第1話 ゴミ捨て場の戦乙女
雨の降る真夜中だった。
夏の湿気は意地悪く部屋を侵食し、不快感をもたらす。
趣味であるデスクトップ・ミュージックに没頭しているうちに、時刻は3時に到達しようとしている。
PC用の眼鏡を外して、凝り固まった背を伸ばした。
「……ふぅ」
時折饗宴を繰り広げる隣室も、今宵はずっと静かなままだ。
『雨音はショパンの調べ』なんてフレーズをふと思い出し、カーテンを3センチ開けて外を見る。
夏季休暇に突入した学生街は、夜中でも明かりが灯っていた。
この町では、時は止まり、歪み、ときに逆流し、やがて揺蕩い、あるいは攪乱する。
眠るべきだろうか。いっそ起きているべきだろうか。
迷った末に、あたしは惰眠を貪ることにした。
どうせ明日は何の予定もないのだ。
ただ、ゴミだけは捨てておこうと思い立つ。
中島グリーンハイツ205号室。8畳、オール電化、風呂トイレ別、角部屋。インターネット代・水道代込で月5万。大学までは徒歩5分、コンビニまでは徒歩2分、最寄り駅までは徒歩10分。
オートロックはついていないが、夜中も眠らぬ学生街は、宵闇に潜む不審者すら排除する機構を兼ね備えている。
この環境に満足しているかと言われれば、おそらく満足しているのだろうと思う。少なくとも不満ではない。
ゴミ捨て場だってすぐそこだし。
「よっ、と」
区域指定のゴミ袋を引っ掴んで、安価なクロックスもどきを履いて外に出る。玄関に立てかけてあったビニル傘を手に階段を下り、駐輪場を抜けると、そこにゴミ捨て場があるのだった。
と。
黄色いゴミ袋を、長方形の区画に放り込もうとしたとき。
あたしは、異常な光景に、思わず己の正気を疑った。
「っ……」
はじめは心霊の類かとも思ったが、それにしてはリアリティのありすぎる質感だった。
いったい何事だろうか――ゴミ袋の山に半ばもたれかかるようにして、一人の女性が倒れていたのだ。
倒れているだけなら、飲み会ではしゃぎすぎたのかなと考えることもできるのだが。その女性は、驚くべきことに、甲冑と羽兜を纏っていた。
「あ、あのー。大丈夫ですか?」
不審者。としか表現できない。
それでも、抗いがたいほどに心を惹かれたのは、彼女の髪色が月の輝きをきらきらと弾く、麗しきパウダーブルーだったからだ。
「大丈夫ですか!?」
もう一度、肩を叩いて呼びかける。
クーデレを自称しているあたしにとって、このように大きな声を出すのは久々だった。自分の聞き慣れた声とは別人のようで、少し戸惑ってしまう。
戦乙女。
ふと、そんな単語が頭に浮かんだ。
古ノルドの発音よりは、ヴァルキリーやワルキューレという呼称の方が知られているだろうか。
北欧神話において、来る戦争に備え、勇猛果敢な戦士たちを選定するという存在。多くの歌劇・ゲーム・漫画のモチーフともなっており、『ニーベルンゲンの指環』はあまりに有名だ。
そんなヴァルキュリアのイメージにそっくりな女性だった。
「う……んぅ……」
少しの間、呼びかけを続けていると、うめき声が僅かにこぼれた。雨音に紛れ、聞き逃してしまいそうな空気の振動。
それは、聞いたこともない竪琴の音色によく似ていた。
放置してはおけない。
決意し、傘を放り出したあたしは、ぐったりと力の抜けた肢体を、必死で背負い上げる。あまりにも端正な北欧系の顔立ちに、思わず見惚れそうになりながら。
かつて。
イギリスの文人ウォルター・ホレイシオ・ペルターは、『リザ夫人』についてこう語った。
『”世界のすべての目的が集まり来った”顔がある』――と。
あたしにとって、このヴァルキュリア(仮称)の横顔こそが、それだった。
力の抜けた人体というのは、とてつもなく重い。ただでさえ甲冑の重量が尋常ではないのだ。運動不足な女子大生の筋力では、かなりの重労働だった。
必死に階段を引き上げるうちに、あたしはひどく疲弊し、それでも歯を食いしばる。
ようやく部屋に連れ来んで、嘆息。筋肉痛の訪れを待つまでもなく、四肢が悲鳴を上げていた。
だが、まだ休むわけにはいかない。
ヴァルキュリアを、あたしのルームウェアに着替えさせる。
服と違って鎧は畳めないので、我が居城に異質な物体が鎮座することになった。ちょっと着てみようかなとか思いつつも、なんとか誘惑に耐える。っていうか、重すぎてまともに着られないだろうし。
「……」
服を着せる前に、バスタオルで彼女の裸体を拭いたが、これがまずかったのか、妙にエロい気分になってしまった。
いや、決して、女同士の色恋とか、そういう趣味があるわけではないのだが。
ラファエロよりも麗しく、ミケランジェロより強かで、レオナルドよりも完成されたその美しさは――穢してしまえばどうなるのだろうという、背徳的な誘惑をもたらすほどだった。
ベッドの上で、苦しげに眉宇を顰め、時折うめくヴァルキュリア。
こぼれる吐息の甘美さに、あたしは自然と引き寄せられていった。
雨の音が罪を洗い流してくれるような気がして、ベッドの隣に膝をつく。
――白雪姫は王子様のキスで目覚めた。
――だから、これは、救助活動に過ぎぬ、他意のない儀式なのだ。
自分にそう言い聞かせて――桜の花弁を思わせる端正な唇に、あたしの唇を重ねる。
そして、柔らかなその感触を堪能する余裕もないままに、耽美とは程遠い数秒が過ぎた。
罪悪感と背徳感に鼓動が加速するのを感じながら、慌てて離れる。
「……お、起きてない……よね?」
目覚めたらどうしよう。
焦るあたしとは裏腹に、彼女は眠ったままだった。
ただ、苦し気な表情は、次第に穏やかになっていくような気がした。
「……危なかった」
あたしにこんな一面があったとは。
自分がちょっと怖くなる。
この場にいることが恥ずかしくなって、外出する用事をなんとか思いつこうと腕を組んだ。
あ、そうだ。
目覚めたとき、お腹が空いてるかもしれないよね。
コンビニに行って、簡単な食事を準備しておこう。
そうと決まれば善は急げ、だ。
日本語が通じるかはわからないが、『買い出しに行っています。家主』と書置きを残し、脱兎のごとく外へ出る。
すぐ近くにあるコンビニへと、小走りで向かったあたしは、思わず舌打ちしそうになった。
「改装中……」
ただでさえ雨で気分が滅入るのに。
だが、あたしにどうにかできる問題ではない。誰を恨むのも筋違いだ。
仕方がないので、少し離れたところにある24時間営業のスーパーに向かうことにした。
あーもう、面倒くさい。