残念ながら、私はもう愛していませんの。
私には婚約者がいる。
5歳の時に親同士が決めた婚約に当人同士の気持ちなどはなく、見紛うことのない完璧な政略結婚だ。
初めて見た婚約者は美しかったが、子どもらしい愛らしさはなく、私の中でいまいち心を惹かれる存在にはなり得なかった。
そして、彼女はいつもいつでも淑女だった。
男児らしい私の遊びにはついていけず、後ろに下がって微笑むだけ。
「嫌か?」とたずねても、「貴方様が望むのであれば私はついていきます。」とただ静かに微笑むだけ。
正直つまらなかったし、鬱陶しかった。
年頃になると特にそう思うようになり、あからさまに邪険にするようになった。
「婚約者面するなよ!気色悪い!近づくな!これ以上勘違いされたらたまったもんじゃない!」
お茶会で一緒になり、挨拶をしようとした彼女に一通り罵声を浴びせた。
その頃には想い慕う少女ができ、より一層彼女が邪魔になったのだ。
身分は少し低いが美しく聡明な少女を皆で争うように奪い合っていた。
その中には自分よりも身分も高く、見目麗しい強敵たちもいたが、少女に気持ちが通じたのか選ばれたのは自分だった。
それはそれは舞い上がった。
あの強敵たちの中で自分が唯一選ばれたのだから。
厳しい戦いの中で手にした戦利品は、その分だけ輝いて見えた。
大切にしなければ、そう思う中で一番に邪魔になったのがなんの心もない婚約者だった。
彼女は初めて会った時から、自分を慕っているのを何となく感じていた。
だからこそ、どんな仕打ちを受けても彼女はこの婚約にしがみついていたし、自分もどれだけ傷つけても構わない、むしろそこまでしないと離れていってくれないと思っていた。
しかし、幾度傷つけようとも怒ることも泣くこともしなかった。ただ、彼女は寂しそうにしながらも微笑むだけ。
彼女の感情を抑える姿が子どもの頃からいけ好かなかった。
「いい加減にしてくれ。さっさと婚約破棄しろよ。一応こちらにも良心と言うものがあるからな、悪いことはしたくないんだ。」
そんな彼女を変えるにはもう脅ししかなかった。
婚約破棄でも名誉は傷つくかもしれないが、もっと酷いことも辞さないつもりだった。
それは、誰よりも一番に選んでくれた少女の為に。
「…わかりました。早急に婚約破棄できるように努めさせていただきます。」
そう言っていつものように微笑む彼女に、内心、ホッとしていた。
やっと解放されると。
「では、私もお暇させていただきます。」
二人の会話が終わったや否や、ずっと側に控えていた第三者が口を挟んだ。
それはずっと自分の側にいた乳母兄弟であり、親友であり、将来の側近であった男だった。
「馬鹿らしい。好きにしろ。」
何かある度に苦言を呈するこの男が煩わしかったのもあるが、自分が何か婚約者に言う度に陰でフォローするこの男のせいで婚約者がしがみついてくるのだと思っていた。
だから、一気に邪魔者がいなくなって清々とした。
「私はあの女の男妾なんて嫌ですから。精々隠れ蓑として頑張ってくださいね。」
男の捨て台詞も、如何にも小物っぽくて乾いた笑いが出た。
「ハッ。あの女に絆されたのか?今ならお前みたいな身分でも行けるんじゃないか?じゃなきゃ、訳あり貴族の慰み者だからな。」
男は何も言わず、こちらを睨みつけるだけだった。
何も言えなくなったか、と勝ち誇った目で去る二人を見送る。
後は美しく誰もが欲するような少女を自分の妻とするだけ、そう思っていた。
しかし、自分の父である伯爵家現当主から自分に言い渡されたのは謹慎処分だった。
これもまたあの二人の所為だと、歯ぎしりするほど奥歯を噛み締める。
捨てられた憐れな女とそれを慕う裏切り者の最後の抵抗…そう、最後なのだ。これが終われば愛しい少女が待っていてくれる、そう思っていた。
「彼女は誰よりも君を選んだというのに、君はどうだい?君の煮え切らない態度に、彼女はこんなにも傷ついて…」
「…私はもういいの…貴方という最愛の方に出逢えたのですから…」
少し前まで私を最愛の人と呼んでいた最愛の少女は、隣の男を最愛の人と呼び、体を預けている。
私は何の舞台を観ているのだろうか。
そんな気持ちで最愛の少女と少女の今の最愛の男の二人舞台を見ていた。
周りにいた他の観客たちはその舞台をクスクスと笑いながら観ている。
蹴落とした男達と嫉妬とやっかみをぶつけてきた女たちは皆、いつのまにか舞台から降りて観客となっていたのだ。
この舞台にいるのは二人だけではない。
二人の幸せの踏み台となった憐れな男が今舞台にいる、そしてその男が私だ。
遊び女に本気になった愚か者、不誠実を働いて不誠実に捨てられた最低な男と揶揄された私はすぐさまその場を去った。
この噂は社交界に広まって、私の縁談は難しいものとなるだろう。
目の前が真っ暗になったかと思うと、脳裏には明かりを灯すように婚約者の寂しげな笑顔が映った。
いつも、如何なる時も私に向けられていた想い、それが、それこそが本物の愛だったのだ。
それをどうして大切にできなかったのだろう。
いかに気に入らなくても、その誠実さと真摯に向き合うべきだった。
苛ついていた婚約者の笑顔が途端に愛おしいものに思えてくる。
謝ろう。謝って、許しを乞おう。
それで許されなくてもいい、けれどまだ愛があるならば、ほんの少しの希望があるのならば、今度こそあの心優しい婚約者と二人で幸せな家庭を築きたい。
一縷の望みをかけて、私は走った。
「すまなかった。」
無理を言って通してもらった部屋に入るや否や、そう言って膝を折った。
部屋にいた婚約者は一瞬目を丸くしたが、まだ寂しそうな笑顔を私に向けた。
「私は大丈夫です。」
どんなに傷つけられようとも。
彼女の言った言葉の後にそう付け加えられたような気がした。
けれど、決めたんだ。大切にすると。
「すまない。ルミーネ、愛している。私と結婚して欲しい。」
気がつけば愛しさがこみ上げて、口に出してしまっていた。
あの女の時とは違う、心からの声だけだった。
「私でよければ。」
そう言って優しく微笑む彼女の手を取ると、私はその指先にキスを落とした。
生涯で唯一愛し抜く女性に。
婚約破棄を行う前だったこともあり、事はトントン拍子に進み、結婚は一年後行われることとなった。
この家を離れていた乳母兄弟も元に戻って来て、全てが今まで通りとはいかないが、少しずつ誠意を見せていければと思っている。
ルミーネ、婚約者のおかげで社交界での噂も一時期の気の迷いを許した婚約者の美談となり、私に対して何か言われることはほとんどなくなった。
全てはルミーネのおかげだ。感謝してもしきれない。
全てが順調に進み、式を控えたある日のことだった。
私は庭にキキョウが咲いているのを見つけた。
婚約者のルミーネの瞳と同じ深い藍色であり、婚約者のように楚々とした美しい佇まいのキキョウをルミーネの元へ持って行くことにした。
私室に入ると椅子に座る婚約者を見つけ、花束を持って近づくが、女性の式の準備は大変だと聞くようにルミーネも疲れているのか、うたた寝をしているようだった。
できれば邪魔はしたくないな。それに目覚めたら花束が目の前にあるのもいい。
眠った時に彼女が落としたであろうしおりを拾い、読みかけの本の上にソッとしおりと花束を置いた。
驚いてもらえるだろうか。喜んでもらえるだろうか。
そんな想いを抱えてドアをゆっくりと閉めた。
その瞬間、彼女の持っていたしおりを思い出した。
あれは…道端で咲いていた雑草の花だ。
キキョウと同じく彼女の瞳の色と同じ深い藍色で…以前乳母兄弟が道端で拾っていた雑草の花と同じもの…。
あの時「女か?」とたずねると、乳母兄弟は「ああ。」と答えていた。
それはきっと私の婚約者のことだったのだ。
嵌められた?いや、あの時は私は婚約者に一切興味がなかった。しかも、ほとんどの時間を乳母兄弟と一緒に過ごしていたため、裏切りもないだろう。
自分を嘲笑った女と男を思い出す。
しかし、婚約者と乳母兄弟はアレらとは全く違う。
真っさらで叶うこともない純愛だった。
いつから?いつからだ?
あの婚約者の寂しそうな笑顔はいつから、愛する者の仕打ちから叶わぬ恋への笑顔に変わっていたのだ?
気づかなかった。
…それは自分が愚かだったからに他ならない。
それでも、もう二人を失うことはできなかった。
憎むことも、嫌いになることさえできなった。
残るのは二人に対しての罪悪感と自分への後悔のみだ。
「愛してる。ルミーネ。」
縋るように彼女に言う。
「わたくしもお慕いしております。」
彼女はいつものように少し寂しそうに笑う。
けれど、夢の中ではいつも満点の笑顔なのだ。
残念ながら、私はもう愛していませんの。
そう言って。
リクエストにより、続編『パンドラの箱に残ったもの』書きました。
よろしければどうぞ。