ。
なのに。なのに! お前は!
今さらになって、ほとんど手遅れになって。
私だけ助けに来たって、しょうがないじゃないか。何にもならないじゃないか……!
「どうして、あと何日かでも早く来てくれなかった! お前なら助けられたんだ!」
言っても仕方のないことはわかってる。
でも、どうしても責めずにはいられなかった。
「ダメなんだ。もう、ダメなの……。あの子のいない世界なんて。私には寂しくて。とても耐えられないそうにないの……」
「そっか……。そうだよね」
頬に冷たい雫がかかる。雨ではない。
見上げると。少女の目の端からも、大粒の涙が零れていた。
バカなの。どうして、お前まで一緒になって泣いてるのよ……。
だって。よそ者でしょ。何にも知らないだろう。
この世界のことは、何にも関係ないのに。
これじゃ……。私が。
「ごめん。本当にごめんね。間に合わなくて」
「うわあぁぁぁぁぁ……!」
彼女はただ、私の哀しみを一身に受け止め続けた。
天気を塗り替えてしまうほど、私の空はいっぱいの雨に浸っていた。
***
「じゃあ。戦争を手伝っては、くれないのね?」
空の壁だって容易く壊してみせたお前なら。たった一撃で終わらせることだってできるだろう。
この敵国の民を、魔法という奇跡で焼き尽くすことだって間違いなくできるはず。
だけど、答えはもうわかっていた。
「ごめんね。それもできない。君だって本当は、わかっているはずじゃないか」
「……そう、だね」
なぜなら、私たちの世界の問題だからだ。
人と人とが争うことは、どちらが正しいわけでもない。
どこにも正義など、ありはしない。
ただ戦って。どちらかが勝つか負けるかして。痛みを引きずるだけ。
「よそ者の私が、判断すべき立場にはないから」
旅人は、自分の限界を吐露するように。
やっぱり。どこか寂しそうに、そう呟いた。
「たとえ大切なものを失ってしまっても。それでも人生は続いていく」
人と比べるものじゃないけれど。私もね。そうだった。
星空の向こうを眺めて、ふっと目を細める旅人は。果たして何を想うのか。
想像を絶するような何かが、その胸の奥には隠れているのかもしれない。
この人だって、間違いなく化け物の類だろう。
けれど深い事情は、「よそ者」の私には知りようもない。
「手を出して」
言われるがまま差し出すと、温かな光がすっと私の胸に入り込んできた。
『恐るべきもの』が、勘弁してくれと顔をしかめている。
「繋がりはできた」と、少女は微笑む。
「本当に困ったときは、心の中で助けを求めるといい。私はまた来るよ。何度だって、落ちてしまいそうな空を支えてみせる」
だけど。
「いいかい。君には、君にしかできない戦いがあるんだ」
自分自身の『内面』と向き合い、この世界を生きていくこと。
少女は、祈り願うように告げる。
何よりも厳しく。残酷な事実を。
「君は孤独な戦士だ。誰も本当の意味で君を助けてはくれない。君は確かにどうしようもない化け物だ」
だが冷たく突き放すと同時、熱いエールを授けてくれる。
心から優しく、そして温かい言葉だった。
「でも、人間だ。君は人のために泣ける。君は死にゆく者の嘆きを知っている。本当は優しい心を持っている」
そうである限り。
「誰が見てなくても、私は見ている」
「…………」
「だから。どうか最後まで、人であってくれないか。この人生という戦いを完遂して欲しいの」
「……お前、バカなの? さっきも泣いてるし。またそんなストレートに泣きそうな顔で頼むよそ者が、いったいどこにいるのよ」
「だってさ。悔しくないの?」
そんなこと。言うまでもない。
「悔しいよ。悔しいに決まってるじゃん!」
「このまま終わりにしたいと、本気で思ってる?」
「そんなわけあるか。負けたくないよ……!」
「でしょう? そうだよね!」
「そうだよ!」
少女たちがみっともなく。二人して泣いて。
星空の下で叫んでいた。
「なら、戦え。どうかこの下らないと思う世界を、それでも精一杯生きてくれ」
そして、それでもと。
一つだけ、彼女は赦しを付け加えた。
「君が真に世界にとっての脅威となるなら。いよいよ本当にどうしようもなくなったのなら」
少女はまた寂しそうに、けれども固い意志をもって明確に告げる。
「そのときは――私が君を終わらせてあげる」
ああ。なんて揺るぎなく。決然として。強い瞳をしているものか。
この人はやるだろう。そのときが来たら、間違いなくそうするだろう。
だけど。まだ。今じゃない。
――ようやく、わかった。
心の奥底では、魂がずっと叫んでいた。
私は、負けたくないんだ。生きたいんだ!
この下らなくて、狂ったヤツばっかりで。救いようもない世界を。それでも。
本当にどうしようもなくて、「落ちて」しまったその人たちの分まで。
あの子の分まで。
刻み付けてやりたいんだ。世界に。私の生きた証を。
叶わずも死んでいった者たちの願いを。夢を。
誰かがそうしなければ。あまりにも報われないじゃないか。
「わかったよ。私があの子たちを未来へ連れて行く」
「うん。それがいい」
少女は、私の目をしっかりと見て頷いてくれた。
「あと一つだけ。君の『それ』は、君の大切な一部だ。君が本当に願うなら、その子はきっと君の力になってくれるはずだよ」
「そうかもしれないね……。きっと、そうだ」
『恐るべきもの』は、ゆらゆらと揺らめいている。
主である私のことを。何を言われたものかと、じっと伺っている。
やっぱり、わかってみれば小さな子供のようにも見える。
なあ、『お前』。
『お前』はたぶん、私の剥き出しの魂の一部なんだろう。
子供らしくて。純粋で。いたずら好きで。
この世界が嫌いで嫌いで、しょうがなくて。
きっと。だから「落とす」んだね。見たくないものを、見たくないから。
私に『お前』を手懐けることは、おそらく一生できないけれど。これからも散々手を焼かされるだろうけれど。
一つだけ、信じていることがある。
『お前』が私を死なせないことは、わかってるんだ。
私は必ず戦争を生き延びる。醜くても、どんなに人を殺しても。生き抜いてやる。
そしていつかは。世界を。
「けどいいの? お前は、とんでもないモノを生かしてしまったのかもしれないよ。人だってたくさん殺すだろうし」
「わかってる。だからせめて、背負える分は背負うよ。精々君を見届けることにするさ」
「なら、見せてやる。負けてやるもんか。私を見くびるなよ。死神」
「ふふ。それでいいんだ」
青き衣の少女は、嬉しそうに微笑む。
そして私の知られざる戦いは、まだまだ続くことになってしまった。
***
それからの話をしよう。
『恐るべきもの』は、予想通りというか。何というか。
死が雨あられと降り注ぐ戦場で、私を一度たりとも傷付けることはしなかった。
敵対するものの命を「落とし」続けた。
戦争で大戦果を上げて生き延びた私は、たくさんの勲章と栄光、そして出世が約束されていた。
束の間の平和を得て、私は非魔の秘術の研究を推進する立場を得た。
たくさんの人を配置し、あの子の同志を見出し。支える。
まさしく我が威光の賜物である。
『恐るべきもの』は、やはり生易しいものではなかった。
どんな立派な決意でも、人は長く生きれば揺らぐ瞬間はあるもの。
ちょっとした憂鬱が。自暴自棄が。すぐ空やら何やらを「落と」そうとしてきた。
まこと厄介なことに。私の気分一つで、世界は簡単に滅びそうになっていた。
お節介なあいつは。言葉の通り何度でもやって来て、いつでも「落ち」そうな空を支えてくれた。
けれど一度だって、長居はしてくれなかった。
聞けば薄情なわけではない。どうやら時間が限られているらしい。いつでも危機のときには現れるからと。
同じ道を歩む友にはなれないことを詫びていた。どうせあの子の代わりにはなれないし、それでも構わない。
奇妙な『友人』関係は、付かず離れずの距離で続いていった。
そして。実につまらない、月並みな話であるが。
血みどろの戦いだけが人生ではなく。絶望することだけが人生でもない。
存外平凡な結婚をして、生活にも忙しくなっていく。
次第に『恐るべきもの』は、些末ないじめ事を好むようになった。要するに構って欲しいのだ。
そうだね。赤子を捻り「落と」されたときなんかは、何日も泣いたものさ。
めげずに産んだ。産み「落とし」てやった。
我が子は二回命を「落とし」、三回目はもう殺されなかった。
『青の旅人』は二回慰めに現れ、三回目はすんでのところで護ってくれた。
小さな命は「落ちる」のがあまりにも早過ぎるから、ということらしい。
遠い星空の向こうから、毎度一瞬で辿り着けるわけではない。神に近しいように思われた彼女にも、どうやら限界があるようだ。
そもそもあの子を助けられなかった時点で、そんなことはとっくにわかっていたことなのだけれど。
まあ。とにもかくにも。私の執念勝ちだ。
娘は何でもない普通の子で、虎視眈々とヤツはこの子を「落とす」ことを狙っていたけれど。
私とユウは、連れ立って『こいつ』を宥めすかし続けた。
そうだった。あいつの名前は、星海 ユウと言うらしい。
いつだったか、さらっと教えてくれた。
星の海をまたに駆ける優しさ。ふふ。何とも因果な名前じゃないか。
彼女は決して歳を取ることがなく、男にも女にもなれるという。
興味本位で男の姿も見せてもらった。あの珍妙な服装の謎がすっきりと解けた瞬間だった。
それにしても。まったくおかしな奴に目を掛けられてしまったものだ。
「そうだ。私もまだ名乗っていなかったね」
ミソラ。それが私の名前。
「母が古語から取ってきて付けたらしいのだけど。響きだけで、意味はわからないの」
「美しい空、と言う意味だね。うん。とても、いい名前だ」
「そっか」
今なら、あの日の晴れ渡る空も。少しは好きになれるだろうか。
うん――まだまだ。嫌いではありそうだ。
でも。ほんの少しだけでも。世界をより良い方向へ変えることができるならば。
もっと好きになれる日が、来るだろうか。
ねえ。『恐るべきもの』よ。
お前、まだまだ今の世界が嫌いでしょう。子供のように癇癪を起して、「落とし」続けているものね。
だったら。
「一つ。面白いことを考えてみたの。手伝ってくれる?」
『恐るべきもの』は、人生で一番楽しそうにほくそ笑んだ。
***
あらゆる政争、戦争を退けて。
たくさんの命を「落として」、私は世界大統領に「上り」詰めた。
そうして、世界のレベルを緩やかに「落として」いく計画が始まった。
出産率を計画的に「落とし」、エネルギー使用量も「落とし」ていく。
すべての物事はトップ「ダウン」で進んだ。
『あの子』にも最大限協力してもらう。「落とす」ものが次々に与えられてはしゃぐ様は、まるで無邪気な子供のようだ。
もちろんすべて私の想いのままに動いてくれるわけではない。我儘な子供のようで、本当に手を焼いた。
しかし、心から望むことには全力で応えてくれた。
長き平和を腕力で無理やり作り上げた。
戦争に割くべきリソースは、すべて非魔の秘術の開発へと向けられた。
自殺率が「落ち」、死亡率が「落ちた」。
これまで散々魔法に頼ってきたから、そこにあったものが見えなくなっていたのだ。
世界はそれでもなお有限だが、この世界の終わりは、思ったよりも遠くにあるらしい。
あなたがそう願っていたように。旅人がそう教えてくれたように。
非魔の秘術はそのうち、新たなる真術と呼ばれるようになった。何にしても略称はアラマだが。
ユウの世界では――科学というらしい。
***
キャリアを一度たりとも「落ちる」ことがなかった女帝。
世界最高の指導者にして、世界最悪の殺戮者。
不自然に幾多のライバルを蹴「落として」きた死神。
数多の賛辞と畏怖と尊敬を集め。私は『恐るべき者』として、世界に君臨していた。
散々バラバラな言われようではあるが。誰も本当の私は知らない。
ただ二人を除いては。
人生の灯が「落ちる」ときというものは、気付けばあっという間だった。
かつて少女だった者も、今や見る影もなく老いさらばえた。顔に刻まれた皺の数だけ、人生の痛みと苦労がある。
そして、思ったよりはずっと幸せだった。
大切な家族に恵まれ、孫娘まで見ることができた。
戦争はもう、三十年は起きていない。世界滅亡へのカウントダウンは、数百年から千年より先へ伸びた。
しかし。私はよく知っている。
今こそ、どうしようもない世界の危機であると。
もしこのまま死して解放されることがあれば、『恐るべきもの』はたちまち世界を滅ぼすものに成り果ててしまうだろう。
私はもう『恐るべきもの』を憎んではいない。
けれど我儘な子供は、我儘な子供のままで死なせてやりたい。それが親心というものだ。
だから、ここで終わらせなくてはならなかった。
あのお節介焼きに、お願いするときが来たのだ。
家族と孫娘に別れを告げて、私はあの日の思い出の場所へ向かう。
綺麗な星空が、どこまでも果てしなく輝いていた。
あの日とちっとも変わらない姿で、彼女は温かく迎えてくれる。
私だけが、すっかり老いてしまった。
「よく頑張ったね。君はついに負けなかった。誰も知らない世界の危機に。何より自分自身に」
「だから言ったでしょう」
少女のような少女でない何かと。かつて少女のようであった何かが。
あの日みたいにみっともなく。ともに両の目から、ぽろぽろと涙を零していた。
誰にも憚らなくていい。なんて素敵な別れの時間だろうか。
「私は称えるよ。誰も本当の姿を知らなくても。君は立派な英雄だった」
「英雄だなんて、大袈裟だよ」
上に立つ者として。また母や祖母として。
様々な人の人生を見てきた。
きっと誰にとっても。多かれ少なかれ。戦いはあるのだ。
それが私の場合、ややスケールが大きかったというだけで。
「孫娘のことだけど」
「わかってる」
「だったらもう。思い残すことはないかな」
「うん。安心しておやすみ」
アカリと名付けた。ユウの故郷の言葉から拾ってきた。
この世界を光照らすものであれと。そう願いを込めて。
「とても優しい、いい子に育ってくれました」
誰かのために泣けることが。もう少し当たり前の世界になるように。
私はずっと。それを一番に願って。
「じゃあ」
「はい」
終わりを告げる青い光が迸る。痛みもなく、苦しみもない。
『恐るべきもの』はもはや、『恐るべきもの』ではなくなっていた。
命果てる私とともにゆっくりと萎れて、深い眠りに落ちていく。
真の化け物なんて、もしかしたら最初からどこにもいなかったのかもしれない。
最初から最後まで、人と人との戦いであったのだと。
どうして。
どこの世界に人を想って、健気な少女のように泣いてくれる死神がいるものですか。
「お前も、ずっと戦ってきたのだね」
「そうだね。この道はきっと、どこまでも続いていく」
一つだけ。やられっぱなしでは悔しいから。
最後に、勝ち誇ってやった。
「どうだ。私は立派に歩み抜いたぞ。お前も負けるなよ」
「うん。頑張るよ」
胸いっぱいに思い出が溢れ、泡と消えて過ぎ去っていく。
人生の先輩から。結局ろくに知りもしない。親友と呼べるものですらない、奇妙なる『友人』へ。
戦えと。負けるなと。
孫娘と、これからも多くの『私』を救って欲しいと。
この厳しくも切なる願いと、エールを贈り物として――私は永遠の旅に出よう。
***
「ねえユウ。あなたがおばあ様を殺したのでしょう?」
「う……」
「うふふ。言い方がいじわるだったわ」
アカリはいたずらっ娘らしい、快活な笑みを浮かべた。
「おばあ様が人のまま終われるようにって、介錯してくれたんだよね」
「はは……。君はほんとに鋭いね」
「ありがとう。あなたのことを話してるときのおばあ様、本当に楽しそうだったから」
花のように微笑む少女を見つめて。
改めて。守らなければならないと思う。
星海 ユウは知っている。
理から外れた異常なる生命は、誰もが【運命】と戦うことを定められているのだと。
彼女自身がそうであり、『恐るべきもの』と向き合い続けたかつての少女がそうであったように。
そして何も助けがなければ、必ず破滅的で悲惨な結末を辿ることになる。
世界は決して異常なるものを許さない。異常生命体は必ず悲劇のうちに死ぬ。
すべては決まった運命に沿うようにと。極めて世界は残酷にできているからだ。
そう。確かに空はもう少しで「落ちる」ところだったのだ。
当事者以外、誰もあずかり知らないところで。
だけど。彼女はまた知っている。
異常者は、理から外れているからこそ。意志を持ち、戦い続けることは決して無駄にならない。
それが、世界を変える一撃となることもあるのだと。
星海 ユウは、痛いほど知っている。
アカリ。君にはこれから、たくさんの試練が待ち受けるだろう。世界はそういうものだから。
だけど。
あの人が一生懸命戦って、未来へ希望を託してくれたから。
君にとっての世界は、きっともう少しだけ優しい。
そのはずだ。そうでなくてはならない。そうしなくてはいけない。
そのために、時代を超えて想いを繋ぐ『青の旅人』はいるのだから。
「ちょっとね。昔話をしようか。空が落ちると泣いていた少女の話だよ」
「それって、おばあ様の話?」
「うん。そうだね」
「聞かせて聞かせて!」
「よしよし。さて、どこから始めようか――」
空が落ちるなどと言えば、人はそれを杞憂と言うのだ。
The Sky is falling, yet the World goes on.




