炎の章
村に着いた兎は、まず最近被害にあった老猟師に話を聞いた。哀れな老人は、長年連れ添った妻を惨殺された上に、その肉を食わされると言う仕打ちを受けた衝撃で、半ば正気を失っていたが、どうにか兎は件の獣の詳細を聞くことが出来た。
兎は事前に村人の陳情を聞いたときに、少し思い当たる所があったので、あらかじめ入念な下調べをして来たのだが、老人から改めて狸の姿を聞いた事で、自らが抱いていた不吉な予感を確信的な物に変えた。
一刻の猶予もならないと考えた兎は、日没までに狸を討伐する為の下準備を済ませると、村人達が止めたにもかかわらず、大胆にも狸が住まう山中に、単身で乗り込んで行った。
月明かりと、手元のランプの明かりを頼りに山道を歩いていた兎は、不意に気配を感じて背後を振り返った。すると木立の間の藪の中に、今にも兎に襲いかかろうとしていた狸の姿があった。
狸は不意討ちが失敗した事で、醜い顔に驚愕の表情を浮かべていたが、再び獣欲を満たすべく、下卑た笑みを浮かべて舌舐めずりしながら、威かすようにゆっくりと山道に這い出てきた。しかし、それ以上は近づかずに、兎の出方を窺うように彼女の周りを隙を窺う野犬の様に廻り始めた。
兎とて、何の手だても無く単身で狸に相対した訳では無い。彼女にはある程度の戦闘術と魔術の心得があり、現に今もその身には、金物の臭いを気取られぬ様に拵えられた、黒曜石の短剣と、巨大蜂の毒針から作られた投げ矢数本を忍ばせている。狸はこの兎が、今までに好き放題に蹂躙してきた村娘達とは、何かが違うことを、獣の直感で感じ取ったに違いなかった。
そうしてしばらくの間、兎と狸はお互いを警戒しながら相対していたが、先に緊張を解いたのは兎だった。彼女は、狸の警戒を解くために、その顔に笑みを浮かべながら、発音が難しいエイグロフの方言で挨拶をして、最後に狸が崇拝してるであろう、神の名を唱えた。
どうやら当たりであった様で、狸はひとまず警戒を解いて、威嚇を止めた。兎は万が一にも、狸が飛びかかって来ないように、目線を完全には離さないまま、腰に下げていた包みを下ろして狸の前で広げてみせた。
中身は上等のファウム酒で満たされた革袋と、新鮮なスヴァナ果、それに血のしたたる大トカゲの生肉だった。兎はそれらの前で座ってみせると、再びエイグロフの言葉で誘いをかけながら手招きをした。
完全には警戒を解いてない狸は、ゆっくりと兎に近づいてまずは深紅の酒をひと舐めした。何の毒も薬も入って無いことを確信した狸は、喜色満面で一気に酒をあおると、スヴァナ果には目もくれずに、サーベルタイガーでも堪能するであろう、大きな肉の塊にかぶり付いた。
大酒を呑み、肉を喰らう間にも、狸は兎に好色な視線をずっと注ぎ続けていた。兎は、狸の邪悪な視線に全身を犯されるかの様な感覚を覚えたが、それをおくびにも出さずに、艶然とした笑みを狸に見せるのだった。
生肉を食べつくし、革袋を空にして、ようやく腹が満たされた狸は流石に酔いが回ったらしく、ふら付きながら立ち上がると、涎を垂らしながら兎に近づいた。その欲望に満ちた目を見れば、狸が何を求めているのかは、子供にさえ明らかであろう。
兎も同じく立ち上がり、しなを作って嫌がる素振りは見せなかった。しかし、月明かりの多い山頂で交わりたい。そちらの方が、私の身体も良く見えるでしょう……と言って狸に胸元をちらつかせた。
今や、完全に油断している狸は、威厳を取り繕って兎の提案を受け入れると、一緒に山道を上っていった。しばらく歩いていると、木立の葉ずれに混ざって、何か小さな声が聞こえてきた。
「ふんぐるい……くとぅ……(判読不能)……んがあ…………いあ! ……ぐぁ!」
「……るい…………(判読不能)…………ふぉま……………なふるたぐん いあ! (判読不能)!」
最初は気にもしてなかった狸であったが、繰り返し聞こえてくる声に顔をしかめて、五月蝿そうに呟いた。
「なんだ、さっきから五月蝿いのは! いあ! いあ! とか一体何の声だ!?」
すると、兎が狸の肩に凭れて、耳元で囁いた。
「ここは“いあいあ山”ですからね、いあいあ鳥が鳴いているのでしょう」
「なるほど、いあいあ鳥なら仕方ない。この山を棲みかにして随分になるが、そんな鳥がいるとは知らなんだ」
狸は兎の甘い声に蕩然となって、それ以上は声に構わなくなった。しかし、しばらくして山のあちこちから
火の手が上がり、草木の燃える音が聞こえ出すと、また狸は怒声を上げた。
「こんどはボウボウと煩いぞ!」
「いあいあ鳥の近くにはボウボウ鳥も住んでいます。きっと、その鳴き声でしょう」
「なるほど、ボウボウ鳥なら仕方ない。この世のどこかには、シャンタクと言う名の鳥もいる。ならば、いあいあ鳥やボウボウ鳥もいるのだろう……しかし、今夜は暑いな」
酒と兎の色気に酔った狸は、それ以上は気にしなかった。しかし、火の手が大きくなって山を焼き始め、そこかしこを、まるで意思を持ったかの様に飛び回る火の粉が見え始めると、流石に狸も異変に気がついた。
「ややや、山が燃えているではないか! これは鳥であるものか! おい女!これは一体……」
兎は答える代わりに、短剣を狸の陰嚢に思いっきり突き立てた。完全に油断していた狸は山を揺るがすかの様な悲鳴を上げると、苦痛でのたうち回った。そうする内に狸の毛皮にも火が付き始め、狸はみるみる火だるまになって行く。
「うううう、兎め! これはお前の仕業か?」
それでも狸は恐るべき力でもって、火だるまのまま立ち上がり、怒りの形相で距離を取った兎を睨み付けたが、兎は嫌悪の表情を浮かべると、返答代わりに投げ矢を連続で投げつけた。それは、狸の両目に正確に突き刺さり、狸はたまらず両目を手で押さえた。
そうして、がら空きになった太鼓腹に、今度は立て続けに矢が突き刺さって行き、ついに力尽きた狸は地面に仰向けに倒れ、その上に燃え上がる大木がとどめの様に倒れ込んだ。
「こっちへ! 早く!」
矢の飛んできた方から男の声が聞こえて、兎は後も見ずにそちらへと駆け出した。実は兎が山に入った後に、お供の弓兵と魔術師が山に入り、(判読不明)を山に降ろす呪文を唱えて、その力で山を火の海に変えたのだった。
兎は、狸が彼らの存在に気付かない様に、自らを囮にして狸の注意を引き、なおかつ狸が逃げにくい山奥へと誘導したのであった。
魔法の炎は一晩かけて燃え上がり、最初の夜明けの光が空に射すと同時に、文字通り掻き消えてしまった。草木一本残さずに、綺麗に黒焦げとなった山を見上げて、兎も村人も、誰もが忌まわしい狸の死を確信した。
しかしその時、老罠猟師が悲鳴を上げて山の麓を指差した。
見ると、今まさに炭化した木々の間から、全身が醜く焼け爛れた巨獣がその姿を皆の前に表した所だった。
……狸だった。あの忌まわしい陰獣は、魔法の炎に一晩かけて灼かれながらも、死んではいなかったのである。