思い出の暗闇と居心地は原色
夜は明るく、言葉を交わすのに時間も距離も関係なくなりはじめ、ボタン一つで地球の裏側のものが簡単に手に入る時代――だというのに、私の住んでいた村には奇妙な風習が残っている。
葬式の前に死者の足首を折らねばならないのだ。
そうしないと死者が甦ってしまうから。
火葬でもそうしないといけない。
灰になった状態でどうやって甦るのかはわからないが、とにかく村はいまだにその風習を守っている。
子供のころは馬鹿馬鹿しい風習だと思った。死んだ人間が甦らないことぐらい小学生でもわかる。それでもそんな迷信を頑なに守り続ける大人を見ていると、間違っているのは自分なのではないかと思うこともあった。
もちろん、私の感覚が普通なのだ。
死者は甦らない。
大学への入学を機に東京で暮らすようになって、その思いは強まった。東京の人は死んだ人間が甦るなんて微塵も信じていないし――というより、死んだらそれまでというのが一般的な感覚だ。誰に尋ねても、死者の足首を折るなんて風習を知らなかった。実際に死んだ人間が甦ったなんて話もない。
異常なのはあの村なのだ。
しかし、奇妙な風習が異常なのではない。
奇妙な風習を守り続ける村の人間でもない。
実際に死んだ人間が甦るあの村が異常なのだ。
世間一般の常識――いや、常識とかそんなものではない。自然の摂理とでもいうべきものが狂っているのだ、あの村では。
現に私は、甦った人間を一人知っている。
だから、嫌でも死者の甦りなどという馬鹿げた事象を認めなくてはならない。
そう、馬鹿げている。
くだらない風習もなければ自然の摂理に反した現象も起きない東京にいると、そういう狂った現象を知っているというだけで負い目と孤独を感じる。東京でできた友人ともどこか壁を感じる。友人たちにとっては死んだ人間が甦るなんてことは非現実的なことで、村にある風習は時代遅れの迷信――いや、因習とかそういった類のものなのだ。
でも、村に戻ったところで私の孤独感は拭えない。
あの村で起きることが現実でも、私はそれを受け入れたくなかった。やはり死者は死者であるべきなのだ。足首を折ろうが折らなかろうが死んだ人間は死ななくてはならない。
そういう当たり前のことを許してくれないのは嫌だ。
大学を卒業したあと、そのまま東京で就職した。もう四年になる。村に帰っても仕事なんてほとんどないし、あの風習のことを考えると戻る気はしなかった。
孤独でもなんでも、死んだ人間が甦らない東京のほうがまだましだ。
当たり前のことを許してくれるから。
昨夜、村に住む両親から電話があった。私の小学生のときのクラスメイトが病気で亡くなったそうで、通夜があるから帰ってこないか、とのことだった。
就職してからは両親とはほとんど連絡を取っていなかったし、村にも足を踏み入れないようにしていた。正直いえば、わずかな記憶しか残っていない知人のために帰るのは嫌だった。
あの村で死人が出たということも嫌だ。
そうだ、それが一番嫌なことなのだ。
またあの馬鹿げた風習が行われる。
でも――。
私は村へ向かうバスに乗っている。
通夜に出ることが目的ではない。
とても会いたい人がいたから。
幼馴染みにミレイという女の子がいた。
ミレイの家は村ではわりと裕福なほうで、くたびれた洋服を着てばかりいた私たちに比べ、いつも綺麗な人形が着るような洋服を着ていた。洋服だけでなく、ハッとするほど可愛い子で、それも合わさってどことなく違う世界に住む人間のように思えて接しづらかった。
しかし、ミレイと生まれた日が近かった私は幼いころより仲良くして――いや、仲良くさせられていた。周りの大人がそうさせるのはもちろんのこと、ミレイと直接かかわることを避けていた子供たちもだ。
強制的な交友ではあったものの、ミレイのことは嫌いじゃなかった。友達にも全然なれると思ったし、ミレイも私のことを嫌っている様子はなかった。
とはいえ、当時の私は幼かった。
気持ちとは裏腹に、周囲のほっとしたような感触がとても嫌で、彼女へ素っ気ない態度を取っていた。いま思えばお見合いみたいなものと割り切って仲良くすればよかったのだけど、子供だったころの私にはそもそも割り切るという概念すらなく、ミレイとはぎくしゃくした関係を続けた。
そんなミレイが小学六年生のときに死んでしまった。川に落ちて溺れてしまったのだ。
ミレイの死は村の人間全員が悲しんだ。なぜか彼女のことを避けていた子供たちまで。
私は幼稚園に入る前から仲良くさせらていたので、十年弱の付き合いだったのだけど、あっという間で唐突だった、くらいにしか思えなかった。
悲しいとか寂しいとか思うようになったのは半年くらいたってからだ。でも、新たに始まった中学校での生活がそんな感傷的な想いを簡単に塗り潰してしまい、徐々にミレイの死は小さな思い出の一つへと変って行った。
ところが大人になるとそういう小さな思い出がなぜか妙に大事なものに思えて、ミレイのことを思い出すたびに、いまならもっと仲良くできる、などと甘えたことを考えてしまう。
バスを降りるとすっかり陽が落ちていて、コートなしでは寒さを感じるくらい気温が下がっていた。乗客が私しかいなかったバスは運転手だけを乗せて去って行った。
しばらく薄暗いバス停に一人でたたずんでいた。
ここに住んでいたころはそんなに感じなかったが、この村は街灯が少なすぎる。大きな道は街灯も多く舗装もされているが、東京に比べれば薄暗く、ぼけっとしていると田んぼに落ちることだってある。
ミレイが川に落ちたというのも、もしかしたらこの暗さが原因だったのかもしれない。
バス停から実家を目指して歩きはじめた。
実家はどちらかといえば大きな道からは外れた場所にあり、近づくにつれて街灯は少なくなっていった。人気もなく冷たい風が通りすぎるたびに、背後で暗闇がもぞもぞと蠢いている錯覚に襲われる。
バス停から三十分近く歩いて実家に帰ると、両親は私の顔を見てとても嬉しそうに笑った。仕事はどう、とか、元気にやってるの、とか色々と訊かれたけど、まあまあ、とか、それなりに、とか雑な返事しかしなかった。
ひさしぶりに両親と食事をした。食事中は、誰々が結婚したとか、どこどこの爺さんが死んだとか、頼んでもいない村の近況を報告され、それを聞き流しながら、母の作る味噌汁は相変わらず薄い、とどうでもいいことを考えていた。
食事のあと、荷物を置きに自室に向かった。部屋は家を出る前とほとんど変っていなくて、毎日掃除もされているのか埃っぽさもなかった。
バッグから喪服を取り出した。去年、交通事故で死んでしまった会社の上司の葬儀の際に着たものだ。みんなから慕われていた上司だったので、突然の訃報に誰もが悲しみ、葬儀にはたくさんの人が集まった。
だけどみんなが悲しむなか、私だけは足を折ることばかりを気にしていた。
死人の足を折るタイミングは、通夜の前日だ。
知人の通夜は明日行われるので、折るとしたら今日折ることになるのか。
この村の葬式では亡骸の足には白い布が巻かれる。折れた足を参列者に見せないようにするためなのだが、ちゃんと足が折れているのか確認することができない。遺族が死者の死を悼むあまり、足を折らずに葬儀を出すということも十分に考えられるが、まずそんな人間はいないという前提で物事は進んで行く。
この村の住人は死者の甦りを異常なまでに嫌う。
私の場合は当たり前の現象が当たり前でないことが嫌なのだが、村人たちはあくまでもこの村での埋葬のルールが破られることを嫌がる。死人が甦るとか、他所ではそういったことが起こらないこととか、全くといっていいほど気にしない。
それでも甦ってしまう人間はいる。
九割が死者の甦りを嫌っても、ルールを破ってしまう人間が一割は存在する。
私は高校生のとき、写真部に所属していた。
写真が特別好きだったわけではないのだが、部の雰囲気がよかったので所属してしまった。
もちろん写真部だから写真を撮らなくてはならないわけで、定期的に部のみんなで色んなところへと行って写真を撮った。
あるとき、近所の山で写真を撮ることになった。
みんなが木やら遠くに見える山の風景などを撮影している間に私は一人山奥へと進んだ。村人でも一部の人間しかしらない洞窟を知っていたからだった。そのときはみんなを出し抜いていい写真を撮ろうくらいに考えていた。
洞窟へ向かう途中、川の近くを通った。
ミレイが溺れ死んだ川だ。
突然、胸にぽっかりと穴が空いたような寂しい気分になり、しばらく形容しがたい想いで川を見つめていた。
数分――もしかしたらもっとかもしれないが、物音が聞こえてぼんやりとしていた意識が鮮明になった。
川を挟んだ向こう側に誰かいる。
木の陰からこちらを見ている。
最初は猿かと思ったが、よく見ると洋服を着ていて、それも山には不釣り合いに綺麗な――まるで人形が着ているような洋服だった。
いたずらで誰かが人形を置いて行ったのかと思ったが、私の名前を呼んで木の陰から出てきたそれがミレイだとわかった瞬間、体の至るところから汗が噴き出てきた。
ミレイは小学生のときの可愛らしい姿のままで、洋服も当時よく着ていた見覚えのあるものだった。
私は全力でその場から逃げ出した。
幽霊だとは思わなかった。
ただ、ミレイの両親がこの村のルールを破り、葬儀の手順を一つだけ省略したということだけはすぐにわかった。
ミレイのことは誰にもいえなかった。誰にいえばいいかもわからず、大学進学のために村を出た私にできることは口をつぐむことだけだった。
いや、せめてミレイの両親に問い質すことくらいはするべきだったのかもしれないけど、村の風習とのかかわりを避けたかった私には、やはり口をつぐむしか道はなかったように思える。
だけど、私は村に戻ってきた。
ミレイにもう一度会うために。
通夜当日。
昼すぎに実家を出た私は、ミレイが溺れ死んだ川へと向かった。
あのときと同じ場所に立ち、ミレイの姿を探したが生き物の気配すらしない。それもそうだ。あれは何年も前の話なのだから。
結局、無駄足だったのだろうか。
あそこで私が、彼女のことを恐れずに話しかけることができればよかったのだ。
そういえば――。
あのとき写真を撮ろうとした洞窟には、ミレイとよく遊びに行った。迷うほど深くもなく、落盤の危険性もなかった洞窟は遊び場としては最高の場所だった。何よりも、静かで滅多に人がこないという点もよかった。
幼かった私はとにかくミレイと仲良くするのが嫌で、だけど自分たち以外の誰もいない洞窟でミレイと二人きりになれるときは、彼女に優しく接することができた気がする。
あそこにいるときだけは、ミレイとは本当の友達になれた。
もしかして、彼女がこの川で溺れ死んだのは洞窟へ行こうとしたせいだったのだろうか。
だけど、どうして一人で――。
ミレイが一人で出歩くことなんて滅多になかった。
約束していたのか? いや、いつも別の場所で待ち合わせしてから洞窟へ行っていたのでそれはない。
というよりミレイが死んだ日――あの日、私は何をしていたのだ?
平日だったのか?
それとも休日?
ああ、何も思い出せない。
ミレイが死んだと聞かされたときの気持ちはいまでも思い出せるのに。
ああ、そうか。
ミレイは洞窟にいるかもしれない。
洞窟の入口に立つと冷たい風が吹き出てきた。
真っ黒な暗闇から吹き出る風は得体の知れない不快感も運んできて、このなかに一人で入るのは躊躇われた。子供のころは躊躇することなくなかへ入ることができたのに、なぜか大人になったいまのほうが洞窟の暗闇に対して恐ろしさを感じる。
怖気づいて動けなくなっている私の耳に、風と一緒に石を叩くような音が聞こえてきて、より一層恐怖心が助長された。
自然と足がうしろへと動く。
しかし――。
ここで引き返せばミレイがいるかどうか――いや、ミレイに会えなくなってしまう。
ミレイは必ずこのなかにいる。だとしたら、いま聞こえている音もミレイが出しているはず。
恐れる必要なんてない。
洞窟は剥き出しになった岩肌のせいで歩きにくく、視界の悪さも相まって慎重に進まざるをえなかった。幼かったころはこんな危険な場所だとは微塵も感じなかった。
進むたびに例の音は大きくなって行く。
比例して暗闇もその濃さを増して行き、私を覆っている世界は聴覚と触覚だけの世界へと変貌して行った。
じわじわと自分の体が洞窟内に充満する暗闇に融けて行くような不安を感じ、私はちゃんとここにいるという確認のために拳を強く握った。
振り返って、いまきた道を引き返せば陽の光が降り注ぐ世界へ戻ることができ、こんなところで融けてしまうこともないのだけど、結局私はいるのかもわからない友人に会うために歩き続けた。
ゆっくり――一歩ずつ。
近づくにつれて音はどんどん大きくなり、そこからは進む速度をあげた。
もう少しでミレイに会えるのだ。
子供のころはしこりの残る関係を築き、高校生のころは恐怖のあまり彼女から目を背けて逃げ出した。
いままでミレイとは真剣に向きあったことがなかった。
彼女の死についてさえ、考えるようになったのは最近になってからだ。死んだことを受け入れたのも――もしかしたら最近になってからのことなのかもしれない。
煩わしかったミレイ。
死んでしまったミレイ。
当たり前のこと許してもらえなかったミレイ。
洞窟のなかで一人寂しく石を叩くミレイ。
ここは冷たくて誰もいない。暗くて何も見えない。岩でできた地面は固くて、たとえ何度石を叩きつけても掘ることはおろか削ることもできない。永遠とも思える作業をなぜか私は強いられていて、これはちゃんと死ねなかった自分への罰なのだと思った。
だけど、誰に頼んだわけでもない。
死んだのだ。
死んだのに生き返った。
ここは、そういう狂った土地だから。
にもかかわらず、なぜ私の足を折ってくれなかったのだ?
――暗闇に融けかかっていた私は、いつの間にかミレイの意識と混ざり合っていた。
だからなのか、すぐ近くにミレイがいることがわかった。
私の足元で必死に地面へと石を叩きつけるミレイ。暗闇のせいでかろうじてシルエットが見えるくらいだったけど、間違いなくそれはミレイだ。ものすごく小さくて、ゆっくりとした動きは幼いころの彼女とまったく同じだった。
「ミレイ――」
私が話しかけるとミレイは動きを止めた。
「なにしてるの?」
「地面を――掘ってる」
「どうして?」
「掘らないとダメだから」
「そうなんだ」
しゃがんでミレイの掘っていた箇所に手を置いた。
冷たくて固い地面は、やっぱり石ごときでは掘ることはできず、いつからこんなことをやっていたのだろうかと、ミレイのことを思って涙が溢れてきた。
「外に出ない? ここ、寒いでしょ?」
ミレイは首を振る。
「そう――ここが好きなの?」
「お母さんたちがあんまり出歩くなっていうから」
「だけど、暗いし危ないよ」
「大丈夫だよ。一緒に遊んでたとき、危ないことなんてなかったでしょ」
暗くてはっきりとはわからなかったけど、ミレイは私のほうを見てはっきりといった。
「私のことわかるの?」
「すぐにわかったよ」
「よかった」
私はミレイの手を握った。
小さくて冷たい手だったけど、子供のころ握った手と感触はまったく変らなかった。
不思議と安心した。
「ここを掘って、下に何かあるの?」
ミレイに会ったら話したいことが山のようにあったのだけど、なぜか口から出たのはそんな言葉で、ここへきた理由がいえなかった。
ううん――いわなかったのだ。
「この下にあの世があるんだって。死んだらみんなそこへ行くから私も行かないといけないの」
「ふーん」
私はミレイの手を離すと、近くにあった石を拾って地面を掘りはじめた。石は岩肌にぶつかるだけで、掘れているなんて微塵も思わなかったけど。
ありがとう、とミレイはいって同じように石を使って地面を掘りはじめた。
石の叩く音が響く暗闇のなか、私はミレイと二人きりでいられることに居心地のよさを感じていた。