プロローグ 春の日の憂鬱
あの夏、あたしはきっと日本でいちばんかわいそうな女の子だった。
医者やカウンセラーや警察のおじさんは、「大丈夫。もう怖がる必要はないよ」なんて、わかった風なことを言った。
テレビや新聞であたしのことが報道される度に、周囲の人間は優しいフリを上達させていった。
子供心にわかっていた。
彼らは皆、「心に傷を負った幼い少女が、周囲の理解と協力で笑顔を取り戻す」というストーリーの実現を求めていたのだ。
それは親愛や思いやりであるはずもなく。
あたしが『劣悪な役者』であると知ると、世間の興味は離れていった。
あたしにとっては――ありがたいことだったけど。
「佳乃? 授業、終わったよ?」
隣の席から声をかけられ、ハッと顔を上げる。
「え?」
「授業、終わったよ」
もう一度言ってから、さほど仲が良いわけでもない友人は「来週休講だって」と立ち上がる。
東洋宗教思想史Ⅰ。この大学で開講される科目のうち、最も退屈なもののひとつだ。科目に罪はないが、小太りの先生が、ひどく色あせた語り口で、単調な説明をする時間が90分も続くのである。
この講義の間は、毎週のように眠ってしまう。
けれど、まさか、あの頃の夢を見るとは思わなかった。
「ねぇ、この後どうする?」
どうする、と言われても。
「カラオケとか、どう?」
「今日は、ちょっと。バイトがあるから」
「そっか。じゃあまた」
お疲れ、なんて。
そんな風に別れを告げて。
去りゆく間際、振り返る一瞬――友人の顔から、張り付いていた笑みが剥がれ落ちるのが見えた。
まぁ、そんなもんだろう。
講義初回のガイダンスで、ちょっと話しただけの仲である。
あとは、そのうち訪れる期末試験で、過去問をちょいと見せてもらって、はい終わり。
……そんなもんなのだ。
「……はぁ」
友達って何だろう。
言葉としては知っている。広辞苑にも載っている。
でも、あたしには本当の友達というものがよくわからない。
荷物をまとめて、講義室を出た。
廊下に設けられた鏡に、ふと目を向けてしまう。
「……」
そこには、不愛想で目つきの悪い、およそ愛嬌とは無縁な女の顔があった。
あの、幼い夏の日の底に。
あたしこと鳴滝佳乃は、笑顔を落としてしまい、そしてそのままなのだった。
鏡から目を離し、窓の外へ目を向ければ、ソメイヨシノの堂々とした佇まい。それは耐え難い己の醜悪さを糾弾するようでーーあたしは、一般教養棟の廊下を、逃げ出すように早足で抜けた。