第2話 戦乙女の剣技
真夜中の町を一人で歩けるのは、日本という国の良いところなのだろう。
春先、短期の語学留学に臨んだときには、アメリカで最も治安が良いと言われるポートランドですら「夜は出歩くな」と仰せつかった。男子ですらそうだった。
「ふぁぁ」
眠ろうとしたところに飛び込んだトラブルなのだ。当然、落ち着いてくれば、眠気が再発する。
欠伸をしながら、ぼんやりと夜の世界を闊歩した。
食べやすいものがよかろうと、おかゆの材料を調達したのだが、もっと精力のつくパワフルな食材の方がよかっただろうか。目覚めてみるまで、倒れていた理由もわからないので、正しい対処もわからない。
いや、正しい対処というならば、救急車でも呼ぶべきだったのか。ううむ……あの異様な風体を見れば、それもどうかという気はするが。
考え込んでいると、不意に一際冷たい風が首筋を撫でた。
ぶるっと震え、少し早足になる。
夏とはいえ夜は寒い。いや、それにしても、寒すぎる気がするが。
なんだろう、この違和感は。
気づけば――風がない。人がいない。明かりがない。
雨すらも、消え去っている。
傘を閉じたあたしは、周囲をきょろきょろと見回した。
この辺りは学生街。この時間でも、少しくらいは人通りがあるはずだし、アパートの何れかには、光が灯っているはずなのだ。
怯懦。
唐突に胸の内を支配する、淀んだ感覚。
そして。
――ずるり、と。
「っ!」
何かが這いずるような音が耳朶に届いた。
心拍が警鐘を鳴らす。ぴりぴりと、肌が危機感を告げる。
振り返ったあたしは、古びたビルの陰から、ありえないものが出現するのを見た。
それはナメクジだった。
ただし、その体躯は、車よりも大きい。
そして何よりも、全身が毛におおわれているその異様さに、怖気が全身を支配した。
ゆっくりと、この世界は我が物とでも言わんばかりに、大ナメクジは道路の真ん中を這う。
目はなく、口のようなものがついているだけだが、それでもこちらに目をつけたことがはっきりわかる。
……知っている。
こいつの名は。
「野槌……っ!」
本来は深い山奥に棲むとされる妖怪。あるいは神霊。
草木の精とも言われる存在だ。ツチノコの原形でもある。
そいつが――明確に、あたしを狙っている。
民俗伝承にある通り、その存在しない目で見つめられると、急激に体温が上昇し、体調が悪化するのを感じた。
頭痛と高熱と吐き気がまとめて襲い掛かって来る感覚に、本能が全身を叱咤する。
恐怖に縫い止められていた脚が反射的に動き、あたしは脱兎のごとく駆け出した。
「はぁ……はぁっ……!」
運動不足を痛感する。
こちらの方がスピードは速いはずなのに、不思議と野槌を引き離すことができない。
絶望。焦燥。怯懦。悲観。捨鉢。あらゆる負の感情の奔流が、筋肉を絡めとる。
何かがぷっつりと途切れた瞬間、バランスを崩したあたしは、舗装が傷んだアスファルトの上を転がった。
「っ……ぅ……!」
擦り剥いた膝が焼けるように痛い。体調の悪さが、相乗効果をもたらし、視界が霞んで揺れる。
手を離れたスーパーの袋からは、中身がこぼれ出ていた。
起き上がることができない。
諦観が、全身に鍵をかけてしまった。
顔を上げると――そこに、野槌の口がある。
ああ。こんなものか。
追われているときには確かに感じていた恐怖が、急速にしぼんでいくのを感じた。
なんだ。死ぬのなんて、思ったよりもずっとちっぽけなことじゃないか。
考えてみれば、どうせ、あたしの死を本気で悲しんでくれる人なんていないのだ。思い残すことなんて、何もない。
目を閉じて、そのときを待ち構える。
野槌が口を開くのを感じた。
悍ましいほどに温かな吐息が頭上を覆う。
直後。
「伏せてください!」
凛とした、鋭い声が世界を貫いた。
目を開ければ、煌めく閃光が、流星のように飛来する。
唐突な闖入者の攻撃に、反射的に頭を低く伏せたあたしの側から、野槌がこれまで見せなかった俊敏な動きで飛びのいた。
やってきた人物の姿を見て、あたしは思わず口をあんぐりと開けた。
「あ、あなたは……」
「助けてくれたこと、感謝します。話は後程、ゆっくりと!」
戦乙女。
濃紺に塗りつぶされた夜の世界で、たったひとつ、彼女だけが月光のように輝いている。すべての闇を遠ざけているかのように。
鎧を纏ったその姿は、荘厳で、美麗で、神々しく。
羽毛のように軽やかな一歩を踏み出した瞬間、世界が書き換わったかのような感覚が、胸の奥を吹き抜けた。
「はっ!」
ヴァルキュリアの剣技は、まるで、踊っているかのようだった。
自分よりもずっと大きな異形を前に、少しも怯むことなく、剣を振るって立ち向かっていく。
足首の回転。手首のスナップ。腰の躍動。
全身が大小様々な『円』の動きを生み出し、一瞬も止まることなく閃光を叩き込む。また、その膂力は人知を凌駕し、野槌の突進を容易に阻んでは押し返した。
「……すごい」
それは、戦いと呼ぶにはあまりに一方的な光景だった。
殺戮ですらない。蹂躙ですらない。
芸術と表現するのが、最も適切とすら思えた。
ヴァルキュリアの腰布が翻る度に、野槌の毛が舞い、この世のものとは思えぬ苦悶の声が上がる。
傷口からは血が出なかったが、ヴァルキュリアの剣が纏っているのと同じ、淡い水色の燐光が溢れていた。
十秒だっただろうか。あるいは十分だっただろうか。
終焉は、あっけなく訪れた。
敵わぬと悟った野槌が反転し、凄まじい勢いで逃走を始める。それを追うでもなく、深く腰を沈めたかと思うと、ヴァルキュリアは剣を強く強く握り込んだ。
雲の向こうから、星の光だけが地上にやってきたかのように――彼女の剣に、光が溢れていく。
それが、目を開けていることすら躊躇われるほどの光量に達したとき、ヴァルキュリアは勢いよく駆け出した。
目視するのが難しいほどのスピード。一瞬で、二者間の距離はゼロになり。
「はぁぁあああっ!」
一閃。
天から地へと、裁きの刃がすべてを引き裂く。
振動で、周囲の地面は割れ、ガラスは崩落し、鉄骨はひしゃげてしまった。
あたしのところにも、砂礫が飛んできて、いくつかが肌を打つ。
気づかぬうちに止めていた呼吸が、唐突に戻ったことで、肺に負担がかかり、急激な苦しさが訪れた。
だが、それが和らぐのと同時、野槌に見つめられたことで身体に生じた不調もまた、嘘だったように消え去っていた。
見れば、原因であった野槌の姿が、風に解けて消えていくところだった。
思考が追いついてない。
それでも、ただ、ヴァルキュリアが勝利したことだけは理解できた。
「……お、終わった?」
こちらに歩いてきたヴァルキュリアに問いかける。
「ひとまず、危険は去りました。完全に倒せたわけではありませんが」
立てますか、と差し伸べられた手は、あたしよりずっと小さくて。
それなのに、どんなにたくましい男の手よりも、ずっと力強い。
心臓が高鳴る。
思わず惚れそうになりながら、その手を取って立ち上がり――
――ぐぎゅるるるる。
「……」
「……」
唐突な腹の音。同時に、ヴァルキュリアは頬を赤くし、困ったように目を伏せる。
あたしのドキドキは、一瞬にして霧散した。